藤田和之

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藤田 和之
基本情報
本名 藤田 和之
通称 野獣
猪木イズム最後の継承者
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1970-10-16) 1970年10月16日(46歳)
出身地 千葉県船橋市
所属 藤田事務所
→TEAM FUJITA
身長 182cm
体重 105kg
階級 ヘビー級
バックボーン レスリング
テーマ曲 炎のファイター(オーケストラ・ヴァージョン)
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藤田 和之
プロフィール
リングネーム 藤田 和之
本名 藤田 和之
ニックネーム 猪木最後の闘魂継承者
猪木イズム最後の継承者
リアル・ビースト
Ol' Ironhead(オールド・アイアンヘッド)
身長 182cm
体重 105kg
誕生日 (1970-10-16) 1970年10月16日(46歳)
出身地 千葉県船橋市
所属 藤田事務所
スポーツ歴 レスリング
サッカー
トレーナー アントニオ猪木
マルコ・ファス
デビュー 1996年11月1日
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藤田 和之(ふじた かずゆき、1970年10月16日 - )は、日本の男性プロレスラー総合格闘家千葉県船橋市出身。TEAM FUJITA所属。八千代松陰高校日本大学文理学部卒業。

プロレスラーアントニオ猪木を師匠とし、「猪木イズム最後の闘魂継承者」と呼ばれる。猪木のテーマ曲だった「炎のファイター」のオーケストラ・ヴァージョンをテーマ曲にしている。

スタイル[編集]

レスリングを経てプロレスデビューし、総合格闘技選手としての活動も同時並行して行っている。レスリング技術も然ることながら、その強靭な肉体から繰り出される圧倒的なパワーからの打撃は非常に強力で、トップクラスの外国人ヘビー級選手であってもマットに沈めるほどの威力を持つ。さらにテイクダウンからの打撃、袈裟固め肩固めなどの技を得意とする。PRIDE発足当時から数々の強豪外国人と対戦し、その実績からいまだに日本人ヘビー級選手の第一人者と見なす意見も多い。近年は総合格闘技よりもプロレスでの活動が多くなっている。

来歴[編集]

日本大学在学中に1989年より、レスリングで全日本学生選手権4連覇を果たした。1993年に大学を卒業してからは新日本プロレス職員としてアトランタオリンピック予選に挑戦したが敗退し、全日本選手権2度優勝の実績を残してレスリングは引退。

1996年に新日本プロレス(以下、新日)所属のプロレスラーになり、11月1日に永田裕志戦でデビュー。

2000年1月4日、新日東京ドーム大会でキモと対戦。膝蹴りが急所に入ってしまい、4分2秒反則負けとなった。この試合を最後に新日本プロレスを退団。一時はより格闘技色の強いリングスへの参戦に傾いていたが、アントニオ猪木が経営する猪木事務所所属となり、2000年1月30日の『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』でハンス・ナイマンに一本勝ち、総合格闘技のデビューを飾る。

2000年5月1日、『PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦』の2回戦で当時「霊長類最強の男」と謳われたマーク・ケアーに判定勝ち。桜庭和志ホイス・グレイシーを90分の死闘の末破った直後の試合だったが、それ以上の大番狂わせといわれた。しかし準決勝のマーク・コールマン戦ではケアー戦での左膝靭帯の損傷により開始直後にタオルが投入され、TKO負けとなった。

2001年4月9日、新日のリングでスコット・ノートンを降し、第29代IWGPヘビー級王者となった。6月6日に永田裕志、7月20日にドン・フライと防衛成功。

2001年8月19日、『K-1 ANDY MEMORIAL 2001』でミルコ・クロコップとMMAルールで対戦。3度目のタックルにカウンターの左膝蹴りを合わせられ、左眉横から大出血。ドクターストップ負けとなった。

人気選手となった2001年には、サントリーの缶コーヒーBOSSコーヒーのテレビCMにアントニオ猪木と共に出演したり、アニメ映画デ・ジ・キャラット』に声優として出演するなど多彩な活動をした。

2001年12月、練習中に右アキレス腱を断裂。大晦日の『INOKI BOM-BA-YE 2001』出場および2002年1月4日に予定されていた永田裕志とのIWGPヘビー級選手権試合はキャンセルされ、1月4日のリング上で挨拶を行い、IWGP王座返上が発表された。

2002年7月20日、9か月ぶりに新日札幌大会における垣原賢人戦で復帰し、スリーパーホールドで一本勝ち。

2002年8月8日、『UFO LEGEND』で安田忠夫と対戦し、肩固めで見込み一本勝ち。

2002年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2002』でミルコ・クロコップとの再戦に挑むも、判定負け。

