岩本輝雄
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 愛称 | テル | |||||
| カタカナ | イワモト テルオ | |||||
| ラテン文字 | IWAMOTO Teruo | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1972年5月2日(46歳) | |||||
| 出身地 | 神奈川県横浜市金沢区 | |||||
| 身長 | 180cm[1] | |||||
| 体重 | 74kg[1] | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF[1] / DF | |||||
| 利き足 | 左足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1988-1990 |
| |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1991-1993 |
| 46 | (10) | |||
| 1994-1997 |
| 96 | (15) | |||
| 1998 |
| 33 | (8) | |||
| 1999 |
| 12 | (5) | |||
| 2000 |
| 9 | (0) | |||
| 2001-2003 |
| 82 | (14) | |||
| 2004 |
| 5 | (0) | |||
| 2006 |
| 3 | (0) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 1994[2] |
| 9 | (2) | |||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
岩本 輝雄(いわもと てるお、1972年5月2日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。ベルマーレ平塚を皮切りに名古屋グランパスエイトを退団するまで6チーム(ベルマーレの前身、フジタを除く)に在籍した。
2004年に名古屋グランパスエイトを退団後、約2年間選手生活から遠ざかっていたが、2006年10月、ニュージーランドのオークランド・シティFCと契約を結び、12月に行われたFIFAクラブワールドカップのオセアニア地区代表として2試合に出場した。
目次
経歴[編集]
ファルカン監督時代の日本代表では10番をつけてプレイした経歴を持つ技巧派で、左足のキックは高い精度と威力を誇った。
日本代表に選ばれた初期には6番をつけて左サイドバックでプレイした[3]。中盤の主力であった前園真聖と澤登正朗が欠場したアシックスカップではMFとして起用され監督の期待に応える活躍を見せた。次戦アジア大会壮行試合からは10番に抜擢され引き続きMFとしてプレイした。しかし、ファルカンに10番として選ばれたアジア大会では、全試合に出場したものの、MFの前園と澤登の代表復帰や自身のコンディション不良の影響で先発から外れた試合もあり、満足な活躍は出来なかった。アジア大会終了後、ファルカン監督が解任され加茂周監督が就任すると構想外となり、再び代表に呼ばれることはなかった。平塚時代の大先輩、信藤健仁は当時の『月刊ベルマーレ』にて、「テルは選ばれるのが早すぎた、野口は選ばれるのが遅すぎた」と発言している。
明るく天真爛漫な性格からスター性があり、多くのファンを持ち、Jリーグオールスターサッカーには6度出場している。フジタ/ベルマーレ平塚時代、ニカノールヘッドコーチに見出され左サイドバックにコンバート、右サイドバックの名良橋晃と共に、どんどん攻撃参加する超攻撃的な両サイドバックとしてJリーグ昇格に貢献した。ニカノールからは「守備がきちんとできれば日本一の左サイドバックになれる」と言われたほどだった(が、ついにそれを実現することはなかった)。その活躍が認められ日本代表に選出された。草創期のベルマーレを象徴するダイレクトプレーでの素早いサイド攻撃を牽引し、天皇杯優勝、1994年NICOSシリーズ2位など「ベルマーレ旋風」の原動力となる。
技術・攻撃力に長けるが、守備・運動量に欠けるいわゆる「スター選手」だった。ベルマーレ旋風の原動力になれたのも、サイドバックからOHの位置にあがり、守備のスペシャリスト、公文裕明が左サイドバックに入ったからである[要出典]。名古屋グランパスに移籍した際、鹿島アントラーズから移籍してきたDF秋田豊に「正直言ってすぐ消える選手と思っていたのにまだ現役でやっているね」と言われたことがある。
怪我との戦い[編集]
華やかな活躍の裏で怪我には何度も泣かされている。
1995年には短期留学したブラジルで右足甲を痛め、代表定着のきっかけを失うと、リーグ戦で今度は左膝靱帯を傷めてしまい靱帯に筋を移植、半月板を一部切除する手術を2回受けたため、チームのアジアカップウィナーズカップ初制覇に帯同できなかった。
