小林伸二

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小林 伸二 Football pictogram.svg
名前
カタカナ コバヤシ シンジ
ラテン文字 KOBAYASHI Shinji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1960-08-24) 1960年8月24日(58歳)
出身地 長崎県南高来郡国見町(現雲仙市[1]
身長 174cm
体重 78kg
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1990 マツダSC
監督歴
1993-1996 サンフレッチェ広島ユース
2000 アビスパ福岡サテライト
2001 大分トリニータサテライト
2001-2003 大分トリニータ
2004-2006 セレッソ大阪
2008-2011 モンテディオ山形
2012-2015 徳島ヴォルティス
2016-2017 清水エスパルス
2019- ギラヴァンツ北九州
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月15日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはフォワード

来歴[編集]

現役時代はFW(ウイング)として活躍。

長崎県立島原商業高等学校時代には小嶺忠敏の教えを受けている。島原商のエースとして、1977年インターハイを優勝。ちなみに長崎北高出身の松田浩は同県出身で同い年である。その後、大阪商業大学に入学し、上田亮三郎から指導を受けた。

1983年マツダSC東洋工業サッカー部サンフレッチェ広島の前身)に入団[2]。マツダを選んだのは今西和男からの勧誘が大きかったといい、入社して配属された部署も今西が課長だった[3]1987年にはハンス・オフトのもと高橋真一郎、松田浩、猿沢茂ら日本人と、ディド・ハーフナーら外国人と共に、天皇杯決勝進出に貢献した。

1990年に現役を引退し、マツダSC/広島のトップチームコーチ、また広島ユースの創設で初代監督を務め、1995年Jユースカップ優勝、広島ユースに初の栄冠をもたらした。2000年アビスパ福岡2001年にJ2大分トリニータのサテライト監督に就任する。6月、トップチーム監督の石崎信弘が成績不振で解任された後を受けて大分トリニータの監督に就任。

この年は石崎体制時代の出遅れを取り戻せず6位に終わるが、2002年は28勝10分6敗と圧倒的な強さでJ2優勝を果たしJ1に昇格する。J1・1年目の2003年は、守備は通用したが深刻な得点力不足に陥り、結局通算14位でかろうじて残留を決めた。シーズン終了後に監督を退任。

2004年7月、この年のJ1・1stステージで最下位だったセレッソ大阪の監督に就任する。2ndステージも苦戦したが、最後の2試合で連勝して年間成績で15位に滑り込み、J1残留を果たす。

2005年は開幕3連敗で早々と最下位に沈んだが、ここから粘りを見せて第19節から最終節まではJ1最多記録となる16試合連続負け無し(10勝6分)の快進撃。第33節で首位に立ち、続く第34節(最終節)、ホームでのFC東京戦で勝利すればJ1優勝決定という所までこぎつけた。優勝は逃した(最終順位は5位)が、前年にJ2降格の危機に瀕していたチームを優勝目前まで引き上げた。この経緯を経て迎えた2006年は周囲より優勝を期待されたが、開幕から不振が続き4月18日付で監督を解任された。

同年10月9日付で九州サッカーリーグ(Kyuリーグ)に所属するV・ファーレン長崎の強化部長兼アシスタントコーチに就任。レンタル移籍選手を入団させてJFLへの昇格を目指すも、地域リーグ決勝大会の決勝ラウンドで敗退した。

その後12月12日、アビスパ福岡チーム統括グループ長に複数年契約で就任。2007年シーズンはJ1再昇格に向けチーム再建に取り組んでいたが、自身の就任後に都筑興社長の肝煎りで監督に就任したピエール・リトバルスキーと強化方針をめぐり対立、チームはJ2第13節で一度は首位に立ったが、上位チームとの対戦成績の悪さが影響しその後1度も首位に立つことなく終盤は中位に低迷、4戦を残し昇格の可能性が消えたこともあり11月13日に来期もリトバルスキーの続投を考える社長から詰め腹を切らされる形で更迭された[4][リンク切れ]

2008年モンテディオ山形の監督に就任し現場復帰。最終的にJ1昇格のための足がかりである「5位以内」というシーズン前の目標を飛び越え、J2リーグ2位の成績でシーズンを終え、就任初年度にチーム悲願となる初のJ1昇格を達成。