2003年6月8日、『PRIDE.26』でPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルとノンタイトル戦で対戦。右フックでヒョードルをぐらつかせる場面もあったが、最後はスリーパーホールドで一本負け。

2003年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2003』で元IBF世界クルーザー級王者イマム・メイフィールドと寝技20秒限定ルールで対戦し、スタンド式肩固めで一本勝ち。当初はWBO世界ヘビー級王者レイ・マーサーと対戦予定であったが出場キャンセルとなり、当日になって対戦相手変更が発表された。

2004年5月22日、『K-1 ROMANEX』におけるボブ・サップとの「野獣対決」にサッカーボールキックでタップアウト勝ち。『リアルビースト』と呼ばれるようになる。

2004年6月5日、大阪府立体育会館において棚橋弘至とIWGPヘビー級王座決定戦(ボブ・サップの王座返上による)を行い、サッカーボールキックからのKO勝ちに追い込んだ。ただし、前年のアルティメット・クラッシュでは棚橋にタッグながらピンフォール負けを喫している。

2004年12月31日、『K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!』でアテネオリンピックレスリング金メダリストカラム・イブラヒムと対戦し、右フックでKO勝ち。

2005年4月、永田裕志、中西学ケンドー・カシンとレスリング軍団「チームジャパン」を結成。

2006年2月1日をもって猪木事務所から独立し、藤田事務所を設立。

2006年5月5日、PRIDE無差別級グランプリ1回戦でジェームス・トンプソンと対戦し、右フックでKO勝ち。

2006年7月1日、PRIDE無差別級グランプリ2回戦でヴァンダレイ・シウバと対戦し。右フックで倒され、サッカーボールキックの連打でタオルが投入され、TKO負け。シウバはヒョードル欠場による代役であった。

2007年4月8日、『PRIDE.34』でUFC対PRIDE対抗戦としてジェフ・モンソンと対戦し、スリーパーホールドで一本負け。

2007年12月12日、PRIDE(PRIDE FC WORLDWIDE)との契約を解除したことを発表[1]。12月31日の「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」への出場オファーはあったものの出場は実現しなかったが、Dynamite!!の前日記者会見でピーター・グラハムが「藤田が試合をキャンセルした。腰抜け野郎」と挑発を行った[2]

2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜でピーター・グラハムと対戦し、ノースサウスチョーク(公式裁定はスピニングチョーク)で一本勝ち。前日記者会見ではグラハムの挑発に乗り、「こんな胸くそ悪い奴は初めて。このトサカ野郎」と発言し、乱闘寸前の騒ぎを起こしたが[3]、試合後は両者共にお互いを称えあった。

2008年6月8日、戦極 〜第三陣〜トラビス・ビューと対戦するも左のジャブでダウンしたところにパウンドを打ち込まれ失神TKO負け。

2009年8月2日、戦極 〜第九陣〜ブラゴイ・アレクサンドル・イワノフと対戦し、1-2の判定負け。試合後、師匠のマルコ・ファスが判定に対する不満を露にした。

2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦でアリスター・オーフレイムと対戦し、左膝蹴りでKO負けを喫した。エプロンサイドで倒れたまま自力で起き上がれず、担架で退場[4]。病院に搬送され、重度の脳震盪と診察された[5]。翌日意識は正常になったが、長期休場を余儀なくされた。

2011年8月27日、イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)の両国国技館大会「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」でジョシュ・バーネットが契約問題により欠場となったため緊急参戦、1年8ヶ月ぶり復帰。

2012年7月14日、IGF「GENOME21」でジェロム・レ・バンナを破り、IGF王座を奪取。

2012年9月9日、永田裕志のデビュー20周年興行となった新日東金大会に来場。なお、藤田が新日の大会に来場するのは2005年10月以来。

2012年10月16日、IGF「GENOME23」の試合後に宿敵・小川直也を呼び込んで激しく挑発。

2012年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2012で小川にレフェリーストップで勝利したが、試合後に猪木及びIGFを激しく批判した。

2013年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2013のIGFチャンピオンシップで石井慧と対戦し、判定負けで王座陥落。

プロレスでの活動・評価[編集]

所属した新日本プロレスでは練習生時代から評価が高く、そのずば抜けた身体能力と豪胆な性格を買われていた[6]。デビュー後も前座ながら期待され、1998年における長州力最初の引退試合の対戦相手の一人にも抜擢されている。なお小川直也のプロレス転向に伴うトレーニングパートナーとして帯同し、その際に佐山聡にその身体能力を「化け物」と評された。その後も、新日本プロレスからは期待のマッチメークをされ、2000年のドーム大会では総合格闘家のキモと対戦した。しかし、自身のプロレス適応力に疑問を感じ[7]、より格闘色の強いリングスへの移籍を考え、最終的に猪木事務所所属でPRIDEに出場することとなる。

