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船木和喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
船木和喜
基本情報
誕生日 (1975-04-27) 1975年4月27日(49歳)
出身地 日本の旗 日本
北海道余市郡余市町
選手情報
クラブ FIT Ski
ワールドカップ
シーズン 1992年-
優勝回数 15回
他の表彰台 23回
表彰台獲得数 38回
獲得メダル
スキージャンプ
オリンピック
1998 長野 個人ラージヒル
1998 長野 団体ラージヒル
1998 長野 個人ノーマルヒル
ノルディックスキー世界選手権
1999 ラムソー 個人ノーマルヒル
1997 トロンハイム 団体ラージヒル
1999 ラムソー 団体ラージヒル
2003 ヴァル・ディ・フィエンメ 団体ラージヒル
スキーフライング世界選手権
1998 個人
スキージャンプ週間
1997-98 総合成績
1994-95 総合成績
スキージャンプ・ワールドカップ
1997-98 シーズン総合成績
1996-97 シーズン総合成績
最終更新日:
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船木 和喜(ふなき かずよし、1975年4月27日 - )は、F.I.T所属のスキージャンプ選手。北海道余市郡余市町生まれ。北照高等学校小樽市)卒業。

日本代表として冬季オリンピック2大会(1998年長野2002年ソルトレイクシティ)、世界選手権5大会に出場。長野オリンピックで団体ラージヒル[1]および個人ラージヒルの2種目で金メダル[2][3]、個人ノーマルヒルで銀メダルを獲得している[4]。この他、世界選手権で金メダル1個、銀メダル3個を獲得、1997-98シーズンにスキージャンプ週間で日本人初の総合優勝、スキージャンプ・ワールドカップの総合成績で2位などの成績を残している。1999年にスキー界で権威のあるホルメンコーレン・メダルを受章。

経歴

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10歳の時にスキージャンプ競技を始める。余市町立旭中学校在籍時の1991年2月に第28回全国中学校スキー大会ノルディックスキー・スペシャルジャンプで優勝。小樽北照高等学校進学後、1992年12月20日にスキージャンプ・ワールドカップ(W杯)札幌大会ラージヒルに開催国枠で初出場し、27位となる。

高校卒業後はデサントに所属。1994-95シーズンの12月10日、前述の開催国枠での出場を除いて初めて出場したW杯プラニツァ大会ノーマルヒルで、バッケンレコードを記録しての初出場初優勝を達成した。年末年始のスキージャンプ週間ではインスブルックでのW杯2勝目をはじめ、全4戦でトップ10入りして総合2位に入った。その後もほとんどの試合でトップ10入りし、シーズン個人総合でも4位入賞。サンダーベイでの世界選手権にも初出場し、ラージヒルで5位入賞。

1995-96シーズンは12月17日シャモニーでの7位が最高で総合でも33位だったが、翌1996-97シーズンは復調し、12月7日のW杯クーサモで2位に入りシーズン初表彰台を獲得すると、12月14日のハラホフでシーズン初優勝。シーズン総合では4勝をあげて3位入賞を果たした。トロンハイムでの世界選手権では団体で銀メダルを獲得。ノーマルヒルでも4位入賞の好成績。

長野オリンピックシーズンの1997-98シーズンはW杯第2戦、4戦で5位に入った後、年末年始のスキージャンプ週間では第1戦から3連勝して日本人初の総合優勝を達成。長野オリンピック直前の1月25日にオーベルストドルフ開催されたスキーフライング世界選手権(兼W杯)では4本のジャンプ全てで飛形点満点を獲得し、金メダルを獲得(日本人選手の金メダル獲得は1992年の葛西紀明以来2人目)。

