タイガー戸口

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タイガー戸口
Tiger Toguchi
プロフィール
リングネーム タイガー戸口
キム・ドク
タイガー・チャン・リー
ヤマト
青鬼
戸口正徳
本名 表正徳
ニックネーム 野性の虎
身長 193cm
体重 125kg(全盛時)
誕生日 (1948-02-07) 1948年2月7日(69歳)
出身地 東京都葛飾区出身
所属 フリー
スポーツ歴 バスケットボール
柔道
トレーナー カール・ゴッチ
ドリー・ファンク・ジュニア
デビュー 1968年
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タイガー戸口(タイガーとぐち、1948年2月7日 - )は、在日韓国人2世のプロレスラーキム・ドクタイガー・チャン・リーリングネームでも知られる。 本名は表 正徳表 正德 / ピョ・ジョンドク / 표 정덕 / Pyo Jeongdeok)、日本名は母方の名字から戸口 正徳(とぐち まさのり)[1]東京都葛飾区出身。

来歴[ソースを編集]

修徳高等学校ではバスケットボール柔道で活躍。柔道では各大学からスカウトの声がかかっていたが、1967年3月12日、大木金太郎の口利きにより日本プロレスに入門[1]。同時期に柔道界からは坂口征二もプロレス入りしていたことから、柔道界との軋轢を避けるため、特錬(トレーニング)と称して約半年間、韓国でほとぼりを冷ましていた[1]。韓国滞在中に朴成模(パク・スンモ)を相手に試合を行っているが[2]、帰国後の1968年8月30日、後楽園ホールでの柴田勝久戦で正式にデビュー[3]。当時の若手選手向けに行なわれていたカール・ゴッチのレスリング教室で練習を積んでいたこともあり、アントニオ猪木の新技(卍固め)の初公開撮影の実験台にもなった[4]

1972年、日本プロレス崩壊直前にアメリカ修行に出発し、キム・ドクKim Duk)を名乗る。渡米中に日本プロレス崩壊を迎え、以降はそのままアメリカに残り、ロサンゼルスを皮切りに、東洋系の大型ヒールとして各地を転戦、1973年10月にはNWAトライステート地区でUSタッグ王座を獲得した[5]1975年からはAWAに参戦し、10月25日にミルウォーキーにてバーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座に挑戦している[6]1977年NWAミッドアトランティック地区に登場[7]グレート・マレンコマネージャーに、ワフー・マクダニエルとの抗争やマスクド・スーパースターとのタッグなどで活躍した[8][9]

その間の1976年10月に一時帰国し、日本プロレス時代に付き人を務めていた大木金太郎と韓国師弟タッグを結成して全日本プロレスに参戦。10月28日の蔵前国技館大会にてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田を破り、インターナショナル・タッグ王座を奪取する[10]。12月9日にタイトルを奪還された後、ミッドアトランティック地区での活動を経て、1977年10月21日の横浜文化体育館における馬場&鶴田VSボボ・ブラジル&ケン・パテラのインターナショナル・タッグ王座戦の試合後にチェーンを持って乱入。鶴田とのチェーンマッチを迫った[11]。チェーンマッチはPWF本部に却下されたものの、10月29日に黒磯市公会堂にて鶴田との初のシングルマッチが実現。1本目はロープ越しのブレーンバスターで速攻で先取したが、2本目は回転エビ固めで返され、3本目は戸口の反則負けとなった[11]

その後も日本では大木との師弟コンビで活動し、インターナショナル・タッグ王座には1977年11月7日にも韓国のソウルにて馬場&鶴田を下し再び戴冠[10]。年明けにはキング・イヤウケア&ブル・ラモスの挑戦を2度にわたって退け、国際プロレスにも揃って参戦してラッシャー木村&グレート草津を相手に防衛戦を行い[12]1978年5月11日に馬場&鶴田に敗れるまで保持した[10]。また、年齢が近く体格も拮抗していたことから「ジャンボ鶴田のライバル」と目され鶴田との抗争を展開。2度のUNヘビー級王座戦を含め、鶴田とのシングルマッチは0勝1敗8分(反則負けが1つ、引き分けはリングアウトが3回、時間切れが5回)であった[13]。なかでも1978年9月13日、愛知県体育館におけるUN戦は全日本初期の名勝負に数えられている(60分フルタイムの後に5分の延長戦が組まれ、それでも引き分けとなった)[14]

