永田裕志

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永田 裕志
Yuji Nagata
永田 裕志Yuji Nagataの画像
プロフィール
リングネーム 永田 裕志
マイバッハ・ブルージャスティス
本名 永田 裕志
ニックネーム ブルージャスティス
青義の使徒
ミスターIWGP
熱血プロレス先生
身長 183cm
体重 108kg
誕生日 (1968-04-24) 1968年4月24日(48歳)
出身地 千葉県東金市
所属 新日本プロレス
スポーツ歴 レスリング
キックボクシング
トレーナー 馳浩
佐々木健介
デビュー 1992年9月14日
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永田 裕志(ながた ゆうじ、1968年4月24日 - )は、千葉県東金市出身の日本男性プロレスラー新日本プロレス所属。千葉県立成東高校日本体育大学卒業。

人物[編集]

父は千葉県立高校の校長兼野球部監督を務め、千葉県立成東高校では鈴木孝政中村勝広らを指導した。妹であるネイルアーティストの永田貴子は、アメリカで開催されるネイルトレードショー・WINBAで1999年入賞、2000年優勝の実績を持ち、裕志はもちろん、弟である日本の総合格闘家の永田克彦のコスチュームデザインも行なう。ちなみに克彦は、シドニーオリンピックレスリングで、銀メダリストに輝いている。新日本プロレスの試合でレスリングルールによる対戦もしている。また、父と同様に裕志と克彦も教員免許を持っている。ケンドー・カシンとはチームJAPANでユニットを組む等、特に仲がよい。カシンが大学院に合格した際には「東金デストロイヤー」なる覆面レスラーとして「祝福」に訪れた。現在プロレス界の各タイトルを獲得しながらも、「技をかけながら自ら白目を剥く」キャラを主として「現在、新日本プロレスで最も盛り上がるのが、永田が白目になった瞬間である(金澤克彦)」と言われるほどの人気を博しており、シリアスな試合展開ながらも「ひょうきんレスラー」として人気を博している。

来歴[編集]

デビュー以前[編集]

1987年千葉県立成東高等学校卒業後、日本体育大学に入学しレスリング部に所属。全日本学生選手権(1988年)および全日本大学グレコローマン選手権(1989年)で優勝を果たした。

1992年、全日本選手権優勝後、新日本プロレスに入門。同期には中西学石澤常光ケンドー・カシン)、大谷晋二郎らがいる。新日本に入門したのは馳浩の紹介。1992年9月14日山本広吉(現:天山広吉)戦でデビューを果たした。

初タイトル獲得まで[編集]

1995年、新日本プロレスとUWFインターナショナルとの対抗戦に出場。グレコローマンの下地を生かしたファイトで桜庭和志らと激闘を繰り広げた。

1997年から海外武者修行としてWCWに遠征。1998年に帰国。同年、蝶野正洋の負傷による王座返上を受けて組まれたIWGPヘビー級王座決定戦に自ら本隊代表として志願し、nWo代表のスコット・ノートンと対戦するも、ノートンのパワーに圧倒されて敗れる。

1999年8月28日、神宮球場で中西と組んで、後藤達俊小原道由を破り、自身初のタイトルとなるIWGPタッグ王座を獲得した。この頃にリングコスチュームを青いショートタイツとレガースにし、以後数度模様などをマイナーチェンジをするもののこのカラーリングで定着する。

G1 CLIMAX優勝[編集]

2000年に中西、吉江豊福田雅一と共にG-EGGSを結成、翌年まで活動する。2000年3月2日にはZERO-ONE旗揚げ戦へスポット参戦した。

2001年、「G1 CLIMAX」決勝戦で武藤敬司を破り、「G1」初優勝。同年10月8日には秋山準(当時プロレスリング・ノア所属)とタッグを組み武藤&馳組に勝利した。また、永田はこの試合をきっかけに新日本内でのスターダムを駆け上がっていくことになる。この年の12月31日、総合格闘技初参戦となったINOKI BOM-BA-YE 2001ミルコ・クロコップと対戦したが1R21秒左ハイキックを受け、レフェリーストップによるTKO負けを喫した。

2002年1月4日の新日本東京ドーム大会で、前年10月にタッグを組んだノア・秋山の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗れた。

IWGPヘビー級王座連続防衛記録樹立[編集]

2002年4月5日、安田忠夫を破ってIWGPヘビー級王座を奪取する。以降、2003年5月2日に高山善廣に敗退するまで、橋本真也の持っていた防衛回数9を更新する10度の防衛を果たした。

