中山雅史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
中山 雅史 Football pictogram.svg
名前
愛称 ゴン、中山隊長、ゴン中山
カタカナ ナカヤマ マサシ
ラテン文字 NAKAYAMA Masashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1967-09-23) 1967年9月23日(51歳)
出身地 静岡県藤枝市
身長 178cm
体重 72kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 アスルクラロ沼津
ポジション FW
背番号 39
利き足 右足
ユース
1983-1985 静岡県立藤枝東高校
1986-1989 筑波大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1990-1993 ヤマハ発動機 65 (50)
1994-2009 ジュビロ磐田 354 (157)
2010-2012 コンサドーレ札幌 13 (0)
2015- アスルクラロ沼津 0 (0)
代表歴2
1990-2003 日本の旗 日本 53 (21)
1. 国内リーグ戦に限る。2017年12月5日現在。
2. 2003年6月8日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県藤枝市出身のプロサッカー選手、サッカー解説者。アスルクラロ沼津所属。ポジションはフォワード

日本プロサッカー選手会名誉会長。ゴン中山の愛称で知られる。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。

日本代表として1998 FIFAワールドカップ2002 FIFAワールドカップにも出場。Jリーグ(J1最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。国際試合における最短ハットトリックのギネス世界記録保持者でもある。なお、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者、同年11月にステファン・ルチヤニッチに抜かれるまでハットトリック連続世界記録保持者(4試合連続)であった。

妻は女優タレント生田智子で、2004年に第1子(女子)が生まれた。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員である。

来歴[編集]

現役時代[編集]

学生時代[編集]

静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍し、高校2年生の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にした。本大会では準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍した。

1986年、筑波大学体育専門学群に入学して蹴球部に入部。当初静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーを務めたが、後に先輩の長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻った。

ヤマハ・ジュビロ磐田[編集]

1990年、ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時のヤマハは完全プロ化への移行は成されていなかったため、サラリーマン生活も経験した。同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。

1992年に発足したオフトジャパンでは試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍し、第2回ダイナスティカップアジアカップの初優勝に貢献する。1993年はクラブがジャパンフットボールリーグ(JFL)在籍にもかかわらず、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選のメンバーにも選ばれ、最終予選では途中からスタメンに定着して活躍を見せた。また予選中その陽気なトークや(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)熱意溢れるプレーがマスコミで話題となり、一躍全国区の人気者となる。アジア最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められ引き分けた、いわゆる『ドーハの悲劇』の際に、交代してベンチに座っていた中山が地面に頽れた様子は、ワールドカップ行きの切符を逃したこの試合・出来事をテレビ番組などで振り返るときに必ずといっていいほど流されるシーンとなった(ただし本人はこの時地面に頽れたことを「まだ試合終了の笛がなっていないのに諦めてしまった」と後悔している)。またこの年、ジュビロ磐田はJFL1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たした。

1994年のJリーグ開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア(現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害)が悪化し、4月末に戦線離脱を余儀なくされる。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手もいたが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振った。

1995年には怪我から復帰し開幕から好調なスタートを切った。元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJリーグ最強と言われた。前年の怪我のために離れていた代表にもキリンカップで復帰したが、6月のアンブロ・カップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。

1997年は、ドゥンガ山本昌邦らとのトレーニングにより、「オフ・ザ・ボールの動きの質」に開眼。第2ステージでは自身Jリーグにおいては自身初となるハットトリックも記録するなど結果を残してステージ優勝に貢献。直後に1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終局面で代表へ復帰して今度は日本代表の予選突破に貢献。日本の本大会初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」)では、岡田武史監督から2トップ組む三浦知良と共に交代を命じられ、呂比須ワグナー及び城彰二が投入された。 更に鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。

1998 FIFAワールドカップに日本代表として出場。グループリーグで敗退したものの、3試合すべてで先発し、ジャマイカ戦で日本代表のワールドカップ初ゴール・日本人初ゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けたことは、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている(「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」というのは誤り)。