故障の影響からか、その後ベルマーレ平塚での活躍ぶりに陰りが見え始め、京都パープルサンガ、川崎フロンターレ、ヴェルディ川崎へ次々と移籍した。しかし、怪我がちでなかなかチームに定着できずにレギュラーを奪えないことが続き、遂にはV川崎を自主退団してしまう。
退団から半年後に入団したベガルタ仙台では、左サイドでの攻撃の軸として復活を果たし、チームをJ1へと導くゴールを挙げた財前宣之へのクロスに象徴される数々のアシストを記録する。2004年には名古屋グランパスエイトへ移籍したが、ここで現役生活を脅かす怪我に泣かされることになる。
5月29日のナビスコカップ予選Bグループ第3節対アルビレックス新潟戦(名古屋市瑞穂公園陸上競技場)でジャンプ後の着地に失敗して右足首を負傷し、途中交代した(本人曰く「『ズルッ』と足首の骨が内側にずれる音がした」とのこと)。診断結果が「靱帯の一部損傷」と意外と軽症だったのでしばらくして練習に再開はしたものの、全く痛みが治まらず別の医師の診察を受けたところ「捻挫」だったりと症状がはっきりしなかったため、なかなか試合に復帰することができなかった。実際には負傷した時、既に靱帯が切れていたのだが、足首靭帯断裂という怪我の手術はほとんど前例がなかったために発見と治療が遅れ、10月、12月に2回手術を受けたが回復しないまま名古屋を退団。長いリハビリの日々が始まった。2回の手術で歩行可能にはなったものの、慢性的な痛みが残り、軽く運動しただけで足首はテニスボールのように腫れたという。
2005年、癒着してしまった患部の肉を取り除く手術を行ったことである程度動けるようになり、11月にメキシコリーグのトルーカの入団テストを受けるが遂に痛みが限界に達し、途中帰国。最初の手術で靱帯を固定するために穴を開けていた骨が疲労骨折を起こしていたのが原因で、患部も更に悪化していた。
ボールを蹴ることができなくなってしまったため、復帰へのモチベーションを失いつつあったが気分転換にスペインへ短期留学を行い、語学の勉強を行っていた際にリーガ・エスパニョーラの試合を観戦したことで「ピッチに戻りたい」という気持ちを再確認する。またこの頃ロベルト・バッジオの専属トレーナーだったイタリア人医師と知り合い、イタリアのボローニャまで訪ねて診察をしてもらったところ彼の診断結果が非常に見通しの明るかったことも復帰への意欲を取り戻すために十分な影響を与えた。
タレントとしても活動[編集]
リハビリの傍ら芸能プロダクション三桂と契約し、タレントとしても活動をしていた。
2006年、4月から6月にかけてNHK衛星放送『東海道五十三次完全踏破 街道てくてく旅』に旅人として出演。徒歩により約500kmある東海道五十三次を2ヶ月半かけて完全制覇した。また、4月発売のゲームウイニングイレブン10の中ではピッチレポーターとして登場している。
2008年のNHK教育テレビ『テレビでスペイン語』では得意のスペイン語を生かしてExamen(試験)コーナーでトップ賞を数多く勝ち取っている。9月11日放送分で最後を待たずに総合優勝した。
現役復帰[編集]
クラブチームの練習に参加し順調な回復を見せていたため、8月にはJリーグのクラブとの契約交渉まで話が進展したが契約は実現せず、海外へ活動の場を求めていた彼にニュージーランドのオークランド・シティからオファーが届く。12月に控えたFIFAクラブワールドカップのために、即戦力として日本での実績と知名度がある岩本に白羽の矢が立ったのだ。オークランド・シティはアマチュアクラブであったため報酬はほとんど出せない状態だった。それでもプレーできる環境を探していた岩本は熱心に掛け合った。そして10月19日、7週間の短期契約を結び、2年ぶりの現役復帰を果たした。
12月のFIFAクラブワールドカップで途中出場ながら2試合に出場。これをもって正式に現役を引退。古巣である湘南ベルマーレからのオファーもあったが、断りを入れた。「今後はサッカー解説者に専念する」としていたが、再度の現役復帰を目指して練習中との報道もある。
引退後[編集]
2009年1月、現役時代に所属していたクラブの1つである仙台がクラブの親善大使である「アンバサダー」職を新設。その初代アンバサダーに就任し、2010年まで務めた。2011年12月、横浜創学館高等学校サッカー部コーチに就任[4]。
2015年8月よりワタナベエンターテインメントとマネジメント契約することが本人のブログで明らかとなった[5]。
AKB48のファンとして[編集]
現役引退後は、AKB48の熱狂的なファンとしても知られるようになった。推しメンバーは小嶋菜月と大島涼花であることも、公言している。本人曰く「頭の中はサッカーが8割、AKB48が2割」とのこと。2015年9月18日AKB48劇場の公演プロデュースを行った[6]。
所属クラブ[編集]
- 瀬ヶ崎S.C.