2003年6月6日、ノアの武道館大会に二度目の参戦を果たし、同大会で田上明から勝利を収めた。1ヶ月後の大阪府立体育会館大会で秋山とシングルで対戦し、ここでも勝利を収め、9月12日の武道館大会で小橋建太の保持するGHCヘビー級王座に二度目の挑戦を果たしたが、王座奪取に失敗した。

11月30日、ノア・北海道立総合体育センター(きたえーる)で棚橋と組んで、小橋&本田多聞を倒し、GHCタッグ王座を奪取。12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2003」でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1分2秒左フックでTKO負けした。なお、イベント開催自体の開催が危ぶまれ、ヒョードル戦が決定したのが試合前日という混乱ぶりで、開催後も安田忠夫と永田のギャラが未払いとなり新日本プロレスが訴訟を起こすなどのドタバタがあった。永田はIWGPの防衛記録を持つなどのプロレスでの戦績と、アマチュアレスリングのバックボーンを持つことから大いに期待されたものの、2001年のミルコ戦に続く敗戦から、その後のプロレス業界の低迷も相まって「プロレス幻想を打ち砕いた」、「プロレス凋落の戦犯」などと批判・揶揄された。

2004年6月12日、全日本・愛知県体育館で、ケンドー・カシンと組んで、小島聡&カズ・ハヤシを倒し、世界タッグ王座を獲得する。3大メジャーのタッグを制覇したのはベイダー高山善廣に続き3人目。

ヒール転向[編集]

2005年1月、マッチメイクに異を唱え、新日本離脱を示唆する発言をする。3月、フロントとの確執の末ヒール転向を宣言。BNJに合流せず、1人で戦うことになった。その後、中西学、ケンドー・カシン、藤田和之らとレスリング軍団「チームジャパン」を結成した。同年4月26日、前田日明がヒョードル戦の内容に苦言を呈したのに対し「ニールセン戦が悪いんじゃないが、ヒョードル戦とはジャンルが違うだろ。胸に手を当てて考えろ。」と発言。

2005年10月、長州力が現場監督として新日本に復帰した際、蝶野を中心とした反長州派が不満をぶつけるなか、中立を宣言する。長州に好意的な選手が少な過ぎるため、棚橋と共に長州とタッグを組まされ、半ばうやむやな形で中西とともに本隊に戻っている。12月11日、当時IWGPヘビー王者のブロック・レスナーと対戦し、敗北した。

コミカル路線[編集]

2006年に入り、スポーツ新聞の取材時にバレンタインチョコをかじる、徳島での試合を控えて阿波踊りで挑発する、誕生日ケーキを食べながら指をしゃぶるといったコミカルなパフォーマンスを行なっていた。4月にはワールドプロレスリングで試合が放送される際、白目をむいて鬼気迫る表情をする姿に「鬼神」「キラー永田」とテロップが入った。5月の第2回NEW JAPAN CUPでは、決勝でジャイアント・バーナードに敗れ準優勝。中西がZERO1-MAX大森隆男とタッグを組み、IWGPタッグに挑戦する話が出た際に、王者チームに返上させて自身と山本のタッグや他のタッグを加えてトーナメントを開催することを提案した。

2006年5月、個人事務所「ナガタロック」を設立し、8月4日にリラクゼーションサロン「enishing」を開店した。6月には内外タイムスでコラム『永田裕志のセカンドバッグ』の連載を始める。9月、三冠王者になった鈴木みのるを見て「鈴木にベルトを獲られたんだから全日本のレスラーはB級レスラー」と発言したが、当の鈴木のブログで「B級と言っていいのは俺だけだ。永田はC級」とやりかえされる。その後もタッグ戦で鈴木との抗争を展開し、2007年1月に三冠ベルトを賭けて対決するも、惜しくもスリーパーホールドで敗れる。

IWGPヘビー級王者への復帰[編集]

2007年3月、「NEW JAPAN CUP 2007」で優勝。4月13日、大阪・大阪府立体育会館で行なわれたIWGPヘビー級選手権試合で王者・棚橋をバックドロップホールドで破り第46代IWGPヘビー級王者に返り咲いた。7月1日にはDRAGON GATEに参戦神戸ワールド記念ホールにてタケちゃんマンのコスチュームで入場しストーカー市川と対戦。9月9日、地元の千葉・東金アリーナで初の主催興業を行なう。10月8日、両国国技館で行なわれたIWGPヘビー級選手権試合で棚橋の挑戦を受け、31分5秒ハイフライフローから片エビ固めで敗北、棚橋がIWGPヘビー級王者に返り咲いた。

2008年1月4日、「IWGP3rdベルト」を賭けてカート・アングルと対戦するもアンクルロックにより敗退。

ZERO1世界ヘビー級王座載冠[編集]

