澤登正朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
澤登 正朗 Football pictogram.svg
名前
愛称 ノボリ、ミスターエスパルス
カタカナ サワノボリ マサアキ
ラテン文字 SAWANOBORI Masaaki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1970-01-12) 1970年1月12日(48歳)
出身地 静岡県富士宮市
身長 170cm
体重 66kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1985-1987 東海大学第一高校
1988-1991 東海大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-2005 清水エスパルス 381 (85)
代表歴2
1988  日本 U-20 6 (5)
1989-1992  日本 U-23 11 (3)
1993-2000[1] 日本の旗 日本 16 (3)
監督歴
2013- 常葉大学浜松キャンパス
1. 国内リーグ戦に限る。2005年12月31日現在。
2. 2000年2月20日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

澤登 正朗(さわのぼり まさあき、1970年1月12日 - )は、静岡県富士宮市出身の元サッカー選手(MF)、元日本代表サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)・解説者

Jリーグの初代新人王1999年にはベストイレブン日本年間最優秀選手賞を受賞。プロ生活の全てを清水エスパルスで過ごし、歴代1位の通算得点数[2] を誇っている。1990年代後半、経営危機に瀕したクラブにあってキャプテンを務め、クラブ初タイトルJ1ステージ優勝国際タイトルなどの獲得に貢献[3]。メディアやサポーターからは「ミスター・エスパルス[4]」と呼ばれている。プレースキックを得意とし、中盤の選手ながら高い得点力とロベルト・リベリーノ仕込みのFKを武器に、1995年から5年連続で2桁得点を記録[5]。チームの司令塔として数多くのアシストをマークした。

日本代表にも選ばれ、1993年ドーハの悲劇を経験したメンバーの一人でもある。ファルカン監督時代や年代別日本代表では背番号10番を付けてプレー。2000年の30歳まで日本代表メンバーに選出された。引退後はテレビ雑誌等でのサッカーの解説者として活動。JFAアンバサダーハワイ州サッカー親善大使も務めた。2013年より常葉大学浜松キャンパスサッカー部の監督を務める。メディアによって、沢登 正朗の表記も見られる。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1970年1月12日静岡県東部の富士山の麓にある富士宮市に生まれる。幼稚園の頃からサッカーボールを蹴りはじめ、小学生時代は地元少年団で活躍。地元の中学校にサッカー部がなかったため、12歳の時に親元を離れ東海大学第一中学校(現・東海大学付属静岡翔洋中学校)へ進学し、サッカーを続けた。3年時は主将を務め、中学総合体育大会の県中部大会で初優勝に貢献。県大会は2回戦長泉北中に0-1で敗れ、全国大会出場は叶わなかった。中学時代での選抜歴は静岡市選抜だけで、中部選抜や県選抜には選ばれておらず、特別目立った選手ではなかったという。また、東海大学第一中学校サッカー部では、後に日本代表で共にプレーすることになる三浦知良が、ブラジルから一時帰国中に練習に参加したことがあり旧知の仲であった。

学生時代[編集]

1985年、東海大学第一高校(現・東海大学付属静岡翔洋高校)に入学。 同級生には、元プロ野球選手鈴木平がいた。静岡県の強豪校の一つでもあった東海大学第一高校サッカー部に入部して間もなく、当時の身長は160センチほどと小柄ながら、澤登のキックに多彩な種類があることに監督が目を止め、武南高校との春季定期戦にMFとして出場。ボールを受けたら、ミスが少ない。左右にボールを散らし、展開力もあった。その試合でゲームメーカーとしての力を発揮し、5月に来日したアデミール・サントスと共に1年生から活躍を見せた。

1986年、県予選を初優勝し、第65回選手権大会に出場。2年生ながら高いテクニックと戦術眼を持ち、広い視野でゲームメイクを行い、4-4-2の布陣の中盤の底でレギュラーを務めた。決勝の国見高校戦では、5万7千人が詰め掛けた国立競技場スタンドサッカーブラジル代表カレカが観戦に訪れ、テレビ中継のゲスト解説にはブラジル時代の三浦知良が試合を見つめる中、コーナーキックから2点目の大嶽直人の得点をアシストするなど、東海大学第一高校の初優勝に貢献。初出場・全試合無失点優勝[6] という前人未到の快挙を成し遂げた。選手権優勝の影響は絶大で、大会後の県新人戦では会場の周囲がファンで埋まり、バレンタインデーにはチョコレートが大きなトラックで届くほどだったという[7]。のちのインタビューでチームメイトであったアデミール・サントスは「ノボリ(澤登)と平澤は女の子に大人気でちょっとうらやましかった、私はテレビで梅干しが好きだと言ったら、一生かかっても食べ切れないほどの梅干しが届いて驚いた」と語った[8]。澤登は「選手としての注目度も高まり、県の国体代表にすら選ばれてなかった自分がユースの日本代表に呼ばれ、手のひらを返したように高評価を受けました。」「選手権に出場して自分のプレーを多くの人に見てもらった事で、その後のサッカー人生が大きく変わった」と語っている[7]

1987年主将を務め、中原幸司、吉田康弘平沢政輝らと共に、冬の選手権に臨んだ。選手権予選静岡県大会の決勝では、国体代表7人を擁する清水商業を敗り優勝。大会MVP、ベストイレブンに選ばれ2年連続全国大会進出を果たした。第66回選手権大会では、準々決勝で礒貝洋光森山泰行本田泰人らを擁した帝京高校にPK戦の末に勝利。準決勝はインターハイを制した市立船橋高校を敗り決勝に進出。2年連続同一カードとなった決勝は、後に五輪代表清水でチームメイトになる永井秀樹がいた国見高校に敗れ準優勝に終わった。また、3年時はユース日本代表に初選出。静岡県選抜にも選ばれ第42回国民体育大会では、2年ぶり13回目(選抜チームとしては10回目)の優勝に貢献した。

1988年東海大学に入学すると、攻撃的MFとして、礒貝洋光と共に1年時からレギュラーとして活躍。数々のタイトルを獲得し、全日本大学サッカー選手権大会では4年連続[9] で決勝に進出するなど、東海大学の黄金期を築いた。第37回全日本大学サッカー選手権大会では、ハットトリックをマークするなど活躍し初優勝に貢献。1年生ながら大会MVPに選ばれた。1990年第39回全日本大学サッカー選手権大会では、準決勝で前人未到の4連覇が懸かった順天堂大学に、値千金のゴールを決め勝利に導くなど、2年ぶりの優勝に貢献し、2度目のMVPを受賞した。1991年の第15回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでは、前年の準優勝の雪辱を果たし、初優勝を飾った。在学時のサッカー部には、同学年に礒貝のほか、加藤望飯島寿久後藤太郎。1学年上に山口素弘岡中勇人巻田清一。1学年下に橋本雄二、2学年下に田坂和昭等がいた。また、年代別日本代表では、背番号10を背負い、AFCユース選手権バルセロナ五輪予選キャプテンを務めた。1992年東海大学体育学部卒業。