同年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居陸上競技場)での5得点(Jリーグのリーグ戦における「1試合1人での最多得点」タイ記録)を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(ジュビロ磐田スタジアム)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(熊本市水前寺競技場)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(ジュビロ磐田スタジアム)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された(2016年11月にクロアチア東部の地域リーグであるドラーチチェ・ジャコボ所属のFWステファン・ルチヤニッチが5試合連続ハットトリックを達成して記録は塗り替えられている[1])。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点(現在でもリーグ戦の最多得点記録)を記録し当年度の得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱を期する鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。

1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。

2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された(これ以前の記録は、1938年11月16日イングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒である)。

2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れ年間優勝をのがす。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。

2002年、当初は候補合宿に招集されるなど2002 FIFAワールドカップ代表入りが有力視されていたが、リーグ開幕から不調(ワールドカップによる中断までわずか1得点)で、直前の海外遠征のメンバーから外された。更に当時のトルシエ監督が落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測・報道が多数を占めたが、世間一般からの「中山待望論」(直前のカップ戦ではアウェイゲームにも関わらず相手サポーターからも「ナカヤマ・ニッポン」コールが起こった)に加え、ベテラン抜きだった直前遠征で結果が出せなかった代表に足りない「精神的支柱」としての意味もあり、秋田豊とともに2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出され、選出されなかった中村俊輔が付けていた背番号10を背負った。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立つ。「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手[2] となった。

クラブでは同年のリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦でゴールを量産し、自身は16ゴールを上げ、この年のリーグ戦では日本人のみなら得点王の高原に次ぐ得点をとった。そして、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献しベストイレブンに選出された。

2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰。復帰初戦となった東京ヴェルディ1969戦では、試合中にも関わらず中山がユニホーム姿になると場内が騒然とした。相手DF米山篤志は「あれは異様な雰囲気だった」とコメントするほどだった。試合後、監督の柳下正明は「当初はこの試合では(中山を)起用しないつもりだった」としたうえで「エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」とコメント。事実投入直後のコーナーキックで磐田は同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利を収めている。しかしながら、最終節横浜FMに敗れたことによりリーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。

2005年5月1日柏レイソル戦(柏の葉公園総合競技場)での前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハスタジアム)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。

2006年9月17日川崎フロンターレ戦(等々力陸上競技場)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールを達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で達成)。この記録は過去に三浦知良(2006年に当時J2横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している)、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。

2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平スタジアム)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任した。

2008年3月15日のガンバ大阪戦(エコパスタジアム)でもロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップ清水戦(日本平スタジアム)で、後半43分にCKをヘディングで決めて、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜いてナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える(中山は40歳8か月2日)で、快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。また、この得点が2018年現在も中山が公式戦で挙げた最後の得点となっている。

2009年シーズンは出場機会が激減。自身が同年42歳の高齢となったこともあり、11月9日に磐田から戦力外通告を受け、同時にスタッフとしての残留要請を受けた。しかし現役続行に強い意欲を示す中山はこれを断り、新天地を探すことを選択した。また、この年は中山と同じく磐田がJリーグに加盟した1994年から在籍し、この年の時点で中山と共に2002年の完全優勝を知る選手であった鈴木秀人も戦力外通告を受けた。同年のヤマハスタジアムでの公式戦最終戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、当時ラモス瑠偉が保持していたJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節のヴィッセル神戸戦(ホームズスタジアム神戸)での出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながら磐田での最後の試合を終えた。

コンサドーレ札幌[編集]

退団発表後、ロアッソ熊本横浜FCコンサドーレ札幌(以上J2)、FC町田ゼルビアV・ファーレン長崎(以上JFL)、藤枝MYFC東海リーグ)の6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実している札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまでも現役にこだわり続ける姿勢を表明した。

