中山雅史
この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。(2017年5月) |
| ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 愛称 | ゴン、中山隊長、ゴン中山 | |||||
| カタカナ | ナカヤマ マサシ | |||||
| ラテン文字 | NAKAYAMA Masashi | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
| |||||
| 生年月日 | 1967年9月23日(51歳) | |||||
| 出身地 | 静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市) | |||||
| 身長 | 178cm | |||||
| 体重 | 72kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| 在籍チーム |
| |||||
| ポジション | FW | |||||
| 背番号 | 39 | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1983-1985 | 静岡県立藤枝東高校 | |||||
| 1986-1989 | 筑波大学 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1990-1993 | ヤマハ発動機 | 65 | (50) | |||
| 1994-2009 | ジュビロ磐田 | 354 | (157) | |||
| 2010-2012 | コンサドーレ札幌 | 13 | (0) | |||
| 2015- | アスルクラロ沼津 | 0 | (0) | |||
| 代表歴2 | ||||||
| 1990-2003 |
| 53 | (21) | |||
|
1. 国内リーグ戦に限る。2018年12月2日現在。 2. 2003年6月8日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市)出身のプロサッカー選手、サッカー解説者。アスルクラロ沼津所属。ポジションはフォワード。
日本プロサッカー選手会名誉会長。ゴン中山の愛称で知られる。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。
日本代表として1998 FIFAワールドカップ、2002 FIFAワールドカップにも出場。Jリーグ(J1)最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。国際試合における最短ハットトリックのギネス世界記録保持者でもある。なお、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者、同年11月にステファン・ルチヤニッチに抜かれるまでハットトリック連続世界記録保持者(4試合連続)であった。
妻は女優・タレントの生田智子で、2004年に第1子(女子)が生まれた。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員である。
来歴[編集]
現役時代[編集]
学生時代[編集]
静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍し、高校2年生の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にした。本大会では準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍した。
1986年、筑波大学体育専門学群に入学して蹴球部に入部。当初静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーを務めたが、後に先輩の長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻った。
ヤマハ・ジュビロ磐田[編集]
1990年、ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時のヤマハは完全プロ化への移行は成されていなかったため、サラリーマン生活も経験した。同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。
1992年に発足したオフトジャパンでは試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍し、第2回ダイナスティカップやアジアカップの初優勝に貢献する。1993年はクラブがジャパンフットボールリーグ(JFL)在籍にもかかわらず、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選のメンバーにも選ばれ、最終予選では途中からスタメンに定着して活躍を見せた。また予選中その陽気なトークや(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)熱意溢れるプレーがマスコミで話題となり、一躍全国区の人気者となる。アジア最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められ引き分けた、いわゆる『ドーハの悲劇』の際に、交代してベンチに座っていた中山が地面に頽れた様子は、ワールドカップ行きの切符を逃したこの試合・出来事をテレビ番組などで振り返るときに必ずといっていいほど流されるシーンとなった(ただし本人はこの時地面に頽れたことを「まだ試合終了の笛がなっていないのに諦めてしまった」と後悔している)。またこの年、ジュビロ磐田はJFL1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たした。