年代別日本代表[編集]

1988年日本ユース代表としてAFCユース選手権に出場。予選ではハットトリックを記録するなど活躍し、日本ユースの4大会ぶりの本大会出場に貢献。決勝大会は、第1戦で韓国に敗れ、第2戦のUAE戦では、前半は相手を圧倒するも無得点。後半に2点を奪われると、終了間際に澤登がフリーキックを直接決めて1点差とするも、反撃及ばず敗戦。最終戦を残して日本の敗退が決まり、1989年サウジアラビアで開催されたワールドユース選手権出場はならなかった。澤登は今大会6試合出場5得点をマークした。

1989年バルセロナオリンピックを目指す五輪チームが立ち上げられ、日本代表メンバーに選出された[10]1989年1990年は、合宿や海外遠征を行い、1991年の6~7月にかけて、バルセロナ五輪・一次予選が開催された。当時赤色だった代表ユニフォームに背番号10番付け全6試合にフル出場。澤登はキャプテンとしてチームを牽引。初戦では開始27秒で得点という記録も残した。日本は5勝1敗で予選1位通過を果たした。

一次予選を突破した日本は、1992年の1月に開催される最終予選に向けて、A代表の監督を務めていた横山謙三を総監督に据え、山口芳忠監督と二頭体制で五輪代表のレベルアップを図った。しかし、初めて結成された23歳以下の日本代表ということもあってか、強化試合は日程が厳しく毎回参加選手が変わり、練習する時間も無く、チームとして力を発揮できずに終わった。さらには、1次予選で7得点(内4得点が決勝点)をマークした山口敏弘が、所属チームの不祥事で出場停止処分となり、山口と2トップを組んでいた「アジアの虎」こと服部浩紀も調子を落とし最終的にメンバーから外れ、前線の構成が大きく変わるなど、日本は万全ではない状態で最終予選に臨むこととなった。澤登は最終予選もキャプテンを務め、3-5-2の布陣の中盤でプレー[11]。後にA代表でも活躍する小村徳男相馬直樹名良橋晃名波浩らと共に中2日5試合を戦った。日本は、試合の主導権を握ってもゴールが奪えず得点力不足に悩み、試合終盤で耐え切れず失点するなど、第3戦のバーレーンにこそ大勝したものの、1勝2敗1引き分けと、なかなか勝ち点を積み重ねることができなかった。他力ながら五輪出場の可能性をわずかに残した最終戦のカタール戦では、相手のスピードに乗った攻撃に苦しめられるが、中盤では優位に立ってこれに応戦する。しかし、後半立ち上がりに失点。反撃を試みるが得点にはつながらず敗戦。混戦となった最終予選は6チーム中5位という結果に終わった。一時は勝ち抜けに必要な3位内に入った日本であったが、「引き分けでもOK」という有利な状況になった第4戦の韓国戦、0-0で迎えた終了間際に痛恨の失点を喫し惜敗したのが致命傷となり、24年ぶりの五輪出場は果たせなかった。後のインタビューで澤登は、「(大会を振り返って)純粋に力不足それだけです。個々のレベルが低すぎました」と語っている。澤登はバルセロナ五輪予選11試合出場3得点。全試合に出場し、セットプレー等からアシストをマーク。バルセロナ五輪日本代表から唯一人、翌年に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア予選で試合出場を果たした。また、バルセロナ五輪・最終予選で中盤でコンビを組んだ永井秀樹とは4年後、クラブチームで再びコンビを組み、清水エスパルス初タイトルへと導いた[12]

清水エスパルス・日本代表[編集]

デビュー・初代新人王(キャリア初期)[編集]

1991年12月4日、地元の静岡に新規発足したプロサッカークラブ清水エスパルス」に、大卒第1号選手(契約第3号選手)として加入が決定。チーム始動の翌1992年から、長谷川健太大榎克己堀池巧三浦泰年向島建真田雅則内藤直樹らと共に、清水の草創期メンバーとして活躍した。1992年9月5日、Jリーグカップ第1節の名古屋グランパス戦で公式戦デビュー。第2節の横浜マリノス戦で公式戦初ゴールを挙げた。清水は日本サッカーリーグ (JSL) に参加していなかったため、初年度はリーグ戦はなく、公式戦はカップ戦のみ行われ計13試合に出場。Jリーグカップ準優勝、天皇杯ベスト8に貢献した。

Jリーグ元年(1993年)は、リーグ戦35試合に出場7得点。開幕戦となった5月16日の横浜フリューゲルス戦(三ッ沢)に先発しリーグ戦初出場。第8節の横浜マリノス戦(日本平)でリーグ戦初ゴール。第11節の横浜フルューゲルス戦(日本平)では、コーナーキックから直接ゴールを決め勝利に貢献した。7月には、Jリーグオールスターサッカーに初出場。ルーキーながらWESTチームの背番号10番を付けてプレーした。同月の24日に開幕したNICOSシリーズ(2ndステージ)は、シジマール加藤久が加入し、第2節から9連勝を記録。第15節の浦和レッズ戦(国立)では、リーグ戦初の直接FKを決め、この得点が清水エスパルスのリーグ戦50ゴール目となった。続く第16節は、視聴率30.8パーセント(関東地区・ビデオリサーチ調べ)を記録したヴェルディ川崎との首位攻防戦となったが、8日前に行われたJリーグカップ決勝同様にヴェルディの牙城を崩す事はできず、新戦力としてデビューしたFWマルコーンも不発に終わり0-1で敗れた。2ndステージは一時は首位に立つなど勢いを見せた清水であったが、この敗戦が響いて2位。年間総合順位は3位(年間勝利数は2位)となったが、清水の中心選手として活躍し、創設間もない新規クラブの躍進に大きく貢献したとして、Jリーグ初代新人王に輝いた。

1994年8月1日、エメルソン・レオン監督に代わり、「左足の魔術師」と呼ばれたロベルト・リベリーノコリンチャンス時代のチームメイトであったセルジオ越後の紹介で清水の監督に就任した。リベリーノ監督からは、様々な種類のパスやシュートの蹴り方や逆足(左足)のキック、フリーキック等の個人指導を受け、サッカーの技術力の向上や後のシーズン活躍の足掛かりとなった。

1995年シーズンは、リーグ戦13得点を挙げ自身初の2桁得点を達成。以後1999年まで5年連続で公式戦2桁得点をマークした。

日本代表(オフト監督・ファルカン監督時代)[編集]