1979年、大木がアブドーラ・ザ・ブッチャーと共闘したことに憤慨、「ブッチャーの風下に立つ気はない」と大木と袂を分かち、ザ・ファンクス預かりの身となる[15]。その後、それまでのフリーの立場から正式に全日本所属となり、リングネームもタイガー戸口に改名。馬場、鶴田に次ぐNo.3のポジションを与えられる[15]ディック・マードックに移っていたUNヘビー級王座への挑戦や、ハーリー・レイスNWA世界ヘビー級王座への挑戦、プリンス・トンガと両A面でテーマ曲のシングルレコードが発売されるなど、当時の馬場の扱いは天龍源一郎よりも格上であった。全日本入団後は、星条旗が施されたタイツや映画『ロッキー』のアポロ・クリードのようなジャンパーを着用するなど、アメリカン・ドリームを強調すべくイメージチェンジを図っていた[13]。また、鶴田とタッグを組んでいた試合の多くは戸口がフォールを取っている。鶴田と組んだタッグマッチでは27勝1敗とほぼ無敵であった[13]

1981年IWGPへの参加を唱えて新日本プロレスへ移籍。これは、当時の新日本と全日本における選手の引き抜き合戦の結果なのだが、後に本人は移籍の決め手として「当時アメリカに家族がいて、全日本に頼んだが飛行機のチケット代を出してくれなかった。しかし、新日本は往復チケットを毎回用意するとのオファーがあったから」「このまま全日本にいても(生え抜きの)ジャンボの上に行けるわけでもないし」などと語っている[4][16]。移籍後、IWGPアジア予選リーグ戦の名目で猪木とのシングルマッチが9月23日に田園コロシアムのメインイベントとして組まれるが、この試合前のセレモニーにラッシャー木村とアニマル浜口(後のはぐれ国際軍団)が登場してマイクアピールを行い、さらにはセミファイナルにてスタン・ハンセンアンドレ・ザ・ジャイアントの歴史的名勝負も行われたなど、試合自体の印象が薄くなる不運に見舞われた[4]。その後は日本とアメリカを行き来し、1982年末の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』ではキラー・カーンと組んで準優勝を果たした[17]

アメリカでは1983年3月3日、NWAセントラル・ステーツ地区ヤス・フジイと組み、ボブ・ブラウン&バズ・タイラーを破って同地区のタッグタイトルを獲得[18]。同年夏からはタイガー・チャン・リーTiger Chung Lee)を名乗り、ミスター・フジのパートナーとしてWWFに参戦[19]。8月27日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンに初出場し、トニー・ガレアから勝利を収める[20]ミル・マスカラスとのシングルマッチも組まれ、ティト・サンタナが保持していたインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも度々挑戦した[21]1984年1月にはフジとのタッグでハルク・ホーガン&ボブ・バックランドの新旧WWF王者コンビとも対戦している[22]。以降もWWFにはジョバーのポジションで1987年頃まで在籍した[23]

その間、1983年の新日本プロレスでは軍団抗争が繰り広げられており、キラー・カーンとの絡みなどから長州力率いる維新軍団の一員としての扱いを受けるが、同年は7月開幕の『サマー・ファイト・シリーズ』と11月開幕の『第4回MSGタッグ・リーグ戦』の2シリーズのみの新日本参戦だったため実体はなかった[24]。1984年秋のジャパンプロレス勢の新日本プロレス離脱後は、手薄となった日本陣営への助っ人という形で正規軍扱いとなった[25]。しかし、親交があったとはいえ堂々とジャパンプロレス社長の大塚直樹を訪ねるなどの行動があったため、扱いは悪くなり、デビューしたてだったアノアロ・アティサノエ(小錦の兄)とのシングルマッチにも敗退[25]。そこで大塚の仲介でジャパンプロレスへの移籍→全日プロレス復帰を目論むが、馬場の反対で実現せず、しばらく日本を離れてWWFでジョバーを務めていた[26][27]