2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術をした。

2011年は前年の手術した膝の影響もあり、試合にはまともに出られず、9月には両膝関節炎になってしまい、この年は公式戦無出場に終わった。しかし、来季も現役続行の意志を示し、また所属する札幌がJ1昇格が決まり、中山自身にとっては来季は3シーズン振りのJ1となることが決まった[3]

オフには、東日本大震災の慈善試合で仙台で行われた「日本サッカー選手会 クリスマス・チャリティーサッカー2011」に出場し、会場を盛り上げた[4]。また、この際に複数の選手たちと共に被災地訪問もしている[5]

2012年、「東日本大震災復興支援Jスペシャルマッチ」のファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された[6]

11月24日の横浜F・マリノス戦で、後半から途中出場を果たし、45歳2ヵ月1日でのJ1出場で、自身が持つ最年長J1出場記録を更新した[7]

シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め[8]、4日に現役引退を発表した[9]。記者会見では、引退の原因は両膝が思うように動かなくなったことと話し、まだ未練タラタラであり、元気になったらカムバックするつもりとも述べ、またサッカーを愛するがゆえにそういう怪我も負ってしまったが、サッカーを愛したことに後悔はしていないとも語った[10]。引退会見ではあったが、中山は「第一線を退く」という言葉を使い、「引退」という言葉を使っていない。また自身の引退試合の開催についても現時点で否定する発言もしている。

中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。

日本国内だけでなくフランス紙の「レキップ」やFIFAの公式HP、中国メディアの中国新聞社などが中山の引退のことについて紹介している。

その後[編集]

引退後は、マネジメント会社ARSと契約し色々なバラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、「第91回全国高校サッカー選手権大会 決勝」のゲスト解説や「第21回全日本高校女子サッカー選手権大会」のイメージキャラクターを担当したりしている。2013年4月からはテレビのレギュラー番組や初のパーソナリティを担当するラジオ番組などに出演している。サッカー解説は主にテレビ朝日スカパーでの試合中継時に行っている。

2013年10月に発売した『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演し、同作のパッケージも担当していて、ゲーム内にも自身が登場している[11]

複数の会社による共同の東日本大震災被災地支援プロジェクトで、福島県相馬市に屋内型の遊び場を建設する企画の『みんなの遊び場プロジェクト』などにも参加している[12]

10月15日、2013年度のJリーグアウォーズにて、功労選手賞として表彰される事が決まり[13]、12月10日、Jリーグアウォーズにて、功労選手賞が授与された[14]

現役復帰[編集]

アスルクラロ沼津[編集]

2015年9月5日、磐田時代の2004年〜2006年に監督として指揮を執った山本昌邦が理事長を務めるJFLアスルクラロ沼津の練習に参加し[15][16]9月14日には現役復帰することが発表された[17]10月11日には、古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰した[18]。中山の影響で沼津の試合で観客が増えたり、ベンチ入りしない試合でも試合会場に駆けつけチームメイトを鼓舞するなどしていたが、2015年シーズンは試合には出場しなかった[19]

J1通算157ゴール(最後の得点は2008年3月15日のG大阪戦)記録を約7年間並ばれることはなかったが、2015年11月22日にサンフレッチェ広島佐藤寿人が通算157ゴール目を決め中山に並んだ。また、中山はスタンドで観戦しており「現時点で追いつかれただけですからね。ここから引き離していけるように頑張れればいい。素晴らしいゴールを間近で見させていただき、勉強になりました。ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」と中山節でコメントした[20]

2016年シーズンも公式戦の出場は無かったが、チームはJFL年間3位となり悲願のJリーグ入りが決定した[21]

背番号[編集]

ジュビロ磐田[編集]

9 1997-2009年
前身のヤマハ発動機サッカー部に加入していきなり背番号9を付けて以来、固定背番号制になる前からほとんどの試合で9をつけている。Jリーグの公式戦での例外は以下の2試合のみ。
このシーズンの開幕戦で、スキラッチが9番、中山は11番で登場。しかし次のホーム・ジュビロ磐田スタジアムでの開幕試合(3月22日G大阪戦)から2人は背番号を入れ替える。
直前の静岡ダービーで怪我を負い、ベンチスタートしたため背番号はサブ用の15。

