前園真聖

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前園 真聖 Football pictogram.svg
Masakiyo Maezono in Okinawa, 2012.jpg
名前
愛称 ゾノ
カタカナ マエゾノ マサキヨ
ラテン文字 MAEZONO Masakiyo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1973年10月29日(40歳)
出身地 鹿児島県薩摩郡東郷町(現薩摩川内市
身長 170cm
体重 68kg
選手情報
ポジション MF/FW
利き足 右足
代表歴
1994-1997 日本の旗 日本 19 (4)
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

前園 真聖(まえぞの まさきよ、1973年10月29日 - )は鹿児島県薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)出身の元サッカー選手。マネジメント事務所サニーサイドアップ所属。

1996年アトランタオリンピック日本ブラジルに勝利した、「マイアミの奇跡」のU-23サッカー日本代表キャプテン

来歴[編集]

幼少~プロ入り以前[編集]

東郷小学校在校時、4歳年上の兄の影響でサッカーを始める。ビデオがきっかけでマラドーナに憧れ、繰り返しビデオを見てはドリブルの練習に明け暮れる毎日を送り「東郷少年サッカー団」加入。5年生時、県大会ベスト4。6年生時、県代表として全国大会出場。東郷中学校進学、同校は当時サッカー部が無かったため陸上部に所属、中学1年生時に駅伝大会で1位。後、父兄の協力で中学2年生頃にサッカー部の創部にこぎつけて活躍、この頃から県選抜に選ばれるなど、名前を知られるようになる。

鹿児島実高では1年生時からレギュラーに定着、高校選手権に3年連続で出場。2年生時の69回大会では準優勝を果たした。この時のチームメイトが遠藤三兄弟の長男・遠藤拓哉である。次男・彰弘と三男・保仁の憧れの選手であった。[1]

プロ入り[編集]

1992年Jリーグ横浜フリューゲルス(横浜F)に入団。当時、横浜Fは長崎県熊本県鹿児島県の3県を特別活動地域(ホームタウンに準じる地区)としていたこともあって、地元出身の前園をチームの看板選手としてPRする狙いもあったと思われる。

1993年、Jリーグ開幕当初は加茂周監督の掲げるチーム戦術「ゾーンプレス」にはスタミナ不足のため出場時間は少なかったが、スピードとキレ有るドリブル突破で徐々に頭角を現し、翌1994年からは主力として活躍。西野朗監督率いるアトランタ五輪代表に選出、さらにフル代表監督ファルカンに抜擢され5月22日、キリンカップオーストラリア戦で日本代表デビュー。10月の広島アジア大会でも全試合フル出場した。

1995年、1月の五輪代表遠征時に西野監督から指名され主将となる。3月、日本サッカー協会(JFA)の方針「前園真聖の五輪代表一本化、フル代表のアンブロカップ(イングランド遠征)への不参加」が決定、五輪代表に専念することとなった。5~6月にタイと日本で行われたアトランタオリンピックアジア一次予選に出場。日本五輪代表は4戦全勝で翌年の最終予選進出を決めた。

オリンピック出場[編集]

1996年、3月にマレーシアで行われたアトランタオリンピックアジア最終予選に出場。3月24日、準決勝サウジアラビア戦で2ゴールを挙げ勝利に貢献、日本をメキシコシティ大会1968年)以来、7大会(28年)ぶりのオリンピック本大会出場権獲得に導いた。 この年初めて1シーズン制を採用したJリーグでは所属の横浜Fが開幕から8連勝と好調。前半戦を首位で折り返し、初のクラブタイトル獲得のチャンスだったが、惜しくも3位に終わった。 7月、アメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピック本大会に出場。日本はグループリーグで金メダル候補のブラジルから大金星を挙げる(マイアミの奇跡)など2勝した(1敗)が得失点差で決勝トーナメント進出を逃した。 8月25日、フル代表復帰初戦のウルグアイ戦で日本代表初ゴール。12月にはアジアカップUAE大会に出場、日本はベスト8(準々決勝敗退)に終わった。

移籍騒動[編集]

これに前後してオリンピックの始まる前の6月にスペインリーグセビージャから関係者が来日し、横浜Fと移籍交渉を行っている。当時は有力選手の国外移籍は前例に乏しく、Jリーグのほとんどのチームが消極的であったことが背景にあったが、あくまでアジアの知名度の低い国の若手選手というセビージャ側の評価と、チームの看板選手である前園を安易に移籍させるわけにはいかない横浜F側のチーム事情とが合致せず、この話はなくなる。ついに同年シーズンオフには、スペインへの移籍が叶わずクラブに不信感を募らせた前園と国外移籍の決断を渋る横浜Fとの間で契約交渉が暗礁に乗り上げ、とうとう移籍リストに掲載されるに至った。