- 1985年 - 1987年 六浦中学校[1]
- 1988年 - 1990年 横浜商科大学高等学校[1]
- 1991年 - 1997年 フジタサッカークラブ/ベルマーレ平塚
- 1998年 京都パープルサンガ
- 1999年 川崎フロンターレ
- 2000年 ヴェルディ川崎
- 2001年 - 2003年 ベガルタ仙台
- 2004年 名古屋グランパスエイト
- 2006年10月 - 同年12月 オークランド・シティFC
個人成績[編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1991-92 | フジタ | 13 | JSL2部 | 22 | 7 | 0 | 0 | ||||
| 1992 | 旧J1 | 14 | 2 | - | 0 | 0 | 14 | 2 | |||
| 1993 | 10 | 1 | 4 | 3 | 1 | 0 | 15 | 4 | |||
| 1994 | 平塚 | - | J | 37 | 6 | 1 | 1 | 5 | 3 | 43 | 10 |
| 1995 | 18 | 2 | - | 1 | 0 | 19 | 2 | ||||
| 1996 | 17 | 3 | 9 | 2 | 3 | 0 | 29 | 5 | |||
| 1997 | 13 | 24 | 4 | 6 | 0 | 3 | 2 | 33 | 6 | ||
| 1998 | 京都 | 6 | 33 | 8 | 4 | 1 | 1 | 0 | 38 | 9 | |
| 1999 | 川崎 | 28 | J2 | 12 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 13 | 5 |
| 2000 | V川崎 | 11 | J1 | 9 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 |
| 2001 | 仙台 | 14 | J2 | 34 | 5 | 2 | 1 | 3 | 0 | 39 | 6 |
| 2002 | J1 | 22 | 4 | 6 | 0 | 2 | 0 | 30 | 4 | ||
| 2003 | 26 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 30 | 5 | |||
| 2004 | 名古屋 | 8 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
| ニュージーランド | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | オークランド | 53 | NZFC | 3 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||
| 通算 | 日本 | J1 | 191 | 32 | 33 | 4 | 15 | 5 | 239 | 41 | |
| 日本 | J2 | 46 | 10 | 3 | 1 | 3 | 0 | 52 | 11 | ||
| 日本 | JSL2部 | 22 | 7 | 0 | 0 | ||||||
| 日本 | 旧JFL1部 | 24 | 3 | 4 | 3 | 1 | 0 | 29 | 6 | ||
| ニュージーランド | NZFC | 3 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||||
| 総通算 | 286 | 52 | |||||||||
その他の公式戦
- 1995年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | FIFA | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| OFC | OFC CL | クラブW杯 | ||||
| 2006 | オークランド | 16 | - | 2 | 0 | |
| 通算 | OFC | - | - | |||
| FIFA | 2 | 0 | ||||
- JSL(2部)初出場:1991年11月20日 対東邦チタニウム戦 (平塚競技場)
- JSL(2部)初得点:同上
- Jリーグ初出場:1994年3月12日 対ヴェルディ川崎戦 (国立競技場)[1]
- Jリーグ初得点:1994年3月26日 対サンフレッチェ広島戦 (広島ビッグアーチ)[1]
- 日本代表初出場:1994年5月22日 対オーストラリア戦 (広島ビッグアーチ)
- 日本代表初得点:1994年7月14日 対ガーナ戦 (神戸ユニバー記念競技場)
代表歴[編集]
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 9試合 2得点 (1994)[2]
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1994 | 9 | 2 |
| 通算 | 9 | 2 |
タレント活動[編集]
サッカー解説番組[編集]
- スポルたん!LIVE(不定期出演。「Tell me! VEGALTA」のコーナーを担当。仙台放送)
- サッカー日本代表をみんなで応援しよう<テレビ実況番組>解説担当(2011年1月17日)ニコニコ動画生放送(公式)