1993年1月、若手選手中心で臨んだカールスバーグカップに出場。ベンチでは清雲栄純コーチが指揮を執り、オフト監督はスタンドで選手の動きをチェックした。この大会での活躍が認められ、2月に行われた日本代表のイタリア遠征に招集された。セリエAセリエBシーズン中に行われた国際親善試合では、第2戦のインテル戦、第3戦のレッチェ戦に出場。非Aマッチではあったがフル代表デビューを果たした。その後も代表に招集され、1993年4月からアメリカW杯・アジア予選に臨んだ[13]。同ポジションにはラモス瑠偉などがおり、出場機会は多くはなかったが、初戦のタイ戦、森保一と交代でボランチとして国際Aマッチ初出場。予選で唯一トップ下の選手と交代で出場したUAE戦で、Aマッチ初得点。最終戦のイラク戦では、「ドーハの悲劇」を経験。試合終了間際、ベンチの前に立って歓喜の時を待った澤登は、イラク代表の同点ゴールが入った瞬間崩れ落ち「後は覚えていない」と話した。後のインタビューで大会を振り返り、「あのチームにいられたことが誇り、個性的な選手がそろっていたし、本当に強かった」と語っている。

1994年ハンス・オフトの後任として、日本代表監督に黄金のカルテットの一人でもあるパウロ・ロベルト・ファルカンが就任。初陣となったキリンカップサッカー1994では、日本代表の背番号10番を付けてプレーした。この大会は当初、アルゼンチン代表が来日予定だったが、ディエゴ・マラドーナの入国問題で取りやめになったため、マラドーナとの10番対決は叶わなかった[14]。ファルカンジャパンでは、右ひざの怪我のため出場辞退した大会[15] もあったが、セットプレーのキッカーを任されるなど、中盤のレギュラーを務めた。広島で行われたアジア大会では、怪我の影響で本調子でないながらも[16]、得点やアシストをマークする活躍を見せた。しかし同年にファルカン監督が更迭され、その後加茂周監督になると、しばらく代表から遠ざかることになる[17][18]

キャプテン・悲願の初タイトルへ[編集]

1996年シーズンから、オズワルド・アルディレス監督、スティーブ・ペリマンコーチ体制となり、三浦泰年長谷川健太に続き清水エスパルスの3代目キャプテンに就任した[19]。アルディレス監督からは、ワンタッチ、ツータッチでボールを捌くシンプルなプレーを求められ、次第にプレースタイルを変化させていった。試合ではドリブル突破よりもパスを選択する場面が増え、以前に比べて相手選手との接触プレーで怪我をすることが少なくなり、Jリーグの出場試合数を着実に伸ばしていった。

1996年6月1日から9月25日に行われたJリーグカップでは、全16試合に出場し、清水の初タイトル獲得に貢献。ホーム・アンド・アウェー方式で行われた予選では、第2節2nd.leg(セカンドレグ)の横浜フリューゲルス戦で、楢崎正剛から、タイミングをずらした技ありのFKをファーサイドへ決め大会初得点。予選最終戦、第7節2nd.legのジェフ市原戦では、予選突破に3点差以上での勝利が必要となったが、セットプレーで2得点に絡む活躍もあり、4-0の逆転勝利で準決勝進出を果たした。準決勝では、スルーパスからオリバの得点をアシストするなど勝利に貢献、中田英寿を擁するベルマーレ平塚を5-0で破り決勝進出。過去2度に渡り決勝で敗れ、元監督のエメルソン・レオン、元キャプテンの三浦泰年との対決となった、ヴェルディ川崎との決勝戦では、後半37分に、FKから2点目のオリバの得点をアシストするなど活躍。勝敗はPK戦にもつれ込み、澤登は1人目のキッカーを務め、相手GKの逆を突いてゴール右へ流し込みPK成功。ヴェルディは2人目のキッカーマグロンがPK失敗。4人全員決めた清水は5人目のオリバがゴール左隅に決め勝利。過去最大規模(最多試合数)で行われたJリーグカップを、清水が制し、悲願の初優勝を飾った。決勝戦の翌月、フジテレビ森田一義アワー 笑っていいとも!に、ゲスト出演した際には、司会のタモリに初優勝を祝福された。

背番号10・クラブ消滅危機(キャリア中期)[編集]

1997年は、背番号が固定背番号制になり、以前からスタメン出場の時に付けていた背番号10を正式に背負うことになった。また、この年は清水エスパルスが経営破綻によるクラブ消滅危機となり、大幅な減俸を余儀なくされ、前年に結婚して子供も生まれ、他クラブからオファーがあり移籍も考えたが、学生時代からサッカー選手として清水に育ててもらった恩と、ファン・サポーターのクラブ存続に対する熱意を強く感じ、チーム残留を決定。登録メンバーはリーグ最少の24名となり、ユースチームからメンバーを借りて紅白戦を行うこともあるなど厳しい状況であったが、リーグ戦31試合出場11得点と活躍し、年間順位は5位となった。

1998年は、5月9日の1st第12節のヴィッセル神戸戦で、リーグ戦初となるハットトリックを達成。1stステージはジュビロ磐田と優勝争いを演じ、最終節で勝ち点が並ぶ接戦となったが得失点差で2位に終わった。同年9月23日、2nd第7節の鹿島アントラーズ戦では、Jリーグ史上初のリーグ戦200試合出場を達成した。また、1998年はシーズン序盤に突発性難聴発症というアクシデントに見舞われたが、自身のプロキャリアの中で最多得点となる公式戦15得点を挙げる活躍を魅せた。

1998年のリーグ戦終了後、アルディレス監督に代わり、コーチを務めていたペリマンが新たに監督となり、1999年元日にはクラブ初の天皇杯決勝に臨んだ。横浜フリューゲルスとの対戦となった決勝戦では、前半13分にファビーニョのクロスを澤登がダイビングヘッドで先制。前半44分、天皇杯終了後に清水に移籍が決まっていた久保山由清にゴールを決められ同点に追いつかれると、72分に追加点を許し敗戦。横浜フリューゲルスのラストゲームに華を添え、準優勝となった。

フットボーラー・オブ・ザ・イヤー[編集]

1999年シーズンは、日本代表復帰も果たし、清水の中盤の要としてチームを牽引。公式戦13得点をマークした。1999年度の清水の新加入選手には、久保山由清安永聡太郎のほか、大学・高校の後輩の田坂和昭や、年代別日本代表で一緒に戦った服部浩紀等がいた。フォーメーションは前年までの4-4-2から3-5-2となり、澤登は中盤でプレーした。