2月の長野オリンピックでは金メダル2つ(個人ラージヒル、団体ラージヒル)、銀メダル1つ(個人ノーマルヒル)を獲得する活躍を見せた。個人ラージヒルの2本目では、オリンピック史上初めて審判全員が飛形点20点をつけるなど、「世界一美しい」と称されるジャンプフォームを誇った(国際大会で5人の審判全員が20点をつけたのは船木の他には1976年のジャンプ週間でのアントン・インナウアー、2009年のジャンプ週間でのウォルフガング・ロイツルのみ。)[3]。オリンピック後のW杯順位はやや伸び悩み、プリモジュ・ペテルカに総合得点で逆転を許したが、3月21日のプラニツァ大会を含むシーズン5勝をあげて、個人総合成績で当時の日本人選手で歴代最高の2位に入った。総合ポイントはペテルカの1253点に対し船木は1234点だった。総合優勝と19点差は、世界歴代でも現スコア方式の1993-94シーズン以降では2014-15シーズンのペテル・プレヴツ(同点)、2003-04シーズンのロアル・ヨケルソイ(10点差)に次ぐ三番目の僅差である。

翌1998-99シーズンは第1戦リレハンメルで4位、翌日の2戦目で3位に入りシーズン初表彰台を獲得したのを皮切りに4戦連続で表彰台を獲得。1月10日のエンゲルベルクでシーズン初勝利。1月24日の札幌大会、3月6日のラハティと併せてシーズン3勝をあげ、2位と3位も共に6回ずつで、シーズン15度の表彰台も記録し、個人総合では4位入賞。1試合平均の獲得ポイントは54.79(合計1589点/29試合)で自己最高である。ラムソウで開催された世界選手権の個人ノーマルヒルでも金メダルを獲得、団体でも銀メダルとこのシーズンも世界トップクラスの実力をキープした[3]。同シーズン終了後の1999年6月、それまで所属していたデサントから独立して有限会社フィットを設立した(後に2006年6月には会社所在地をこれまでの東京から札幌に移すとともに社名を「株式会社F.I.T」に変更)。

しかしその後は、身長によってスキー板の長さの制限がかけられる等の競技ルール変更の影響を受け、ジャンプ技術の変革に乗り遅れた日本ジャンプ陣を象徴するかのように不振に陥った。1999-2000シーズンはザコパネ、インスブルックでの4位が最高で、トップ10入りは何度もあったものの表彰台獲得はならず総合14位。2000-01はさらに落ち込み、トップ10入りがパークシティの1度だけで総合30位となった。

2002年ソルトレークシティオリンピックシーズンの2001-02シーズンは、成績は幾分持ち直すことに成功し、W杯クオピオ大会とフィラッハ大会で3シーズンぶりの表彰台獲得となる3位入賞。W杯シーズン個人総合では11位。2月のオリンピック開会式でオリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。競技では期待された2大会連続のメダル獲得はならなかったが、ラージヒルは7位入賞、ノーマルヒルは9位でいずれも日本人選手トップの成績。団体は5位。

翌2002-03シーズンからは再び不振により成績が落ち込んだ。2004-05シーズンのW杯札幌大会で6シーズンぶりの優勝を飾った(悪天候のため一本目の競技のみで順位を決定)が、2005/06シーズン以降はW杯転戦組から外され、2006年トリノオリンピック出場はならなかった。

しかし、ジャンプ競技への強い意欲を持ち続けて地道に努力した結果、2009年コンチネンタルカップで2位、4シーズンぶりに出場したW杯札幌大会で19位となった[3]。同年7月12日に行われた、国内サマージャンプ開幕戦の第29回全日本サマージャンプ朝日大会で優勝、続く7月18日に行われた札幌市長杯宮の森サマージャンプ大会でも優勝し、復活を遂げた。勢いに乗った8月29日の2009FISサマーグランプリ白馬大会では4位入賞を成し遂げた。2009-10シーズンのワールドカップ遠征メンバーからは外れたものの、自費により格下のコンチネンタルカップを転戦し、ポイントを獲得したうえでW杯に復帰、さらに2010年バンクーバーオリンピック出場を目指していたが果たせなかった。

2008年2月に食品卸売会社「えにし」を設立し、各地の物産展で餃子・コロッケ・ドーナツ・余市町産のりんごを使用したアップルパイなどを販売しその収益を少年少女ジャンパーの育成に充てている[5][6][7][8]

