高木琢也
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 愛称 | アジアの大砲、ブーやん | |||||
| カタカナ | タカギ タクヤ | |||||
| ラテン文字 | TAKAGI Takuya | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
| |||||
| 生年月日 | 1967年11月12日(51歳) | |||||
| 出身地 | 長崎県南島原市 | |||||
| 身長 | 184cm | |||||
| 体重 | 85kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1990-1991 | フジタ | 15 | (3) | |||
| 1991-1992 | マツダ | 22 | (9) | |||
| 1992-1997 | サンフレッチェ広島 | 151 | (53) | |||
| 1998-1999 | ヴェルディ川崎 | 40 | (11) | |||
| 2000 | コンサドーレ札幌 | 17 | (0) | |||
| 代表歴2 | ||||||
| 1992-1997 |
| 44 | (27) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2006-2007 2009 2010-2012 2013-2018 2019- |
横浜FC 東京ヴェルディ ロアッソ熊本 V・ファーレン長崎 大宮アルディージャ | |||||
|
1. 国内リーグ戦に限る。2000年12月31日現在。 2. 1997年11月8日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、日本のサッカー選手、元サッカー日本代表選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。大阪商業大学卒業。
家族は妻と一男一女。長男はサッカー選手の高木利弥。
目次
選手時代の特徴[編集]
現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ[1]、ハンス・オフト監督時代の日本代表におけるターゲットマンとして攻撃のキーマンであった。
来歴[編集]
少年期[編集]
長崎県南高来郡北有馬町(現・南島原市)出身。小学生時代は野球少年で、「堀内2世」と周囲に言われた豪腕投手だった[脚注 1]。 中学3年生の時、2年後に島原商業高校サッカー部監督の小嶺忠敏が国見高校に異動するという情報を耳にしていた[脚注 2]。高校2年生から指導を受けられる予定であったため、島原商業ではなく、国見高校に進学する。2年生になり、小嶺が国見高校に赴任してきた時、新3年生の部員はおらず、また、2年生の部員も小嶺の指導のあまりの厳しさに1人、2人と減り、秋になる頃には高木1人しか残っていなかったため、小嶺新体制の国見高校サッカー部のいわば「長男坊」として、早くからチームのまとめ役を任された。3年時には主将としてインターハイに初出場し、国見高校の選手を中心に編成された長崎県選抜チームで臨んだ国体サッカー少年男子の部では、準優勝と得点王に輝いたが、全国高校サッカー選手権では県予選で後に同僚となる前川和也を擁する平戸高校に敗れて初出場は果たせなかった[2]。
高校卒業後の1986年に大阪商業大学へ入学し、同大学のサッカー部でプレー。小嶺の師でもある上田亮三郎から指導を受け、関西学生サッカーリーグ戦では1987年と1988年の2度、1部リーグで優勝した。
現役時代[編集]
大学卒業後、当時のマツダサッカー部監督・今西和男からの誘いを断り[3]、フジタ(現:湘南ベルマーレ)に入団[3]。しかしチームに合わず[3]、1991年今西からもう一度声を掛けられマツダに入団[3]。早くから攻撃の中心選手として活躍し、マツダがサンフレッチェ広島F.Cとして発足するとプロ契約、1992年にはJSL新人王を獲得。
同年にはハンス・オフト監督が指揮する日本代表にも初選出され、広島で開催されたアジアカップでは決勝戦で唯一のゴールを決め、日本の初優勝に貢献。「アジアの大砲」というキャッチフレーズと共に、高木の存在はサッカーファン以外にも広く知られるようになり、翌1993年に始まったJリーグでも人気選手となった。同年の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選にも最終予選まで参加したが、本大会出場はならなかった[脚注 3]。