2009年、山形のJ1初年度となるシーズン前の補強はセレッソ時代に小林の下でプレーをした古橋達弥を獲得したが、その他の補強は日本人選手2名と外国人選手の獲得に留まり、昇格に貢献した豊田陽平京都サンガF.C.へ移籍した。一時は降格圏にまで順位を下げたが、小林はシーズン後半戦の残留を賭けた下位チームとの連戦を前に相手チームを徹底的に分析し、相手の弱点を突く練習を行った。その結果、山形は下位相手の連戦に勝ち越し、最終的に15位で終了。山形をJ1に残留させる事に成功した。

2010年も引き続き山形を指揮。前年同様、J2降格候補の最有力と呼ばれたが、鹿島から田代有三増田誓志をレンタルで獲得し、シーズン途中にはC大阪時代の教え子である前田和哉を獲得。既存戦力と巧く順応させ、チーム一丸となってリーグ戦に臨んだ結果、前年を上回る13位でシーズンを終了。山形を再びJ1残留に導いた。

2010年12月10日、山形と契約を更新し、4年目の指揮を執ることが決定した[5]。Jリーグ参入後、山形で4年目の指揮を執るのは小林が初めてあったが[6]2011年は開幕から成績不振の末最下位に終わり、J2降格が決定。契約満了に伴い、来季の契約を更新しないことが発表され退任となった[7]

2012年は当初、現場を離れ休養する意思を示していたが、徳島ヴォルティスからの熱烈なオファーを受け、それに応える形で監督に就任[8]。1年目は15位に終わったものの、2年目となる2013年、リーグ戦4位でJ1昇格プレーオフに進出。これを勝ち抜き、チームとして初の、監督としては3度目となるJ1昇格を果たした[9]。2013年12月日、徳島ヴォルティスとの契約が更新され、2014年も指揮をとることが決まった[10]。3年目の2014年は成績不振が続き最下位で1年で降格した。4年目の2015年ではシーズン前半戦は下位に沈んだが、シーズン後半戦は持ち直し順位を順調に上げた。しかし前半の不振が仇となり、第40節で札幌戦に敗北してしまった事でJ1昇格プレーオフ進出を逃がし、その後天皇杯に敗北した時点で退任が決まった。第95回天皇杯では3回戦でアルビレックス新潟を2-1で破った。また、4回戦でサンフレッチェ広島に1-2と敗れはしたものの健闘した。

2016年より、この年にJ2へ降格した清水エスパルスの監督に就任[11]。前半戦こそ苦戦したが、エース・大前元紀が怪我から復帰してからは得点王の鄭大世とのコンビで攻撃を牽引、シーズン終盤に松本山雅FCと共に首位を独走していた北海道コンサドーレ札幌に追い縋る。最終節では松本を逆転し2位に浮上、1年でのJ1復帰という至上命題を完遂した(2016年J2第41節・最終節を参照)。2017年12月、契約解除により清水の監督を退任した[12]

2019年より、J3リーグギラヴァンツ北九州の監督兼スポーツダイレクターに就任[13]

特徴[編集]

大分在籍時から守備力のあるチームを作ることが多い。特に2003年2ndステージは失点がリーグ最少の16だった(ただし15試合で得点はわずか7。もちろんリーグ最少で、このステージは最下位であった)。C大阪でも、初めてシーズン当初から指揮を執った2005年になって本領を発揮し、森島寛晃西澤明訓を中心にもともとある攻撃力とうまくかみ合って、特に後半戦での快進撃を生んだ。山形でもまずは守備の再生に着手し、コーチの長島裕明と二人三脚でチームをJ1昇格・J1残留という結果に導いている[14](後に徳島でも長島と共闘している)。いくつものチームをJ2からJ1に昇格させたことから、昇格請負人と呼ばれることがある[1]

清水でクラブ幹部から「勝負師というよりは教育者」と評されたように、若手選手の育成に定評がある一方で、外国人選手の起用方法などに難があるとされる[15]

エピソード[編集]

  • 山口朝日放送の情報番組「土曜の目覚めはどき生てれび」に出演した際、レノファ山口FCの戦術分析を行ったところ、分析内容が(サッカーに詳しくない出演者や視聴者にとって)専門的すぎて、スタジオが静まりかえってしまったという。次の出演前には妻を前にリハーサルを行って番組に臨んだものの、妻からは「何を言ってるのか、さっぱり分からない」とダメ出しをされてしまったという[16]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1983 マツダ JSL1部
1984 JSL2部
1985
1986-87 JSL1部
1987-88
1988-89 JSL2部
1989-90
1990-91 11 1 2 0
1991-92 18 JSL1部 0 0 0 0
通算 日本 JSL1部 40 4
日本 JSL2部
総通算

指導歴[編集]