2月にはスーパーカップに初出場。前年度リーグチャンピオンの鹿島と対戦した。前半24分に鹿島に先制点を許すも、1分後にアレックスのクロスを澤登がヘディングシュートを決め同点。後半は清水が主導権を握ったが、前年まで得点源の一人であったオリバの退団の影響もあってか、後半23分に鹿島の名良橋晃にボレーシュートを決められると、終盤の反撃実らず1-2で惜敗した。

3月に開幕したリーグ戦は、第3節の京都戦で初得点。後半開始早々に退場者を出し10人となったが、同17分に決勝点となるヘディングシュートを決め勝利に貢献した。1stステージは、終盤4連勝を記録するも追撃及ばず首位と勝ち点4差の3位に終わった。

8月には、日本代表で共に戦ったラモス瑠偉の引退試合に出場。同月に開幕した2ndステージは、スターティングメンバーに、GK真田雅則、DFは斉藤俊秀森岡隆三戸田和幸の3バック。ウイングバックの右に市川大祐、左にアレックスボランチ伊東輝悦サントス。FWは久保山由清安永聡太郎の2トップ。澤登はトップ下で攻撃のタクトを振るった。第2節の磐田戦で初勝利を飾ると、第5節の名古屋戦では、空中戦で相手DFと交錯し、頭から大流血する怪我を負いながらもヘディングシュートで先制点を挙げ勝利に貢献するなど、気迫のプレーを見せた。第10節のヴェルディ川崎戦では、得意のフリーキックをゴール左上隅に流し込み2-0で勝利。2ndステージ2度目の4連勝に貢献し、2位との勝ち点3差の首位で1ヶ月の中断期間に入った。中断期間中には、セレッソ大阪にレンタル移籍していた堀池巧が清水に復帰。第11節の京都戦では、2試合連続となるゴールを決めて5連勝。この試合で守備の要である森岡隆三が負傷し今季絶望となってしまうが、その後も苦しみながら勝利を重ね8連勝を記録。11月23日、横浜国際総合競技場にて初のステージ優勝を果たした。

12月には年間優勝を賭けたチャンピオンシップに初出場。1stステージを優勝したジュビロ磐田との静岡ダービーとなった。第1戦は、前半34分に澤登が技ありのミドルシュートを放って得点を決めるも、前夜の発熱で欠場になった戸田和幸と、リーグ戦で骨折した森岡隆三という主力2人を欠き、2失点を喫し延長戦で敗れた。第2戦は、前半34分に失点すると、2分後にアレックスが相手DFのファールから腹部を蹴る報復行為で一発退場。その直後に澤登が、後に自身のベストゴールと語った25メートルの直接FKを叩き込み同点。磐田に一気に傾きかけていた試合の流れを、右足の一振りで引き戻すと、1人少ない10人の清水が、延長戦をファビーニョのVゴールで制して勝利した。トータル1勝1敗とし、チャンピオンシップ史上初のPK戦となり、澤登は1人目のキッカーを務め成功。両手を組み勝利を祈ったが、サントスとファビーニョが失敗し、PKスコア2-4で敗れて悲願のリーグ優勝はならなかった。チャンピオンシップを振り返って、2得点をマークしたキャプテンの澤登は、「(PKを)外した選手の責任ではなく、我々の力が足りなかった。それに尽きます。勝ち切るということの難しさが改めて分かりました。アレックスの退場もありましたが、我々は10人でもこれだけ出来るのだということが証明できた。チャンピオンにはなれなかったが、非常に良い試合だった」と話した。同じく今大会2得点をマークした磐田のキャプテン中山雅史は、「エスパルスが一人少ない中でも素晴らしいプレーと闘志を魅せていたので、今日は本当に苦しかった。(要略)僕らがチャンピオンになりましたけど、年間通しての戦いはエスパルスが素晴らしいサッカーを展開していた。勝ち点を見てもエスパルスが一番かなと思います。僕らもまたそれに見合うだけのチームに作り直して来年に臨んていきたい」と試合後のインタビューで健闘を讃えた。清水は年間順位は2位となったものの、年間勝ち点は、磐田を大きく突き放す16ポイント差の1位であった。その功績を称えられ1999年のベストイレブンに選出。翌年の1月には、1999年度の日本年間最優秀選手賞を受賞。Jリーグチャンピオンシップ第1戦で決めた得点がアジアサッカー連盟(AFC)月間最優秀ゴール賞に選ばれた。

国際タイトル獲得[編集]

2000年は、4月にアジアカップウィナーズカップを制し、クラブ初の国際タイトルを獲得。ホーム・アンド・アウェー方式で行われた準々決勝では、韓国Kリーグの強豪、安養LGチータース(現・FCソウル)から澤登が2得点を挙げる活躍もあり、チェンマイで行われる決勝ラウンドに進出。0-0でPK戦にもつれ込んだ準決勝は、1人目のキッカーを務め成功。GK真田雅則が2本セーブする活躍もありPKスコア4-2で勝利。決勝のアル・ザウラーSC戦では、攻撃の起点となり、チャンスメイクするなど活躍。前半は相手を圧倒するも無得点。後半28分に、途中出場のルーキー池田昇平が得点を挙げ1-0で勝利し、初優勝を飾った。

2000年8月26日、Jリーグオールスターサッカーに歴代4位タイとなる6回目の出場を果たした。

日本代表(加茂・岡田監督・トルシエ監督時代)[編集]

1997年8月28日、フランスワールドカップアジア最終予選の壮行試合で日本代表に復帰。後半21分に中田英寿に代わり出場した。ポストを叩く惜しいフリーキックや、気迫のプレーを見せたが、その後、加茂周岡田武史監督の代表では出場機会はなく、ワールドカップ・イヤーの1998年はシーズン序盤に突発性難聴発症などもあり、代表招集は無かった。3戦全敗のフランスワールドカップ終了後、ファルカン監督以来3人目の外国人監督となるフィリップ・トルシエ日本代表監督に就任すると、翌1999年キリンチャレンジカップ日本代表復帰を果たす。最年長プレーヤー(MF)の30歳となった2000年には、アジアカップで6年ぶりのAマッチの得点を記録。同試合でAマッチ初得点を決めた中村俊輔からマイナスのボールを受け、相手DFをターンでかわし左足で放った豪快なミドルシュートの得点であった。その後も、代表に招集されたが控えに回り出番はなく、この大会が現役最後の代表戦出場となった。

天皇杯優勝・スーパーカップ連覇[編集]

2001年3月3日、元日に三冠を達成した鹿島に3-0で勝利し、スーパーカップを初制覇。前半17分にアレックスからのクロスを相手DFに競り勝ち、頭で合わせ先制点を挙げるなど活躍し勝利に貢献した。

2001年の天皇杯では、準決勝の川崎戦で1得点1アシストをマークし決勝に進出。2002年の元日に行われた決勝のセレッソ大阪戦では、FKから2点目の森岡隆三の得点をアシストするなど活躍し初優勝に貢献。2002年2月のスーパーカップでは、2年連続同一カードとなった決勝で鹿島を破り2連覇を果たした。