1994年には、イワン・ハシェックと抜群のコンビで、広島のサントリーシリーズ優勝の原動力となった。しかし、同年のJリーグチャンピオンシップの第2戦でアキレス腱を断裂[脚注 4]。以後、常に故障に悩まされ続けるも、「怪我をネガティブに考えたことは一度もなかった」(高木談)というプラス思考で広島の中心選手として活躍を続ける。1997年には1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選で最終戦のカザフスタン戦に招集され[脚注 5] 1得点を挙げたが、続くプレーオフのイラン戦(ジョホールバルの歓喜)ではメンバー外となり、翌年の本大会でも日本代表には選ばれなかった。そしてカザフスタン戦が高木にとって日本代表での最後の出場試合となった。
1998年、広島の経営悪化に伴い移籍金を得るため放出を余儀なくされ、本人も環境を変えるいい機会として、ヴェルディ川崎へ移籍。前線の基点としてプレーするも次第に怪我により、活躍できなくなっていく。V川崎で2シーズンプレーした後、1999年末にオファーのあったコンサドーレ札幌へ移籍。日本代表のコーチや監督として指導を受けていた岡田武史監督の下、初めてJ2でのプレーとなった2000年は札幌のJ2優勝メンバーとなった。だが、自らはリーグ戦初の年間ノーゴールに終わり、同年を最後に、膝の負傷などを理由にして現役を引退した。
引退後[編集]
サッカー解説者として活動する傍ら、2005年には将来のJリーグ参入を目指して高木の故郷である長崎県で結成されたV・ファーレン長崎から監督就任のオファーを受けた。しかし、解説者としての仕事の都合や、当時はまだS級ライセンス取得中であったことから監督就任は見送り、技術アドバイザーとしてチームを支えることになり、主にサッカー解説のない時に来県して指導していた。
S級ライセンス取得後、2006年からはJ2の横浜FCのコーチに就任し、指導者としての第一歩を踏み出した。更にチーム始動から1ヶ月程しか経っていない第1節終了後の3月6日には足達勇輔監督が解任されたことに伴い監督に昇格し、チームを指揮することになった。指導経験に乏しく、準備期間も与えられなかった上、先輩に当る三浦知良を選手として起用することへの指導面も含め、難しい立場と思われていた。フロントの決断はサポーターの批判も招き、高木の初指揮となった第2節のホーム開幕戦では横断幕ゼロ、一切のコールを行わず試合を見守るのみという沈黙の抗議を行なう事態となった。
しかし高木就任後、チームは15戦無敗[脚注 6]。新監督として過去にない好成績を残し、J2加入以来5年間下位に沈んでいたチームを一気に昇格争い出来るチームへ変貌させた。更にイタリア代表の堅固な守備を称したカテナチオをもじって名付けられた「ハマナチオ」は、770分間連続無失点のJリーグ新記録[脚注 7] 及び7試合連続無失点のJ2タイ記録も樹立し、選手・サポーターの信頼を勝ち得た。11月26日、第51節(残り1試合)でのサガン鳥栖戦の勝利と、同節の他チームの結果によってJ1昇格を決定させると共に、指導者として初のタイトル(J2優勝)を獲得。初物づくしの一年となり、高木の手腕はサッカー評論家などの間で高く評価された。
2007年も同チームを指揮、開幕戦では敗れたものの前年王者の浦和レッズを苦しめ、第2節の「横浜ダービー」横浜FM戦で勝利するなど、開幕直後はJ1でも通用するかに見えた。しかし、他クラブとの戦力差は否めず、「ハマナチオ」はあっという間に崩壊、大量失点を繰り返した。新戦力の奥大介や久保竜彦も故障で離脱するなどし、大差での最下位(18位)に低迷。三浦淳宏獲得などの補強方針を巡ってフロントとの確執も表面化し、8月27日をもって監督を解任された[脚注 8]。
その後はTBSのスーパーサッカー[脚注 9] などでサッカー解説者を務め、2008年、J1に復帰した東京ヴェルディ1969のコーチに就任。2009年からはクラブのJ2降格に伴い退任した柱谷哲二の後を受け、東京Vの監督に就任した。経営難から満足な戦力が整わない中、中盤には6連勝を含む10戦負けなしを記録するなど奮闘したが、クラブの身売り・存続の危機というピッチ外での騒動の影響もあって、徐々に成績は下降。1年でのJ1復帰がなくなったことに加え、第89回天皇杯の初戦でJFL所属のホンダロックSCに敗れたことが引き金となり、7試合を残した10月に途中解任された。
2010年より、ロアッソ熊本の監督に就任。守備に重点に置きながらカウンターを狙うという戦術が功を奏して失点数を大幅に減らすことに成功し、J2昇格後3年目のチームを初めて1桁順位(7位)に押し上げた。しかし翌年11位に後退、更にその次2012年も12位以下が確定したことから、クラブは2012年11月8日、同年シーズンの公式試合が終了次第退任させることを発表した[4]。