2008年2月17日、両国国技館で行なわれる予定の後藤洋央紀戦であったが、ウォーミングアップ中にめまいと左半身のしびれを訴え、リングドクターは脳梗塞の疑いがある判断。病院に搬送され試合は中止となった。精密検査の結果脳および頸椎に異常はなく、2008年2月27日に会見を行ない、病名は「高血圧から来る出血か、海綿状血管腫ではないか」と説明した。

5月からシリーズに復帰。10月13日、田中将斗を破り、ZERO1世界ヘビー級王座を奪取。2009年2月27日の大谷晋二郎に敗れるまで3度の防衛を果たした。

青義軍の結成[編集]

2009年2月15日、昨年脳内出血による体調不良で緊急欠場し実現できなかった後藤洋央紀両国国技館で1年越しの対決を行い、最後はバックドロップ・ホールドで後藤を沈めた。4月5日には飯塚高史とチェーンデスマッチで対戦するがレフェリーストップで敗北。5月3日、飯塚とドッグカラー・チェーンデスマッチで再戦し飯塚をK.O.勝ちに収めた。

8月に行なわれたG1 CLIMAXでは毎試合、ご当地の球団のユニフォームで入場した。また、最終日にはイチローが着ていたワールド・ベースボール・クラシックのユニフォームを着て登場した。後に永田のブログでは「本物」だったと書き記されていた[1]

同年9月、平澤光秀井上亘スーパー・ストロング・マシンとともに青義軍を結成。12月5日には中邑真輔の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するもボマイェで敗北を喫した。

TAJIRIとの抗争、和解[編集]

2010年1月4日の東京ドームで行なわれたレッスルキングダムIVで元横綱・と「ブルーマウンテンズ」としてタッグを組み、TAJIRI・田中将斗組と対戦するも、曙もろともTAJIRIのグリーンミストを受け、最後は永田はTAJIRIのバズソーキックでピンフォール負けを喫してしまい、戦前の公約どおり地元の東金市で自ら銅像になる罰ゲームを受けることになった。

翌1月30日に後楽園ホールでは高橋裕二郎内藤哲也のコンビ「NO LIMIT」とタッグを組み、TAJIRIとバットインテンションズのジャイアント・バーナードカール・アンダーソン組による6人タッグマッチを行なうも、高橋のチャンピオンベルトによる攻撃に激怒したことで試合中にチーム内で亀裂が発生、いがみ合いの末にNO LIMITは試合放棄し、直後にTAJIRIからグリーンミストを受けて反則勝ちになった。

翌日31日のディファ有明で青義軍の井上と共にTAJIRI、飯塚と対決、TAJIRIのグリーンミストに対抗して毒霧「ブルーミスト」をTAJIRIに使い、反則負けになるも屈辱を晴らす。しかし、その後はTAJIRIのいないチームとの対決でも惜しみなくブルーミストを使うようになる。そして、2月14日にブルーミストを封印し、自らのストロングスタイルでTAJIRIとシングルマッチで対決、序盤と終盤で2度TAJIRIにグリーンミストを受けるも目の位置を変えることでこれを耐え抜き、腕折り以外で初めて白眼を向き仁王立ちをする「緑の大魔神」に変身。強烈な膝蹴りと投げっぱなしのバックドロップをお見舞いし、腕折りでギブアップ勝ちするも、セコンドの制止が入るまでの間、白目を剥きながらゴングとレフェリーの制止を無視して腕折りを仕掛け続けていた。

その後はTAJIRIとの戦いが無く、8月8日のG1 CLIMAX XXのスペシャルタッグマッチで矢野通の椅子攻撃で右膝を負傷していたTAJIRIとタッグを組み、CHAOSの飯塚とCHAOS入りしたNO LIMITの高橋のタッグと対戦。始めは2か月近くの抗争を根に持っていたため、TAJIRIに対して冷たい態度を示していたが試合中の飯塚と高橋による執拗な右膝攻撃を受けているTAJIRIを見かねて手をさしのばすようになる。

結局、試合はTAJIRIが飯塚に捨て身のグリーンミスト攻撃で反則負けするも、TAJIRIは飯塚からアイアンフィンガーフロムヘルを奪い、序盤での猛攻撃に対し一矢報いようとするも裕次郎に妨害されてしまう。しかし、直後に永田が高橋をブルーミストで撃沈させたことでグリーンミストとブルーミストの奇跡の競演を果たし、飯塚を羽交い絞めにしてTAJIRIのアイアンフィンガーフロムヘルによる飯塚への地獄突きに成功する。その後、2人で敬礼ポーズをとり、固く握手をして和解する。

2011年[編集]