1994年のJリーグ開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア(現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害)が悪化し、4月末に戦線離脱を余儀なくされる。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手もいたが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎や福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振った。
1995年には怪我から復帰し開幕から好調なスタートを切った。元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJリーグ最強と言われた。前年の怪我のために離れていた代表にもキリンカップで復帰したが、6月のアンブロ・カップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。
1997年は、ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「オフ・ザ・ボールの動きの質」に開眼。第2ステージでは自身Jリーグにおいては自身初となるハットトリックも記録するなど結果を残してステージ優勝に貢献。直後に1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終局面で代表へ復帰して今度は日本代表の予選突破に貢献。日本の本大会初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」)では、岡田武史監督から2トップ組む三浦知良と共に交代を命じられ、呂比須ワグナー及び城彰二が投入された。 更に鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。
1998 FIFAワールドカップに日本代表として出場。グループリーグで敗退したものの、3試合すべてで先発し、ジャマイカ戦で日本代表のワールドカップ初ゴール・日本人初ゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けたことは、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている(「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」というのは誤り)。
同年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居陸上競技場)での5得点(Jリーグのリーグ戦における「1試合1人での最多得点」タイ記録)を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(ジュビロ磐田スタジアム)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(熊本市水前寺競技場)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(ジュビロ磐田スタジアム)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された(2016年11月にクロアチア東部の地域リーグであるドラーチチェ・ジャコボ所属のFWステファン・ルチヤニッチが5試合連続ハットトリックを達成して記録は塗り替えられている[1])。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点(現在でもリーグ戦の最多得点記録)を記録し当年度の得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱を期する鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。
1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。
2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された(これ以前の記録は、1938年11月16日にイングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒である)。
2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れ年間優勝をのがす。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。
2002年、当初は候補合宿に招集されるなど2002 FIFAワールドカップ代表入りが有力視されていたが、リーグ開幕から不調(ワールドカップによる中断までわずか1得点)で、直前の海外遠征のメンバーから外された。更に当時のトルシエ監督が落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測・報道が多数を占めたが、世間一般からの「中山待望論」(直前のカップ戦ではアウェイゲームにも関わらず相手サポーターからも「ナカヤマ・ニッポン」コールが起こった)に加え、ベテラン抜きだった直前遠征で結果が出せなかった代表に足りない「精神的支柱」としての意味もあり、秋田豊とともに2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出され、選出されなかった中村俊輔が付けていた背番号10を背負った。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立つ。「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手[2] となった。