2010年10月に観光庁よりスポーツ観光マイスターに任命された[9]。12月18日の名寄ピヤシリジャンプ大会で優勝、2005年2月ワールドカップ札幌大会以来6シーズンぶりに優勝した[10][11][12]。2011年のアルマトイ冬季アジア大会では選手団主将を務め、2種目でメダルを獲得。

2013年、北海道ハイテクノロジー専門学校から独立した北海道メディカル・スポーツ専門学校の副校長に就任した[13]。2015年に勢藤優花が同校に入学し、スキージャンプの指導も行っている[14]

2017年、大倉山ジャンプ競技場で開かれた「世界で最も過酷な400m走」とい言われる「レッドブル400」のMCを務める[15]

人物

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低く鋭い踏み切りの後、世界一と称される美しく、深い前傾姿勢から後半にぐんぐん飛距離を伸ばすスタイルで世界を席巻した。原田雅彦の高く強い踏み切りとは正反対のスタイルである。しかしジャンプスーツの規定変更などの影響もあり、現在のFISルールには必ずしも適合したものではない。このため、踏み切りの方向や強さ、空中姿勢の変更に取り組んでいる。

2008年に食品卸売事業を開始し、独自に後進の育成を始めたきっかけは、長野オリンピックで金メダルを獲得しながら、(後進の育成など)何もしていないという恥ずかしさだったと語っている。札幌オリンピックのジャンプメダリストのもとに、五輪後にどのような活動をしたかを一人で聞きに行くなどして事業を始め、ジャンパーの後輩への就職先の提供、青少年ジャンパーへの用具の贈呈なども行っている。催事場での出店では年十数回自ら店頭に立ち販売を行っている[8]。2009年12月11日放送「どさんこワイド」の密着取材では、一人でフェリーなどの交通手段で移動し、スキージャンプ大会の規模問わず感覚を鈍らせないために参加していること、スキージャンプにおける後進の育成への意欲や2008年に友人とコロッケなどを販売する食品卸売事業を開業したこと、困難な状況であっても応援してくれている人々の期待に応えたいと語った。

同じくスキージャンプ選手の藤田慎之介は従甥

主な競技成績

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オリンピック

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世界選手権

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フライング世界選手権

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ワールドカップ

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  • 通算15勝(2位12回3位11回)
  • 1997-98シーズンのスキージャンプ週間総合優勝は日本人初
  • 団体戦通算2勝(2位2回、3位3回)
個人総合成績(総合:W杯シーズン個人総合、4H:スキージャンプ週間総合
シーズン 総合 4H 優勝 準優勝 3位 備考
1994/95 04位 02位 2回 1回 2回
1995/96 33位 --- 0回 0回 0回 最高順位7位
1996/97 03位 10位 4回 2回 1回
1997/98 02位 01位 5回 3回 0回
1998/99 04位 05位 3回 6回 6回
1999/00 14位 13位 0回 0回 0回 最高順位4位
2000/01 30位 46位 0回 0回 0回 最高順位4位
2001/02 11位 25位 0回 0回 2回
2002/03 30位 33位 0回 0回 0回 最高順位5位
2003/04 40位 44位 0回 0回 0回 最高順位16位
2004/05 30位 52位 1回 0回 0回
2008/09 63位 --- 0回 0回 0回 最高順位19位
2009/10 --- --- 0回 0回 0回 最高順位34位
2010/11 58位 --- 0回 0回 0回 最高順位16位
2011/12 --- --- 0回 0回 0回 最高順位44位
合計 --- --- 15回 12回 11回

