森山佳郎
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
愛称 | ゴリ[注 1] | |||||
カタカナ | モリヤマ ヨシロウ | |||||
ラテン文字 | MORIYAMA Yoshiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1967年11月9日(55歳) | |||||
出身地 | 熊本県熊本市東区 | |||||
身長 | 175cm | |||||
体重 | 72kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 日本代表(U17)(監督) | |||||
ポジション | DF / MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
![]() | ||||||
1980-1982 |
![]() | |||||
1983-1985 |
![]() | |||||
1987-1990 |
![]() | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1991-1992 |
![]() | 2 | (0) | |||
1992-1995 |
![]() | 95 | (4) | |||
1996-1997 |
![]() | 53 | (1) | |||
1998 |
![]() | 0 | (0) | |||
1999 |
![]() | 18 | (0) | |||
代表歴2 | ||||||
1994 |
![]() | 7 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2000-2002 | 広島ユースコーチ | |||||
2002-2012 | 広島ユース監督 | |||||
2013-2016 | 広島強化部コーチ | |||||
2015- | U-17日本代表監督 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月17日現在。 2. 2007年10月17日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
森山 佳郎(もりやま よしろう、1967年11月9日 - )は、日本の元サッカー選手(DF)、指導者。熊本県熊本市東区出身。元サッカー日本代表。現U-17サッカー日本代表監督。(JFA公認S級コーチ)。
娘はお笑い芸人の森山あすか。
人物[編集]
現役時代は豊富な運動量とガッツ溢れるプレーで活躍した右サイドバック。親近感が持たれる性格でチームのムードメーカーでもあった。
熱心な指導をするサッカー指導者であり[注 2]、広島ユースを高円宮杯3度優勝に導くなど強豪チームに成長させ、トップチームで活躍し日本代表に選ばれる選手を育て上げるなど、高校年代の指導者として高い評価を得ている[1][4]。
来歴[編集]
熊本市立東町小学校時代からサッカーを始めるも一時サッカーが嫌いになり、熊本市立錦ヶ丘中学校入学と同時にバスケットボール部へ入部したが、中学2年の時にサッカー部へ編入している[1]。
熊本県立第二高等学校から筑波大学へ進学しようとするも入学願書の期日を間違えてしまい、結局一浪してしまう。
その後、大学サッカーの名門筑波大学へ一般入試で進学する[5]。そのため井原正巳、中山雅史は同じ歳であるが、彼らは大学の1年先輩である。大学時代のほとんどをCチーム(3軍)に所属し公式戦には出られず、4年生になってようやくトップチームで試合に出られるようになる[5]。
卒業後は教員になるつもりだったが採用試験に落ちてしまい、練習に参加していた富士通サッカー部からも声がかからなかった[6]。そこで、大学の先輩・今西和男のスカウトもあり、マツダに入社しマツダサッカークラブ(現サンフレッチェ広島)に入団する[5]。同期は森秀昭、柳本啓成、笛真人、路木健、松山大輔、小倉一浩。入団1年からJリーグプレ開幕戦として開催されたナビスコ杯に出場するなど順風満帆なスタートを切った。が、右SBは柳本啓成がレギュラーとなり途中出場が続いた。
1993年8月柳本が怪我による負傷欠場、翌1994年CBに怪我人が続出したため柳本がCBにコンバート、それに伴い右SBのレギュラーを獲得した。サントリーシリーズでは、広島のステージ優勝に貢献する[注 3]などの活躍が認められ日本代表に選出される[5] までになった。翌1995年、この年より監督に就任したビム・ヤンセンの評価を得ることができず出場機会も減少。この年限りで広島を退団。
その後横浜フリューゲルス、ジュビロ磐田、ベルマーレ平塚でプレーする。平塚時代ではキャプテンを務めたが、古傷の左足変形性膝関節症が悪化し、1999年のシーズンをもって現役引退する[5]。
「 | 気持ちには引力がある | 」 |
—森山佳郎[7] |
引退後は、イングランドにコーチ留学を行おうとしていたが、今西に誘われ、サンフレッチェ広島ユースのコーチに就任する[5]。2002年8月に当時ユース監督であった中村重和のアビスパ福岡監督就任[8] に伴い、同ユースの監督に昇格した。
2013年、森山を評価する原博実の要請に応じて[9] 広島ユース監督を退任し、同クラブ強化部の育成コーチ兼ナショナルトレセン中国地区担当コーチに就任し、JFA 公認S級コーチライセンス取得を目指す[10]。また兼任する形で2015 FIFA U-17ワールドカップ出場を目指す、吉武博文率いるU-15日本代表アシスタントコーチに就任した。
2015年に日本サッカー協会に籍を移し、U-15日本代表監督に就任した。
2016年、AFC U-16選手権2016(インド)に出場するU-16サッカー日本代表監督としてチームの指揮を執り、ベスト4に進出させて2017 FIFA U-17ワールドカップ(インド)への出場権を獲得することに成功した[11]。
個人成績[編集]
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | マツダ | 15 | JSL1部 | 2 | 0 | 2 | 1 | ||||
1992 | 広島 | - | J | - | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
1993 | 29 | 2 | 6 | 0 | 4 | 0 | 39 | 2 | |||
1994 | 42 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 46 | 0 | |||
1995 | 24 | 2 | - | 3 | 0 | 27 | 2 | ||||
