ニカノール・デ・カルバーリョ

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ニカノール
名前
本名 ニカノール・デ・カルバーリョ
Nicanor de Carvalho
ラテン文字 NICANOR
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1947-02-09) 1947年2月9日
出身地 レーメポルトガル語版
没年月日 (2018-11-28) 2018年11月28日(71歳没)
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
当項目参照
監督歴
当項目参照
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ニカノール・デ・カルバーリョポルトガル語: Nicanor de Carvalho, 1947年2月9日 - 2018年11月28日)は、ブラジルサンパウロ州レーメポルトガル語版出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード(右ウイング[1])。

経歴[編集]

選手時代[編集]

1964年にインテル・ジ・リメイラで選手としてのキャリアをスタートさせる[1]キンゼ・デ・ピラシカーバポンチ・プレッタを経て、1969年に移籍したサンパウロFCでは通算13試合出場0得点[1]フェロヴィアリアレモを経て、現役最後はアメリカ合衆国のマイアミ・トロス英語版でプレーした[1]

指導者時代[編集]

サンカルロス連邦大学ポルトガル語版で体育学を学び[1]、フィジカルコーチとしてポンチ・プレッタ、コリンチャンスサン・ジョゼECにて働く[1]。1984年にインテル・ジ・リメイラで監督としてのキャリアをスタートさせ[1]、以後、グレミオ・マリンガアトレチコ・パラナエンセコリチーバサン・ジョゼEC、ポンチ・プレッタ、サントスの監督を歴任[1]

1991年、日本のフジタのヘッドコーチに就任。肩書上は古前田充が監督だったが、実際にはニカノールが監督としての役割を担った[2]。クラブは1993年にベルマーレ平塚に改称され、同年のジャパンフットボールリーグに優勝、Jリーグ参入を決める。1994年のJリーグでは2ndステージで2位となり、同年度の天皇杯では優勝したが、1995年シーズン途中に解任された[2]。1995年9月から12月まではグアラニFC監督を務めた[3][4]

1996年から1997年まで柏レイソルの監督を務め、1995年に年間順位が12位だったチームを、1996年に優勝争いに加わって5位まで押し上げ、Jリーグ最優秀監督賞を受賞。

1997年は、ファーストステージは優勝争いに加わり、当時チーム最高の3位に導いた。しかし、セカンドステージでは調子に乗れず、エジウソンの退団もあり優勝争いに加わる事が出来ず成績が低迷した。其のオフに金銭面を巡ってフロントと対立し監督を退任。

1998年、ヴェルディ川崎の監督を務め、ワールドカップ中断時は、首位に立ち優勝争いに加わった。しかし、その後は、失速しファーストステージは6位に終わった。セカンドステージも怪我人の続出や主力選手の不調もあって下位の成績に低迷し、解任された。

その後、アメリカ-SPボタフォゴ-SPリオ・ブランコ-SPブラガンチーノにて監督を務めた[1][5]

2018年11月28日、心不全のため死去。71歳没[6][7]

所属クラブ[編集]

指導歴[編集]

受賞歴[編集]

  • Jリーグ最優秀監督賞 (1996年、柏レイソル在籍時)

脚注[編集]

外部リンク[編集]