リーグ戦では、2001年11月17日のアビスパ福岡戦で得点を挙げ、通算6シーズン目となる公式戦2桁得点を達成。2002年7月27日の東京ヴェルディ戦では、Jリーグ史上初となるJ1リーグ戦通算300試合出場を達成した。

Mr.エスパルスとして(キャリア晩年)[編集]

2003年は第1回大会のAFCチャンピオンズリーグに出場。日本代表三都主アレサンドロや、韓国代表アン・ジョンファンを擁する清水であったが、準々決勝リーグで敗退。澤登は本大会1試合出場1得点をマークした。

2004年12月4日新潟県中越地震チャリティーマッチにジーコジャパンドリームチームの一員として出場。

2005年3月5日、開幕戦のサンフレッチェ広島戦では、J1リーグ13年連続得点を記録。後半23分に久保山由清からクロスボールを受けてペナルティーエリア内でワントラップ、ゴール左隅にシュートを決め、長谷川健太監督が率いる清水のリーグ戦初ゴールとなった。

2005年11月23日、敗れると入れ替え戦の危機となった第32節ヴィッセル神戸戦、後半44分に澤登が左足で放った強烈なシュートでマルキーニョスの決勝点を演出。日本平スタジアム通算100勝を達成し、J1残留を決定的とした。試合後に今シーズン限りでの引退を発表。翌日記者会見を行った。

2005年11月26日の第33節鹿島アントラーズ戦では、先発で69分間プレーし、ロングパスで2点目の起点となる活躍。試合終了後に引退セレモニーが行われた。「輝いているうちに引退したいと決めていた」「14年間、エスパルス一筋でやれたことは誇り、経営危機で消滅してしまうんじゃないかという状況もあったが、いろいろな方々の支えを受けて、新しいチームとして生まれ変わって、新しい歴史をつくれた」「若い選手は、自分達がエスパルスを支えていくんだという気持ちで、ベテランはそれに負けてはいけない、サポーターの皆さんはエスパルスをこれからも愛していってほしい」等の言葉を残し、日本平スタジアムに残った鹿島サポーターからも「澤登」コールが起こるなど、温かい声援に包まれた引退セレモニーとなった。

2005年11月30日、今後の清水エスパルスのために、一人でも多くの選手に試合経験を積んで欲しいという思いから、最終節と天皇杯には出場しないことを表明し、現役を引退した[20][21]

引退した2005年シーズン終了時の、J1リーグ戦通算出場試合数は歴代1位であった。また、公式戦通算115得点、J1リーグ戦通算85得点清水エスパルストップスコアラー(継続中)であり、Jリーグ創設の1993年から2005年まで、同一クラブのみで13年連続ゴールを決めているただ一人の選手である[22]

デビュー以来一貫して清水に所属し第一線で活躍[23]。その功績を賞して、2007年1月21日日本平スタジアムで清水エスパルスの選手として初めて引退試合を行った。

引退後[編集]

2006年の引退後は、地元の静岡を中心にサッカー講習会の講師、静岡放送静岡朝日テレビのサッカー解説者として出演している。(静岡放送「SBSテレビ夕刊(イブニングニュース)」月曜レギュラー、「朝日テレビスポーツパラダイスMCなど。)

2006年の4月にはサッカーの普及活動に協力する日本サッカー協会のJFAアンバサダーに就任した(2006年4月~2009年4月)。

2006年の12月に開催されたJリーグアウォーズでは、日本サッカーとJリーグの発展に寄与した功労者に送られる功労選手賞を受賞した。

2007年1月21日、引退試合「エスパルス・オールスターズvs.ジャパン・オールスターズ」が日本平スタジアムで開催された。

2007年6月30日に静岡市葵区モンマスティー静岡店をオープン。

2008年2月6日からテレビ朝日の「報道ステーション」のサッカーコメンテーターとしてレギュラー出演しており、これはサッカーキャスターの前任者である福田正博が浦和のコーチに就任し降板したためによる後継で、1回目の出演時には1994 FIFAワールドカップ・アジア予選で福田と交代した澤登が得点を挙げたシーンの映像が流れた。当番組では巻き戻しを多用しての解説を特徴とする。

2008年6月7日、中田英寿が主催する「+1 FOOTBOOL MATCH JAPAN STARS vs. WORLD STARS」に出場。前半38分にミドルシュートで得点を挙げた。この時、相手チームのゴールマウスを守っていたのは、14年前に日本代表で対戦した、元フランス代表のGKラマであった。

2009年3月12日、JFA 公認S級コーチのライセンスを取得した。

2009年8月、ハワイ州のサッカー親善大使に就任した。

2011年4月6日、宮城県七ヶ浜町避難所でサッカー教室を開催。

2011年8月31日、震災復興支援 日伊レジェンドマッチ「 AC MILAN グロリエ vs.Jエスペランサ」に出場。エスパルスで共にプレーしたダニエレ・マッサーロと久々の再会を果たした。

2013年1月、常葉大学浜松キャンパスサッカー部の監督に就任した[24]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1992 清水 - J - 10 1 3 0 13 1
1993 35 7 1 0 4 2 40 9
1994 41 7 1 0 1 0 43 7
1995 40 13 - 1 0 41 13
1996 29 9 16 3 3 0 48 12
1997 10 31 11 6 0 3 1 40 12
1998 32 10 4 2 5 3 41 15
1999 J1 28 9 4 1 3 0 35 10
2000 27 3 4 1 5 0 36 4
2001 26 9 2 1 5 2 33 12
2002 29 3 7 3 3 2 39 8
2003 14 2 2 0 4 0 20 2
2004 24 1 5 0 1 0 30 1
2005 25 1 4 0 1 0 30 1
通算 日本 J1 381 85 66 12 42 10 489 107
総通算 381 85 66 12 42 10 489 107

その他の公式戦

 通算20試合8得点
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2002-03 清水 10 1 1
AFC ASCAFC ASC
2000 清水 10 2 0
AFC ACWCAFC ACWC
1999-02 清水 10 11 3
通算 AFC 14 4

記録[編集]

特別試合[編集]

【出場試合】

現役時代

引退後

選手時代の特徴[編集]

精度の高いキックを武器とするゲームメーカー。足元の技術も高く、得点力と判断力を備え、フリーキックの名手でもあった。 ポジションは主にトップ下(オフェンシブハーフ)。 日本代表では、サイドハーフボランチとして出場したことがある。

