ビンス・マクマホン

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ビンス・マクマホン
Vince McMahon
ビンス・マクマホンVince McMahonの画像
2007年9月24日
ウィスコンシン州ミルウォーキー大会
プロフィール
リングネーム Mr.マクマホン
本名 ビンセント・ケネディ・マクマホン
ニックネーム 悪のオーナー
身長 191cm
体重 112kg
誕生日 1945年8月24日(70歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ノースカロライナ州の旗 ノースカロライナ州
パインハースト
所属 WWE
代表取締役会長最高経営責任者
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ビンス・マクマホンVince McMahon1945年8月24日 - )は、アメリカ合衆国プロレス団体WWE代表取締役会長最高経営責任者である。本名:ビンセント・ケネディ・マクマホンVincent Kennedy McMahon)。

ノースカロライナ州パインハースト生まれ。通称「悪のオーナーEvil Owner)」。

かつては名前の後に「Jr.」が付いたビンス・マクマホン・ジュニアであった(このことについては後述する)。

McMahonの発音は[mɪˈkmæn]または[mɪˈkmeɪn]であり、カタカナ表記だと「ミクマン」に近い。

人物[編集]

ビンスはプロレスラー並の長身と年齢不相応にビルドアップされた肉体の持ち主であり、自らが選手としてリングに上がることもある。基本的にはリング上でプロレスラーを引き立てることを原則としており、真っ向勝負でレスラー相手に勝利することはまずない。

しかし、リング上で尻丸出しで打ち負かされる、おもちゃのピストルを向けられて失禁することもある。後述するアメフトリーグ「XFL」の失敗など、あまり触れられたくない事由も積極的に活用している。また、団体の最高権力者としてプロレスラーや観客を見下した演説を行い、時には「Mr. McMahon's Kiss My Ass Club(キス・マイ・アス・クラブ 日本語版の字幕では「ビンスのケツキスする会」)」と称して、従わないレスラーに屈辱的な姿勢を強要し、観客を煽ることもある。それでも従わないレスラーには、「You're Fired!(キサマはクビだ!)」の決め台詞が待っている。

プロレスラー活動を盛んに行っている時期はヒールとして、コミッショナー活動のみの時期はベビーフェイスとして番組に登場することが多い。

彼の指揮のもとにWWEが急成長したため、MBA課程の会社分析において、有能な経営者の一例として議論の対象となることもある。

2009年9月に妻リンダ・マクマホンがCEO(最高経営責任者)の職を辞任したため(⇒詳細はリンダ・マクマホンに記載)、会長職とともにCEO職も兼務することになった。

来歴[編集]

「キス・マイ・アス」はビンスの決め台詞の一つである。

父親はニューヨーク地区のプロモーターだったビンセント・ジェームズ・マクマホン(ビンス・マクマホン・シニア)であるが、両親が早くに離婚したため少年時代は母ヴィッキー・アスキューの下で過ごす。初めて父の名前と顔を知ったのは12歳の時だったという。

1968年サウスカロライナ大学経営学部を卒業後、プロレス団体WWWF(後のWWF、現WWE)の親会社の社長だった父ビンス・シニアにレスリング・ビジネスを学び、リングアナウンサーやインタビュアー、あるいは実況担当者としてテレビ画面に登場し始める。

1982年6月、父からWWFの親会社キャピタル・レスリング・コーポレーションの株式を分割契約で買い取って社長となり、新たに興行会社タイタン・スポーツを設立。譲渡ではなく買い取りという形を取ったのは前述のような経緯から父親との仲があまり良くなかったからだといわれる。

1984年からはハルク・ホーガンとの二人三脚でWWFの全米進出を開始(詳しくはWWEの項を参照)、WWFを世界最大のプロレス団体に育て上げる。

長年試合の実況を務めて社長としての顔を隠していたが、1998年以降のストーンコールド・スティーブ・オースチンとの抗争を機にWWEのオーナー(チェアマン)としてリングに立ってマイクパフォーマンスを見せるようになり、遂には自らが選手としてリングに上がるようになる(もともとはレスラー志望だったが、父親に反対され実現しなかった経緯がある)。このオースチンとの抗争がWWEの発展を決定付けたといっても過言ではない。