この時、三浦知良の国外移籍を容認した前例のあるヴェルディ川崎(V川崎)から獲得希望があり、2ヶ月に渡る紆余曲折の末V川崎への移籍が決定した。この時の移籍金は、当時Jリーグ最高額の推定3億5千万円[2]。前園自身は移籍記者会見の席で、V川崎が国外移籍を容認したことを移籍理由の一つに挙げた。

代表落ち~海外移籍[編集]

1997年、完全移籍したV川崎では前述の移籍騒動の影響でコンディション不良となりパフォーマンスが低下、3月のフランスワールドカップアジア一次予選オマーンラウンドでの招集・出場選手登録(出場無し)を最後に日本代表落ちとなった。

1998年10月、ブラジル・サンパウロ州の名門クラブ、サントスFCレンタル移籍し、念願の海外移籍を果たす。10月18日、ブラジル全国選手権ポルトゲーザ戦に後半20分(65分)から交代で初出場、直後の66分に初ゴール。この後は出場試合数・時間は少なく、1999年に出場機会を求めてゴイアス州の強豪クラブ、ゴイアスECにレンタル移籍。移籍当初はゴイアス州選手権コパ・ド・ブラジル(ブラジル杯)等に主力として出場していたが、次第に出場機会を失いシーズン途中で退団、その後は以前より移籍を希望していた欧州の各クラブ(スペインバジェカーノポルトガルギマラエスギリシャPAOKサロニカ等)との移籍交渉、練習参加から仮契約まで交渉が進んだクラブも有ったが、結局本契約には至らなかった。

Jリーグ復帰[編集]

2000年加藤久監督に請われ、この年からJ2に降格した湘南ベルマーレにレンタル移籍し、Jリーグ復帰。湘南のJ1再昇格の切り札として期待されたがチームは8位に終わり、再昇格はならなかった。 2001年、所属のJ1東京ヴェルディ1969に3年ぶり復帰。チームは低迷し残留争いをしていた9月15日、セカンドステージ第5節横浜F・マリノス戦の前半35分、ゴール前への飛び出しから先制点を奪った際、横浜FMのGK川口能活との接触を避けようと引いた左足がピッチに引っ掛かり足首を骨折。長期離脱しそのまま2001年シーズンを終え、結果的にこれがJリーグ最後の試合出場となった。2002年7月、ロリ監督の構想外となり東京Vから戦力外通告を受けた。

現役引退後[編集]

2003年に、韓国・Kリーグ安養LGチータースに移籍。2004年にKリーグの新チーム・仁川ユナイテッドFCと契約したが、2004年末で契約が解除された。その後、2005年にセルビア・モンテネグロ1部リーグのOFKベオグラードの入団テストを受けるなどするものの本契約には至らずに5月19日、引退を表明。

現在はテレビ東京サッカー解説者、日本テレビ高校サッカー選手権中継で解説者を務める一方、少年サッカーの普及促進活動などにも参加している。2007年からはJFAアンバサダーとしても活躍している。また、サッカー普及活動の一環として、幼稚園児から小学生までを対象とした「ZONOサッカースクール」を、東京体育館、神宮外苑、フットサルポイント川口、JOフットサルベース越谷、フットサルステージ町田、FUEL鎌ヶ谷等で実施している。2008年には中田英寿の立ち上げた元サッカー選手で構成するサッカーチーム「TAKEACTION FC.」の一員となっている。

2009年にはビーチサッカー日本代表に選出され、10月に行われたポルトガル代表との親善試合に2試合出場した[3]。またビーチサッカーワールドカップにも出場し、サッカーとは別の形でワールドカップ出場を果たした。これについて、テレビ番組『S THE STORIES』のインタビューで「ワールドカップという舞台でプレーすることはなかったので、やっぱり日の丸を背負って戦うと興奮するし、本当に嬉しかった」と喜びを語っている[4]

2012年JFA 公認S級コーチライセンスを取得した[5]

2013年10月13日に、酒に酔ってタクシー運転手に暴行を加えた容疑で逮捕された[6]10月14日に処分保留で釈放され、同日謝罪会見を行い、テレビ東京系『neo sports』などテレビ番組の出演自粛を表明した[7][8]10月15日、『JFAこころのプロジェクト』の活動停止処分を受けた[9]11月15日、出身地である鹿児島県薩摩川内市のスポーツ大使を辞任した[10]