クラブでは同年のリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦でゴールを量産し、自身は16ゴールを上げ、この年のリーグ戦では日本人のみなら得点王の高原に次ぐ得点をとった。そして、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献しベストイレブンに選出された。
2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰。復帰初戦となった東京ヴェルディ1969戦では、試合中にも関わらず中山がユニホーム姿になると場内が騒然とした。相手DF米山篤志は「あれは異様な雰囲気だった」とコメントするほどだった。試合後、監督の柳下正明は「当初はこの試合では(中山を)起用しないつもりだった」としたうえで「エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」とコメント。事実投入直後のコーナーキックで磐田は同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利を収めている。しかしながら、最終節横浜FMに敗れたことによりリーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。
2005年5月1日の柏レイソル戦(柏の葉公園総合競技場)での前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハスタジアム)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。
2006年9月17日の川崎フロンターレ戦(等々力陸上競技場)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールを達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で達成)。この記録は過去に三浦知良(2006年に当時J2の横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している)、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。
2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平スタジアム)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任した。
2008年3月15日のガンバ大阪戦(エコパスタジアム)でもロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップ清水戦(日本平スタジアム)で、後半43分にCKをヘディングで決めて、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜いてナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える(中山は40歳8か月2日)で、快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。また、この得点が2018年現在も中山が公式戦で挙げた最後の得点となっている。
2009年シーズンは出場機会が激減。自身が同年42歳の高齢となったこともあり、11月9日に磐田から戦力外通告を受け、同時にスタッフとしての残留要請を受けた。しかし現役続行に強い意欲を示す中山はこれを断り、新天地を探すことを選択した。また、この年は中山と同じく磐田がJリーグに加盟した1994年から在籍し、この年の時点で中山と共に2002年の完全優勝を知る選手であった鈴木秀人も戦力外通告を受けた。同年のヤマハスタジアムでの公式戦最終戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、当時ラモス瑠偉が保持していたJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節のヴィッセル神戸戦(ホームズスタジアム神戸)での出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながら磐田での最後の試合を終えた。
コンサドーレ札幌[編集]
退団発表後、ロアッソ熊本、横浜FC、コンサドーレ札幌(以上J2)、FC町田ゼルビア、V・ファーレン長崎(以上JFL)、藤枝MYFC(東海リーグ)の6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実している札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまでも現役にこだわり続ける姿勢を表明した。
2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術をした。
2011年は前年の手術した膝の影響もあり、試合にはまともに出られず、9月には両膝関節炎になってしまい、この年は公式戦無出場に終わった。しかし、来季も現役続行の意志を示し、また所属する札幌のJ1昇格が決まり、中山自身にとっては来季は3シーズン振りのJ1となることが決まった[3]。
オフには、東日本大震災の慈善試合で仙台で行われた「日本サッカー選手会 クリスマス・チャリティーサッカー2011」に出場し、会場を盛り上げた[4]。また、この際に複数の選手たちと共に被災地訪問もしている[5]。
2012年、「東日本大震災復興支援Jスペシャルマッチ」のファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された[6]。
11月24日の横浜F・マリノス戦で、後半から途中出場を果たし、45歳2ヵ月1日でのJ1出場で、自身が持つ最年長J1出場記録を更新した[7]。
シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め[8]、4日に現役引退を発表した[9]。記者会見では、引退の原因は両膝が思うように動かなくなったことと話し、まだ未練タラタラであり、元気になったらカムバックするつもりとも述べ、またサッカーを愛するがゆえにそういう怪我も負ってしまったが、サッカーを愛したことに後悔はしていないとも語った[10]。引退会見ではあったが、中山は「第一線を退く」という言葉を使い、「引退」という言葉を使っていない。また自身の引退試合の開催についても現時点で否定する発言もしている。
中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。
日本国内だけでなくフランス紙の「レキップ」やFIFAの公式HP、中国メディアの中国新聞社などが中山の引退のことについて紹介している。
その後[編集]
引退後は、マネジメント会社ARSと契約し色々なバラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、「第91回全国高校サッカー選手権大会 決勝」のゲスト解説や「第21回全日本高校女子サッカー選手権大会」のイメージキャラクターを担当したりしている。2013年4月からはテレビのレギュラー番組や初のパーソナリティを担当するラジオ番組などに出演している。サッカー解説は主にテレビ朝日、スカパーでの試合中継時に行っている。
2013年10月に発売した『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演し、同作のパッケージも担当していて、ゲーム内にも自身が登場している[11]。
複数の会社による共同の東日本大震災被災地支援プロジェクトで、福島県相馬市に屋内型の遊び場を建設する企画の『みんなの遊び場プロジェクト』などにも参加している[12]。
10月15日、2013年度のJリーグアウォーズにて、功労選手賞として表彰される事が決まり[13]、12月10日、Jリーグアウォーズにて、功労選手賞が授与された[14]。
現役復帰[編集]
アスルクラロ沼津[編集]
2015年9月5日、磐田時代の2004年〜2006年に監督として指揮を執った山本昌邦が理事長を務めるJFL・アスルクラロ沼津の練習に参加し[15][16]、9月14日には現役復帰することが発表された[17]。10月11日には、古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰した[18]。中山の影響で沼津の試合で観客が増えたり、ベンチ入りしない試合でも試合会場に駆けつけチームメイトを鼓舞するなどしていたが、2015年シーズンは試合には出場しなかった[19]。(サッカー解説者の活動も並行で継続。)
J1通算157ゴール(最後の得点は2008年3月15日のG大阪戦)記録を約7年間並ばれることはなかったが、2015年11月22日にサンフレッチェ広島の佐藤寿人が通算157ゴール目を決め中山に並んだ。また、中山はスタンドで観戦しており「現時点で追いつかれただけですからね。ここから引き離していけるように頑張れればいい。素晴らしいゴールを間近で見させていただき、勉強になりました。ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」と中山節でコメントした[20]。
2016年シーズンも公式戦の出場は無かったが、チームはJFL年間3位となり悲願のJリーグ入りが決定した[21]。
背番号[編集]
ジュビロ磐田[編集]
- 9 1997-2009年
- 前身のヤマハ発動機サッカー部に加入していきなり背番号9を付けて以来、固定背番号制になる前からほとんどの試合で9をつけている。Jリーグの公式戦での例外は以下の2試合のみ。
- このシーズンの開幕戦で、スキラッチが9番、中山は11番で登場。しかし次のホーム・ジュビロ磐田スタジアムでの開幕試合(3月22日G大阪戦)から2人は背番号を入れ替える。
- 直前の静岡ダービーで怪我を負い、ベンチスタートしたため背番号はサブ用の15。
コンサドーレ札幌[編集]
- 9 2010年 - 2012年
アスルクラロ沼津[編集]
- 39 2015年 -
日本代表[編集]
- 16 1992-1993年
- オフト監督時代の背番号。中山の名を一躍有名にした1994年アメリカW杯予選の際もこの背番号を背負っていた。
- 14 1995年
- 加茂監督時代の背番号。1995年のイングランド遠征時もこの背番号だった。
- 32 1997年
- 1998 FIFAワールドカップ地区予選の土壇場で2年ぶりに代表復帰した時の背番号。ジョホールバルの歓喜として記憶されるイラン戦で先制点を挙げたときの背番号である。
- 9 1998-2000年
- 磐田ではおなじみの背番号。日本人初めてのワールドカップにおける得点などはこの背番号を背負って挙げている。
- 11 2001年
- 9番を西澤らに譲り、僚友カズの背番号だったこの背番号を背負った。
- 10 2002年
- 2002 FIFAワールドカップ時の背番号。藤枝東高校以来の背番号10を背負って、日本のW杯初勝利となったロシア戦のピッチに立った。中田英寿は「ゴンちゃん似合わねー」とコメントした。
- 9 2002-2003年
- ジーコが監督就任後は9番を背負ってプレー。
所属クラブ[編集]
- アマ経歴
- 岡部町立岡部小学校(現藤枝市立岡部小学校)
- 1980年 - 1982年 岡部町立岡部中学校(現藤枝市立岡部中学校)
- 1983年 - 1985年 静岡県立藤枝東高等学校
- 1986年 - 1989年 筑波大学
- プロ経歴
個人成績[編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1990-91 | ヤマハ | 9 | JSL1部 | 13 | 4 | 2 | 1 | - | 15 | 5 | |
| 1991-92 | 18 | 15 | 1 | 0 | - | 19 | 15 | ||||
| 1992 | 旧JFL1部 | 16 | 13 | - | - | 16 | 13 | ||||
| 1993 | 18 | 18 | 0 | 0 | 1 | 0 | 19 | 18 | |||
| 1994 | 磐田 | - | J | 12 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 12 | 3 |
