百田義浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
百田 義浩
プロフィール
リングネーム 百田 義浩
ニックネーム 力道山二世
身長 180cm
体重 90kg
誕生日 1946年3月15日
死亡日 (2000-11-22) 2000年11月22日(54歳没)
出身地 東京都港区
デビュー 1980年(プロレスラーとして)
引退 1987年(プロレスラーとして)
テンプレートを表示

百田 義浩(ももた よしひろ、1946年3月15日 - 2000年11月22日)は、日本リングアナウンサー、元プロレスラー

日本のプロレス界の礎を作った力道山の長男であり、百田光雄の実兄。娘はプロレスリング・ノアで広報兼通訳をしている。甥の百田力もプロレスラーである。

経歴[編集]

取締役兼リングアナウンサー[編集]

慶應義塾高校を経て、慶應義塾大学法学部卒業。父の遺志を継いで「リキ・ボクシングジム」のオーナーとなる。その後、1972年に全日本プロレスの旗揚げに参加。以降、リングアナウンサー兼取締役を務めた。

プロレスラー転向[編集]

しかし、1975年日本武道館で行われた「力道山十三回忌追善特別大試合」では大木金太郎 vs. アブドーラ・ザ・ブッチャーの一戦が行われたが場外乱闘となり、エキサイトしたブッチャーが義浩に暴行を加え、流血する事件が起こる。この時「ファンに(力道山の長男なのに)だらしない息子と思われたのではないだろうか」と考え、リングアナウンサーの座を原軍治に譲り、アメリカへレスラー修行に出る。帰国後の1980年、弟である光雄との初兄弟タッグでプロレスラーに転向。以降、前座選手ではあったが、1987年まで現役を続けた。

引退後[編集]

引退後はリングアナウンサーには戻らず、取締役に専念。全日本のフロントとしてジャンボ鶴田黄金期や四天王プロレス時代を支えたことから、昭和プロレス界の重鎮と呼ばれた。

2000年に起こった三沢光晴らの全日大量離脱→NOAH旗揚げの一連の動き(全取締役がオーナー馬場元子へ辞表を提出)にも弟の光雄ら共々が参加。6月に株式会社プロレスリング・ノアが設立され、全日時代と同じく取締役として会社を影から支えるはずだった。

死去[編集]

しかし、旗揚げ興行後の9月に体調を崩し入院、闘病生活を続けたが肝不全により、11月22日に死去。葬儀はプロレスリング・ノアの社葬も兼ねて行われたが、馬場元子も弔問に訪れた。父の力道山も眠る池上本門寺に納骨されている。

義浩の動きにより、百田家が関わっているプロレス団体は日本プロレス→全日本プロレス→プロレスリング・ノアへと変わっていった。その点でも、大きな影響を与えている。

著書[編集]

同文庫版 小学館〈小学館文庫〉、2003年。ISBN 978-4094058611