PRIDEでの活躍を経た後はプロレス界でもトップレスラーとして扱われるようになり、2001年4月9日に第29代のIWGPヘビー級王座を獲得[8]。その後も2004年6月5日に棚橋弘至、2005年7月18日に天山広吉を下し計3度獲得した。しかし、総合格闘技との兼ね合いでリングに上がるのはビッグマッチ中心、かつ殆ど巡業には参加しないスタイルに蝶野正洋が苦言を呈することもあった。また、対戦相手に勝つことだけを重視した総合格闘技的なスタイルや、プロレスの試合を組み立てる上で重要となる相手の技を受けることの軽視、時にプロレスに対してのモチベーションの低さを感じさせる露骨な態度は[9][10]、プロレスファンに非難されることも多かった。2006年1月4日の、新日東京ドーム大会のメインイベントでIWGPヘビー級タイトルへの挑戦が決定していたが、直前の12月になり何の説明もないまま「試合には出られない」としてドーム大会への参加をキャンセル、ファンや関係者から非難を浴びた[11]

なお上記エピソードやそのキャラクターとは裏腹にかなりの学生プロレスマニアで、新日に棚橋弘至が入門してきたときに「おい、ハメ浩(棚橋の学プロ初期のリングネーム)」と声をかけたことがある。

入場テーマ曲[編集]

主な戦績[編集]

プロレス[編集]

総合格闘技[編集]

総合格闘技 戦績
26 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
15 5 8 2 0 0 0
11 6 2 3 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× バルト 5分2R終了 判定0-3 RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2016 無差別級トーナメント 開幕戦 2016年9月25日
× イリー・プロハースカ 1R 3:18 KO(右フック) RIZIN.1 2016年4月17日
× 石井慧 5分3R終了 判定0-3 INOKI BOM-BA-YE 2013
【IGFチャンピオンシップ】
2013年12月31日
× アリスター・オーフレイム 1R 1:15 KO(左膝蹴り) Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 2009年12月31日
× ブラゴイ・アレクサンドル・イワノフ 5分3R終了 判定1-2 戦極 〜第九陣〜 2009年8月2日
× トラビス・ビュー 1R 1:24 TKO(右ストレート→パウンド) 戦極 〜第三陣〜 2008年6月8日
ピーター・グラハム 1R 1:23 ノースサウスチョーク 戦極 〜第一陣〜 2008年3月5日
× ジェフ・モンソン 1R 6:37 スリーパーホールド PRIDE.34 2007年4月8日
エルダリ・クルタニーゼ 1R 2:08 ギブアップ(パウンド) PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- 2006年12月31日
× ヴァンダレイ・シウバ 1R 9:21 TKO(タオル投入) PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND
【無差別級グランプリ 2回戦】
2006年7月1日
ジェームス・トンプソン 1R 8:25 KO(右フック) PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦
【無差別級グランプリ 1回戦】
2006年5月5日
カラム・イブラヒム 1R 1:07 KO(右フック) K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!! 2004年12月31日
ボブ・サップ 1R 2:15 ギブアップ(サッカーボールキック) ROMANEX 格闘技世界一決定戦 2004年5月22日
イマム・メイフィールド 2R 2:25 スタンディング肩固め INOKI BOM-BA-YE 2003 馬鹿になれ夢を持て 2003年12月31日
× エメリヤーエンコ・ヒョードル 1R 4:17 スリーパーホールド PRIDE.26 REBORN 2003年6月8日
× ミルコ・クロコップ 5分3R終了 判定0-3 INOKI BOM-BA-YE 2002 2002年12月31日
中西学 3R 1:09 TKO(パウンド) 新日本プロレス ULTIMATE CRUSH 2003年5月2日
安田忠夫 1R 2:46 肩固め 世界最強伝説 UFO LEGEND 2002年8月8日
× ミルコ・クロコップ 1R 0:39 TKO(ドクターストップ) K-1 ANDY MEMORIAL 2001 〜JAPAN GP 決勝戦〜 2001年8月19日
高山善廣 2R 2:18 肩固め PRIDE.14 2001年5月27日
ギルバート・アイブル 10分2R終了 判定6-0 PRIDE.12 2000年12月23日
ケン・シャムロック 1R 6:46 TKO(タオル投入) PRIDE.10 2000年8月27日
× マーク・コールマン 1R 0:02 TKO(タオル投入) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦
【準決勝】
2000年5月1日
マーク・ケアー 15分1R終了 判定3-0 PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦
【2回戦】
2000年5月1日
ウィル・チャイルズ スリーパーホールド Extreme Shootout: The Underground 2000年4月1日
ダン・チェイス KO Extreme Shootout: The Underground 2000年4月1日
ハンス・ナイマン 1R 2:48 袈裟固め PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦
【1回戦】
2000年1月30日

