宮原健斗

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宮原 健斗
Kento Miyahara
宮原 健斗Kento Miyaharaの画像
プロフィール
リングネーム 宮原 健斗
本名 宮原 健斗
ニックネーム ブレイクハート
身長 186cm
体重 102kg
誕生日 (1989-02-27) 1989年2月27日(28歳)
出身地 福岡県福岡市
所属 全日本プロレス
スポーツ歴 柔道
トレーナー 佐々木健介
中嶋勝彦
マサ斉藤
デビュー 2008年2月11日
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宮原 健斗(みやはら けんと、1989年2月27日 - )は、日本プロレスラー

経歴[編集]

生い立ち[編集]

父と母、4歳年上の姉と2歳年上の兄の元に生まれる。宮原の父がプロレスファンで週刊プロレス週刊ゴングを毎週読んでいるような人物であったため、プロレスの影響を受けて育った。小学2年生の頃に父がレンタルしたWWFのビデオを見て、ハルク・ホーガンに魅了された。幼少期の宮原は線が細かったため、体の大きい人間へのあこがれが強く、一時期は大相撲の第65代横綱・貴乃花を応援する時期もあったが、基本はホーガンが一番の憧れであった。ホーガン以外に好きであったレスラーは、ランディ・サベージアルティメット・ウォリアーである。小学4年生頃から、父親のついでではなく自らが見たくてビデオを毎週借りていた。小学校卒業の前には、いつも行っているビデオ屋のものは全て見終わったので、他のビデオ店まで行ったほどである[1]

プロレス好きの原点がホーガンであることから、最初はWWFやWCWなどのアメリカン・プロレスのビデオばかり見ていたが、いつしか日本の団体にも興味を持つようになり、深夜のプロレス中継もビデオに録画して見ていた。プロレスを初めて生で観戦したのは小学3年生の頃であり、博多スターレーンへ全日本プロレスを観に行ったとき、入場してくるスタン・ハンセンに触れてロープで殴られたことを本人は覚えている。プロレス観戦の際には、試合よりプロレスラーを間近で見られることを楽しみにしていた[1]

そんな宮原は小学校時代はあまり勉強をしておらず、家に帰ると部活ではないが草野球を行っていた。ランドセルを置いてグラウンドに直行したり、夏休みであれば朝6時に集まったりするなど、遊びの範疇を超えて練習なども熱心に行い、家族といるより友達と野球をしている時間の方が長かったというほどである[1]

福岡市立原中央中学校時代は野球部に所属。選手層の厚いチームであったので、宮原いわく「みんなうまかったから出たり出なかったり」であった。野球と並行してこの頃の宮原は柔道を行っていた[1]

福岡市立福翔高等学校時代は柔道部に所属。やせていた体は柔道のおかげで徐々に逞しくなった[1]

健介オフィス[編集]

2006年の秋、プロレス専門誌を見ていると健介オフィスの新人募集の記事が目に飛び込み、宮原はすぐに履歴書を健介オフィスに出した。それまでプロレスラーになりたいと公言しているわけでもなく、その意思を他の誰にも伝えていなかった宮原であったが、入門テストに際して両親にプロレスラーになりたいと伝えた。すると両親はほとんど無反応であった[1]

夢に向かってひた走る宮原は、入門テストを受けたが基礎体力が不足していたため惨憺たる結果に終わり、入門テストの疲労から帰りは歩けなかったほどである。高校3年生の在学中での受験ということで、この時は合格・不合格という結果は出されず「やる気があるなら、もっと練習してまた受けなさい」と諭された。宮原はこの結果を受けて猛トレーニングを積むことに決め、知人のあまり来ない近所のトレーニングジムで、1日にプッシュアップスクワットを1000回こなすなどして体を徹底的に鍛えた[1]

2007年1月12日、3ヶ月前はまるでできなかった入門テストの課題をしっかりこなし、成長が認められたのかテストに合格し、健介オフィスに入門。同期にはXリーグ出身の起田高志がいた[1]。2008年2月11日に、真田聖也戦でデビューを果たす[1]