プレースキック[25]を得意とし、FKCKのキッカーを務めることが多かった。プレースタイルは、精度の高いキックから攻撃を組み立てる司令塔であったが、2列目からの飛び出しでゴールに直結するプレーや、自らゴールを決めることも多かった。高いテクニックを持ち、中盤では安定感のあるプレーを見せたが、自他共に認める負けず嫌いであり、ときには闘志溢れるプレーでゴールを狙い、会場を沸かせ、チームを救った。キャプテンシーリーダーシップを兼ね備え、チームメイトからの信頼も厚く、五輪代表や、清水ではキャプテンとしてチームを牽引した。

利き足は右であるが、状況に応じて逆足で、セットプレーを蹴ることがあった。

MF登録選手ながら公式戦通算115(リーグ戦85)得点を挙げた。得点パターンは、得意とする直接フリーキックのほか、小柄ながらヘディングシュートもうまく、ドリブル突破からのシュート、裏に抜けるパスからのシュート、ミドルシュートや狙いすましたループシュートなど、多岐にわたる。シュート力はそれほどでもないものの、左右両足からコースを狙った正確なシュートで得点を重ねた。また、リーグ開幕戦に得点を決めることが多く、J1開幕戦ゴールランキング歴代3位[26](MFとしては歴代1位) の記録を持っている。

高い得点力もさることながら、正確かつ多彩なパスやクロスで、多くのアシストをマークした。

清水エスパルス選手時代のキャッチフレーズは「変幻自在のスーパープレー

評価[編集]

現役時代に幾度も対戦し、そのプレーぶりを称賛し続けていたピクシーことストイコビッチは、Jリーグ20周年を記念した歴代ベストイレブンに澤登を選出した際に、次のように述べている。
澤登はまさに「10番」という選手で才能を感じた。 — 名古屋グランパス監督 ドラガン・ストイコビッチ、2013年、[27]
子供の頃から静岡で共にプレーし、日本代表で共に戦ったキング・カズこと三浦知良は、引退試合で次のように賛辞を贈っている。
僕はノボリとは小・中学校の頃からずっと一緒にやっていた。僕の中ではその頃からのサッカー小僧というイメージがずっとあるんですが、一言でいって本当にテクニックのある頭のいい選手だったなと思います。 — 横浜FC・三浦知良、2007年、[28]

逸話[編集]

思い出のゴール

  • 1993年5月7日1994 FIFAワールドカップ・アジア予選の1次予選最終戦・対アラブ首長国連邦(UAE)戦がアウェイアル・アイン・スタジアムにて行われた。ここまで7戦全勝で迎えた日本代表は既に同年4月のホーム(国立競技場)におけるUAE戦で2対0の勝利を収めていたが、この日は気温33度、湿度も20%程度の過酷な天候が影響してかよもやの苦戦を強いられる。ホームの利と衰えない運動量に支えられたUAEのカウンター攻撃を凌ぎつつ、0対0で迎えた後半32分福田正博に代わり澤登が途中出場。UAEがPKと決定的なシュートを2度、ゴールポストとクロスバーに当てる幸運に助けられたものの、日本劣勢の展開は変わらずついに後半37分技ありのループシュートを決められ先制点を許してしまう。しかしわずか1分後の後半38分、澤登はUAEゴール前のクリアーミスを見逃さず右足で前方にトラップ、2度目の小さいバウンドが上がった所をペナルティエリア外側中央から豪快に右足を振りぬいた。左サイドネット際目掛けて放たれた鮮やかなミドルシュートはGKの手をかすめて決まり、このゴールによって試合は1対1のドローに終わる。その豪快さもさることながら、日本が一次予選無敗を守った殊勲のゴールでもあった。当時歴代最強と言われた日本代表の意地を見た瞬間とも言え、約1週間後には念願のJリーグの開幕を迎える時期でもあった。澤登自ら、このゴールを「思い出のゴール」として挙げている[29]。また、この得点は試合の数日前(UAE滞在中)に逝去した亡き祖父に捧げるゴールともなった。

日本代表 -背番号10番

ハットトリックPK

  • 1988年7月4日、第26回アジアユース選手権の予選第3戦・マレーシア戦が京都・久御山中央公園サッカー場で行われた。日本ユースは前半3分に池田伸康が先制点を挙げると、テンポの良いパスワークで試合の主導権を握り、鋭い動きだしを見せ、15分に三浦文丈、31分に中村忠が追加点。40分には、澤登が相手ファウルから得たPKを決め、4-0で前半終了。後半に入っても勢いは衰えず、48分に服部浩紀が追加点を挙げ、日本ユースが5点のリードを奪う。マレーシアユースは、DFの主力選手の出場停止の影響もあり守備が乱れ、焦りからかファウルが増え、63分、73分にペナルティエリア内でファウルを犯しPKに。澤登が2本ともペナルティキックを決め、この日3点目をマーク。PKだけでハットトリックという珍しい記録を達成した。日本ユースが7-0で勝利し、カタールドーハで行われる決勝大会進出が決まった。

フリーキック

  • 2016年2月24日放送の(フジテレビ)『村上信五とスポーツの神様たち~日本人が決めた記憶に残るFKベスト5』の中で、現役当時の日本代表の練習で”1番フリーキックが凄かったのが澤登”と紹介された事があり、そんなに曲がらない正確なコントロールキックは他の追随を許さないFKであったという。
  • 1995年7月19日、負けると対戦相手の優勝が決まる第25節の横浜マリノス戦、日本平スタジアムで決勝点となる直接フリーキック決め、目の前での優勝を阻止した。
  • 1994年4月13日、サントリーシリーズ第9節のサンフレッチェ広島戦、後半42分にゴール前25m付近で得たフリーキックを澤登がゴールに向かって右側から山なりのボールを蹴り込む。広島のゴールキーパー前川和也がバックステップでボールをキャッチ、そのままゴールラインを割ってゴールインするという珍事が起こった。リーグ戦通算2点目となる澤登の直接フリーキックのゴールとなった。

ブラックアウトスパイク

  • 1999年9月23日、2ndステージ第10節のヴェルディ川崎戦、前半2分にオウンゴールで先制すると、前半8分、ペナルティエリア付近で得たフリーキックを澤登がニアサイドに流し込み追加点。清水が2-0で勝利した。試合は地上波で生中継されており、得点後や試合終了後にはスロー再生するなど何度もフリーキックの得点シーンが放送され、首位にいたこともあり夜のスポーツニュース等でも映像が流れた。翌日のスポーツ紙でも話題になったが、注目を浴びたのはフリーキックではなく、履いていたスパイクであった。この試合、澤登はミズノのスパイク(モレリア)を履いてプレー。澤登は当時、ミズノではなく他のメーカーとスパイク契約をしていたため、ミズノのラインを黒く塗りつぶして試合に出場していた。しかし得意であったフリーキックを決めたために、黒塗りのスパイクに注目が集まってしまったのである。契約していたメーカーからは、お叱りを受けたということであるが、その後、ミズノと契約して引退後もミズノのスパイクを愛用している。