2011年3月、NEW JAPAN CUPに出場し優勝する。4月、全日本プロレスに参戦し、チャンピオン・カーニバルに初出場。決勝で真田聖也を下し、優勝を収め、両メジャー団体春の祭典を制覇する快挙を成し遂げた。

6月18日、大阪大会のタッグマッチに勝利した直後、プエルトリコから帰って来た青義軍の盟友、ヒデオ・サイトーに襲撃を受け、バックステージで「嘘だと言ってくれ…夢だと言ってくれ…」と落胆の声を漏らし続けた。その翌日、盟友の裏切りで落胆している中、全日本に参戦し、諏訪魔の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦するも、諏訪魔のバックドロップに敗れた。

8月のG1 CLIMAXでは優勝戦線に食い込む活躍を見せていたが、最終戦のヒデオ・サイトー戦でピンフォール負けを喫し、予選落ちに終わった。9月19日神戸大会でヒデオと対戦し、バックドロップホールドで雪辱を果たし、試合後にヒデオが平澤に戻りかけたところを矢野通に襲撃され、台無しにされてしまった。

10月10日、矢野と対戦。試合中、矢野が鋏で野上慎平アナの髪を切ろうとするがそれを永田が阻止する。最後はリバースナガタロックⅢを繰り出すと返盃で再び返されるが、それを逆に丸め返して勝利した。全試合終了後、IWGPヘビー級王座を保持する棚橋に挑戦表明を行うも、矢野のベルト強奪という暴挙に見舞われ、挑戦表明が流れてしまう。

11月12日大阪大会、棚橋と矢野のIWGP戦終了直後、負けたにも関らずふてぶてしくベルトを持ち逃げしようとした矢野を花道で迎撃。ベルトを奪い返し、棚橋に返却すると改めて挑戦表明を行い、棚橋がこれを承諾したことで10月に成立しなかったIWGP挑戦が正式に決まる。12月4日、IWGPヘビー級選手権に挑戦。30分以上にも及ぶ死闘を繰り広げるが最後は、棚橋のハイフライフローで敗北する。

2011年度年間プロレス大賞にて、NJCチャンピオンカーニバルを二冠優勝し、「春男」の名を欲しいままにしたた功績とアンチエイジングを目標に掲げての元気溌剌なファイトスタイルが認められ、敢闘賞を受賞した。

2012年[編集]

2012年1月4日のレッスルキングダムIVに24年振りに新日本に参戦する船木誠勝とタッグマッチで激突(永田のパートナーは井上亘、船木のパートナーは河野真幸)。試合終了直後、試合中に顔面(左目)への膝蹴りを受けたことに憤慨した船木の挑発に激怒、殴り合いの乱闘となった。

2月3日、東京ドーム大会での永田の膝蹴りで左目を負傷し、半年間の長期欠場が決まった船木の仇討ちを直訴してきた「STACK OF ARMS」河野の挑戦を受け、全日本プロレスのリングでタッグマッチを行った。河野のパートナーの田中稔をバックドロップホールドで勝利を収め、全日本のリングでナガダンスを披露する。

その後、河野とシングルマッチで対戦するも、両者リングアウトで試合が終わり、その後、延長戦が行われるも永田のレフェリー無視が原因で起きたセコンド陣の乱入・乱闘で無効試合と不透明決着となる。3月4日、後楽園大会で再び河野と全日本プロレスのリングで、シングルマッチで対戦。今度は、場外カウントなしの決着戦で、リバースナガタロックⅢで勝利。3月20日、両国大会で河野と完全決着となるシングルマッチで対戦。今度は、ギブアップ・KOのみの、金網戦となり、最後はバックドロップで、KO勝ちを収めた。

11月、プロレスリング・ノアの開催するグローバル・リーグ戦に出場、開幕4連勝と健闘するも最終日の森嶋猛戦に敗れリーグ敗退に終わる。敢闘賞を受賞した。

2013年[編集]

2013年1月4日、レッスルキングダム7の舞台で因縁の相手である鈴木と対戦、バックドロップホールドで勝利した。

その後、昨年9月よりフリーランスとして新日本に参戦している桜庭和志に目をつけ、4月7日両国大会で後藤をパートナーに桜庭、柴田勝頼組と対戦。ところが、試合終盤に放ったバックドロップを桜庭が上手く受け身を取れずにマットに着地。右肘の関節が不自然に曲がっていたことからレフェリーが試合を止めさせ、レフェリーストップ勝ちを収める。桜庭は「右肘関節脱臼」と診断され、長期欠場となってしまった。

6月22日、脱臼から回復した桜庭から復帰戦の相手として名指しで逆指名され、これを受諾する。7月20日秋田大会、地元での復帰戦となった桜庭とシングルマッチで初対決。最後は腕ひしぎ逆十字固めで捕えられてしまい、ギブアップ負けを喫した。