以降も自らの派閥コーポレーションをヒールのユニットとして組織するなど団体のトップヒールとなって活躍。これは当時Monday Night Warsの最中で、絶対にWCWに引き抜かれない存在が自分自身だけだったという状況から生まれた苦肉の策でもあった。1999年にはトリプルHを破りWWF王座まで獲得した。

2001年、ライバル団体であったWCWECWを買収して自身の長年の夢でもあった全米マット界の制圧を成し遂げる。また同年のWrestleMania X-Sevenでは実の息子であるシェインと対戦した。

2003年からはかつての盟友ハルク・ホーガンとの現実と虚構の境目を越えた抗争を展開、WrestleMania XIXで行われた2人の対戦は非常に大きな注目を集めた。

一時期、番組に出演しなくなっていたが、2006年に息子のシェイン・マクマホンと組み、ヒール親子として活動を再開。すでに60歳を越えているにもかかわらず、20代から続けているというボディビルで鍛えられた肉体は全く衰えておらず、素人とは思えない過酷な流血戦を戦った。

2007年には、WrestleMania 23において、ビンスと同じく「You're fired!」を口癖にするドナルド・トランプとお互いの髪の毛を賭けた「バトル・オブ・ザ・ビリオネアーズ」を実施。ビンスの代理レスラー、ウマガが負けたため、その場で髪を刈られた上に、大量のシェービングクリームを頭に盛られてツルッパゲにされてしまった。刈られた髪はインターネットオークションに出され、日本円にして約10万円で落札された。

ECW世界王座ベルトを見せびらかすマクマホン

4月には、息子シェインとウマガの手助けによってECW世界王座を獲得している。

その後、自分が何者かにリムジンを爆破され死亡するというアングルを行い、犯人探しのストーリーが始まるはずであったが、クリス・ベノワの死により中止となった。その後しばらく姿を現さなかったが、8月、ビンスに隠し子がいるという新たなストーリーが始まり、番組に復帰している。

2010年には、WrestleMania XXVIにおいて、ノー・ホールズ・バード・マッチをモントリオール事件の因縁の相手である、ブレット・ハートと事件の精算の意味合いを兼ねて行ったが、ハート一族が総出で登場し、ビンスは一方的にタコ殴りにされるハメになった。その後ネクサスの集団暴行によりしばし姿を消す。

2011年CMパンクとの契約問題による抗争が始まり、CEOの強権によってパンクの行動を封じ込めようとするも全て失敗に終わった。その後、パンクとのWWE王座戦に敗戦したジョン・シナを強権によって解雇しようとするも、役員会にて不信任案が可決されトリプルHからCEO解任を告げられた。

2012年、悪の権力者として活躍していたジョン・ロウリネイティス副社長(と同時にRAWのGM)の前に現れるも、ビッグ・ショーに殴り倒された。その後ジョン・シナとビッグ・ショーの試合ではシナ側に立ち、ビッグ・ショーの敗戦とともにロウリネイティスにクビを言い渡す。

2013年、トリプルHと権力者同士で団体の経営方針などを巡り抗争をしていたが、8月サマースラムでのHHHの采配を支持するような素振りをSS翌日のRAWで見せたがその後表舞台から姿を消す。

2014年11月3日のRAWに登場、サバイバー・シリーズ2014のチーム・シナ対チーム・オーソリティーの決戦に敗北したチームに背負わせるリスクを発表、シナ達が負けた場合はチーム・シナのメンバーは全員解雇、チーム・オーソリティーが負けたらHHHとステファニーが権力を失うという条件を付けた。

マクマホン・ファミリー[編集]