エピソード[編集]

  • AFCアジアカップ1996遠征に際し、当時CM出演していた日清食品ラ王を大量に持ち込む。当時の海外遠征では食事面だけでなく選手のサポートは不足しており、慣れない環境で疲弊していた選手は夕食後は決まって前園の部屋へ殺到。前園のラ王を奪い合うという光景が常であった。後年になって名波浩は「食事はつらかった。ゾノのラ王でなんとか凌げた。本当にそのくらいつらかった」と振り返っている。この大会の惨敗により、以降の海外遠征では日本人シェフを同行させるなどの日本代表の海外遠征におけるサポート体制が充実してゆくことになる[11]
  • 2006年のホノルルマラソンに参加、5時間43分で完走した[12]
  • プライベートの友人に、歌手小沢健二がいる。
  • 大の甘党で鹿児島名物のかき氷『白くま』が好物である。
  • 2008年1月2日に放送された『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』で、木梨JAPANの一員として中村俊輔とサッカーボウリング(サッカーボールをキックしてボウリングを行う番組のゲーム)対決を行い、前園は4回のシュート機会を与えられたが、いずれも1本しか倒せず、チームの足を引っ張った結果、「Mr.1本」というあだ名をつけられた。しかし、サドンデスで行われた1本のピンを倒す対決では、唯一の成功者として、見事、中村に勝利することができた。
  • 「真聖」という名は両親がクリスチャンであることから来ているが、本人はクリスチャンではない、と否定している[13]
  • 遠藤彰弘遠藤保仁の兄と高校時代のチームメイトであり、遠藤家とは家族ぐるみの付き合い。保仁からはとても慕われている。なお、遠藤の両親からは真聖ちゃんと呼ばれているが、テレビでそう呼ばれたときは嫌がっていた。
  • 鹿児島実業高校のサッカー部の監督から、結婚できない理由は赤いスポーツカーに乗っているからと言われた。

発言[編集]

「皆の力と、応援した(してくれた)皆のおかげだと思います。本当に、感謝してます。」

「ここまでずっと、チームの皆、スタッフも含めて一丸と(なって)支えてくれたので、そのおかげだと思います。本当に感謝してます。」 「非常に苦しかったですけど、応援してくれた皆とチームの皆のおかげだと思います。」

—1996年3月24日、五輪アジア最終予選サウジ戦後のインタビュー。

いじめ問題のことなんだけど。別にみんな型にはまることはないし、カッコつけてもいいと思う。俺もそうだった。でも俺、いじめなんかしたことなかったよな。だって恥ずかしいだろ。誰か泣かしたり。昔からカッコ悪いことだけはしたくなかったし。いじめは最低だよ。カッコ悪いよ。

1996年に公共広告機構(現:ACジャパン)のいじめ防止キャンペーンに全面協力した時の発言。用意された台詞ではなく本人の言葉。いじめられっ子なぐさめ型・抱擁型ではなく、いじめという行為を、みっともないもの、恥ずべきもの、という視点でとらえて企画された。[14]

評価[編集]

切れ味鋭いドリブルと、左右どちらの足でも蹴れる精度の高いフリーキックが特徴的である。特にそのドリブルは顕著で現在でもJリーグの歴代トップクラスのドリブラーであると評価する向きが少なくない。とは言え全盛期は短かった。

また、西野朗など攻撃的プレーヤーであっても前線での守備を要求する監督とは、戦術を巡ってしばしば衝突した。

また日本代表監督だった加茂周からはトップ下として期待されていたが、応えることはできず、結局日本代表からはずされ、森島寛晃中田英寿などにポジションを奪われることとなった。加茂の前園に対する期待は大きく、時に余人を排して懇々と指導する姿が何度か見られたが、結局プレースタイルを変えることはできなかった。

Jリーグおよび日本代表のスター選手であったがゆえに、前園の評価・露出は試合以外の部分にも及んだ。特にアトランタ・オリンピック前後の期間において、マスメディアへの露出は相当の数に上り、それはサッカーやスポーツと無関係なコマーシャルにまで及んだ。