その後、桜庭とは9月29日の神戸大会でもタッグマッチで対戦したが、10月14日の両国大会で来場したグレイシー一族の挑発を受けて意気投合しタッグを結成。その後、11月9日の大阪大会では矢野、飯塚組と対戦し、勝利を収めた。

11月10日 二年連続出場となるグローバル・リーグで優勝しメジャー3団体全てのシングルリーグを制覇するという偉業を成し遂げた。

2014年[編集]

1月4日、レッスルキングダムにおいて、桜庭とタッグを組み、ダニエル・グレイシーホーレス・グレイシー組と対戦。ダニエルに道着での首絞めを受け反則勝ちとなった。

2月8日、ノア後楽園ホール大会で森嶋を破り、新日本プロレス所属選手としては初のGHCヘビー級王座を戴冠した。

2月11日、THE NEW BEGINNING大阪大会において、永田、桜庭対ダニエル、ホーレス組のリマッチが行われた。今回はプロレス対柔道の異種格闘技ルールとしてオープンフィンガーグローブでのパンチおよびチョークスリーパー、道着での首絞め有効の特別ルールで行われる。試合は桜庭がホーレスに道着でのチョーク攻撃を受け敗れた。

7月5日、五度目の防衛戦で丸藤正道に敗れ、GHCヘビー級王座から陥落した[2]

2015年[編集]

1月4日、レッスルキングダム9の第0試合(ニュージャパンランボー)に出場。最後はYOSHI-HASHIからピンフォール勝ちを収め、優勝を果たした。

1月5日、後楽園ホール大会にて中邑真輔が保持するIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦表明し、決定した。「ミスターIWGP」とも呼ばれる永田は、この挑戦を「究極の浮気」と表現した。

2月14日、THE NEW BEGINNING in SENDAIにて中邑と対戦。かつて中邑を欠場に追い込んだ雪崩式エクスプロイダーなどで攻め込むも、最後はピンフォール負けを喫した。

2016年[編集]

1月4日、レッスルキングダム10の第0試合(ニュージャパンランボー)に出場し、敗退。

3月3日、NEW JAPAN CUP一回戦に出場。昨年と同じく後藤洋央紀と対戦し、敗退。

5月3日、福岡・福岡国際センターで柴田勝頼を破りNEVER無差別級王座を奪取。

得意技[編集]

外道にバックドロップ・ホールドを仕掛ける永田。
腕固め
白目式腕固め
イーストゴールド

フィニッシュ・ホールド[編集]

バックドロップ・ホールド
永田の若手時代からの代表的なフィニッシュ・ホールド。投げられる相手は高角度でマットに叩きつけられる。ホールドにいく際にはブリッジをせずに自分の体を捻って覆いかぶさるような形になる場合が多い。元は通常型となるブリッジして固めるタイプを使用していたが、平成19年の越中詩郎とのIWGPヘビー戦あたりから、現在のフォームに変えた。
若手時代はバックドロップ・ホールドの考案者であるジャンボ鶴田に顔つきが似てると言われ「鶴田二世」と呼ばれていた。
エクスプロイダー・オブ・ジャスティス
2013年のG1クライマックス初戦の鈴木みのる戦から使用している、バックドロップ・ホールドに次ぐ新必殺技。形はリストクラッチ・エクスプロイダーに似ているが、リストクラッチが相手の左手首を正面から右太股の下でクラッチするのに対してオブ・ジャスティスは左手首を後ろ手に回す様な形で左太股の下でクラッチする。主にバックドロップ・ホールドで試合が決まらなかった場合に使用するため、この技が最上級のフィニッシュ・ホールドである。2013年11月10日のグローバル・リーグ戦優勝決定戦の森嶋戦はこの技でフォールを奪った。

ナガタロック・シリーズ[編集]

ナガタロック
変形足4の字固めと膝十字固めの複合技。体勢に入る前に敬礼のポーズをとるのが特徴。安生洋二のグランドクロス200とほぼ同じ。
ナガタロックII
若手時代からの得意技。グラウンド式の腕極め顔面締め。
クロスフェイスとは若干フォームが異なり相手の首を締め上げる方向に曲げ、前腕部から腕全体で極める。
技の命名者は同時期にWCWに参戦していて仲が良かったカズ・ハヤシ
ナガタロックIII
ナガタロックIIの体勢から移行し、コブラツイストのような形で相手の上半身を締める。当初永田はミルコ戦での初公開を予告していた。だが実際には対西村修戦で初公開された。これは極度の軟体であり通常の関節技が効かないとされていた西村に対しての対抗策であった。
リバースナガタロックIII
ナガタロックIIIの体勢からさらに移行し、横方向に回転して相手の両腕を極めたままフォールの体勢にする技。ギブアップを奪う技ではなく、フォール技の一種。
ナガタロックIV
2006年5月3日、福岡国際センターでの真壁戦で初公開。ナガタロックIIとほぼ同型だが、腕を両足で挟んで極めたIIとは異なり、足を使っての脇固めのように片腕を極めてのクロスフェイスである。