- インテル・ミラノチャンネル(スカイ・エー)
- ニッポン放送Jリーグ RADIO(サッカーコメンテーター)
バラエティ番組[編集]
- 街道てくてく旅〜東海道五十三次完全踏破〜(2006年4月3日〜6月16日、NHK)
- ジャンクSPORTS(フジテレビ系列)
- 踊る!さんま御殿!!(2007年2月20日初登場「踊る!ヒット賞!!」獲得、日本テレビ系列)
- めざましテレビ・めざまし地球紀行〜ニュージーランド 温泉の旅(2007年3月29日〜4月19日、フジテレビ系列)
- 田舎に泊まろう!〜北海道枝幸町〜(2007年4月22日、テレビ東京系列)
- テレビでスペイン語 (2008年4月3日〜2009年3月26日、NHK教育)
- スパイスTV どーも☆キニナル!(キニナル!SHOP いいものプレミアム)(2008年9月29日〜、フジテレビ)
- AKB48 ネ申テレビ(2014年6月22日・29日、ファミリー劇場)
- ぶるぺん(2018年8月、GYAO!)[7]
- プロ野球みんなが知らないおカネの話3 ~グランドにはゼニが埋まっている!?スペシャル~(2018年9月28日、BSスカパー!)
その他のテレビ番組[編集]
イベント出演[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g 登録選手一覧表 Jリーグ公式サイト 2004.12.10
- ^ a b “岩本 輝雄”. サッカー日本代表データベース
- ^ 岩本輝雄が語る代表デビュー戦秘話 - Number Web、2018年6月8日
- ^ 【総体】元日本代表MF岩本輝雄コーチの横浜創学館、躍進も神奈川8強で姿消す - ゲキサカ、2012年6月18日
- ^ 15周年 - 元サッカー選手 岩本輝雄 official ブログ by ダイヤモンドブログ、2015年9月17日
- ^ AKB小嶋菜月、岩本輝雄の恋心一蹴 “テル48”公演キックオフ - ORICON STYLE、2015年9月18日
- ^ “ワールドカップ後にメンバーを一新する訳 ぶるぺん(GYAO!オリジナル) | バラエティ・スポーツ | 無料動画GYAO!” (日本語). GYAO!. 2018年9月30日閲覧。
参考文献[編集]
- 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・サントリーシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102318-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102321-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102324-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1997』、小学館、1997 ISBN 4-09-102329-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1998』、小学館、1998 ISBN 4-09-102335-5
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-100-6
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-102-2
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-104-9
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8116-7
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8134-5
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2004』、コナミメディアエンタテインメント、2004 ISBN 4-86155-802-6
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102323-1
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-101-4
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-103-0
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8117-5
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8135-3
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2004』、コナミメディアエンタテインメント、2004 ISBN 4-86155-801-8
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2005』、コナミメディアエンタテインメント、2005 ISBN 4-86155-806-9
外部リンク[編集]
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