篠原信一

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篠原 信一
基本情報
ラテン文字 Shinichi Shinohara
原語表記 しのはら しんいち
日本の旗 日本
出生地 青森県東津軽郡平内町
生年月日 1973年1月23日(42歳)
身長 公称値190㎝
計測値 187cm[1]
体重 110kg (2008.11)
選手情報
階級 男子100㎏超級、無差別級
段位 5段
引退 2003年
 
獲得メダル
男子 柔道
オリンピック
2000 シドニー 100kg超級
世界柔道選手権
1995 千葉 無差別級
1997 パリ 95kg超級
1999 バーミンガム 100kg超級
1999 バーミンガム 無差別級
2001 ミュンヘン 100kg超級
アジア大会
1998 バンコク 100kg超級
アジア柔道選手権
1995 ニューデリー 95kg超級
1995 ニューデリー 無差別級
2015年2月23日現在
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篠原 信一(しのはら しんいち、1973年1月23日 - )は、日本柔道家(五段)、バラエティタレント

青森県東津軽郡平内町生まれ、兵庫県神戸市長田区出身。身長190cm(計測値 187cm[1])、現役時代の体重135kg(2008年11月現在の体重は110kg[要出典])。血液型O型。「篠」は、正式には「イ|」のない漢字(竹冠がついた「条」(筿)に近い)である。

芸能事務所「エース・アラウンド」所属(業務提携)。

人物[編集]

中学校1年生の時に柔道を始め、育英高等学校を経て天理大学体育学部へ進学。柔道を始めたのが中学1年生からと世界クラスの柔道家としては非常に遅い。

得意技は大外刈り。大学生の時に才能が開花し、外国人に負けない体格と技術、パワーによって多くの大会を制覇した。

天理大学卒業後は旭化成に入社し、シドニーオリンピック100kg超級にて銀メダルを獲得する(後述する誤審問題を参考)。2001年から天理大学体育学部専任講師 兼 同大学柔道部監督、2003年に現役を引退した。2007年に同准教授に昇格。2008年11月から2012年11月まで柔道日本男子代表監督を歴任。2013年3月末で天理大学を退職。

野村忠宏は天理大学の後輩であり、普段から冗談を飛ばし合うほど仲が良い。

私生活では天理大学の1学年上の女性と結婚。4人の子(3男1女)の父親でもある。

3人の息子は柔道をやっているが、篠原が息子達に対して指導することはなく、「顧問の先生や、道場の先生から教わりなさい」と篠原は言っている(2015年2月2日放送の『しゃべくり007』より)。

娘に注意したいことがある時は、娘に嫌われたくない思いがあるためか、妻を介して間接的に注意させているという(2015年2月2日放送の『しゃべくり007』より)。

自宅の換気扇の下でタバコを吸いながらコーヒーを飲んでいる時が、リラックスできる時間だと語っている(2015年2月2日放送の『しゃべくり007』より)。

来歴[編集]

高校まで[編集]

中学1年の時に体格の良さを買われて柔道を始めた。しかし、遊びたい盛りでもあり、毎日辞めることばかり考えていて、実際に練習もしょっちゅうサボっていた。それでも中学3年の時に神戸市の大会で3位になった。「中学を卒業したら働いて、車でも買って遊ぼう」と考えていたものの、これがきっかけで県内の強豪校である育英高校に進むこととなった[2][3]

高校時代は柔道部を辞めたいと思いながらも、監督の有井克己が怖くて辞めることができなかった。実際、よく殴られたりもしたという。そんななかにあって、2年の高校選手権の個人戦では初戦で敗れたものの、団体戦では5位となった。3年の時にはインターハイ重量級に出場するが、決勝トーナメント2回戦で大阪工大付属高の吉野賢治に技ありで敗れた[2][3]

大学まで[編集]

1991年には有井と大学時代に同期だった元世界チャンピオンの正木嘉美がいる天理大学へ進んで指導を受けることになった[2][3]。1年の新人体重別95kg超級では5位にとどまったものの、強化選手に選ばれた。強化合宿では世界チャンピオンであるJRA小川直也の稽古相手を務めた[4]

2年の優勝大会では3位となった。ジュニア体重別では決勝で大学の1年後輩である真喜志慶治横四方固で敗れたものの、「荒削りで稚拙な面も多いが、技に秘めたパワーと、常に前に出るその姿勢は今後を楽しみにさせる逸材」と評価された[5]