監督成績[編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ナビスコ杯 天皇杯
2001 J2 大分 6位 33 19 4 10 2回戦 3回戦
2002 優勝 94 44 28 10 6 - 4回戦
2003 J1 14位 26 30 5 11 14 予選リーグ 3回戦
2004 C大阪 12位 16 15 4 4 7 - 4回戦
2005 5位 59 34 16 11 7 準々決勝 ベスト4
2006 - 4 8 1 1 6 - -
2008 J2 山形 2位 78 42 23 9 10 - 4回戦
2009 J1 15位 39 34 10 9 15 予選リーグ 3回戦
2010 13位 42 34 11 9 14 予選リーグ ベスト8
2011 18位 21 34 5 6 23 1回戦 3回戦
2012 J2 徳島 15位 51 42 13 12 17 - 3回戦
2013 4位 67 42 20 7 15 - 2回戦
2014 J1 18位 14 34 3 5 26 予選リーグ 3回戦
2015 J2 14位 53 42 13 14 15 - 4回戦
2016 清水 2位 84 42 25 9 8 - 4回戦
2017 J1 15位 34 34 8 10 16 予選リーグ 4回戦
2019 J3 北九州 -
J1通算 - - 257 63 66 128
J2通算 - - 287 141 65 81
J3通算 - -
通 算 - - 544 204 131 209
  • 2001年は5月より指揮(順位は最終順位)。
  • 2004年はセカンドステージのみ(順位はセカンドステージ順位)。
  • 2006年は第8節終了後に解任。

表中の数字は小林が在籍中のもの。

脚注[編集]

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  1. ^ a b “徳島ヴォルティスを四国で初めてJ1に昇格させた監督小林伸二(こばやししんじ)さん”. 徳島新聞. (2013年12月9日). http://www.topics.or.jp/special/12254542636/2013/12/2013_13865531531003.html 2014年5月3日閲覧。 
  2. ^ 同期に、信藤克義木村孝洋今川正浩上原洋史ら。中村重和は高校・大学・マツダの先輩にあたる
  3. ^ 【育将・今西和男】小林伸二「ストライカー育成法の原点は『広島』にある」 - WebSportiva・2016年2月11日
  4. ^ http://www.nishinippon.co.jp/nsp/avispa/20071114/20071114_001.shtml 西日本新聞 2007年11月14日付記事
  5. ^ モンテディオ山形 小林伸二監督 契約更新のお知らせ モンテディオ山形オフィシャルウェブサイト、2010年12月10日
  6. ^ モンテ小林監督の続投決まる 歴代最長の4季目突入へ 山形新聞、2010年12月10日
  7. ^ 小林伸二監督の来季契約について モンテディオ山形オフィシャルウェブサイト、2011年11月14日
  8. ^ モンテ小林監督がJ2徳島へ 山形新聞、2011年12月19日
  9. ^ “これぞ昇格請負人!徳島小林監督は史上初、3クラブ目のJ1昇格”. ゲキサカ (講談社). (2013年12月8日). http://web.gekisaka.jp/408731_129552_fl 2013年12月8日閲覧。 
  10. ^ “初のJ1昇格を果たした徳島が小林伸二監督との契約更新を発表”. 夕刊アメーバニュース. (2013年12月9日). http://yukan-news.ameba.jp/20131209-136/ 2013年12月11日閲覧。 
  11. ^ “小林伸二 監督就任のお知らせ” (プレスリリース), 清水エスパルス, (2015年11月25日), http://www.s-pulse.co.jp/news/detail/31599/ 2015年11月25日閲覧。 
  12. ^ “小林 伸二監督 契約解除のお知らせ” (プレスリリース), 清水エスパルス, (2017年12月5日), https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/38561/ 2017年12月5日閲覧。 
  13. ^ “小林 伸二 氏 監督およびスポーツダイレクター就任のお知らせ” (プレスリリース), ギラヴァンツ北九州, (2018年12月17日), https://www.giravanz.jp/news/p33473.html 2018年12月17日閲覧。 
  14. ^ 【モンテディオ山形】3カ月の軌跡(中)頭脳 asahi.com、2009年6月22日付記事
  15. ^ 【清水】続投方針急転!小林伸二監督を解任 後任はポポヴィッチ氏らリストアップ - スポーツ報知・2017年12月5日
  16. ^ 飯尾篤史 (2019年5月31日). “朝の情報番組でマニアックな戦術論。「みんなのレノファ」の志が熱い。”. Number WEB. 2019年6月5日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]