フィリップ・トルシエ(元日本代表監督)が2000年に前園を例示しつつ、大きな怪我をした小野伸二に対するメディアの過度な期待を批判した。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1992 横浜F - J - 0 0
1993 24 2 5 0 5 1 34 3
1994 38 8 2 0 2 0 42 8
1995 40 7 - 2 0 42 7
1996 26 8 11 7 2 0 39 15
1997 V川崎 7 28 5 0 0 2 0 30 5
1998 22 3 2 1 - 24 4
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯 オープン杯 期間通算
1998 サントス 全国選手権A 5 1
1999 ゴイアス 全国選手権B
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2000 湘南 10 J2 38 11 2 0 3 2 43 13
2001 東京V 11 J1 13 1 2 0 0 0 15 1
2002 0 0 0 0 - 0 0
韓国 リーグ戦 リーグ杯 FA杯 期間通算
2003 安養 Kリーグ 22 0
2004 仁川 22 1
通算 日本 J1 191 34 22 8 13 1 226 43
日本 J2 38 11 2 0 3 2 43 13
ブラジル 全国選手権
韓国 Kリーグ 44 1
総通算

その他の公式戦

オールスター戦

  • 1995年10月10日 JOMO CUP Jリーグドリームマッチ JAPAN DREAMS 3-1 WORLD DREAMS 背番号7
  • 1996年10月10日 JOMO CUP Jリーグドリームマッチ JAPAN DREAMS 1-2 WORLD DREAMS 背番号7 1得点 

経歴[編集]

  • Jリーグ初出場 - 1993年6月5日 Jリーグファーストステージ第7節 ヴェルディ川崎1-1(PK5-4)横浜フリューゲルス ※途中出場
  • Jリーグ初得点 - 1993年7月10日 Jリーグファーストステージ第17節 横浜フリューゲルス1-0横浜マリノス

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

日本五輪代表

  • 1995年 アトランタオリンピックアジア一次予選(タイ、日本) 4試合5得点(PK2)
  • 1996年 アトランタオリンピックアジア最終予選(マレーシア) 4試合4得点(PK1)
  • 1996年 アトランタオリンピック本大会(アメリカ) 3試合2得点(PK1)

日本代表

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 19試合 4得点(1994-1997)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1994 6 0
1995 4 0
1996 7 4
1997 2 0
通算 19 4

ハットトリック[編集]

  • 1995年5月28日 アトランタオリンピックアジア一次予選 日本4-1チャイニーズ・タイペイ (44分、50分PK、61分)
  • 2000年9月3日 Jリーグディビジョン2 第31節 ベガルタ仙台2-6湘南ベルマーレ(16分、54分、62分)

タイトル[編集]

クラブ[編集]

横浜フリューゲルス

ゴイアスEC

日本代表[編集]

  • 1995年 第3回ダイナスティ杯(香港) 優勝 ※決勝戦は累積警告で出場停止。五輪代表に合流するため帰国。

個人[編集]

出演CM[編集]

現在の出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 遠藤選手インタビュー あこがれの選手GAMBA TV〜青と黒〜 インタビュー
  2. ^ 浦和が4億円で千葉・阿部獲り”. スポニチ Sponichi Annex (Internet Archive) (2006年12月9日). 2009年1月4日閲覧。
  3. ^ 日本敗れ、前園は無得点/ビーチサッカー」sanspo.com、2009年10月11日。
  4. ^ 『S THE STORIES』第132話 Aから始まる物語「夢の舞台へ」(AGAIN) - 前園真聖 テレビ朝日系列 2010年9月11日放送より。
  5. ^ S級コーチに小倉、前園氏ら=サッカー」 時事通信社 2012年9月14日閲覧
  6. ^ 元サッカー日本代表、前園真聖容疑者逮捕 酔って運転手殴打」msn産経ニュース、2013年10月17日閲覧
  7. ^ 暴行逮捕の前園氏涙の謝罪 当面TV自粛 - サッカーニュース : nikkansports.com」 2013年10月17日閲覧
  8. ^ テレ東社長、前園氏自粛「様子見ていく」 - 芸能ニュース : nikkansports.com」 2013年11月24日閲覧
  9. ^ 朝日新聞デジタル:前園氏「夢の教室」無期限停止 暴行事件でサッカー協会 - スポーツ」 2013年11月24日閲覧
  10. ^ 前園氏、出身地のスポーツ大使辞任 暴行トラブルで引責:朝日新聞デジタル」 2013年11月24日閲覧
  11. ^ 『サッカーニッポン代表のすべらない話』, 夏海樹良, ベースボール・マガジン社, 2010年
  12. ^ [1]
  13. ^ 2012年12月13日の『ニッポン・ダンディ』(TOKYO MX)より。
  14. ^ 1996年度作品│ACジャパン
  15. ^ 主に日本代表戦直前に不定期出演。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]