2013年より、かつてアドバイザーを務めたV・ファーレン長崎の監督に就任。J2初年のチームを6位に導き、J1昇格プレーオフ進出を果たした。2014年は14位に終わったものの、2015年には6位となり2年ぶりにJ1昇格プレーオフへ進出した。2016年は15位に終わったが、2017年には2位となりチームをJ1初昇格に導いた。
2018年シーズンは、J1開幕戦から第6節・FC東京戦まで2分4敗と苦しむが、第7節・清水エスパルス戦で長崎のJ1初白星を記録する[5]と、第11節・ジュビロ磐田戦まで4連勝を達成[6]。J1リーグ前半戦終了となる第17節終了時点で、15位・5勝2分10敗の成績で折り返す[7]。J1リーグ後半戦開始となる第18節・FC東京戦で勝利を挙げるが、第19節・北海道コンサドーレ札幌戦から第25節・湘南ベルマーレ戦まで1分6敗と苦しみ、チームは最下位へ転落。第26節・名古屋グランパス戦で7連勝中の名古屋を4-3で下し勝利する[8]と、続く第27節・ベガルタ仙台戦でも勝利を挙げ、2連勝を達成する[9]。しかし、最下位脱出とはならず、11月10日、第32節・横浜FM戦に敗れたことで自動降格圏である17位以下が確定[10][11]。11月17日、J2リーグの最終節でFC町田ゼルビアの4位が確定したことにより、J1残留の可能性が消滅。1年でのJ2降格が決定した[12]。11月19日、契約満了に伴い、2018シーズン限りで退任することが発表された[13][14]。第33節・ガンバ大阪戦で敗れ、長崎は最下位での降格が決定[15]。最終節では清水と対戦し、4-4で引き分け[16]、長崎のJ1初挑戦となった2018年シーズンの勝ち点は30となった。J1リーグの最下位チームとしては、現行の18チーム制になった2005年以来、過去最多を記録した[17][18]。
2019年シーズンより、大宮アルディージャで監督を務める[19]。
エピソード[編集]
- オフト監督時代の日本代表(オフト・ジャパン)のFWとしては三浦知良(カズ)がマスメディアなどで注目されたが、高木や三浦と共に同時期のFWだった武田修宏の話では「フォワードの軸は高木で、カズは2番手、武田自身は5番手」であったという[20]。
- Jリーグ初期の変動背番号制時代は「10番」を長く背負ってきたが、高木はあまり好きな番号ではなかったという。固定番号制が採用された1997年以降「18番」を選んでいる(初めて日本代表に選ばれたときの番号が18だったことに由来)。ちなみに、そのとき10番を付けたのが、後に横浜FCで高木の下でプレーした久保竜彦である。
- 高木(国見高校)の高校選手権出場を阻んだ平戸高校のGKは、のちに広島でチームメイトとなった前川和也である[2]。
- 性格は温厚で、前園真聖は体が大きくて温厚な高木を「社長」と呼んでいた。また中山雅史など"ドーハ組"らには「ブーやん」と呼ばれる。苗字が同じ高木ブーと、琢也の「琢」の字が「豚」に似ていることが由来。高木が横浜FCの監督になった後、このチームで選手を続けていた三浦知良はインタビューなどで「高木監督」と呼んで年下の指揮官に敬意を払ったが、磐田に在籍していた同学年の中山は「ブーやん」のあだ名を変えず、高木を困惑させた。
- 好きな芸能人は唯一浜田省吾。中学生の頃からファンで、サンフレッチェ広島所属時に郷里が広島の浜省と対面すると、それ以降浜省以外は興味を持たなくなった。
- 2006年から、地域・家庭・学校が協力して子供を育む長崎県の県民運動「こころねっこ運動」のイメージキャラクターを務めており、テレビCMではお父さん役をこなした。
所属クラブ[編集]
- 1983年 - 1985年 国見高校
- 1986年 - 1989年 大阪商業大学
- 1990年 - 1991年
フジタ - 1991年 - 1997年
マツダ / サンフレッチェ広島 - 1998年 - 1999年
ヴェルディ川崎 - 2000年
コンサドーレ札幌
個人成績[編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1990-91 | フジタ | JSL2部 | 15 | 3 | 0 | 0 | |||||
| 1991-92 | マツダ | 20 | JSL1部 | 22 | 9 | 0 | 0 | ||||
| 1992 | 広島 | - | J | - | 7 | 4 | 0 | 0 | 7 | 4 | |
| 1993 | 29 | 11 | 0 | 0 | 2 | 0 | 31 | 11 | |||
| 1994 | 42 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 42 | 14 | |||