1996 | 横浜F | 26 | 1 | 10 | 1 | 1 | 0 | 37 | 2 | ||
1997 | 2 | 27 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 33 | 0 | ||
1998 | 磐田 | 17 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
1999 | 平塚 | 2 | J1 | 18 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 19 | 0 |
通算 | 日本 | J1 | 166 | 5 | 31 | 1 | 11 | 0 | 208 | 6 | |
日本 | JSL1部 | 2 | 0 | 2 | 1 | ||||||
総通算 | 168 | 5 | 33 | 2 | 11 | 0 | 208 | 6 |
- その他の公式戦
-
- 1991年
- コニカカップ 1試合0得点
- 1994年
- Jリーグチャンピオンシップ 1試合0得点
- 1991年
- Jリーグ初出場:1993年5月29日 1st第5節・対横浜フリューゲルス戦(鹿児島県立鴨池陸上競技場)
- Jリーグ初得点:1993年6月5日 1st第7節・対浦和レッドダイヤモンズ戦(広島スタジアム)[注 4]
代表歴[編集]
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 7試合 0得点(1994年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1994 | 7 | 0 |
通算 | 7 | 0 |
指導歴[編集]
- 2002年 - 2005年 : サンフレッチェ広島ユース U-15 アシスタントコーチ
- 2005年 - 2012年:サンフレッチェ広島ユース U-15 コーチ
- 2013年 - 2014年:日本サッカー協会 ナショナルトレセン中国地区担当コーチ 兼 U-15日本代表アシスタントコーチ
- 2015年:U-15日本代表 復興支援特任コーチ
- 2016年:U-16日本代表 復興支援特任コーチ
- 2017年 - :U-17日本代表 ヘッドコーチ
- 2018年 - : 日本サッカー協会 ナショナルトレセン
- 2019年 - : U-17日本代表 監督
- 2020年 - : 日本サッカー協会 ナショナルトレセン
- 2021年 - : ナショナルトレセン東北地域チーフコーチ
- 2022年 - : ナショナルトレセン東北地域チーフコーチ
- 2023年 - : U-17日本代表 監督
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 現役時代から。「『監督』と呼ばれるのが照れくさい」こともあり、サンフレッチェ広島ユース監督時代も選手に「ゴリさん」と呼ばせていた[1][2]。
- ^ 2003年、高円宮杯でその年の高校総体準優勝チームである帝京高校と対戦することとなった。そのとき、朝日新聞が企画で双方の監督にインタビューし、その中で古沼貞雄監督がクラブユース勢に対して辛辣な意見を語った[3]。これを見た森山は発奮、同年9月28日対戦前にこのインタビュー記事を選手達に見せ奮起させ、6-0で勝利を収めた。
- ^ 1994年サントリーシリーズで優勝が決まった際にチェアマン杯破損事件が起こったが、この時にチェアマン杯を割ったと勘違いされた[1]。
- ^ 後半26分に挙げたゴールが決勝点となった(1-0)。その際、喜びのあまりユニフォームを脱いで喜びを表現したが、これが非紳士的行為ならびに遅延行為とみなされイエローカードを貰ってしまった。この時、脱いだユニフォームを拾って持っていたのが松田浩。「やったね!ラモズくん」ではパロディ化された。
出典[編集]
- ^ a b c d 広島市医師会
- ^ “『何を言われても、悔しくても、まず受け入れるビッグハート』槙野智章”. サカイク (2011年10月8日). 2011年12月25日閲覧。
- ^ “高校とクラブ 何が違う?”. 朝日新聞. 2011年12月25日閲覧。
- ^ “サッカーセミナー第4回”. SportsClick. 2011年12月25日閲覧。
- ^ a b c d e f キャリアサポートセンター 2001.
- ^ 【育将・今西和男】森山佳郎「自分だけの武器を持たないと生きていけない」 - WebSportiva・2016年6月12日
- ^ “広島ユースが体現した「気持ちには引力がある」”. スポーツナビ (2010年10月9日). 2011年12月25日閲覧。
- ^ “管理強化部長 中村重和の挑戦”. スポーツナビ (2005年6月12日). 2011年12月25日閲覧。
- ^ “重鎮”原・西野両氏が見たU-16代表。監督への賛辞と選手への期待感「黄金世代彷彿」「久保は人と違う部分伸ばして」 フットボールチャンネル (2016年9月27日)
- ^ “次期監督には望月氏就任へ”. 中国新聞 (2012年12月17日). 2012年12月29日閲覧。
- ^ “日本がU17W杯切符!/U16アジア選手権詳細”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. (2016年9月26日) 2016年12月16日閲覧。
参考資料[編集]
- 部活とクラブの融合に成功した男 広島ユース監督・森山佳郎の退任 - footballchannel
- 教え子たちに闘争心とタフさを植えつけた10年
- “森山佳郎さん”. Jリーグキャリアサポートセンター (2001年). 2009年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月25日閲覧。
- “インタビュー” (PDF). 広島市医師会. 2011年12月25日閲覧。
- 代表タイムライン - 日本サッカー協会
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 森山佳郎 - National-Football-Teams.com (英語)
- 森山佳郎 - Soccerway.com (英語)
- 森山佳郎 - WorldFootball.net (英語)
- 森山佳郎 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 森山佳郎 - J.League Data Siteによる選手データ
- 森山佳郎 (yoshiro.moriyama.9) - Facebook
- サムライ吉田の蹴球戦国史~ゴリ日記~