3年の時には正力杯の初戦で東海大学1年の上水研一朗に判定で敗れるも、無差別で争われる全日本学生選手権では決勝で近畿大学3年の武村雄太を大外刈で破り全国大会で初優勝を飾った。なお、この時には畳の上でサッカー三浦和良のカズダンスを真似た篠ダンスなるものを披露したが、周囲の指導者から注意されて、それ以降は封印することになった。一方、今回の優勝をきっかけに世界を目指す気持ちが芽生えたともいう[2][3]。優勝大会でも決勝の近畿大学戦で勝利するなど、チームの5年ぶりの優勝に貢献した。正力国際では決勝でドイツのフランク・モラー払巻込で敗れて2位にとどまった。フランス国際では決勝でエストニアのインドレク・ペルテルソン崩上四方固で敗れた[2][3]

4年の時には講道館杯決勝で日本道路公団三谷浩一郎を有効で破って優勝した。正力杯では決勝で真喜志 を効果で破って優勝すると、全日本学生選手権の決勝でも前年に続いて武村を大外刈で下して学生2冠を達成した。優勝大会では決勝の近畿大学戦において警告で勝利するも、チームは2位に終わった。ワールドカップ国別団体戦では3位になった。嘉納杯では準決勝でモラーに1-2の判定で惜敗して3位だった。続く講道館杯では決勝で小川を3-0の判定で破り優勝した。フランス国際の決勝では世界チャンピオンである地元フランスのダビド・ドゥイエ内股の有効で破って優勝を飾った。翌週のオーストリア国際では準決勝でマルナカ増地克之に技ありで敗れて3位だった[3]

社会人時代[編集]

1995年には大学を卒業して旭化成の所属となった。全日本選手権に初出場すると、準決勝で会社の2年先輩で86kg級の世界チャンピオンである中村佳央と対戦することになった。この試合では序盤、中村を崩袈裟固で抑えこむが11秒で逃した。終盤には中村の小外刈に内股で応じたところを中村が裏投げ風に切り替えして両者ほぼ同体で倒れこんだ。最初は中村の有効ポイントになるも、主審の川口孝夫によって篠原のポイントに訂正されて、結局篠原の勝利となった。この一戦は技を仕掛けた中村のポイントではないかとの声もあり、篠原自身も「あの試合は負けていたようなものだからラッキー」とコメントした。決勝では気持ちの整理が付かない状況で小川と対戦すると、支釣込足から腕挫腕固を極められて寝技に持ち込まれると、横四方固で一本負けして2位にとどまった[6]選抜体重別では準決勝で増地に判定で敗れて3位に終わるものの、世界選手権代表に選出された。世界選手権では無差別に出場すると、準決勝でロシアのセルゲイ・コソロトフに開始30秒の大内刈で敗れるも、3位決定戦でベルギーの ハリー・ファンバルネベルト内股すかしで破って3位になった。その後、天理大学のハンドボール部員だった女性と結婚した。続くアジア選手権では95kg超級と無差別の2階級制覇を達成した[3]

1996年のドイツ国際では初戦で敗れると、選抜体重別では準決勝で小川に注意で敗れて3位、全日本選手権でも3回戦で三谷に内股すかしで敗れるなどして結果を残せず、アトランタオリンピック代表にはなれなかった。その後、マルセイユ国際で優勝すると、嘉納杯では決勝で三谷を大外刈で破って優勝した[3]

1997年のロシア国際では初めてカラー柔道着を着用して大会に出場するものの、2回戦で地元ロシアのタメルラン・トメノフに有効を3つも取られて敗れるが、敗者復活戦を勝ち上がって3位になった[7]。フランス国際では5試合オール一本勝ちして2年ぶり2度目の優勝を飾った。選抜体重別では決勝で警視庁の真喜志を効果で破って初優勝するも、全日本選手権では3回戦でJRAの賀持道明に判定で敗れたが、世界選手権代表に選出された。東アジア大会では優勝を飾った。世界選手権では3回戦でトメノフを大外刈で破るなどして決勝まで進むと、地元のドゥイエと対戦することになった。この試合では常に前に出て積極的に攻める姿勢を見せていたにもかかわらず、逆に指導ポイントを取られると、終盤には反則負けとなる不可解な敗戦を喫した。「試合に負けて勝負に勝った」とも評される一戦となった[8][3]。講道館杯の100kg超級決勝では、大学の2年先輩となる新日鉄広畑養父直人体落で破って優勝した[3]

1998年の選抜体重別では大学の4年後輩となる村元辰寛を内股で破って優勝した。全日本選手権では東海大学2年の井上康生を合技で破って初優勝を飾った。ワールドカップ国別団体戦でも優勝した。アジア大会では左膝を負傷しながらも、決勝でイランのマフムード・ミランを内股すかしで破って優勝した[3]