1968年リンダ・エドワーズと結婚。1男2女をもうける。長男シェイン、長女ステファニーをもうける。シェインは元WWEタレントのマリッサ・マズゥーラと、ステファニーはWWE所属のレスラートリプルHと結婚した。複雑な家庭環境に育ったためか、TVショーでのパフォーマンスとビジネスに対するシビアな態度とは裏腹に、家族を非常に大切にする人柄が伝えられている。シェインに2人、ステファニーに3人、それぞれ子供が生まれている。

トリプルHによると、オフィスにいるときは夜11時近くまで仕事し、それからジムでトレーニングを行ない、翌朝9時にはきちんと出勤しているほど大変元気であると述べている。

シェインやステファニーが入社した時、自分の息子、娘だからと言って決して特別扱いはせず、下働きから経験を積ませた逸話がある(シェインはチケットの捥ぎりスタッフ。ステファニーは受付嬢からのスタートだった)。

また、父親とは先述のとおり不仲であったとされるが、後年のインタビューでビジネス面では大変尊敬しており、認められたい一身で必死になったと述べている(1回の失敗も許さないほど厳格であったという)。第1回レッスルマニアも父(前年死去)の影がちらついていたという。

 
 
 
 
 
ジェス・マクマホン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ビンス・マクマホン・シニア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ビンス・マクマホン
 
リンダ・マクマホン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シェイン・マクマホン
 
マリッサ・マズゥーラ
 
ステファニー・マクマホン=レヴェック
 
ポール・レヴェック(トリプルH)
 
ロキシー・マクマホン
 
サム・リヴァース(「リンプ・ビズキットベーシスト
 
 
 

獲得タイトル[編集]

入場テーマ[編集]

  • No Chance in Hell

決め台詞[編集]

  • You're Fired!(貴様はクビだ!)

その他[編集]

前述したように、かつては自身の名前の最後にジュニアと付いていたが、父の死と時を同じくしてこの部分を削除している。彼はこの「ジュニア」という呼称が非常に嫌いであるらしく、WWEと契約した選手のリングネームからはことごとく「ジュニア」が削除されており、古くはボブ・オートン・ジュニア(カウボーイ・ボブ・オートン)、マイク・シャープ・ジュニア(アイアン・マイク・シャープ)、ドリー・ファンク・ジュニア(ホス・ファンク)、近年ではチャボ・ゲレロ・ジュニアレイ・ミステリオ・ジュニアがその代表例である。

また下部組織ではジミー・スヌーカの息子ジミー・スヌーカ・ジュニアがデュース・シェイド(後にデュースとしてスマックダウンにデビュー)に変更している。その後2008年にジミー・スヌーカの息子であることを明かしてからもリングネームはシム・スヌーカとし、ジュニアはつけられていない。

団体内で頂点に立った黒人レスラーが非常に少ないことからインターネット上では「黒人に冷たい」と噂されていたが、ザ・ロック(サモア系だが父ロッキー・ジョンソンは黒人)やボビー・ラシュリーを熱心にプッシュして育て上げたため説得力に欠けている。

近年は徐々に息子のシェイン、娘のステファニーに業務をシフトしている(後にシェインは退団)。しかし、バックステージでの現場責任者としての存在は変わらず、特に実況陣に対してはヘッドホン越しに罵声に近い口調で指示を与えていることが知られている。2008年8月までコメンテーターを務めたミック・フォーリーはTNA移籍の際、これに嫌気がさしたとも述べている。

WWE以外では、1992年ボディビル団体WBF、2001年にはNBCと共同でアメリカンフットボールリーグXFLを設立したが、いずれも経営不振によって一年で閉鎖された。

日本マットとの関係では、アントニオ猪木対モハメド・アリ戦で父親の密命を受けて目付役についていた。WWF社長就任後、父親の代から友好関係にあった新日本プロレスにIWGPリーグ戦などのウィットネスとして度々来日したが、1985年に新日本プロレスとは提携解消となる(巨額の契約金が一因といわれる)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]