その後、起田とともに全日本プロレスプロレスリング・ノアのシリーズに参加。ノアのジュニア・タッグリーグ戦には、丸藤正道とのタッグで出場した。負け試合が続き、丸藤からも多数のダメ出しをされたが、団体の先輩である中嶋勝彦との試合では、リングアウトながら中嶋から勝ちを収めた。

中嶋に次ぐ団体期待のホープだったが、2013年2月に突如VOODOO-MURDERSへ加入。ダイヤモンド・リングに反旗を翻し、ヒールに転向した。

2013年8月の全日本プロレス後楽園ホール大会に来場。観客への挨拶と王道トーナメントへの参加、そして秋山準へ宣戦を布告。9月9日にダイヤモンド・リングを退団した[2]。以降はフリーランスのレスラーとして、全日本プロレスを主戦場としていくこととなる。11月14日にVOODOO-MURDERSから懲罰なしの特例措置で脱退が決定し[3][4]潮崎豪に共闘を求めて、11月21日に潮崎の作ったユニットXceedに加入した。

全日本プロレス[編集]

2014年1月1日付けで、全日本プロレスに入団。

2014年2月11日、同ユニットの潮崎と組んで&吉江豊組と世界タッグ王座次期挑戦チーム決定戦を行うが敗北。2月23日の沖縄大会では、大森隆男とのシングルマッチを新兵器の「スネークリミット」で制し、その日のメイン後に三冠ヘビー級王者の曙に平身低頭で挑戦表明をした。新兵器のスネークリミットを「7色のスネークリミット」とし、ヨコヅナ・インパクトからも切り返せるように改良を施したが、元横綱で現三冠ヘビー級王者曙の牙城を崩すまでにはいかず、10分足らずで敗れた。

同年のチャンピオン・カーニバルにエントリー、結果は1勝3敗1両者リングアウトで終わった。唯一の勝利は西村修からであった。

2014年7月シリーズでは、銘打たれてはいないものの、全日本プロレスのトップ勢とのシングルマッチ5番勝負が組まれた。諏訪魔、大森、KENSO金丸義信、秋山ら5人と対戦し、結果は3勝2敗(大森、KENSO、金丸から勝利)であった。最終戦の7月27日後楽園ホール大会では、アジアタッグ次期挑戦者決定戦(パートナーは鈴木鼓太郎、相手チームは秋山&金丸)にて前日に敗れた秋山からギブアップを奪い、壁を越えると同時にアジアタッグ王座再戦の切符を手にし、翌8月16日に見事自身初となるベルトを獲得した。

12月14日、新人の青柳優馬のデビュー戦の相手を務める。

2015年[編集]

2015年5月6日、曙&吉江組の保持する世界タッグ王座に、潮崎と組んで挑戦。吉江の巨体をジャーマン・スープレックスで投げ飛ばし王座奪取に成功するとともに、その大器の片鱗を見せ付けた。試合後には珍しくマイクパフォーマンスを敢行し、全日本プロレスに対する想いを打ち明け、エボリューションに対し宣戦布告した。そして5月21日青木篤志とのシングルマッチで、ニーリフトにて青木をKO。試合後にまたもや諏訪魔を挑発し、6月4日にEvolution対Xceedのキャプテンフォールマッチに宮原がキャプテンとして出場した。試合はニーリフトで相手のキャプテン諏訪魔からピンフォールを奪い勝利し、さらに三冠ヘビー級王座へ挑戦表明をしたが、またも曙には届かず、時代を創ることはできなかった。

9月28日、パートナーの潮崎が全日本プロレスを退団。あわせて、保持していた世界タッグのベルトを返上することになり、「俺は誰かに負けてなくてベルトを落とすっていうのは、悔しいし、俺はやっぱり誰かに負けてないから悔しいですよ、やっぱり。やっぱりそう言う気持ちでこのベルトを巻いてきたし、戦いに敗れてなくてベルトを落とすってゆうのは悔しいですね、はい。」とコメントした。