投げ技[編集]

エクスプロイダー
秋山準の代表的な必殺技で秋山とライバル関係を意識したあたりから使い始める。公開練習において秋山より直接伝授された。お返しに永田はナガタロックIIを秋山に贈った。
リストクラッチエクスプロイダー
相手の手首を持ってのエクスプロイダー。
サンダー・デス・ドライバー
旋回式垂直落下ブレーンバスター。
スペシャル・ローリング・サンダー・デス・ドライバー
ブレーンバスター、垂直落下式ブレーンバスター、サンダーデスドライバーを続けて放つと、この名称になる。対カート・アングル戦に向けて開発された。
マジックスクリュー
相手の頭を脇に挟んで持ち上げ、足をトップロープにかけ、そのまま首に対して自分の体を旋回させる(首へのドラゴンスクリュー)。
全日本・武藤の「ネックスクリュー」とは若干異なり、相手の腕を肩に掛けた状態で仕掛ける。元祖は永田裕志である。
ドライブスクリュー
ブレーンバスターの体勢で持ち上げてきりもみ式に相手を脳天から落とす技。
パワー・スープレックス
カウンター式フロント・スープレックス。若手時代から愛用している。
フェースバスター
フロント・スリーパーの体勢で捕らえ、顔面からマットに叩きつける荒技。ナガタロックIIの繋ぎ技として使用する。ゲーム等では「ナガタバスター」、「サドンインパクト」という技名になっている。

打撃技[編集]

各種キック
ローキック、ミドルキック、ハイキックそれぞれを使う。
サッカーボールキック
尻餅をついている相手の背中を足の甲で蹴りつける。
ビッグブーツ
助走をつけながら自分の右足をマットと水平の高さに持ち上げて相手の顔面を右足の裏で蹴り飛ばす。
ロケットキック
相手の動きを止めたあと相手の正面にあるロープから助走をつけて相手の側まで戻ってきたところで左足を踏み切りジャンプして体を後ろに傾けながら右足をマットと水平に突き出して相手の顔面を右足の裏で蹴り飛ばす。
タイナー
コーナーにもたれかかっている相手の顔面に駆け上がって膝をぶち込む技。相手の蹴り足をキャッチして、そのままコーナーに押し込んで使用するパターンもある。野上慎平アナウンサーからは自身のニックネームから転じて「ジャスティス・ニー」と呼称されている。
延髄斬り
アントニオ猪木の代名詞とも言える技。立っている相手に対して、ジャンプして後頭部へ回し蹴りを決める。この技に移行すると見せかけて、相手の膝へ低空ドロップキックを放っていくフェイント技が存在する。
シャイニング・ウィザード
ここ一番では、両腕を大きく動かしアピールして放つ。
ムエタイエルボー
通常のエルボーと違い、額に向けて高速で何発も放つ。
ショルダーアームブリーカー
相手の腕をひねり、相手に背を向けるように立ち自身の肩に取った相手の腕の肘の部分を叩き付ける技。永田が相手の腕を折りにかかるときに使用される頻度の高い技。通称「腕殺し」。実際には相手の肘の内側を自分の肩にぶつけるようにしていて、相手の腕が折れない程度にダメージを与えるように考慮している。

関節技[編集]

腕固め
うつ伏せ状態の相手の腕を取り、またがるようにしてそのまま相手の上に乗っかるような体勢で腕を極める。腕ひしぎ十字固めと異なり、自分が立ったままの状態で極める。鈴木みのる戦で顔面をプルプルさせながら白目を剥く表情が「キラー永田」と呼ばれ、以後も「白目式腕固め」と称され定番となっている。

押さえ込み技[編集]

ファイヤーマンズキャリー・ホールド
稀に使用する押さえ込み技。

合体技[編集]

イーストゴールド
中西学との合体技。中西が上からドン!を放つと同時に永田が延髄斬りを見舞う。技名は東金の直訳。

その他[編集]

ブルーミスト
永田がTAJIRIとの抗争中に使用した青色の毒霧。しかし初公開の時は毒素が強すぎて(青い)色素まで死んでしまったために無色透明になってしまった。

獲得タイトル[編集]