| 1995 | 24 | 5 | - | 5 | 4 | 29 | 9 | ||||
| 1996 | 30 | 11 | 6 | 1 | 5 | 2 | 41 | 14 | |||
| 1997 | 18 | 26 | 12 | 0 | 0 | 2 | 1 | 28 | 13 | ||
| 1998 | V川崎 | 22 | 9 | 1 | 0 | 3 | 0 | 26 | 9 | ||
| 1999 | J1 | 18 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 21 | 3 | ||
| 2000 | 札幌 | J2 | 17 | 0 | 1 | 0 | 3 | 1 | 21 | 1 | |
| 通算 | 日本 | J1 | 191 | 64 | 18 | 6 | 17 | 7 | 226 | 77 | |
| 日本 | J2 | 17 | 0 | 1 | 0 | 3 | 1 | 21 | 1 | ||
| 日本 | JSL1部 | 22 | 9 | 0 | 0 | ||||||
| 日本 | JSL2部 | 15 | 3 | 0 | 0 | ||||||
| 総通算 | 245 | 76 | 19 | 6 | |||||||
その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 6試合3得点
- 1994年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- Jリーグ初出場 1993年5月16日対ジェフユナイテッド市原戦 (広島スタジアム)
- Jリーグ初得点 1993年5月26日対横浜マリノス戦 (広島スタジアム)
代表歴[編集]
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 44試合 27得点 (1992年 - 1997年)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1992 | 11 | 5 |
| 1993 | 13 | 7 |
| 1994 | 5 | 2 |
| 1995 | 0 | 0 |
| 1996 | 10 | 6 |
| 1997 | 5 | 7 |
| 通算 | 44 | 27 |
得点数[編集]
| # | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1992年8月24日 | 中華人民共和国、北京 | 2-0 | 勝利 | ダイナスティカップ1992 | |
| 2 | 1992年8月26日 | 4-1 | 勝利 | |||
| 3 | 1992年8月29日 | 2-2 PK4-2 |
引分 | |||
| 4 | 1992年11月8日 | 日本、広島市 | 1-0 | 勝利 | AFCアジアカップ1992 | |
| 5 | 1993年4月11日 | 日本、東京 | 8-0 | 勝利 | 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 6 | 1993年4月15日 | 5-0 | 勝利 | |||
| 7 | 1993年4月18日 | 2-0 | 勝利 | |||
| 8 | 1993年4月30日 | アラブ首長国連邦、ドバイ | 4-1 | 勝利 | ||
| 9 | 1993年5月5日 | 日本、東京 | 6-0 | 勝利 | ||
| 10 | 1994年10月5日 | 日本、広島市 | 1-1 | 引分 | アジア競技大会 | |
| 11 | 1994年10月9日 | 日本、尾道市 | 5-0 | 勝利 | ||
| 12 | 1996年2月10日 | オーストラリア、ウロンゴン | 4-1 | 勝利 | 親善試合 | |
| 13 | 1996年2月19日 | 香港 | 5-0 | 勝利 | カールスバーグカップ | |
| 14 | 1996年8月25日 | 日本、大阪市 | 5-3 | 勝利 | 親善試合 | |
| 15 | 1996年12月6日 | アラブ首長国連邦、アル・アイン | 2-1 | 勝利 | AFCアジアカップ1996 | |
| 16 | 1997年3月25日 | オマーン、マスカット | 10-0 | 勝利 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 17 | 1997年3月27日 | 6-0 | 勝利 | |||
| 18 | 1997年11月8日 | 日本、東京 | 5-1 | 勝利 |
