松原良香

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松原良香wiki.jpg
名前
カタカナ マツバラ ヨシカ
ラテン文字 MATSUBARA Yoshika
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1974年8月19日(39歳)
出身地 静岡県浜松市
身長 179cm
体重 74kg
選手情報
ポジション FW
監督歴
2005 静岡FC
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

松原 良香(まつばら よしか、男性、1974年8月19日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、実業家。Jリーグ選手OB会副会長。

経歴[編集]

静岡県浜松市出身。東海大学第一高等学校を卒業後、ウルグアイペニャロールを経て、1994年にJリーグジュビロ磐田に入団。その後清水エスパルス - ジェフ市原- HNKリエカクロアチア) - ドレモンスイス) - 湘南ベルマーレ - プログレッソ(ウルグアイ) - アビスパ福岡 - デフェンソール(ウルグアイ) - 沖縄かりゆしFC - 静岡FCと国内外を問わず12チームでプレー。

サッカー王国・静岡で生まれ、各年代の日本代表としてプレー。1996年アトランタオリンピックではリバウドロベルト・カルロスベベットなどを擁するブラジル代表を"マイアミの奇跡"の一員として破る。

2005年に現役を引退し、現在は自らが主宰するFELICE MONDO(株)の代表として活動する傍ら、暁星国際学園アストラインターナショナルコースゼネラルマネージャー、Jリーグ選手OB会の副会長を務めるなど、幅広く活動中。

幼少時代[編集]

サッカー王国・静岡で生まれ、3歳年上の兄・プロサッカー選手としてもプレーした松原真也にあこがれ小学校3年生よりサッカーを始める。松原真也が県大会に出場する強いチームのキャプテンであったこともあり、兄のサッカーを観戦する環境からサッカー人生がスタートする。松原真也が高校2年生の時にアルゼンチンに渡り、プロ契約を果たした[1]。その影響を受け、アルゼンチン行きを周囲に相談するが反対され断念。高校卒業後大学に進学するが、サッカーへの思いが強く、入学を目前に辞退し自身の進路を考え直す。当時はJリーグ発足前だった為、U-17の日本代表としてプレーするも、プロになりたいという考えもなかった、と語っているが、その気持ちを変えたのが三浦知良だった。 三浦がブラジルから凱旋した際の試合を見て、大きな衝撃を受け、絶対にプロになる、と決意する。清水エスパルスやヤマハフットボールクラブ(現:ジュビロ磐田)に足を運ぶが、加入チャンスがなかった。 その頃、"世界と戦えるチーム"としてアトランタオリンピックに向けたチームの発動を知り、当時日本サッカー協会にいた山本昌邦に海外に挑戦することを勧められる。これをきっかけに海外でプロになることを決意。

エピソード[編集]

  • 幼少時よりディエゴ・マラドーナが大好きで、一緒に撮った写真は今も大事に飾っている。[2]
  • 兄の松原真也もアルゼンチンより帰国後、清水エスパルスにてプロとしてプレー。ジュビロ磐田対清水エスパルスのサテライトリーグで対決したこともある。当時珍しい兄弟Jリーガーだった。
  • 兄への信頼もあり、兄弟は仲が良い。[3]

現役時代[編集]

ウルグアイからプロ生活をスタートし、スイス・クロアチア・ドイツなどの欧州や、アルゼンチン・ブラジルの南米も経験し、Jリーグでプレー後、静岡FCのプレーヤー兼監督として引退。

代表歴[編集]

  • 1990年 U-17日本代表
  • 1993年 U-20日本代表
  • 1994年 U-21日本代表
  • 1995年 U-22日本代表
  • 1996年 U-23日本代表:アトランタオリンピック代表

所属歴[編集]

現役引退後[編集]

経歴[編集]

  • 2005年 FELICEサッカースクール 開校
  • 2009年 FELICE MONDO株式会社 設立(FELICEサッカースクール移行) 代表取締役就任
  • 暁星国際学園アストラインターナショナルコース ゼネラルマネージャー 就任
  • リーグ選手OB会 副会長 就任
  • 財団法人「TAKE ACTION F.C.」プレイヤーアドバイザリー 就任

実業家として[編集]

サッカー選手を引退した後、セカンドキャリアの模索に苦しむが、サッカーが今の自分を作ってくれたとの思いから『サッカーへの恩返し』として、サッカー界に貢献する活動を開始する。子どもにはサッカーだけではなく、人間形成も含め時間をかけた丁寧な指導が大切と考えのもと、日本でトップの指導を目指し2005年よりサッカースクールを開校する。

2009年にサッカースクールを法人化し、FELICE MONDO(株)を設立[4]

現在ではサッカースクールを六本木(東京)、新浦安(千葉)、木更津(千葉)で展開し、サッカークラブとしても、六本木(ジュニア)、新浦安(Jrユース)に展開する。また、暁星国際学園でのサッカーを通した活性化プロジェクトとしてアストラインターナショナルコースの設立に関わり、ゼネラルマネージャーとして活動[5]

長期的視野を持った、サッカーと教育と地域を合わせた事業展開が得意。また、事業の最終的な目的は、W杯を自国開催し、自国優勝すること。その為に、育成・世界との架け橋・サッカー文化の発展・Jリーグのバックアップ等を事業としている。

【JFA公認ライセンス取得歴】

  • 2005年 JFA公認C級ライセンス取得
  • 2005年 JFA公認B級ライセンス取得
  • 2008年 JFA公認A級ライセンス取得
  • 2010年 JFA公認S級ライセンス取得
  • 2012年 JFA公認A級U-12ライセンス取得

メディア出演[編集]

テレビ

  • コパアメリカ2011(NHK)
  • スーパーモーニング(テレビ朝日)
  • Jリーグ解説(スカパー)
  • W杯解説(スカパー)

ラジオ

コラム連載

  • サッカー人
  • マノアマノ

講演実績

  • ジュニア育成地域推進事業 品川区サッカージュニアユース強化教室
  • 港区 若年公務員対象 勉強会

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ウルグアイ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
1993 ペニャロール ウルグアイリーグ
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1994 磐田 - J 18 7 0 0 0 0 18 7
1995 15 3 - 2 0 17 3
1996 清水 13 3 3 0 0 0 16 3
1997 市原 9 25 8 7 3 2 0 34 11
1998 磐田 26 0 0 0 0 0 0 0 0
クロアチア リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
1998-99 リエカ クロアチアリーグ 2 0
スイス リーグ戦 スイス杯 オープン杯 期間通算
1999-00 ドレモン スイスリーグ 5 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2000 湘南 17 J2 35 12 2 1 3 0 40 13
ウルグアイ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
2001 CAプログレッソ ウルグアイリーグ
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2001 福岡 37 J1 8 0 4 0 0 0 12 0
ウルグアイ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
2002 デフェンソール ウルグアイリーグ
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2003 沖縄 9 九州 20 11 - 2 1 22 12
2004 - -
静岡 東海1部 -
2005 -
通算 ウルグアイ ウルグアイリーグ
日本 J1 79 21 14 3 4 0 97 24
日本 J2 35 12 2 1 3 0 40 13
日本 東海1部 -
日本 九州 -
クロアチア クロアチアリーグ 2 0
スイス スイスリーグ 5 0
パラグアイ パラグアイリーグ
総通算

出典[編集]

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外部リンク[編集]