NEVER無差別級王座を掲げる永田。
新日本プロレス
全日本プロレス
プロレスリング・ノア
プロレスリングZERO1-MAX
プロレス大賞
  • 年間最高試合賞(2001年):藤田和之×永田裕志(6月6日/新日本プロレス・日本武道館:IWGPヘビー級選手権)
  • 年間最高試合賞(2002年):永田裕志×高山善廣(5月2日/新日本プロレス・東京ドーム:IWGPヘビー級選手権)
  • 敢闘賞(2011年)

戦績[編集]

総合格闘技[編集]

総合格闘技 戦績
2 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
0 0 0 0 0 0 0
2 2 0 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× エメリヤーエンコ・ヒョードル 1R 1:02 TKO(パウンド) INOKI BOM-BA-YE 2003 馬鹿になれ夢を持て 2003年12月31日
× ミルコ・クロコップ 1R 0:21 TKO(左ハイキック→パウンド) INOKI BOM-BA-YE 2001 2001年12月31日

入場テーマ曲[編集]

  • MISSION BLOW(ビッグマッチ前奏:彼こそが海賊-He's A Pirate-
  • MISSION BLOW(DJ Remo-con REMIX)
  • MISSION BLOW(凱旋帰国試合使用バージョン)
ドイツのヘビーメタルバンド、セントアーが1993年に発表した2ndアルバム『パワーワールド』[3]に収録された楽曲『インセイン』(INSANE)のバックトラックにメロディーを乗せたもの[4]。JASRACデータベース、及びペコカンパニィー(旧社名:ウッドベル)によると、作曲者は「中沢亮」であるとされる。権利関係から、ネット配信サービス「新日本プロレスワールド」では違う曲に差し替えられているが、2016年7月22日のG1 CLIMAX公式戦の内藤哲也戦よりシリーズ終了まで一時的に差し替えがなくなっていた[5]
  • BLADE RUNNER (END TITLES)
  • WARP(1997年の海外遠征出発まで使用)

敬礼ポーズ[編集]

敬礼ポーズは2000年頃から使われ始め、永田の代名詞と言ってもよい。今でこそ敬礼と言われているが、元々はナガタロックに入る時に会場の隅々まで見渡してやるという思いから使用しだした(ザ・プレイステーションインタビューより)。実際に、敬礼をする際には「会場の一番隅を見ている」と語っている(百識王より)。敬礼する時の掛け声は本人曰く「ゼァッ!」。

なお、アントニオ猪木はこのポーズを嫌っている。

近年ではタイトル獲得後などは「1、2、3、ゼアッ!」で締めることが定番となっている。

著書[編集]

金沢克彦との共著。

俳優業[編集]

その他[編集]

  • プロのサッカーサポーターで実業家の植田朝日と交友が深く、永田自身や「青義軍」のTシャツは、植田が経営するアパレルブランド、コラソンとのコラボとなっている。また、「劇団コラソン」の公演や、「コラソンプロレス」の興行にも参加している。新日本プロレス低迷期の2006年に導入され、現在も会場に配置されている「応援リーダー」についても、植田経由で紹介されたものである。
  • 永田本人の述懷によると、日体大のレスリング部で寮生活や先輩の理不尽な言動に慣れていたので、新日本プロレスでの道場生活にもすぐ適応した。寮で新聞を読んだり(新人は雑用に追われて休息の取れない生活を送ることが当たり前だった)、当時鬼コーチとして知られていた佐々木健介と笑顔で会話する永田を見て、唖然とする同期生もいたという。
  • 嶋大輔が会長を務める永田会という後援会が存在する。
  • ナガタロックIIが生まれた経緯は、「93年頃はよく藤原組で練習していて、その時にカール・マレンコが逆腕キーロックみたいな状態からフェースロックを狙っていたのを見てアレンジ出来ないかって。で、試合前に練習していた時にカブキさんがアドバイスしてくれたんですよ。片方の腕を自分の足に挟んで、体重を相手の背中にかけてフェースロックをかけたら効くんじゃないかって。それで出来上がったのあの技だったんです」と語っている[8]。また当時クリス・ベノワにこの技を盗まれ米国で使われていた。これについて永田は「ちょっとやられてたなって思いましたよ。当時向こうはトップで俺はペーペーだからね。だから俺は使うのをやめて、足を極めるナガタ・ロックIを誕生させたんですよ」と語っている[8]。これによりIとIIの数字順が入れ替わる逆転現象が起きた[8]
  • 試合中に自身のブルーミストを誤って飲んでしまい、白目を剥いて倒れてしまうというアクシデントが起こった。
  • 定番の白目があだとなりナガタ・ロックを仕掛けているにも関わらずドクターストップを食らう破目になった。
  • テレビ朝日の深夜バラエティトーク番組『アメトーーク!』でのプロレス企画「プロレス芸人(第2回 俺達のプロレスオールスター戦)」で、プロレス好きのお笑い芸人が選んだ今後期待のレスラーとして「白目を剥いて戦うレスラーだから」という理由で永田が選ばれた。同コーナーにおける永田の試合映像は東京ドーム大会で鈴木みのるとの対戦中に白目を剥いているシーンばかりだった。
  • 芸能活動に関しては、かつてフィットワンと業務提携していたが、現在は他の新日本プロレス所属選手同様アミューズに所属している。
  • 2008年からG1 CLIMAXの前に「特訓」を行うことが恒例となっている。
    • 2008年:エアロビクス
    • 2009年:フラフープ
    • 2010年:ラーメン修行
    • 2011年:ダンス(コンドルズ振り付けのオリジナルダンス「ナガダンス」を習得。BGMは新日本プロレステーマ曲「THE SCORE」。試合後に披露することもある)
    • 2012年:アナウンス特訓(テレビ朝日アスクでアナウンス技術の習得。講師:下平さやか、お手本として野上慎平
    • 2013年:なし[9]、ただし「公開練習リターンズ」と称してフラフープ、ナガダンス、アナウンスの公開練習が行われた[10]
    • 2014年:猛暑地獄特訓[11]、銅像特訓[12](G1終了後)
    • 2015年:リンボーダンス特訓[13]
    • 2016年:護摩行[14]
  • 2016年に制作・放送される連続テレビアニメーション作品『タイガーマスクW』では劇中のキャラクターとして「永田裕志」が登場している(声はてらそままさき)。
  • 2017年新年お年玉スペシャルとして組まれた特別試合で、本人もファンサービスの気持ちで封印していた白目を披露。レフリーがキラー永田の鉄板だということをころっと忘れてしまっており、大慌てでレフリーストップ。有利に試合を運んでいながらも負けてしまう。しかしながらファンも本人もどこか清々しい気分だったという。

