山田隆裕
| ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| カタカナ | ヤマダ タカヒロ | |||||
| ラテン文字 | YAMADA Takahiro | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
| |||||
| 生年月日 | 1972年4月29日(46歳) | |||||
| 出身地 | 大阪府高槻市 | |||||
| 身長 | 175cm | |||||
| 体重 | 80kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW / MF | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
| 清水商業高校 | ||||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1991-1992 | 日産自動車 | 9 | (0) | |||
| 1992-1997 | 横浜マリノス | 150 | (18) | |||
| 1998-1999 | 京都パープルサンガ | 29 | (1) | |||
| 1999 | ヴェルディ川崎 | 27 | (1) | |||
| 2000-2003 | ベガルタ仙台 | 46 | (3) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 1992-1994 |
| 1 | (0) | |||
|
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月10日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
山田 隆裕(やまだ たかひろ、1972年4月29日 -)は、日本の元サッカー選手、実業家。選手時代のポジションはFW(ウイング)、MF(サイドハーフ)。
来歴・人物[編集]
大阪府高槻市で生まれる。小学校3年生の時、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に転居。転入した市立高部東小でサッカーに出会う。6年生の時に清水FCの一員として全日本少年サッカー大会に出場しベスト8進出。中学3年生の時には東海選抜に選出され、全日本選抜中学生サッカー大会で優勝を経験した。またサッカー界きってのボクシング・ファン、小学生時代は近所に大阪帝拳ジム在り何度も見学し当時の世界王者渡辺二郎に憧れ、二郎の後輩の辰吉丈一郎とも親交がある。
1988年に清水市立商業高校(現:静岡市立清水商業高等学校)へ進学すると1年次からレギュラーに定着し、同年の全国高等学校サッカー選手権大会決勝の市立船橋高校戦では決勝点をあげる活躍で優勝に貢献した。俊足と巧みなステップを活かした快速フォワード(ウインガー)として1989年と1990年に2年連続高校総体、全日本ユース選手権制覇などに貢献し、高校No.1選手と評された。
また高校2年次から日本ユース代表に選出されるなど、当時は同期のチームメイトで後に日本代表の10番を背負った名波浩よりも知名度は高く、将来も嘱望されていた。
高校卒業後の1991年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に入部。日産でもドリブルを武器に早々に活躍を見せ、同年の天皇杯決勝・読売クラブ戦では途中出場からダメ押しとなる4点目のゴールを決め優勝に貢献した。当時の日産のチームメイトだった木村和司も、山田のドリブルを認めていた程であった。
1992年にはハンス・オフト監督の指揮する日本代表に選出。1993年Jリーグ開幕節では欠場もJリーグ黎明期から活躍し、甘いマスクで人気で獲得、写真週刊誌でタレントとの交際が追いかけられるなど若手スターであった。
しかし日本代表への参加にあまり積極的でなく、93年10月にカタールのドーハで開催された94年米国W杯最終予選メンバーに選出されたが参加を辞退[1]。1994年9月27日のオーストラリア戦を最後に代表から遠ざかった。
その後1998年に京都パープルサンガに移籍後、1999年は期限付き移籍によりヴェルディ川崎でプレーし[2]、移籍期間終了後は京都を退団[3]。2000年6月にJ2のベガルタ仙台に移籍[2]したが、同年に一度は現役を引退しながらも復帰。2001年には横浜M時代に指揮を受けた清水秀彦監督の下でJ1昇格に貢献した。仙台時代の応援歌の原曲はBOØWYの「Dreamin'」。2003年シーズン途中で現役引退した。
引退後、仙台市内で移動式メロンパン専門店を開業していたが、2009年、移動販売をしていた男性らに、生地の質が落ちたことにより販売が低迷したとの損害賠償請求を起こされ、敗訴。メロンパン事業から撤退。その後、新聞配達や焼き鳥屋などを経て、西新宿でバーを経営[1]。
所属クラブ[編集]
- 1988年 - 1990年 清水市立清水商業高等学校
- 1990年 - 1997年 日産自動車/横浜マリノス
- 1998年 京都パープルサンガ
- 2000年6月 - 2003年6月 ベガルタ仙台
個人成績[編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1990-91 | 日産 | 31 | JSL1部 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||
| 1991-92 | 22 | 9 | 0 | 1 | 0 | ||||||
| 1992 | 横浜M | - | J | - | 9 | 1 | 0 | 0 | 9 | 1 | |
| 1993 | 27 | 3 | 1 | 1 | 3 | 0 | 31 | 4 | |||
| 1994 | 32 | 1 | 3 | 1 | 1 | 0 | 36 | 2 | |||
| 1995 | 43 | 7 | - | 1 | 0 | 44 | 7 | ||||
| 1996 | 23 | 1 | 9 | 2 | 1 | 0 | 33 | 3 | |||
| 1997 | 22 | 25 | 6 | 5 | 0 | 0 | 0 | 30 | 6 | ||
| 1998 | 京都 | 8 | 29 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 30 | 1 | |
| 1999 | V川崎 | 7 | J1 | 27 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 32 | 1 |
| 2000 | 仙台 | 32 | J2 | 19 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 20 | 1 |
| 2001 | 28 | 3 | 2 | 0 | 3 | 0 | 33 | 3 | |||
| 2002 | J1 | 18 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 22 | 0 | ||
| 2003 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 1 | 0 | ||||
| 通算 | 日本 | J1 | 224 | 20 | 32 | 5 | 12 | 0 | 268 | 25 | |
| 日本 | J2 | 47 | 3 | 2 | 0 | 4 | 1 | 53 | 4 | ||
| 日本 | JSL1部 | 9 | 0 | 1 | 0 | ||||||
| 総通算 | 280 | 23 | 35 | 5 | |||||||
その他の公式戦
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
- 1995年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1996年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
代表歴[編集]
出場大会など[編集]
- ユース日本代表(1990年)
- バルセロナオリンピック予選日本代表(1991年)
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1994)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1994 | 1 | 0 |
| 通算 | 1 | 0 |
出典[編集]
- ^ a b “元マリノス・山田隆裕氏 メロンパン販売を経てバー経営者に”. NEWSポストセブン (2018年6月15日). 2018年6月15日閲覧。
- ^ a b “山田隆裕選手 J2のベガルタ仙台に移籍”. 京都新聞. (2000-06014). オリジナルの2000年7月11日時点によるアーカイブ。 2017年10月30日閲覧。
- ^ “新入団選手と退団選手の移籍先”. 京都新聞. (2000年3月16日). オリジナルの2000年6月20日時点によるアーカイブ。
外部リンク[編集]
- 山田隆裕 - J. League Data Siteによる選手データ (日本語)

- 7人制サッカーを中心に活動してる元サッカー日本代表山田隆裕と愉快な仲間たち
| ||||||||||||||