コンサドーレ札幌[編集]

9 2010年 - 2012年

アスルクラロ沼津[編集]

39 2015年 -

日本代表[編集]

16 1992-1993年
オフト監督時代の背番号。中山の名を一躍有名にした1994年アメリカW杯予選の際もこの背番号を背負っていた。
14 1995年
加茂監督時代の背番号。1995年のイングランド遠征時もこの背番号だった。
32 1997年
1998 FIFAワールドカップ地区予選の土壇場で2年ぶりに代表復帰した時の背番号。ジョホールバルの歓喜として記憶されるイラン戦で先制点を挙げたときの背番号である。
9 1998-2000年
磐田ではおなじみの背番号。日本人初めてのワールドカップにおける得点などはこの背番号を背負って挙げている。
11 2001年
9番を西澤らに譲り、僚友カズの背番号だったこの背番号を背負った。
10 2002年
2002 FIFAワールドカップ時の背番号。藤枝東高校以来の背番号10を背負って、日本のW杯初勝利となったロシア戦のピッチに立った。中田英寿は「ゴンちゃん似合わねー」とコメントした。
9 2002-2003年
ジーコが監督就任後は9番を背負ってプレー。

所属クラブ[編集]

アマ経歴
プロ経歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1990-91 ヤマハ 9 JSL1部 13 4 2 1 - 15 5
1991-92 18 15 1 0 - 19 15
1992 旧JFL1部 16 13 - - 16 13
1993 18 18 0 0 1 0 19 18
1994 磐田 - J 12 3 0 0 0 0 12 3
1995 45 18 - 0 0 45 18
1996 27 9 13 7 0 0 40 16
1997 9 27 18 11 6 4 2 42 26
1998 27 36 0 0 3 4 30 40
1999 J1 23 6 1 1 1 2 25 9
2000 29 20 4 1 3 2 36 23
2001 30 16 8 4 1 0 39 20
2002 29 16 7 3 3 2 39 21
2003 12 3 2 1 5 0 19 4
2004 19 3 5 0 4 1 28 4
2005 29 6 2 0 2 0 33 6
2006 13 1 3 1 1 0 17 2
2007 15 1 5 1 2 0 22 2
2008 16 1 3 1 2 1 21 3
2009 1 0 1 0 1 0 3 0
2010 札幌 J2 12 0 - 1 0 13 0
2011 0 0 - 0 0 0 0
2012 J1 1 0 0 0 0 0 1 0
2015 沼津 39 JFL 0 0 - - 0 0
2016 0 0 - - 0 0
2017 J3 0 0 - 0 0 0 0
2018 -
通算 日本 J1 355 157 65 26 32 14 452 197
日本 J2 12 0 - 1 0 13 0
日本 J3 0 0 - 0 0 0 0
日本 JSL1部 31 19 3 1 - 34 20
日本 旧JFL1部 34 31 0 0 1 0 35 31
日本 JFL 0 0 - 0 0 0 0
総通算 432 207 68 27 34 14 534 248

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2004 磐田 9 4 1
2005 1 0
通算 AFC 5 1

その他の国際公式戦

タイトル[編集]

クラブ[編集]

ジュビロ磐田

代表[編集]

日本代表

個人[編集]

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 53試合 21得点 (1990年 - 2003年)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1990 1 0
1991 0 0
1992 6 3
1993 8 4
1994 0 0
1995 4 1
1996 0 0
1997 2 2
1998 10 4
1999 1 0
2000 7 6
2001 8 1
2002 3 0
2003 3 0
通算 53 21

ゴール[編集]

出演[編集]

レギュラー番組[編集]

ゲスト・特番[編集]

映画[編集]

アニメ[編集]

ドラマ[編集]

出版物、広告媒体[編集]

CM[編集]

参加CD[編集]