10月23日、後楽園ホール大会にて諏訪魔と電撃的握手をし、タッグ結成を意思表明する。これは、10月頭の潮崎の退団をうけて諏訪魔が「今の全日本の閉塞感を打開するにはお前の力が必要だ」とラブコールを送られ続けていたためであり、宮原も当初は拒否姿勢を示していたが、23日の3WAYマッチ(対戦相手は諏訪魔、ゼウス)の試合後に、宮原は「俺はお前の下に着くつもりはない、すなわち、エボリューションに入る気もない。けどな、お前(諏訪魔)にだけは興味がある。お前だけを利用させてもらう」と宣言し、諏訪魔とのタッグ結成となった。しかし、同年の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝した直後、諏訪魔が宮原にジャーマンを決めて宮原を裏切った。その後ジェイク・リーが共闘を呼びかけ、NEXTREAMを結成した。

歴代最年少の三冠王者へ[編集]

2016年4月24日、チャンピオン・カーニバルでの入場時

2016年2月12日、第54代三冠ヘビー級王者の諏訪魔に挑戦する予定だったが、諏訪魔がアキレス腱断裂により欠場・王座返上となったため、急遽開催された三冠ヘビー級王座の王座決定戦でゼウスと対戦し勝利。最年少での三冠ヘビー級王座戴冠となる。

3月21日、沖縄・豊見城市民体育館大会にて大森を挑戦者として、初防衛に成功。

2016年のチャンピオン・カーニバルでは、三冠ヘビー級王者として出場したが関本大介、秋山に破れ、真霜拳號と引き分けたため7点で終了し、優勝決定戦に駒を進める事はできなかった。5月25日後楽園ホール大会で、関本大介を対戦相手として防衛戦に挑む。試合結果は20分を越える激闘の末、シャットダウン・スープレックスホールドで関本に勝利し防衛成功。試合後に現れた真霜の挑戦表明を受け、6月シリーズにて防衛に挑む。なお、この試合で週刊プロレス誌の表紙を飾った。

その後は6月に真霜、7月秋山準、8月崔領二と防衛を重ね、王者として王道トーナメントに挑む。だが、開幕戦の品川ステラボール大会での1回戦にて、対戦相手の諏訪魔の渾身のレボリューションボムをまともに受け敗退してしまう。そして、そのまま王道トーナメントを優勝した諏訪魔との防衛戦が11月27日両国国技館で決定した。試合は、自身の得意技であるブラックアウトをパワーボムで返されるなど苦しい展開が続いたが、諏訪魔のフェイバリットホールドであるラストライドを3度切り返し、とどめのシャットダウン・スープレックスで3カウントを取った。満員の国技館でも最高マイクで締め、翌週の週刊プロレス誌の表紙を飾り、「宮原イヤー」と評された。

その宮原イヤーを象徴するかのように、12月14日プロレス大賞発表会見において、単独ノミネートかつ棄権者無しの満場一致で殊勲賞に選ばれた。全日本プロレス所属選手が選ばれるのは4年ぶりで、本年は唯一の全日本勢の受賞であった。

2017年8月27日に両国国技館で行われた三冠ヘビー級選手権試合では石川修司に挑戦。序盤は自身の攻撃をかわされ相手の攻撃を受けるなど劣勢であったが、中盤は2カウントの取り合いとなった。途中飯伏幸太から使用許可を得た技・カミゴェを石川に「パクった」と勝手に使用される場面もあったが、終盤にもカミゴェを狙って両手を掴んだ石川に対して逆にブラックアウトを叩き込んだ。結果は24分39秒でシャットダウン・スープレックスによるフォール勝ち。宮原は第57代三冠ヘビー級王者となった。試合後、宮原は開口一番「帰ってきたぜ」。大会までに「最高の男になってやる」という思いを成就させた[5]

得意技[編集]