| 1995 | 45 | 18 | - | 0 | 0 | 45 | 18 | ||||
| 1996 | 27 | 9 | 13 | 7 | 0 | 0 | 40 | 16 | |||
| 1997 | 9 | 27 | 18 | 11 | 6 | 4 | 2 | 42 | 26 | ||
| 1998 | 27 | 36 | 0 | 0 | 3 | 4 | 30 | 40 | |||
| 1999 | J1 | 23 | 6 | 1 | 1 | 1 | 2 | 25 | 9 | ||
| 2000 | 29 | 20 | 4 | 1 | 3 | 2 | 36 | 23 | |||
| 2001 | 30 | 16 | 8 | 4 | 1 | 0 | 39 | 20 | |||
| 2002 | 29 | 16 | 7 | 3 | 3 | 2 | 39 | 21 | |||
| 2003 | 12 | 3 | 2 | 1 | 5 | 0 | 19 | 4 | |||
| 2004 | 19 | 3 | 5 | 0 | 4 | 1 | 28 | 4 | |||
| 2005 | 29 | 6 | 2 | 0 | 2 | 0 | 33 | 6 | |||
| 2006 | 13 | 1 | 3 | 1 | 1 | 0 | 17 | 2 | |||
| 2007 | 15 | 1 | 5 | 1 | 2 | 0 | 22 | 2 | |||
| 2008 | 16 | 1 | 3 | 1 | 2 | 1 | 21 | 3 | |||
| 2009 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | |||
| 2010 | 札幌 | J2 | 12 | 0 | - | 1 | 0 | 13 | 0 | ||
| 2011 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
| 2012 | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||
| 2015 | 沼津 | 39 | JFL | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||
| 2016 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | |||||
| 2017 | J3 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
| 2018 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | |||||
| 2019 | - | - | |||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 355 | 157 | 65 | 26 | 32 | 14 | 452 | 197 | |
| 日本 | J2 | 12 | 0 | - | 1 | 0 | 13 | 0 | |||
| 日本 | J3 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
| 日本 | JSL1部 | 31 | 19 | 3 | 1 | - | 34 | 20 | |||
| 日本 | 旧JFL1部 | 34 | 31 | 0 | 0 | 1 | 0 | 35 | 31 | ||
| 日本 | JFL | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
| 総通算 | 432 | 207 | 68 | 27 | 34 | 14 | 534 | 248 | |||
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 8試合6得点
- 1991年
- コニカカップ 6試合2得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
- 1997年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合3得点
- 1998年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 1999年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合2得点
- 2000年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- 2001年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2003年
- XEROX SUPER CUP1試合0得点
- 2004年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2004 | 磐田 | 9 | 4 | 1 |
| 2005 | 1 | 0 | ||
| 通算 | AFC | 5 | 1 | |
その他の国際公式戦
- 2003年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
- 1994年3月12日 - Jリーグデビュー - 鹿島アントラーズ戦 (カシマスタジアム)
- 1994年3月19日 - Jリーグ初ゴール - ヴェルディ川崎戦 (国立競技場)
- 1990年7月31日 - A代表初出場 (ダイナスティカップ) - 北朝鮮代表戦 (北京/中国)
- 1992年8月29日 - A代表初ゴール (ダイナスティカップ) - 韓国代表戦 (北京・工人体育場/中国)
タイトル[編集]
クラブ[編集]
- Jリーグ ディビジョン1:1997年、1999年、2002年
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2003年