指導歴[編集]
- 2003年 - 2004年 日本大学保健体育審議会サッカー部コーチ
- 2005年 V・ファーレン長崎技術アドバイザー
- 2005年 JFA 公認S級コーチライセンス習得
- 2006年 - 2007年8月 横浜FC
- 2006年1月 - 同年3月 アシスタントコーチ
- 2006年3月 - 2007年8月 監督
- 2008年 - 2009年10月 東京ヴェルディ
- 2008年 コーチ
- 2009年 - 同年10月 監督
- 2010年 - 2012年 ロアッソ熊本 監督
- 2013年 - 2018年 V・ファーレン長崎 監督
監督成績[編集]
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
| 2006 | J2 | 横浜FC | 優勝 | 93 | 47 | 26 | 15 | 6 | - | 3回戦 |
| 2007 | J1 | 18位 | 11 | 22 | 3 | 2 | 17 | 予選リーグ | - | |
| 2009 | J2 | 東京V | 9位 | 60 | 44 | 17 | 9 | 18 | - | 2回戦 |
| 2010 | 熊本 | 7位 | 54 | 36 | 14 | 12 | 10 | 3回戦 | ||
| 2011 | 11位 | 51 | 38 | 13 | 12 | 13 | 2回戦 | |||
| 2012 | 14位 | 55 | 42 | 15 | 10 | 17 | 4回戦 | |||
| 2013 | 長崎 | 6位 | 66 | 42 | 19 | 9 | 14 | 2回戦 | ||
| 2014 | 14位 | 52 | 42 | 12 | 16 | 14 | 4回戦 | |||
| 2015 | 6位 | 60 | 42 | 15 | 15 | 12 | 2回戦 | |||
| 2016 | 15位 | 47 | 42 | 10 | 17 | 15 | 2回戦 | |||
| 2017 | 2位 | 80 | 42 | 24 | 8 | 10 | 2回戦 | |||
| 2018 | J1 | 18位 | 30 | 34 | 8 | 6 | 20 | 3回戦 | ||
| 2019 | J2 | 大宮 | - | |||||||
| J1通算 | - | - | 56 | 11 | 8 | 37 | - | - | ||
| J2通算 | - | - | 417 | 165 | 123 | 129 | - | - | ||
- 2006年は第2節より監督就任。
- 2007年は第22節で解任。
- 2009年は第44節で解任。
タイトル[編集]
高校時代
- 1985年 国体 準優勝・得点王
クラブチーム
代表
- ダイナスティカップ1992 優勝・得点王
- AFCアジアカップ1992 優勝
指導者
- 2006年 Jリーグ ディビジョン2 優勝 (横浜FC)
脚注[編集]
- ^ 野球では左投げ左打ち
- ^ 高木の実家の前にある床屋の主人が、小嶺のいとこであったため知ることが出来たとのこと
- ^ 後に「ドーハの悲劇」と呼ばれる、最終予選最終戦のイラク戦ではベンチ入りし、試合には出場しなかった。
- ^ 対戦相手だったヴェルディ川崎の加藤久のスライディングによる負傷だった。なお、加藤はこの試合を最後に現役を退き、試合の前日付で日本サッカー協会の強化委員長に就任した。
- ^ FWの三浦知良と呂比須ワグナーの2人が出場停止という状況で、中山雅史と共にメンバーへ選出された。
- ^ 新監督として就任してからのJリーグ新記録となった(現在も更新されていない)。従来の記録はサンフレッチェ広島の小野剛監督の11試合
- ^ 従来は1993年清水エスパルスの731分
- ^ 横浜FCは高木の後任監督にブラジル人のジュリオ・レアルを据えたが、J1最下位でのJ2降格となった。高木監督解任時点で9試合連続未勝利であったが、その後も、連続未勝利記録は最終節で勝利するまで途切れず、20試合連続未勝利のリーグワースト記録を更新した。
- ^ 水沼貴史との週替わりで担当した。
出典[編集]
- ^ “山形 “アジアの大砲”高木琢也氏の長男・利弥が特別指定選手に”. スポーツニッポン新聞社 (2014年7月31日). 2016年9月13日閲覧。
- ^ a b 日刊スポーツ 2004年インターハイ特集 トップアスリートからのメッセージ
- ^ a b c d “中国新聞創刊120周年記念 サンフレッチェ広島クラブ創設20周年 紫への思い熱く 高木琢也インタビュー”. 中国新聞: pp. 16–17. (2012年6月23日)