1999年の選抜体重別では決勝で明治大学1年の棟田康幸を効果で破って優勝した。天覧試合となった全日本選手権では、大会史上最年少の18歳で決勝まで勝ち上がってきた棟田を大外刈の技ありで破って2連覇を飾った[9]世界選手権の100kg超級では決勝でペルテルソンと対戦すると、警告でリードされるも終盤に大外刈を決めて優勝した。無差別の決勝ではトルコのセリム・タタログルを内股で破った。今大会では総計11試合のうち10試合で一本勝ちする圧倒的強さで、山下泰裕、小川、ドゥイエに次ぐ史上4人目の世界選手権での2階級制覇を達成することになった[3]

2000年の選抜体重別では会社の後輩でもある村元を技ありで破って優勝すると、全日本選手権では決勝で井上を警告で破って大会3連覇を飾り、シドニーオリンピック代表に選出された。シドニーオリンピックでは準決勝でトメノフと対戦すると、ポイントをリードされるも大外刈で逆転勝ちした。決勝ではドゥイエと対戦すると、1分半過ぎに篠原の内股すかしが決まったと思われたものの、逆にそれがドゥイエの有効ポイントと判断された。その後ドゥイエは注意を受けてポイントで並ぶものの、終盤にドゥイエが内股返で有効を取り返したために有効1つの差で篠原が敗れることになった。終了直後に監督の山下泰裕が篠原の内股すかしは篠原の一本であったとして抗議したものの、IJF試合審判規定にある「一度審判員が判定を下して畳から離れたらその判定を変えることはできない」という条項に抵触することもあって、結果として抗議が受け入れられることはなかった(詳しくは次項の「誤審問題」を参照のこと)[3]

2001年の選抜体重別では会場でドゥイエが見つめる中、村元を技ありで破って大会5連覇を達成した。全日本選手権では決勝で井上に判定で敗れて4連覇はならなかった。世界選手権では準々決勝でロシアのアレクサンドル・ミハイリンに開始早々の隅返で敗れるが、敗者復活戦を勝ち上がって3位になった。さらに国体成年男子の部には奈良県代表として出場するも、準決勝で東京都代表の田村和也に内股すかしで敗れた[3]

2002年には旭化成を退社すると、天理大学柔道部の監督に就任した[3]

2003年には約1年半ぶりの試合となる全日本選手権に出場するが、準決勝で平成管財の鈴木桂治に1-2の判定で惜敗して3位に終わった。その後、現役引退を表明した[3]

誤審問題[編集]

シドニー五輪100kg超級決勝で、フランスダビド・ドゥイエと対戦した際に、ドゥイエが内股を仕掛けてきたのに対して篠原は内股すかしで返した。これに対して、主審はドゥイエの有効と判定。副審の一人は篠原の一本と判定したものの、もう一人の副審が主審の判定を支持したため、ドゥイエに有効が与えられた。選手団監督の山下泰裕は、審判委員から審判団の再協議を申し出られたにもかかわらず、フランス語の分からない山下はそれに気づかず試合の継続を許してしまった。その後、ドゥイエが注意を受けたことにより、篠原に有効が与えられ両者のポイントが並んだが、さらにその後、ドゥイエが再び技で有効を奪い、そのまま試合が終了。有効一つの差でドゥイエの優勢勝ちとなった。試合後、山下泰裕選手団監督及び日本選手一同が猛抗議したが、試合場から審判が離れた後は判定は覆らないという国際柔道連盟試合審判規定第19条によりドゥイエの優勝が確定した。日本でのNHKテレビアナウンサー有働由美子も「今のは間違いなく篠原の一本。誤審です」と涙ながらに実況していた。

この結果に対して、日本では、柔道関係者、マスコミともに誤審と断定して審判を批判した。全日本柔道連盟にも抗議が殺到し、中には主審を務めたクレイグ・モナガンやニュージーランド柔道連盟(主審の出身国)に脅迫まがいの電子メールを送りつける者までいた。それでも篠原は「審判もドゥイエも悪くない。全て自分が弱いから負けたんです」とそれ以上言明せず、潔く引き下がった。

五輪終了後、国際柔道連盟理事会は、この試合の映像を分析した。その結果、問題の場面では篠原もドゥイエも技が完全ではなく、両者にポイントを与えるべきではなかったと結論付け、ドゥイエに有効を与えたことが誤審であったことは認めたものの、「篠原の一本」という見方は示さなかった。しかし、その後も「篠原の一本だったのではないか」という意見が多く残っている。

なお篠原本人は、この試合の敗因は問題となった判定そのものではなく、その後に気持ちを切り替えて、残りの時間で逆転することができなかった自身の弱さであると主張している。

この事件以後、国際柔道連盟では、誤審防止や判定の難しいケースに備えてビデオ判定を導入し、ルールの徹底と試合判定の明確化に力を入れるようになった。又、現在のジュリー制度のきっかけとなった試合でもある[10]