- ヤマザキナビスコカップ:1998年
- FUJI XEROX SUPER CUP:2000年、2003年、2004年
- アジアクラブ選手権:1998-99年
- アジアスーパーカップ:1999年
代表[編集]
個人[編集]
- 1992年 - 第1回コニカカップ得点王
- 1992年 - ジャパンフットボールリーグ得点王
- 1997年 - Jリーグベストイレブン
- 1998年 - JリーグMVP・Jリーグ得点王・Jリーグベストイレブン
- 1999年 - AFC年間ベストイレブン
- 2000年 - Jリーグ得点王・Jリーグベストイレブン
- 2002年 - Jリーグベストイレブン
- 2013年 - Jクロニクルベスト ベストイレブン・Jリーグ功労選手賞
代表歴[編集]
出場大会など[編集]
- 日本代表
- AFCアジアカップ1988(大学選抜のB代表として参加)
- ダイナスティカップ1990(7月31日の北朝鮮戦でA代表デビュー[22])
- ダイナスティカップ1992
- AFCアジアカップ1992
- ダイナスティカップ1998
- 1998 FIFAワールドカップ
- FIFAコンフェデレーションズカップ2001
- 2002 FIFAワールドカップ
- FIFAコンフェデレーションズカップ2003(左大腿屈筋肉離れのため辞退)
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 53試合 21得点 (1990年 - 2003年)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1990 | 1 | 0 |
| 1991 | 0 | 0 |
| 1992 | 6 | 3 |
| 1993 | 8 | 4 |
| 1994 | 0 | 0 |
| 1995 | 4 | 1 |
| 1996 | 0 | 0 |
| 1997 | 2 | 2 |
| 1998 | 10 | 4 |
| 1999 | 1 | 0 |
| 2000 | 7 | 6 |
| 2001 | 8 | 1 |
| 2002 | 3 | 0 |
| 2003 | 3 | 0 |
| 通算 | 53 | 21 |
ゴール[編集]
| # | 開催年 | 月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1992年 | 8月29日 | △2-2 | ダイナスティカップ1992 | ||
| 2 | 11月1日 | △1-1 | AFCアジアカップ1992グループリーグ | |||
| 3 | 11月6日 | ○3-2 | AFCアジアカップ1992準決勝 | |||
| 4 | 1993年 | 5月5日 | ○6-0 | 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選 | ||
| 5 | 10月18日 | ●1-2 | ||||
| 6 | 10月21日 | ○3-0 | ||||
| 7 | 10月28日 | △2-2 | ||||
| 8 | 1995年 | 5月28日 | ○3-0 | キリンカップサッカー1995 | ||
| 9 | 1997年 | 11月8日 | ○5-1 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 最終予選 | ||
| 10 | 11月16日 | ○3-2 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 プレーオフ | |||
| 11 | 1998年 | 3月1日 | ○2-1 | ダイナスティカップ1998 | ||
| 12 | 4月1日 | ●1-2 | 親善試合 | |||
| 13 | 6月26日 | ●1-2 | 1998 FIFAワールドカップグループリーグ | |||
| 14 | 10月28日 | ○1-0 | 親善試合 | |||
| 15 | 2000年 | 2月13日 | ○3-0 | AFCアジアカップ2000 (予選) | ||
| 16 | 2月16日 | ○9-0 | ||||
| 17 | ||||||
| 18 | ||||||
| 19 | 2月20日 | ○3-0 | ||||
| 20 | ||||||
| 21 | 2001年 | 8月15日 | ○3-0 | AFC/OFCチャレンジカップ |
出演[編集]
レギュラー番組[編集]
- やじうまテレビ!(テレビ朝日、2013年4月2日 - 2013年9月27日) - 火曜レギュラー
- やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜(テレビ朝日、2013年4月7日 - ) - コメンテーター、ジュビロ・コンサドーレ現役時代も数回ゲストコメンテーターとして出演。現役復帰・アスクラルロに入団後もレギュラー出演中
- 報道ステーション(テレビ朝日、不定期出演) - スポーツキャスター
- アメリカンホーム・ダイレクト MAEMUKISM(JFN系列、2013年4月7日 - 2014年12月28日) - ディスクジョッキー
- グッド!モーニング(テレビ朝日、2013年10月1日 - ) - 木曜レギュラー
ゲスト・特番[編集]
- いつでも笑みを!(関西テレビ、2000年-2003年) - 中山夫妻で年に1度出演
- ジュブナイル(日本テレビ、2003年2月3日-6日) - 司会
- 徹子の部屋(テレビ朝日) - 2013年3月25日(単独出演)、2015年8月7日(中山夫妻として出演)
- 夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル(テレビ朝日、2013年、2014年、2015年冬、2016年、2017年、2018年冬) -
- ゴン中山&ザキヤマのキリトルTV(テレビ朝日、2014年1月3日・4月4日) - 司会
- 今だから言えるナイショ話(毎日放送、2014年5月28日) - 司会
- 緊急生中継!さよなら国立競技場(TBS、2014年5月31日) - スペシャルナビゲーター
