ラモス瑠偉

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ラモス 瑠偉 Football pictogram.svg
Ruy Ramos on February 17, 2010.jpg
名前
愛称 カリオカ
カタカナ ラモス ルイ
ラテン文字 RAMOS Ruy
基本情報
国籍 日本の旗 日本ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1957-02-09) 1957年2月9日(60歳)
出身地 ブラジルの旗 ブラジル リオデジャネイロ
身長 181cm
体重 71kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1975-1977 ブラジルの旗 サージFC
1977-1996 日本の旗 読売クラブ/ヴェルディ川崎 302 (83)
1996-1997 日本の旗 京都パープルサンガ 20 (00)
1997-1998 日本の旗 ヴェルディ川崎 39 (00)
代表歴2
1989-1995 日本の旗 日本 32 (01)
監督歴
2005 ビーチサッカー日本代表
2006-2007 東京ヴェルディ1969
2014-2016 FC岐阜
1. 国内リーグ戦に限る。2007年1月27日現在。
2. 2007年1月27日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ラモス 瑠偉(ラモス ルイ、Ramos Ruy、1957年2月9日 - )は、ブラジルリオデジャネイロ出身の元サッカー選手(元日本代表)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。フットサルの元日本代表選手。長男はサッカー指導者のラモス・ファビアノ。長女は歌手のFABiANA。

ブラジル名はRuy Gonçalves Ramos Sobrinho(ルイ(フイ)・ゴンサゥヴェス・ラモス(ハモス)・ソブリニョ)[注 1]。愛称の「カリオカ」は「リオっ子」という意味で出身地に由来する。「36歳85日」の日本代表最年長得点記録(2013年時点)[1]を持つ。

来歴[編集]

ブラジル時代[編集]

1957年2月9日ブラジルリオデジャネイロから山側に70-80キロほど入るメンデスという小さな町で、サッカー好きな公認会計士の父フーベンと母マリアのハモス家の、5男1女の第4子として出生。父は大のサッカー好きであったが、母はサッカーに無関心で、息子フイのサッカー熱を嘆いていた。[2]実家近くには、当たり前の様にサッカークラブがあり当たり前の様にサッカーに没頭した。兄らに混じって空き地や道路で球蹴りに興じ、定期巡回で訪れるサッカークラブのセレクションを幾度も受け続けるが尽く不合格。

1966年9歳のとき、父が他界して大きなショックを受け、父の死が受け入れられず憤慨して一時家を飛び出す[3]。当時住んでいた家が、父親が会計士を務めていた会社の社宅だったため、実父の死亡に伴いリオからサンパウロに住んでいた叔母の家に引っ越す[4]1975年、高校2年のときに母が「フイの気が狂った」と呆れるほどに連日に渡り、膨大な試合に参加。全てはサッカーに対する情熱と、プロになり金を稼ぎたいという思いだった。高校に通うのを中断し、ほとんどの時間をサッカーとアルバイトに明け暮れ、アマチュアの大会などに参加。しかし見た目が細身だった事から、ほぼ門前払いに終わった。18歳の終わり頃に、当時サンパウロ州1部リーグ中位から下位に位置していたサアジFCに入団[5]1977年1月、19歳の時に、当時読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)でプレーしていた与那城ジョージにスカウトされる[6]。母は「気が狂った」と息子フイの日本行きを嘆き呆れ、猛反対する。

日本サッカーリーグ時代[編集]

1977年4月、20歳で来日し入団[7]。当時のニックネームは、ラモスの細い肉体にちなんで「エンピツ[8]。読売サッカークラブへの加入動機は、「なんとしてでもサッカーで金を得る」ためであったが、来日早々よみうりランドのホテルでホームシックを患い、郷に帰りたいと涙するも、カルバリオマリーニョ赤坂六本木にラモスと従兄弟のカルロス・ニコトラを連れ出したところ、「日本に来て良かった、もう帰る気は失せた」と大喜びする。JSL時代の登録名は「ラモス・ソブリニョ」。

MFとして有名だが、ブラジル時代はDFスイーパー)としてプレイしていた[9]。そして来日からしばらくはFWとしてプレイした[10]。初めは若さと日本語もわからなかったためトラブルを起こす。1978年1月14日の対日産自動車サッカー部戦で、ラモスがファウルをし、相手選手が重大なファウルを受けたように痛がる演技をし、レッドカードでラモスが退場処分を受けた後に、当の相手選手が笑っているのを見て激怒し、その相手選手をグラウンドで追い掛け回したことで、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた[11]。1年間の出場停止が解け、復帰した直後の試合から1979年2試合連続ハットトリックを含む14得点7アシストを記録。得点王・アシスト王の二冠を獲得した。これは日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか達成していない[12]Jリーグではアシストの個人表彰を行っていない)。この頃後に結婚することとなる、当時美大生だった清水初音がサッカー好きの男友達の仲介でラモスと対面した。ラモスは一目惚れした[13]。初音の母同伴の3人でデートをし、母も娘に影響されてラモスに関する情報や記事を収集するようになる。