なお、この二人の誤審問題はこれが初めてではない。この事件の3年前、ドゥイエの地元フランスで開催された世界柔道選手権大会の決勝でも二人は対戦しているが、明らかに不可解な判定でドゥイエが勝利している。この件に関しても日本側は抗議したが大きく問題視されることはなかった[11]

引退後[編集]

天理大学准教授 兼 同大学柔道部監督として後進の指導の他、柔道国際大会での解説や関連番組へのゲスト出演を行った。解説者として活動し始めたばかりの頃は、優勝候補を尋ねられ「私に勝てれば優勝」など冗談とも本気ともつかない発言をしアナウンサーを困惑させた。非常に雄弁な一面を持っており、バラエティ番組では芸人顔負けのジョークを飛ばすこともある。

2008年11月4日には、北京オリンピックで金メダル2個を獲得して五輪後に勇退した斉藤仁の後任として、柔道男子日本代表監督に就任した。篠原は現役引退後は代表監督就任まで日本代表コーチの経験がなく、異例の代表コーチ未経験での代表監督就任となった。天理時代からの愛弟子である穴井隆将西山大希森下純平上川大樹などの新鋭を発掘し、マンツーマン指導により強豪選手へと育て上げた。2010年世界選手権ではその新鋭たちの活躍により日本男子の獲得メダル数は過去最大となった。だが、2012年ロンドンオリンピックでは日本男子史上初の金メダル0個という結果に終わった。篠原は「これは私の責任。特に選手に対して申し訳なく思う」とコメントし、進退について全日本柔道連盟に一任した。強化委員長の吉村和郎は続投に強い支持を表明し[12]、自身も続投に前向きの姿勢を示していたが[13]、10月に入ると続投を固辞する姿勢を見せるようになり、結果として辞任することになった[14]

2013年3月末に天理大学を退職[15]。大学を辞めた理由は柔道界の不祥事とは関係がなく、元々柔道指導者は柄に合っていないと考えていたことや40歳になったことをきっかけに妻を代表取締役とする産業廃棄物処理会社で一般廃棄物医療廃棄物産業廃棄物及びリサイクル物処理業務関連の仕事に取り組むことになったため(役職は専務[16]

2014年から芸能事務所と業務提携を結び、「ビストロボンカレー」のオープン記念行事へ出席するなどバラエティー番組にも頻りに出演するようにもなる。「(テレビに)出させて貰うことでテレビの裏側が分かり、いろいろと勉強になる。すごく新鮮です」と述べている。

2015年に「ベスト傾奇ニスト2015」を受賞[17]

主な戦歴[編集]

95kg超級での戦績

100kg超級での戦績

受賞[編集]

主な出演[編集]

テレビ番組[編集]

  • バイキング (フジテレビ、2014年11月14日 - )金曜日コーナーレギュラー
  • ネプリーグ (フジテレビ、2014年秋 - )準レギュラー

劇場アニメ[編集]

CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 熊井友理奈 身長5センチ逆サバ発覚 デイリースポーツ 2015.07.30
  2. ^ a b c d e 「ZOOM IN 素顔 篠原信一」近代柔道 ベースボールマガジン社、1994年3月号、62-63頁
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「篠原信一 引退特集」近代柔道 ベースボールマガジン社、2003年7月号、3-27頁
  4. ^ 「第9回国際試合柔道選手強化合宿」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年2月号、31頁
  5. ^ 「第24回全日本ジュニア柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年1月号、67頁
  6. ^ 「平成7年全日本柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1995年6月号、3-43頁
  7. ^ 「野村が圧倒的強さで金!」近代柔道 ベースボールマガジン社、1997年3月号、54頁
  8. ^ 「1997年世界柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1997年11月号、10頁
  9. ^ 「男女全日本選手権」近代柔道 ベースボールマガジン社、1999年6月号、3-19頁
  10. ^ 『毎日新聞』2012年7月30日
  11. ^ 以上、『Number』2000年8月号より
  12. ^ 吉村強化委員長「おれの責任」進退伺提出へ サンケイスポーツ 2012年8月5日
  13. ^ 柔道の篠原監督続投の意向 女子の園田監督も続投へ スポーツニッポン 2012年9月9日
  14. ^ 康生新監督!金なし男柔道立て直す 日刊スポーツ 2012年11月1日
  15. ^ 篠原前男子代表監督氏 天理大退職へ スポーツニッポン 2013年3月30日
  16. ^ 「篠原前監督 40歳で産廃業界へ転身」FLASH 光文社、2013年4月30日号、18-19頁
  17. ^ 矢口真里 篠原信一の壁ドンにびっくり「すごい迫力」”. スポニチ (2015年8月6日). 2015年8月6日閲覧。
  18. ^ 篠原信一、『進撃』大型巨人姿でCM出演”. ORICON (2015年6月25日). 2015年6月26日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]