- ワールドプロレスリング(テレビ朝日、不定期) - ゲスト解説
映画[編集]
- 金色のくじら(1996年公開、友情出演)
- 劇場版 仮面ライダー鎧武 サッカー大決戦!黄金の果実争奪杯!(2014年7月公開、 ゲスト出演) - 本人役
アニメ[編集]
- ハングリーハート WILD STRIKER 第24話(2003年2月26日、アニマックス他) - 本人役
- ハピネスチャージプリキュア! 第19話(2014年6月8日、朝日放送) - ゴン役
- クレヨンしんちゃん(2016年8月26日、テレビ朝日) - 本人役[23]
ドラマ[編集]
- そこをなんとか2 第3話、第8話(2014年8月17日/9月21日、NHK BSプレミアム) - 本人役
- チア☆ドル(2015年10月17日 - 12月19日、朝日放送) - OPのナレーションを担当
出版物、広告媒体[編集]
CM[編集]
参加CD[編集]
- J-100として
- 『飛躍』 (2003年3月19日発売)
- コーラス
- 『迷宮の楽園/SON OF THE SUN』中西圭三 (1998年7月29日発売)
- c/w『SON OF THE SUN』に参加
- 『DO IT』HOUND DOG (1999年9月1日発売)
- PV出演
- 『明日へ』FUNKY MONKEY BABYS (2009年11月18日発売) - 同シングル(初回限定版)のジャケットのイメージキャラクターにも起用されている。
その他[編集]
書籍
- 「スポーツの知と技-トップ・アスリートへの軌跡」共著(大修館書店 1998年5月)
- 週刊少年サンデー「中山雅史物語」 全2話(村枝賢一画、1993年)
- 「魂の在処」中山雅史/時見宗和 著(幻冬舎、2014年7月24日)
DVD
- 「中山雅史 ゴンゴールズ」(2006年5月26日、日活)
- 「コンサドーレ札幌J1昇格記念DVD〜2011戦いの記録〜」(兼解説、ラジオCM 2012年 札幌テレビ放送)
脚注[編集]
- ^ “ゴンのギネス超えられた~クロアチアで5戦連続ハット”. スポニチアネックス. (2016年11月10日) 2016年11月10日閲覧。
- ^ 2013年現在、ワールドカップ前年のシーズンにJリーグ日本人得点王になった選手が、翌年のワールドカップ日本代表に選ばれ、出場したのも中山だけである。
- ^ 札幌ゴン残留でJ1に戻る/J2 日刊スポーツ2011.12.4付ニュースリリース
- ^ ゴン負傷後初実戦でファン魅了/慈善試合 日刊スポーツ2011.12.24付ニュースリリース
- ^ ゴン、被災地訪問で爆笑トーク 日刊スポーツ2011.12.22付ニュースリリース
- ^ ゴン「ピエロにならないように…」 日刊スポーツ2012.7.20付ニュースリリース
- ^ 45歳札幌ゴン中山J1年長出場/J1 日刊スポーツ2012.11.25付ニュースリリース
- ^ 45歳ゴン中山引退決断 J最多157得点 日刊スポーツ2012.12.04付ニュースリリース
- ^ “コンサドーレ札幌 中山 雅史 選手 現役引退のお知らせ” (プレスリリース), コンサドーレ札幌, (2012年12月4日) 2012年12月4日閲覧。
- ^ 【札幌】中山雅史選手引退会見全文(12.12.04) J's GOAL2012.12.04付ニュースリリース
- ^ 『サカつく プロサッカークラブをつくろう!』のパッケージデザインが公開、中山雅史氏の“熱血監督”に注目 ファミ通.com2013.06.25付ニュース
- ^ 土屋アンナ ゴンとともに遊び場建設に協力 サンケイスポーツ2013.9.5付ニュース
- ^ 功労選手賞について Jリーグ公式サイト2013.10.15付ニュース
- ^ 功労選手賞受賞のゴン中山氏「W杯、狙っています」 ゲキサカ2013.12.10付ニュース
- ^ 山本昌邦代表、ゴン中山「選手登録たどり着ければ」 日刊スポーツ2015.9.5付ニュース
- ^ ゴン中山、現役復帰へ意欲 JFL沼津の練習に参加 朝日新聞2015.9.5付ニュース
- ^ 中山雅史選手アスルクラロ沼津加入のお知らせ アスルクラロ沼津公式サイト2015.9.14付ニュース
- ^ 中山雅史、古巣磐田との練習試合で実戦復帰 日刊スポーツ2015.10.11付ニュース
- ^ 沼津、中山雅史のJFL最終節欠場を発表…今季中のデビューならず サッカーキング2015.11.10付ニュース
- ^ ゴン中山、最多得点に並んだ寿人を祝福 デイリー 2015.11.23付ニュース
- ^ ゴンがJリーグに帰ってくる!JFL・アスルクラロ沼津の来季J3参入を承認! スポーツ報知 2016.11.16付ニュース
- ^ “代表TIMELINE”. 日本サッカー協会. 2016年2月8日閲覧。
- ^ ゴン中山「クレヨンしんちゃん」と共演 26日放送 日刊スポーツ 2016.8.18付ニュース
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
| ||||||||||||||||||
| ||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||
- 中山雅史
- 日本のサッカー選手
- サッカー日本代表選手
- FIFAワールドカップ日本代表選手
- 1998 FIFAワールドカップ出場選手
- 2002 FIFAワールドカップ出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場選手
- AFCアジアカップ日本代表選手
- AFCアジアカップ1988出場選手
- AFCアジアカップ1992出場選手
- ユニバーシアードサッカー日本代表選手
- ヤマハ発動機サッカー部の選手
- ジュビロ磐田の選手
- 北海道コンサドーレ札幌の選手
- アスルクラロ沼津の選手
- サッカー解説者
- 日本年間最優秀選手賞受賞者
- スポーツに関する日本のギネス世界記録保持者
- 筑波大学出身の人物
- ヤマハ発動機の人物
- 静岡県出身の人物
- 1967年生
- 存命人物