J-100として
  • 飛躍』 (2003年3月19日発売)
コーラス
PV出演
  • 明日へFUNKY MONKEY BABYS (2009年11月18日発売) - 同シングル(初回限定版)のジャケットのイメージキャラクターにも起用されている。

その他[編集]

書籍

DVD

  • 「中山雅史 ゴンゴールズ」(2006年5月26日、日活)
  • 「コンサドーレ札幌J1昇格記念DVD〜2011戦いの記録〜」(兼解説、ラジオCM 2012年 札幌テレビ放送

脚注[編集]

  1. ^ “ゴンのギネス超えられた~クロアチアで5戦連続ハット”. スポニチアネックス. (2016年11月10日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/11/10/kiji/K20161110013695530.html 2016年11月10日閲覧。 
  2. ^ 2013年現在、ワールドカップ前年のシーズンにJリーグ日本人得点王になった選手が、翌年のワールドカップ日本代表に選ばれ、出場したのも中山だけである。
  3. ^ 札幌ゴン残留でJ1に戻る/J2 日刊スポーツ2011.12.4付ニュースリリース
  4. ^ ゴン負傷後初実戦でファン魅了/慈善試合 日刊スポーツ2011.12.24付ニュースリリース
  5. ^ ゴン、被災地訪問で爆笑トーク 日刊スポーツ2011.12.22付ニュースリリース
  6. ^ ゴン「ピエロにならないように…」 日刊スポーツ2012.7.20付ニュースリリース
  7. ^ 45歳札幌ゴン中山J1年長出場/J1 日刊スポーツ2012.11.25付ニュースリリース
  8. ^ 45歳ゴン中山引退決断 J最多157得点 日刊スポーツ2012.12.04付ニュースリリース
  9. ^ “コンサドーレ札幌 中山 雅史 選手 現役引退のお知らせ” (プレスリリース), コンサドーレ札幌, (2012年12月4日), http://www.consadole-sapporo.jp/news/2012/12/013640.html 2012年12月4日閲覧。 
  10. ^ 【札幌】中山雅史選手引退会見全文(12.12.04) J's GOAL2012.12.04付ニュースリリース
  11. ^ 『サカつく プロサッカークラブをつくろう!』のパッケージデザインが公開、中山雅史氏の“熱血監督”に注目 ファミ通.com2013.06.25付ニュース
  12. ^ 土屋アンナ ゴンとともに遊び場建設に協力 サンケイスポーツ2013.9.5付ニュース
  13. ^ 功労選手賞について Jリーグ公式サイト2013.10.15付ニュース
  14. ^ 功労選手賞受賞のゴン中山氏「W杯、狙っています」 ゲキサカ2013.12.10付ニュース
  15. ^ 山本昌邦代表、ゴン中山「選手登録たどり着ければ」 日刊スポーツ2015.9.5付ニュース
  16. ^ ゴン中山、現役復帰へ意欲 JFL沼津の練習に参加 朝日新聞2015.9.5付ニュース
  17. ^ 中山雅史選手アスルクラロ沼津加入のお知らせ アスルクラロ沼津公式サイト2015.9.14付ニュース
  18. ^ 中山雅史、古巣磐田との練習試合で実戦復帰 日刊スポーツ2015.10.11付ニュース
  19. ^ 沼津、中山雅史のJFL最終節欠場を発表…今季中のデビューならず サッカーキング2015.11.10付ニュース
  20. ^ ゴン中山、最多得点に並んだ寿人を祝福 デイリー 2015.11.23付ニュース
  21. ^ ゴンがJリーグに帰ってくる!JFL・アスルクラロ沼津の来季J3参入を承認! スポーツ報知 2016.11.16付ニュース
  22. ^ 代表TIMELINE”. 日本サッカー協会. 2016年2月8日閲覧。
  23. ^ ゴン中山「クレヨンしんちゃん」と共演 26日放送 日刊スポーツ 2016.8.18付ニュース

関連項目[編集]

外部リンク[編集]