1999年

  • 清水は悲願のステージ優勝を果たした1999年シーズン、年間を通じて非常に安定した成績を誇り、チャンピオンシップこそPK戦で敗れたものの、年間の勝点では2位を完全に引き離す成績であった(1位の清水が勝点65、2位のが勝点58)。澤登はその中心選手として活躍した功績が認められ、7年目にして自身初のベストイレブンに選ばれ、MVPに選ばれたアレックスに投票数で上回り、日本年間最優秀選手賞も受賞した。また、この年に2年ぶりの日本代表復帰も果たした。
  • 1999年12月4日、チャンピオンシップ第1戦、前半34分にドリブルから3人のDFを引き付けた久保山由清とスイッチして澤登が放ったミドルシュートの得点が、「AFC月間最優秀ゴール賞」に選ばれた。

引退

  • 引退をした2005年シーズン、清水は長谷川健太監督就任1年目に残留争いに巻き込まれ苦しいシーズンとなった。引退会見で当時の早川巖社長が、もしも清水が降格していたら澤登は、選手流出の危惧や、その状況で自分も逃げ出す形を取る訳にいかないという思いから、再び昇格するまで現役続行する意思があったと語っている。現役最後のシーズンは公式戦30試合に出場した。

清水エスパルス -背番号10番

  • 澤登が引退した直後のシーズンとなった2006年シーズン開幕前、クラブ側が彼の付けていた背番号10番を欠番としなかったことに対し、サポーターから非難の声が上がるほどであった。
  • 清水エスパルスでJリーグ開幕時から引退するまで10番を背負ってプレーした澤登であるが、Jリーグ開幕前は、長谷川健太大榎克己が10番をつけ、ルーキーだった澤登は6番[30] をつけることが多かった。また開幕後の変動背番号制の頃、澤登が出場しなかった試合では、伊東輝悦佐藤由紀彦などが10番をつけて試合に出場したことがある。

キャプテン翼

  • キャプテン翼日向小次郎のファンであり、作者である高橋陽一とテレビで共演した際に、もし自分の子供が男の子だったら名前を「小次郎」にしようと考えていたと語っている。
  • 2014年9月27日、キャプテン翼展で行われた高橋陽一のトークショーで、『キャプテン翼』(ジャンプ・コミックス)第37巻の全日本フル代表の7番の選手が澤登(沢登)であることが判明した。澤登は当時高校生で選手権などで活躍し、ユース日本代表にも選ばれていた。ちなみに、この時の全日本フル代表では、大空翼はベンチメンバーであった。

ポッキー四姉妹物語

サッカー応援ウエハースチョコ

  • 2014年5月27日、ロッテとサッカー雑誌『ZONE』などを出版しているベースボール・マガジン社コラボした商品、シール付きウエハースチョコシリーズの『サッカー応援ウエハースチョコ』が発売され、「日本サッカー界のレジェンド選手」の一人としてメッセージシール2枚(全24種類中2種類)が封入された。シールの写真は現役選手時代ではなくスーツ姿の宣材写真がプリントされており、2枚共にプリズムシール(キラシール)となっている。2枚のシールのメッセージは、座右の銘「DO MY BEST 自分の力を発揮する」あなたにとってフリーキックとは?「一発で試合の流れや勝負を決める最強の武器」であった。

伝説のフリーキック[編集]

1999年のJリーグチャンピオンシップ第二戦、清水のホーム日本平スタジアムでジュビロ磐田と対決。試合はチャンピオンシップ史上初の静岡ダービーとなったことや、第一戦で清水が敗北を喫していたことなどから、立ち上がりから激しい展開を見せる。前半34分、中山雅史が前線からプレスをかけ、西澤淳二からボールを奪取。守備の乱れから服部年宏のミドルシュートが決まり、アウェイのジュビロ磐田が一点を先制する。わずか3分後の前半37分、三浦文丈アレックスに対してファウル。この際、三浦の執拗なマークに苦しんでいたアレックスが、報復行為で一発退場を受け、早くも0-1かつ10人で戦わなければいけない状況に。1999年シーズンのステージ優勝はアレックス抜きには語れないほどその存在は大きく、絶望的な雰囲気が漂う日本平スタジアム。アウェイ側ゴール裏の磐田サポーターが、「蛍の光」を合唱する中、澤登はそのファウルで得たFKをセットする。ゴール左45度、25メートルの距離からファーサイドヘ弧を描いたフリーキックは、ゴール右隅に突き刺さった。「通常だと自分はあまり狙わない距離だが、アレックスが退場して感情が高ぶり狙ってやろうと思った、決める自信があった」と話す、この直接FKの得点は、先制された直後に試合を振り出しに戻しただけでなく、アレックス退場により停滞したチームのムードを払拭する値千金の一撃であった。また、その直後に失点に繋がるミスを犯した西澤淳二に声をかけている姿が印象的であった。そのFKは「伝説のフリーキック」とまで呼ばれ現在でも語り草となっており、澤登にとって、そして清水にとっての歴史に残るゴールとされている[31]

引退試合[編集]

S-PULSE ALL STARS 1-2 JAPAN ALL STARS

得点者:2分長谷川健太(S-PULSE ALL STARS)16分城彰二(JAPAN ALL STARS)53分澤登正朗(JAPAN ALL STARS)

東北復興支援オープニングマッチ[編集]

NOBORI ALL STARS 3-2 ザ・ミイラ

得点者:田中誠(NOBORI ALLSTARS)、中田英寿(ザ・ミイラ)、中山雅史(NOBORI ALLSTARS)、中田英寿(ザ・ミイラ)、中山雅史(NOBORI ALLSTARS)

タイトル[編集]

高校[編集]

東海大学第一高等学校

静岡県選抜

大学[編集]

東海大学東海大学体育会サッカー部

クラブ[編集]

清水エスパルス

個人[編集]

代表歴[編集]

  • 1988年 U-20日本代表
  • 1989年-1992年 U-23日本代表
  • 1993年-2000年 日本代表
    • 国際Aマッチ初出場:1993年4月8日 vsタイ戦 FIFAワールドカップ・アジア1次予選 - 第1戦 (神戸)
    • 国際Aマッチ初得点:1993年5月7日 vsアラブ首長国連邦 FIFAワールドカップ・アジア1次予選 - 第8戦 (アル・アイン)

ユニフォーム(背番号)[編集]

1991-92
1993-94
1997
1999-2000
  • 10番 1991年-1992年
  •  9番 1993年
  • 18番 1993年
  • 10番 1994年
  • 16番 1994年
  • 21番 1997年
  • 14番 1999年
  • 12番 2000年