1988年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガー主演映画『レッドブル』に出演。冒頭でシュワルツェネッガーのパンチを喰らいサウナの外に吹っ飛ばされるロシアン・マフィアの一員を演じた。

その後は、栗栖正伸とピラニア軍団を名乗ってキム・ドクとして新日本へ、プエルトリコ軍団としてW★INGプロモーションへ、青鬼なるマスクマンとしてWARへ参戦(パートナーの「赤鬼」はWWF時代の盟友ドン・ムラコ)。さらに石川孝志率いる新東京プロレスにも登場。この間、1993年メキシコUWAで覆面レスラーのヤマトYamato)に変身、同年8月にドス・カラスに敗れマスクを剥がされるが、翌1994年3月にはカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を奪取した[28]

1999年の馬場の死に際しては、全日本所属でないプロレスラーとしては一番早く弔問に訪れた。その縁あってか、2001年に前年選手の大量離脱に見舞われた全日本へ復帰するも長くは続かず、ミスター・ポーゴの旗揚げのWWSの参戦を最後にセミリタイアし、以降はNPO団体に勤務している。

2009年10月12日の『蝶野正洋25周年特別興行 ARISTTRIST in 両国国技館』の時間差バトルロイヤルに参戦、全14選手が参加した乱戦であったがラスト4人まで勝ち残り往年の雄姿を見せた。

2010年3月14日にはDDTに出場、星誕期をパートナーに『タイガー戸口チャレンジ』と題した変則タッグマッチを行い、松永智充高尾蒼馬伊橋剛太の若手3選手に胸を貸した[29][30]

近年は東京都内にて戸井克成渡辺宏志らと共に若手選手の育成に携わり、レッド・タイガー、雷電、雅角らをデビューさせている。2011年5月6日には、新木場1stRINGにて行われた福祉と格闘技の交流イベント『バトルエイド』に出場、雷電をパートナーに戸井克成&レッド・タイガーと対戦した。

エピソード[ソースを編集]

  • プロレス専門誌の名鑑等では、全日本プロレス離脱後も継続してライバル欄には必ず「ジャンボ鶴田」と記載されていた。
  • 全日本プロレス参戦を果たす以前の1975年2月5日、テキサス州サンアントニオにおいて、海外遠征中だった馬場&鶴田とバトルロイヤルで同じリングに上がったが、両者との絡みはまったくなかったという(当日、馬場&鶴田はファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪取、戸口はロディ・パイパーと対戦)[31]
  • 1978年2月5日に後楽園ホールで行われた鶴田とアントン・ヘーシンクのUNヘビー級タイトルマッチでは、前哨戦で自分がダシに使われたことに憤慨し、翌日馬場に事務所で「俺とジャンボを安売りみたいな形で当てないでくれ」「あんな下手クソな奴(ヘーシンク)を話題作りでジャンボに当てないでくれ」と直訴した[11]
  • 松永光弘メキシコに遠征中に体調を崩し、言葉が通じないので病院にも行けず困り果てていた際、偶然現地で出会った戸口に状況を説明すると、医者の手配からプロモーターとの交渉まで代行してくれたという。
  • アメリカ合衆国への永住権を保持しており、日本語、韓国語、英語、スペイン語と四か国語を話すことができる。特に英語は若手の頃から堪能で、日本プロレスで外国人係を担当していたジョー樋口が負傷等でシリーズに帯同できなくなった際には、臨時に外国人係を務めていた。
  • 若手時代、試合前のトレーニング中にジャイアント馬場から「いまいくつ(何歳)だ?」と聞かれ、戸口が22歳、一緒にトレーニングをしていたサムソン・クツワダが23歳と答えたところ、「そうか、俺は君らの歳の頃にはニューヨークにいたぞ」などと言われて強い衝撃を受け、一層トレーニングに励み、試合後には関係者に自分のファイト内容について聞いて回るようになった。
  • 父親の表福昌は、竜錦四股名十両まで務めていた(戸口が4歳の時に引退)。力道山の先輩にあたり、戸口も小学校4年生の時に父親と一緒に力道山に会ったことがある[1]。中学卒業時も力道山にプロレス入りを打診しに行ったが、「友達の子供は預かれない」として断られたという[1]

