財前宣之

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財前 宣之 Football pictogram.svg
名前
愛称 ザイ・天才
カタカナ ザイゼン ノブユキ
ラテン文字 ZAIZEN Nobuyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1976年10月19日(37歳)
出身地 北海道室蘭市
身長 170cm[1]
体重 66kg[1]
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

財前 宣之(ざいぜん のぶゆき、1976年10月19日 - )は、北海道出身の元プロサッカー選手・サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。実兄は元サッカー選手の財前恵一

来歴・人物[編集]

中田英寿も認めた才能の持ち主(運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なるの怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也菊原志郎山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。

中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦三試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出される。1995年ヴェルディ川崎のトップチームに昇格し、直後にイタリアの名門SSラツィオへと留学。ラツィオではプリマヴェーラ(ユース)所属だったが、トップチームの紅白戦にも出場した。また、アジアから唯一世界選抜チームに選出され出場した。 1996年にスペイン1部リーグのログロニェスに移籍。監督にもその実力を認められていたが(当時チームは下位に低迷していたが、監督をして「うちには財前がいる。彼の怪我が治れば大丈夫」と言わしめていた)、リーグ戦への出場を前にして、靭帯断裂のため帰国を余儀なくされる(もし怪我がなければスペイン1部リーグ初の日本人選手となっていた可能性が高い)。

帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。クロアチアのリエカを経て、清水秀彦監督の誘いに応じて1999年ベガルタ仙台入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。2001年J2最終戦、京都パープルサンガ戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。

2005年シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。翌2006年からは同じ東北をホームとするモンテディオ山形に移籍し、4年間プレーしたが2009年に戦力外通告を受け、同年シーズン終了を以って退団。

2009年のシーズン終了直後にタイ・プレミアリーグに所属するムアントン・ユナイテッドから獲得を前提とした練習参加のオファーが届いた。財前はすぐにタイへ飛び、プレ・シーズンマッチにもトップ下で出場し存在感を発揮、ムアントン・ユナイテッドへの正式加入が決まった[1]

2011年シーズンより同タイ・プレミアリーグに所属するBECテロ・サーサナFCへレンタル移籍。

2012年1月19日、本人のブログ上で現役引退が発表された。

今後は、仙台のサッカースクール指導や中学生以下のスカウトを担当するとのこと。[1]

仙台時代の応援歌の原曲はゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』、山形での応援歌の原曲はGOING STEADYの『愛しておくれ』だった。

所属クラブ[編集]

ユース経歴
プロ経歴

背番号10[編集]

上記のプレースタイルから1993年のU-17世界選手権で背番号10を背負っていた財前は、Jリーグでは仙台移籍2年目の2000年に初めて10番を背負い、以後チームの顔として2005年まで背負い続けた。Jリーグが1997年の固定背番号制を導入以後、同一チームで10番を背負う期間は澤登正朗清水エスパルス・1997年-2005年)、藤田俊哉ジュビロ磐田1997年-2003年8月2004年-2005年6月FCユトレヒト移籍中は空き番)に次いで長かった。

山形へ移籍した2006年は、入団当時既に27番まで埋まっていたので、背番号は事務的に充てられたものと思われる28番だった。そして、山形移籍2年目の2007年本橋卓巳から譲られる形で再び背番号10が与えられた。本橋はベテラン・永井篤志の仙台移籍で空いた8番を背負うこととなったが、奇しくも仙台時代の2000年、財前に10番を譲った中島浩司(現・サンフレッチェ広島)がベテラン・越後和男の引退で空いた8番を背負ったのと似たケースとなった。
2010年はタイのムアントン・ユナイテッドに移籍したが、背番号は28。「2+8=10」という、奇しくも山形入団初年度と同じ事態が起こった。

エピソード[編集]

  • U17代表コーチの小見によれば、練習の手本は財前が示し、当時のチームメイト・中田英寿はそれを体育座りで真剣に見ていたという。さらに中田は「ザイ(財前)とサッカーをやっているときが一番楽しかった」と発言しており、同じく松田直樹もワールドユース時代「初めにザイに認められるか否かで、代表における立場が決まった」とも語っている。
  • 留学していたSSラツィオ時代には元イタリア代表アレッサンドロ・ネスタが在籍しており、練習中、財前は当時すでにラツィオでレギュラーの座を獲得していたネスタにほとんどボールを触らせなかった。2002年FIFAワールドカップでイタリア代表が仙台でキャンプを行い、ベガルタ仙台と練習試合を行った際、ネスタ自ら財前に握手を求めに行った。ちなみに財前は怪我のため、この練習試合には出場していなかった。
  • 2007年7月21日みちのくダービーでは先制点をアシストをする活躍を見せた。同年10月10日のみちのくダービーではPKながら古巣・仙台から初得点を挙げた。
  • モンテディオ山形の木藤健太鈴木亮平渡辺匠(現在は退団)らと仲が良く、何度も食事に行く仲である。特に木藤とは仲が良く、自身のブログで彼女とまで紹介している。
  • キャプテン翼に登場する「弓倉宣之」は、財前がモデルといわれる。
  • 山形に小林伸二監督が就任してからは財前はFW(主にセカンドトップ)での起用が増えていたが、自身のブログでMFとしてプレーがしたい旨の事を思いとして書いていた。チームがJ1へ昇格後は「干されてもいいから左サイドで勝負させて欲しい」と首脳陣へ直訴し、小林監督は財前が得意としているトップ下で起用。その監督の起用に応えるかの様に途中出場ではあるものの、山形の切り札としてアシストを量産する事となった。
  • タイのリーグに在籍したが、パクチーが苦手である。

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1995 V川崎 - J 0 0 - 0 0 0 0
スペイン リーグ戦 国王杯 オープン杯 期間通算
1996-97 ログロニェス - プリメーラ 0 0 - - 0 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1996 V川崎 - J 0 0 0 0 0 0 0 0
1997 42 0 0 0 0 0 0 0 0
1998 13 0 0 4 0 0 0 4 0
クロアチア リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
1998-99 リエカ - 1.HNL 0 0 - - 0 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1999 仙台 29 J2 6 1 0 0 0 0 6 1
2000 10 20 2 0 0 1 0 21 2
2001 39 7 1 0 3 0 43 7
2002 J1 18 0 6 0 2 1 26 1
2003 8 0 4 1 1 0 13 1
2004 J2 36 5 - 0 0 36 5
2005 27 3 - 1 0 28 3
2006 山形 28 35 4 - 0 0 35 4
2007 10 38 1 - 2 0 40 1
2008 21 0 - 0 0 21 0
2009 J1 11 0 4 0 2 0 17 0
タイ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
2010 ムアントン・ユナイテッド 28 タイ・プレミア 11 0 - - 11 0
2011 テロ・サーサナ 37 10 0 - - 10 0
通算 日本 J1 37 0 18 1 5 1 60 2
日本 J2 222 23 1 0 7 0 230 23
スペイン セグンダ 0 0 - - 0 0
クロアチア 1.HNL 0 0 - - 0 0
タイ タイ・プレミア 21 0 - - 21 0
総通算 280 23 19 1 12 1 311 25

経歴[編集]

代表歴[編集]

  • 1992年U-16日本代表
  • 1993年U-17日本代表
1993年 FIFA U-17選手権ベスト8、ベストイレブン選出 (日本選手として唯一)
  • 1994年U-19日本代表

指導歴[編集]

  • 2012年 - ベガルタ仙台 スクールコーチ

脚注[編集]

外部リンク[編集]