出場大会など[編集]

試合数[編集]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1993 5 1 4 0 9 1
1994 6 1 0 0 6 1
1995 0 0 0 0 0 0
1996 0 0 0 0 0 0
1997 0 0 1 0 1 0
1998 0 0 0 0 0 0
1999 1 0 0 0 1 0
2000 4 1 0 0 4 1
通算 16 3 5 0 21 3

得点数[編集]

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1993年5月7日 アラブ首長国連邦アルアイン アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 1-1 引分 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
2 1994年10月9日 日本尾道 ミャンマーの旗 ミャンマー 5-0 勝利 アジア競技大会
3 2000年2月16日 マカオ ブルネイの旗 ブルネイ 9-0 勝利 AFCアジアカップ2000 (予選)

出演[編集]

CM[編集]

テレビ[編集]

関連情報[編集]

出版[編集]

CD[編集]

ゲーム[編集]

食玩[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b “澤登 正朗”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_sa/masaaki_sawanobori.html 
  2. ^ 清水エスパルス公式戦通算最多得点、115得点(清水エスパルスJ1リーグ戦通算最多得点、85得点
  3. ^ 2000年代以降もスーパーカップ連覇や天皇杯優勝(ACL出場)に貢献。
  4. ^ クラブ沿革2005年”. “ミスターエスパルス”として親しまれた背番号10のプレーヤー人生は、2005年シーズンをもって幕が下ろされた。. 2017年1月13日閲覧。
  5. ^ 2001年シーズンも13得点を挙げ、通算6季の公式戦2桁得点を記録。
  6. ^ 決勝まではすべて3-0で勝ち上がり、決勝戦は2-0で勝利した。初出場、無失点優勝は全国高校サッカー選手権において未だ破られていない記録である。
  7. ^ a b 『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁
  8. ^ 『王国が紡ぐ「黄金の歴史」静岡の高校サッカー』 52頁
  9. ^ 入学する前年前々年(共に準優勝)を合わせると6年連続出場。入学した1988年第37回大会で東海大学が初優勝を飾った。
  10. ^ チーム発足時は1969年1月1日生まれ以降の選手が招集されたが、五輪出場の年齢制限が同年8月1日生まれ以降に変更となると、 同級生であった礒貝洋光森山泰行菊原志郎等がメンバー外となった。
  11. ^ 最終予選では、1次予選で4試合先発出場した藤田俊哉と、1得点をマークした仲村浩二が中盤のメンバーから外れ、新たに永井秀樹名波浩がチームに加った。
  12. ^ 1996年のJリーグカップ決勝では共にアシストを記録し、初優勝に貢献した。
  13. ^ 最終予選では2歳年下(3学年下)の山田隆裕が参加を辞退したため、日本代表(ドーハ組)の最年少選手となった。
  14. ^ 試合詳細レポート・キリンカップサッカー94”. 2017年1月13日閲覧。
  15. ^ 1994年7月に行われたアシックスカップ(2試合)は右ひざ挫傷のため不参加となった。この大会は澤登が不在のため日本代表に背番号10番の選手は居らず、大会後には怪我の澤登に代わって、6番の岩本輝雄が新たに代表の10番に登録された。澤登は怪我から復帰後再びスタメンに名を連ねたが、背番号は10番ではなくアジア大会で登録された16番を付けてプレーした。
  16. ^ カタール戦(第2戦)は足痛により欠場した。
  17. ^ 加茂周監督就任後の初合宿では、アジア大会の代表メンバーからは岩本輝雄らと共に招集外となった。
  18. ^ 代表から離れている期間もリーグ戦では活躍し、1995年1997年のJリーグ得点率(MF)は100試合33得点の得点率「0.330」と日本人選手で1位であった。
  19. ^ 1996年から2000年にかけて清水のキャプテンとしてチームを引っ張り、気迫あるプレーでチームを鼓舞。経営破綻によるクラブ消滅危機を乗り越え、チーム最多得点や、タイトル獲得に貢献する等の成績を残し、「ミスター・エスパルス」と称された。
  20. ^ 最終節のサンフレッチェ広島戦では、ルーキーの岡崎慎司がベンチ入りし、リーグ戦初出場を果たした。
  21. ^ 天皇杯を含めシーズン終了まで練習には参加していた。
  22. ^ J創設からの13年連続ゴールを記録したプレーヤーとしては、他に三浦知良がいるが、三浦は途中で移籍を挟んでおり、また国外移籍によってJリーグに不在の時期がある。また、中山雅史は15年連続ゴールを達成しているが、中山が所属したジュビロ磐田1994年からのJリーグ加盟であり、創設からの連続ゴールではない。移籍を挟み、かつ1994年からの13年連続ゴールとして、他に藤田俊哉がいる。
  23. ^ J創設時から一度も移籍することなく10年以上同じチームでプレイしたのは、澤登以外には鹿島アントラーズ本田泰人浦和レッズ福田正博東京ヴェルディ1969北澤豪横浜F・マリノス永山邦夫がいた。
  24. ^ “澤登正朗氏 サッカー部新監督就任会見が行われました” (プレスリリース), 常葉大学, (2013年1月30日), http://www.tokoha-u.ac.jp/news/130130/index.html 2014年10月18日閲覧。 
  25. ^ J1リーグ戦のプレースキックの得点は20得点(直接CK PK含む)。リーグ戦以外にもカップ戦やチャンピオンシップ等での得点があった。また、Jリーグの公式記録としては残っていないがFKCKから数多くのアシストをマークした。
  26. ^ J1開幕戦ゴールランキング”. 2017年1月13日閲覧。
  27. ^ 「私が選ぶベストイレブン」2013年5月09日付信濃毎日新聞(スポーツ)※記事の漢字表記は「沢登」
  28. ^ “J’s GOALアーカイブ”. 【澤登正朗 引退試合】試合後の出場選手コメント. http://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00043509 2017年2月18日閲覧。 
  29. ^ 引退後に出演したTBS、『スーパーサッカープラス』内での発言[出典無効]
  30. ^ J. League Data Site”. 92Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝. 2017年1月13日閲覧。
  31. ^ この試合は、Jクロニクルベスト -ベストマッチ第3位にも選ばれいる。
  32. ^ 名波浩(背番号7)も出場予定だったが、実母の死去により欠場した。
  33. ^ オフィシャル発表された背番号は18番であったが、試合当日、ラモスの計らいで「JAPAN ALL STARS」の背番号10番を譲り受ける。また、カズからキャプテンマークも譲り受けた。
  34. ^ 名波と中田は後半ザ・ミイラの選手として出場。
  35. ^ 『サカつくシュート!』レジェンド選手11人発表”. セガネットワークス. 2014年12月26日閲覧。

外部リンク[編集]