得意技[ソースを編集]

キウイ・ロール
膝を攻める関節技。上記、ジャンボ鶴田戦(1978年9月13日、愛知県体育館、UN戦)の1本目で鶴田からギブアップを奪った。
ブレーンバスター
ツームストーン・パイルドライバー
かける前に相手を右肩に担ぐことや、かけた後にフォールに入り、レフェリーの1・2・3のカウントの声と同時に自分でそのカウントの数字を指で作り観客にアピールするのが特徴。
かんぬきスープレックス
ニー・ドロップ
ショルダーバスター(肩砕き)
全日本プロレス時代に決め技として多用。

獲得タイトル[ソースを編集]

全日本プロレス
NWAトライステート
セントラル・ステーツ・レスリング
ワールド・レスリング・カウンシル
  • WWCカリビアン・ヘビー級王座:2回 [32]
ユニバーサル・レスリング・アソシエーション

入場テーマ曲[ソースを編集]

  • スリーパー・ホールド(作曲:難波弘之、演奏:ヘッド・ロックス)

参考文献[ソースを編集]

  • 『Gスピリッツ Vol.21』 辰巳出版、2011年ISBN 4777809463
  • 『Gスピリッツ Vol.42』 辰巳出版、2016年ISBN 4777818128

脚注[ソースを編集]

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  1. ^ a b c d e 『Gスピリッツ Vol.20』P98。
  2. ^ 『Gスピリッツ Vol.20』P99。
  3. ^ 『Gスピリッツ Vol.20』P101。
  4. ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.21』P71。
  5. ^ a b NWA United States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
  6. ^ The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1975”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月7日閲覧。
  7. ^ The WCW matches fought by Kim Duk in 1977”. Wrestlingdata.com. 2016年1月8日閲覧。
  8. ^ Wahoo McDaniel Match Results”. Mid-Atlantic Wrestling Gateway. 2011年7月7日閲覧。
  9. ^ Bill Eadie Interview Part Three”. Mid-Atlantic Wrestling Gateway. 2009年3月14日閲覧。
  10. ^ a b c d NWA International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
  11. ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.42』P45。
  12. ^ 『Gスピリッツ Vol.21』P66。
  13. ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.42』P47。
  14. ^ 『Gスピリッツ Vol.42』P45-46。
  15. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.21』P69。
  16. ^ 『Gスピリッツ Vol.42』P48。
  17. ^ NJPW 1982 The 3rd Madison Square Garden Tag Team League”. Puroresu.com. 2017年1月31日閲覧。
  18. ^ a b NWA Central States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
  19. ^ The WWE matches fought by Kim Duk in 1983”. Wrestlingdata.com. 2016年1月8日閲覧。
  20. ^ Madison Square Garden - The 80s”. The History of WWE. 2016年1月8日閲覧。
  21. ^ 『Gスピリッツ Vol.21』P72。
  22. ^ WWE Yearly Results 1984”. The History of WWE. 2009年8月25日閲覧。
  23. ^ The WWE matches fought by Kim Duk in 1987”. Wrestlingdata.com. 2016年1月8日閲覧。
  24. ^ The NJPW matches fought by Kim Duk in 1983”. Wrestlingdata.com. 2017年4月4日閲覧。
  25. ^ a b The NJPW matches fought by Kim Duk in 1985”. Wrestlingdata.com. 2017年4月4日閲覧。
  26. ^ The WWE matches fought by Kim Duk in 1985”. Wrestlingdata.com. 2017年4月4日閲覧。
  27. ^ The WWE matches fought by Kim Duk in 1986”. Wrestlingdata.com. 2017年4月4日閲覧。
  28. ^ a b UWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
  29. ^ タイガー戸口チャレンジ開催”. DDT Pro-Wrestling Official Website. 2010年2月19日閲覧。
  30. ^ Judgement 2010 ~DDT13周年記念興行~”. DDT Pro-Wrestling Official Website. 2010年3月15日閲覧。
  31. ^ 『Gスピリッツ Vol.42』P43。
  32. ^ WWC Caribbean Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。

外部リンク[ソースを編集]