脚注[編集]

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  1. ^ 永田裕志のサンダーデスブログ - 2009年8月17日
  2. ^ 高木裕美 (2014年7月6日). “丸藤が約7年半ぶりにGHC王者返り咲き 弾丸ヤンキースはTMDKを退け初防衛”. スポーツナビ. 2014年7月6日閲覧。
  3. ^ 日本盤は1994年にテイチクエンタテインメントからリリースされる(蝶野正洋の入場曲「クラッシュ」の原曲が収録されたロイヤル・ハントの1stアルバム、『ランド・オブ・ブロークン・ハーツ』の日本盤も同社からリリースされている)
  4. ^ JASRACデータベースの「アーティスト名」欄には、そのためか「セントーアープラスワン」の名義が見られる。
  5. ^ 『彼こそが海賊』部分は差し替え。また7月18日の開幕戦、6人タッグマッチでは差し替え。なお、権利関係の詳細は不明。なお同シリーズ中はいわゆる「第三世代」選手の入場曲の差し替えが、永田同様一時的になくなっていた。
  6. ^ リングにかけろ1”. 東映アニメーション. 2014年5月4日閲覧。
  7. ^ 第三湯京急蒲田 蒲田温泉 からの汐焼きそば”. テレビ東京. 2016年4月21日閲覧。
  8. ^ a b c 新日本プロレス技BOOK 2002年11月25日号
  9. ^ 永田裕志選手は凄いゼァ! 東京03豊本のプロレス回覧板(東スポWeb)2013年10月25日付 2016年8月17日閲覧
  10. ^ 永田さん、G1制覇に向け、1日3つの特訓を敢行!(『G1夏祭り』報告) 新日本プロレス公式サイト・ニュース 2013年7月28日付 2016年8月17日閲覧
  11. ^ 永田 ストーブ特訓でG1制覇に本腰 東スポWeb 2014年7月17日付 2016年8月17日閲覧
  12. ^ 引退撤回の珍トレ!永田が中西と“銅像特訓” 東スポWeb 2014年8月14日付 2016年8月17日閲覧
  13. ^ 【G125】「オカダは第三世代を恐れている!」今年も永田が『G1』公開練習! レインメーカー対策で、衝撃のリンボーダンス特訓! あの岡選手も協力!! 新日本プロレス公式サイト・ニュース 2015年7月26日付 2016年8月17日閲覧
  14. ^ “ミスター公開練習”永田裕志、今年は灼熱の“護摩行”に挑戦!“鬼に金棒”不動明王が宿って(!?) 『G1』完全制覇に死角なし!【G126】 新日本プロレス公式サイト・ニュース 2016年7月14日付 2016年8月17日閲覧

外部リンク[編集]