ズデンコ・ベルデニック

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名前
ラテン文字 Zdenko Verdenik
基本情報
国籍 スロベニアの旗 スロベニア
生年月日 1949年5月2日(64歳)[1]
出身地 プトゥイ
監督歴
当項目参照
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

ズデンコ・ベルデニックスロベニア語: Zdenko Verdenik1949年5月2日 - )は、スロベニア出身のサッカー指導者。

来歴[編集]

ユーゴスラビアの各クラブの監督、スロベニア・オリンピック代表監督、スロベニアA代表監督などを歴任した後、1998年5月オーストリアFKアウストリア・ウィーンの監督に就任した。

ユーゴスラビア外では全く無名であったベルデニックが、オーストリア・ブンデスリーガの名門クラブの監督に就任したことは多くの関係者を驚かせたが、この監督就任の裏には、当時FKアウストリア・ウィーンのスポーツディレクターを務めていた元ガンバ大阪フリードリッヒ・コンシリアの強い推薦があったと言われている。[要出典]

しかし、多大な強化予算を与えられ、多くの代表選手を獲得したものの、チームの成績は一向に改善されず、11ヶ月後には成績不振で解任された。

その後、活動の場を日本に移す。Jリーグ下位に低迷し、3年連続残留争いをしていたジェフユナイテッド市原をディフェンス面から強化、リベロを機能させリーグ上位に顔を出すチームに改革した。この功績から名古屋グランパスエイトに引き抜かれ、名古屋ではアンドレイ・パナディッチ等を中心に守備を改善、2002年第1ステージで破竹の6連勝を飾り3位で締めくくるなど、その手腕が高く評価された。しかし、その後の第2ステージでは、13位と低迷し翌年の2003年の第1ステージでは、引き分けの試合が多く最終的に7位に終わり、第1ステージ終了後に成績不振を理由に解任された。

その後、2003年9月から2005年までの2年契約でベガルタ仙台の監督を務めたが、成績不振を理由に2004年度シーズン終了をもって解任された。

解任後はスロベニアのリュブリュナ大学で教授を務めるかたわら、新聞や雑誌などで解説者として活動し、サッカークリニックなどの活動でしばしば日本を訪れた。また、2009年から1年間スロベニア代表チームディレクターを務めた。

2010年7月よりスロベニア2部リーグに所属するNKインテルブロック・リュブリャナの監督に就任し、2位となったもののチームが昇格を拒否したことなどから退団。その後はスロベニアサッカー協会でスポーツディレクターを務めた。

2012年6月、大宮アルディージャの監督に就任[1]。8年ぶりの日本復帰となった。就任後は第24節から最終節まで11試合連続無敗を記録するなど、就任時点で15位に低迷していた大宮のJ1残留を果たした。

2013年も大宮の監督を務め、第1節から第10節まで無敗。前年と合わせて21試合連続無敗のJリーグ新記録を樹立した。その後、第16節から第20節まで5連敗を喫すると、第20節の翌日の8月11日に監督を解任された[2]

指導歴[編集]

監督成績[編集]

年度 所属リーグ 大会名 試合数 勝点 順位 チーム
2000 J1 2nd 15 3 1 11 9 16位 ジェフユナイテッド市原
2001 1st 15 10 0 5 27 2位
2nd 15 7 2 6 23 5位
2002 1st 15 10 0 5 27 3位 名古屋グランパスエイト
2nd 15 5 1 9 16 13位
2003 1st 15 5 8 2 23 7位
2nd 15 2 6 7 12 15位 ベガルタ仙台
2004 J2 - 44 15 14 15 59 6位
2012 J1 - 21 7 8 6 29 13位 大宮アルディージャ
2013 - 20 11 3 6 36 4位
  • 2012年は第14節から指揮。
  • 2013年は第20節終了後に途中退任。

評価[編集]

  • 日本に「ゾーンプレス」と言う概念を持ち込んだのは彼だと言われており、本人もそれをほぼ認めている(ベルデニックによれば、当時横浜フリューゲルスに在籍していたエドゥー・マランゴントリノ・カルチョでプレーした経験があり、彼もゾーンプレスの概念をよく知っていたことも助けになったという)。「ゾーンプレス」はJリーグ開幕前後の横浜フリューゲルスの基本戦術であった。当時の横浜フリューゲルス監督は加茂周であったが、彼を揶揄する際にこの故事が引用されることがある(例:「肝心の監督がゾーンプレスを理解していなかった」)。[要出典]
  • スロベニア代表チームはベルデニック退任後のUEFA EURO 2000に出場、2002 FIFAワールドカップにも出場を果たした。旧ユーゴスラビア諸国の中でもサッカーが盛んでないスロベニアの躍進は周囲の驚きを買ったが、その戦術の基礎をベルデニック時代に求める議論は多い。[要出典]
  • DFの基本は3バックである。日本では、大宮以外率いた全てのチームで3バックの布陣を引いた。中でもアーセン・ベンゲル以来の4バックを守り続けてきた名古屋にとっては、この変更は画期的な出来事であった。名古屋の監督時代に、テレビの取材で何故自分が3バックで戦うのかを理論的に説明していたこともある。
  • 日本で率いた市原、名古屋、仙台、そして大宮でも最終的には「解任」という形でチームを離れている。名古屋、仙台では成績不振がその理由であるが、市原では名古屋への電撃的な移籍(後述)が、チームの方向性を著しく踏みにじったとして解任された。そのため名古屋や仙台ではベルデニック解任に対して少なくないフロントへの批判があったが、市原ではフロントへの批判は全くなかった。
  • 市原から名古屋へ移る際、選手の契約では他チームの接触が禁止されている1月以前に名古屋からの接触があった。この時点では監督の移籍についてJリーグ内での取り決めがなかったため、道義的責任以外にベルデニックの行動は非難できないが、その後監督の移籍についても、選手の移籍に準じる取り決めがなされ、市原と名古屋の間に少なからず遺恨が残った。[要出典]
  • 後に市原の監督に就任したイビチャ・オシムとは旧知の仲で、日本に来てからも常に連絡をとっていた。オシムの回想によれば市原との初の接触は、ベルデニックからオシムの電話番号を教えてもらった祖母井秀隆GMからの電話だったという。また、祖母井が大阪体育大学のコーチだった時代に、ベルデニックを尋ねた際にオシムを紹介され、練習を見学していた。

エピソード[編集]

  • 仙台監督を解任された際、違約金として年俸の85%にあたる9700万円を受け取った。これは公表されていた年俸を大きく上回る金額であり、仙台の2005年度の黒字額を大幅に減らすこととなった。これに関してサポーターから強い批判を受けた。これ以前に名古屋を解任された際にもこれとほぼ同額の年俸と違約金を受け取ったとされている。仙台監督解任後、ベルデニックがオファーがあるにも拘わらず長らく現場復帰しなかったのはこれらの収入があったためといわれている。[要出典]
  • 手倉森誠によると、東日本大震災の時にベルデニックはいち早く個人で義援金を送っていたという[3]

脚注[編集]

関連項目[編集]