得意技[編集]

膝蹴り
いわゆるがぶりの状態から、相手の頭部または脇腹へ膝蹴りを入れる。総合格闘技の試合でも使用される。また2005年の天山広吉戦以降、相手に走りこんで決めるバージョンを必殺技として使用し始め、G1 CLIMAXでも旋風を巻き起こした。佐々木健介戦では相手の佐々木ではなくマットに膝蹴りしていると揶揄された。
サッカーボールキック
2004年のK-1 ROMANEXで、ボブ・サップをこの技で破り、注目される。通常プロレスで使用される背中や胸元を蹴りつけるタイプではなく、総合格闘技仕様の相手の頭を思いきり蹴りつけるタイプを使用する。威力は非常に強力で、サッカー部だった中学生時代に蹴りでボールを破裂させたというエピソードもある。
肩固め
総合でもプロレスでも使用される、藤田にとって最もポピュラーな必殺技である。また、INOKI BOM-BA-YE 2003では、イマム・メイフィールド相手に、寝技20秒ルールの隙を突き、スタンドの状態からジャイアントバックブリーカーの様にこの技を決めたこともある。
スリーパーホールド
ビーストボム(パワーボム
ジャックハマー
スパイン・バスター
フランケンシュタイナー(→腕ひしぎ十字固めへ移行)
ヒールホールド
チョークスリーパーホールド
殺人バックドロップ

獲得タイトル[編集]

新日本プロレス
イノキ・ゲノム・フェデレーション
プロレス大賞
  • 1997年度プロレス大賞 新人賞
  • 2001年度プロレス大賞 年間最高試合賞(ベストバウト)
アマチュアレスリング
  • 全日本学生選手権(4連覇、1989年 - )
  • レスリング 全日本選手権 フリースタイル 90kg級 優勝(1993年)
  • レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝(1995年)

関連書籍、映像等[編集]

書籍[編集]

  • "Show"大谷 泰顕(監修)『野獣降臨 藤田和之 THE WILD BEAST coming』 メディアワークス 2000年11月 ISBN 4840216614
  • 藤田和之、木村光一(共著)『ファイター:藤田和之自伝』 文春ネスコ 2002年10月 ISBN 4890361650

DVD[編集]

  • 『藤田和之』 ヴァリス 2001年10月26日

VHS[編集]

  • 『闘魂Vスペシャル 特別編 藤田和之特集 -今、明かされる野獣の真実-』 ヴァリス 2000年5月19日

CD[編集]

  • 『THE WORLD』 ダイキサウンド 2001年12月20日 (テーマ曲「炎のファイター」のオーケストラ・ヴァージョン収録)

脚注[編集]

  1. ^ 藤田がPRIDEとの契約解除を発表 ニッカンスポーツ 2007年12月13日
  2. ^ グラハム仁王立ち BoutReview 2007年12月30日
  3. ^ 前日会見で乱闘騒ぎ BoutReview 2008年3月4日
  4. ^ Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 第14試合 スポーツナビ 2009年12月31日
  5. ^ 『FieLDS Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜』一夜明け会見 DREAM 公式サイト 2010年1月1日
  6. ^ 当時の現場最高責任者で団体内でも恐れられていた長州力の指定席(移動バスの最前列)に堂々と座ったとの逸話がある。
  7. ^ 当時、新日本に参戦中の元UWFインターナショナル山崎一夫に「自分はプロレスに向いていない」と相談したことがある。前述のキモ戦も団体側が藤田に配慮した経緯があるとされる。
  8. ^ ただしこの試合では、藤田のスリーパーで落ちたはずのノートンが、レフェリーのゴング要請後にいつまでも腕を放そうとしない藤田の膝を左手で優しく揉みしだくシーンが映っている。これは藤田のプロレス技術の甘さが浮き彫りになった場面であった。
  9. ^ 顕著な例として2004年の佐々木健介戦が挙げられる。これはいわゆる『負け試合』であったが、試合開始早々、技をかけた藤田が3カウントを取られるという何ともお粗末な試合内容であった。その酷さから悪天候の中来場したファンから大ブーイングを浴び、暴動寸前とまでなっている。
  10. ^ 同様の態度をとったレスラーに新日本参戦時の高田延彦が挙げられる。高田の場合もいわゆる『負け試合』であった。
  11. ^ しかし、直後に藤田と公私ともに親しい関係にある元ゴング編集長の金澤克彦が雑誌や携帯サイトのコラム等で、「藤田は、新日本と猪木事務所の軋轢(あつれき)に巻き込まれた被害者であり、彼には何一つ非はない」と擁護している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]