奥の手として使用する、いわゆるダルマ式ジャーマン・スープレックス。通常のジャーマンと同じく、2段式で使用。相手を一度持ち上げた後、少しの溜めを作って美しいアーチを描く。吉江の巨体をも投げ飛ばすことができる。世界最強タッグや三冠ヘビー級王座を初めて獲得したのもこの技である。戸澤陽のパッケージ・ジャーマン・スープレックスとほぼ同形であり、現在の名前が付く前はパッケージ・ジャーマン・スープレックスと表記されていた。そのままホールドして試合を決めた場合の名称は「シャットダウン・スープレックスホールド」となる。
打撃技の主なフィニッシャー。2015年より宮原の代名詞となっているニーリフトで、丸藤の使用する虎王と似ていて2段蹴りのモーションから繰り出される。スタンディングの相手だけではなく、倒れこんでいる相手に対しても使用される。青木や曙をもKOするほどの切れ味を誇る。大舞台の試合ではこの技で勝利することは少なく、シャットダウン式ジャーマンへ繋げる布石ともなっている。
2段式で使用する。
流れを変える際に多用する。
長身から繰り出される打点の高いドロップキック。フロント・ハイキックと同じく、流れを変える際に使用する。
三角絞めからの腕ひしぎ逆十字固め。2014年2月23日の大森戦で初披露。
高角度のFFF。VOODOO-MURDERSに加入した直後から使用を始める。全日本プロレス参戦・入団後は使用していなかったが2014年7月13日の大森戦にて解禁し、見事前三冠王者からの勝利を収めた。

合体技[編集]

潮崎豪
  • SHIN-SEKAI
宮原が2段式ジャーマンで相手を持ち上げ、潮崎がジャンピングラリアットを打ち込み、そのままジャーマンスープレックスで相手を落とす。2014年世界最強タッグ決定リーグ戦にあわせて開発された技。

獲得タイトル[編集]

全日本プロレス
プロレス大賞
  • 2016年度プロレス大賞 殊勲賞
プロレスリング・ノア

人物[編集]

  • 入場時「KENTO CLAP」という、両手を大きく動かしての手拍子をしながら入場する。観客も同時に手拍子をしながら迎え入れている。
  • 決め台詞は「全日本プロレス、最高でしたか!?」。「まだまだ(声量が)足りない」と言い、2~3回繰り返すことも。また、ビッグマッチのメインイベント後などでは、最後の決め台詞でマイクを床に置き、地声で絶叫したこともある。ブログでは「最高のマイク説明書」として本人が詳しく書き上げている。[6]
  • 健介オフィス入門テストの際、審査員を務めていた北斗晶と佐々木健介からは「線が細く(体重が軽い)失格だ」と思われていたが、まだ年齢的にも若いこと・186cmの長身であることと、そして名前の「健斗」に北斗と健介2人の文字が入っており、さらに出身地が健介と同じ福岡県であるため北斗が何かの縁を感じ、じっくり育てていくという方針で合格が決まった、という逸話がある。
  • 小学生時代にジャイアント馬場スタン・ハンセンに会ったことがある[7]
  • 2015年3月週刊プロレスの企画で小橋建太と対談した際に、「若大将」の異名襲名を許可されている。
  • Twitterの投稿では、つぶやくごとに自撮り写真を一緒にアップロードしており、サムライTVに出演したときに「自撮り王子」の異名をつけられた。また、同番組で自撮り棒をプレゼントされ、以後活用している。
  • 2017年より週刊プロレス誌において、コラム「宮原健斗の最高ですか?聞こえないなぁ~」を隔週連載している。

出演番組[編集]

ドラマ

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i ベースボールマガジン社『レスラーヒューマンストーリーII プロレスラー男の履歴書』p40-47
  2. ^ 健介オフィスの宮原健斗がフリー契約に”. スポーツナビ (2013年9月9日). 2013年9月13日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年9月9日閲覧。
  3. ^ 宮原健斗まさかのVM無血脱退 東京スポーツ 2013年11月16日付
  4. ^ ブードゥーマーダーズ 宮原健斗オフィシャルブログ「IT'S MY LIFE」 2013年11月14日付
  5. ^ 週刊プロレス2017年9月13日号pp.10-11.
  6. ^ 『最高のマイク説明書』宮原健斗オフィシャルブログ「IT'S MY LIFE」2016年5月17日付 
  7. ^ 週刊プロレス2012年3月28日号p64

関連項目[編集]

外部リンク[編集]