- ^ “高木琢也監督 来季契約について” (プレスリリース), アスリートクラブ熊本, (2012年11月8日) 2012年11月8日閲覧。
- ^ “開幕7戦目でつかんだJ1初白星! 長崎がFW鈴木武蔵のゴールで清水を下す”. ゲキサカ (2018年4月11日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “J1初挑戦の長崎が破竹の4連勝!まさに"執念の守備"で磐田に粘り勝ち”. SOCCER DIGEST Web (2018年4月25日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “2018明治安田生命J1リーグ 順位表 【2018年07月22日 現在(第17節)】”. J.League Date Site. 2018年11月19日閲覧。
- ^ “名古屋の連勝を止めたのは最下位・長崎! 鈴木がハット達成…8試合ぶりの白星”. SOCCER KING (2018年9月15日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “GKシュミット・ダニエルが痛恨ミス…長崎は133日ぶりホーム勝利!澤田V弾で仙台に競り勝つ”. ゲキサカ (2018年9月22日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “J1残留争い直接対決は横浜FMに軍配…長崎は17位以下が確定”. SOCCER KING (2018年11月10日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “長崎の自動降格圏17位以下が確定…横浜FMは自動降格回避、伊藤翔が「反省」のV弾”. ゲキサカ (2018年11月10日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “長崎は1年でJ2降格へ…町田に命運託すもあと一歩及ばず”. ゲキサカ (2018年11月17日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “V・ファーレン長崎 監督 高木琢也氏 退任のお知らせ” (プレスリリース), V・ファーレン長崎, (2018年11月19日) 2018年11月19日閲覧。
- ^ “J2降格の長崎、高木琢也監督が今季限りで退任”. 日刊スポーツ (2018年11月19日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “pJ1長崎、G大阪に惜敗 最下位確定も高木監督は積極性を評価”. 西日本スポーツ (2018年11月25日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ “最終節らしい気持ちが入った壮絶ゲーム!J2降格・長崎が追いついて清水とドロー決着”. ゲキサカ (2018年12月1日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ “長崎、壮絶な打ち合いの末ドローも…J1過去最多となる最下位での勝ち点30を獲得/J1最終節”. GOAL.com (2018年12月1日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ “磐田、悪夢の16位転落で入れ替え戦へ。最下位の長崎は勝ち点30獲得、18チーム制では最多【J1残留争いの結末】”. FOOTBALL CHANNEL (2018年12月4日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ “高木琢也 監督 就任のお知らせ” (プレスリリース), 大宮アルディージャ, (2018年12月8日) 2018年12月22日閲覧。
- ^ 「武田修宏のワールドワイド交遊録(14)」『東京スポーツ』連載、2007年7月24日、5頁。
関連項目[編集]
- サッカー日本代表出場選手
- ロアッソ熊本の選手一覧
- サンフレッチェ広島F.Cの選手一覧
- 北海道コンサドーレ札幌の選手一覧
- 横浜FCの選手一覧
- 東京ヴェルディ1969の選手一覧
- Jリーグ監督経験者
- 長崎県出身の人物一覧
- 広島県スポーツ振興チャリティゴルフ大会
外部リンク[編集]
- 高木琢也 - J. League Data Siteによる選手データ (日本語)

- 高木琢也 - J. League Data Siteによる監督データ (日本語)

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