優勝大会

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個人優勝大会(NH:ノーマルヒル、LH:ラージヒル、FH:フライングヒル
回数 シーズン 月日 開催地 種目 備考
1 1994/95 12月10日 スロベニアの旗 プラニツァ NH W杯初出場初優勝(開催国枠出場除く)
2 1月4日 オーストリアの旗 インスブルック LH スキージャンプ週間
3 1996/97 12月14日 チェコスロバキアの旗 ハラホフ LH
4 1月4日 オーストリアの旗 インスブルック LH 兼スキージャンプ週間
5 3月12日 フィンランドの旗 クオピオ NH
6 3月14日 ノルウェーの旗 オスロ LH ホルメンコーレン大会
7 1997/98 12月29日 ドイツの旗 オーベルストドルフ LH 兼スキージャンプ週間
8 1月1日 ドイツの旗 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン LH 兼スキージャンプ週間
9 1月4日 オーストリアの旗 インスブルック LH ジャンプ週間4戦3勝でジャンプ週間総合優勝
10 1月25日 ドイツの旗 オーベルストドルフ FH
11 3月21日 スロベニアの旗 プラニツァ LH
12 1998/99 1月10日 スイスの旗 エンゲルベルク LH
13 1月24日 日本の旗 札幌 LH
14 3月6日 フィンランドの旗 ラハティ NH ラハティスキーゲームズ
15 2004/05 2月5日 日本の旗 札幌 LH 6シーズンぶりの優勝
団体優勝大会(NH:ノーマルヒル、LH:ラージヒル、FH:フライングヒル
回数 シーズン 月日 開催地 種目 メンバー
1 1998/99 1月30日 ドイツの旗 ヴィリンゲン LH 船木和喜 葛西紀明 宮平秀治 吉岡和也
2 2000/01 1月19日 アメリカ合衆国の旗 パークシティ LH 船木和喜 吉岡和也 原田雅彦 葛西紀明

アジア冬季競技大会

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受賞

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脚注

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  1. ^ ジャンプ団体 日本「金」の大アーチ”. 信濃毎日新聞 (1998年2月17日). 2010年12月18日閲覧。
  2. ^ ジャンプ・ラージヒル 船木「金」 原田「銅」”. 信濃毎日新聞 (1998年2月15日). 2010年12月18日閲覧。
  3. ^ a b c d 伊藤慎吾 (2009年3月11日). “「FUNAKIはどうしてる?」 船木和喜に本場欧州で今も高い関心”. 共同通信社. 2010年12月18日閲覧。
  4. ^ ジャンプ・ノーマルヒル 船木銀メダル、原田5位”. 信濃毎日新聞 (1998年2月11日). 2002年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月18日閲覧。
  5. ^ 茂木宏子 (2010年). “スポーツのエクセレンス 第18話 メダリストの義務と責任<船木和喜選手>(1)”. 一般社団法人 日本トップリーグ連携機構. 2016年2月1日閲覧。
  6. ^ 茂木宏子 (2010年). “スポーツのエクセレンス 第22話 メダリストの義務と責任<船木和喜選手>(2)”. 一般社団法人 日本トップリーグ連携機構. 2016年2月1日閲覧。
  7. ^ 松原孝臣 (2011年6月7日). “日本ジャンプ界の未来を託すドーナツ。ベテランジャンパー船木和喜の情熱。”. Sports Graphic Number Web. 文藝春秋. 2016年2月1日閲覧。
  8. ^ a b 笠井正基 (2017年7月23日). “「ジャンプの船木」百貨店でパイ売り 現役続行の陰で”. 朝日新聞. 朝日新聞. 2017年9月13日閲覧。
  9. ^ スポーツ観光マイスター★★★ 船木和喜さんを任命しました!!”. 観光庁 (2010年10月22日). 2010年12月18日閲覧。
  10. ^ 船木、Vに笑顔「やってやった」”. サンケイスポーツ (2010年12月18日). 2010年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月18日閲覧。
  11. ^ 35歳まだやれる…船木 代表復帰へ「僕もそれを目指したい」”. スポーツニッポン (2010年12月18日). 2010年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月18日閲覧。
  12. ^ 船木が優勝=名寄ピヤシリジャンプ”. 時事通信社 (2010年12月18日). 2010年12月18日閲覧。
  13. ^ メディスポの先生”. 北海道メディカル・スポーツ専門学校. 2016年2月1日閲覧。
  14. ^ 折山淑美 (2015年2月26日). “幼馴染みの髙梨沙羅を追いかけて。勢藤優花の決意とは。”. Web Sportiva. 集英社. 2016年2月1日閲覧。
  15. ^ ★【地域貢献08】”世界で最も過酷な400m走”「Red Bull 400」 北海道メディカル・スポーツ専門学校がサポート 滋慶学園 2017年6月2日

関連項目

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外部リンク

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