1981年8月2日にバイク事故を起こし、左足のすねを複雑骨折し選手生命の危機に陥る。このときの取り乱し方は尋常ではなく、病院に駆け付けた初音が手をつけられないほど、ポルトガル語で喚き散らし周囲にあたり散らしていた。入院生活を送る中、往復に4時間以上かけて病室に日参する初音に対し「二度と来るな!顔も見たくない。帰れ!!」と怒りをぶつけるも、翌日また看病に訪れた初音に「(内心)降参した」とラモスの方が折れ、この献身的な看病に感激して結婚を決意[13][14][15][注 2]。このケガにより1981年の後期を棒に振り、1982年シーズンは復帰したものの1得点のみに終わる。1983年には復活し、10得点で得点王を獲得。

1984年2月、初音とブラジルサンパウロにて挙式、結婚。同年11月3日、古河電工戦で、両軍入り乱れての乱闘騒ぎを起こした[16]。その後、他の選手は2試合の出場停止だったのにもかかわらず、ラモスに対しては翌年3月末までの出場停止という重い処分が下された[16]。これらの背景には、プロ志向の強い読売クラブに対して日本サッカー協会実業団チームからの妬みや反発が強く、読売クラブを代表してラモスが被害を受けたという面もある[17]

1985年サントスFCウルグアイ代表マレーシア代表を招いたキリンカップでは日本代表と並んで読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明し、日本国外クラブに勝てないどころか、読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であった(当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身)。

この頃より日系ブラジル人の元選手であるセルジオ越後らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。日本サッカーが低迷する時代、読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)対日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。敵チームながら木村和司らと不遇の日本リーグ時代を支え、Jリーグ開幕、W杯出場へと日本サッカーを発展させた功労者の一人。[要出典]

当時、外国人出場枠3人に対して4人の外国人選手を抱えていた読売クラブは、この問題を解消するため日本国籍の取得条件(滞在年数、日本人配偶者)を満たしていたラモスに日本への帰化を勧める。漠然とではあるがいずれは妻の初音を連れてブラジルで所帯を構えようと[注 3]考えていたラモスはこの帰化話を聞いてあまり良い顔をしなかったものの、よく考えた結果「妻(初音)の両親は快く一人娘をガイジンの俺にくれた、俺はとんでもない馬鹿野郎だった。何かの形で日本に恩返ししないとこれでは筋が通らない。」と猛省して日本国籍取得の申請を届け出て1989年11月に日本国籍を取得した[注 4]。本名の「Ruy」の当て字「瑠偉」は初音夫人の考案によるもの[13]

1990年アジア競技大会横山謙三が指揮する日本代表に初選出されると、1991年のキリンカップ初優勝に貢献する。1992年にハンス・オフトが監督に就任すると、ブラジル流サッカーを信奉するラモスが、規律と組織を重視するオフトへの批判をマスコミ上で展開したため、一時期代表を外されかねない危機もあったが[18]、1992年9月26日、オフトとの30分程度の個人面談(通訳の為に小倉純二専務理事が同席)で和解した[19]。同年のダイナスティカップAFCアジアカップで優勝し、オフトジャパンの頼れる司令塔としてワールドカップ出場を目指すことになる。

Jリーグ時代[編集]

1993年のJリーグの開幕で、読売サッカークラブからヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)になっても、中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続ける。空前のJリーグブームの真っ只中、人気者としてCMにも出演し、年俸も6千万円超となり母に家を贈った。同年7月10日、当時ガンバ大阪に在籍していた賈秀全からファウルを受けた際、報復行為として賈の顔面にボールを投げつけ大乱闘となった(ちなみにこのとき賈は退場処分となったが、ラモスはイエローカードを受けるにとどまった)。1994年のサントリーチャンピオンシップヴェルディ川崎対サンフレッチェ広島F.Cの第2戦では、左脚肉離れに痛み止めを打ちながら強行出場。後半35分にゴール前のこぼれ球をダイレクトで浮かし、ゴールキーパーの頭上を抜く芸術的なループシュートを決めて優勝を決定づけた(この試合はともにクラブを支えた盟友加藤久の引退ゲームでもあった)。なお、このループシュートは読売時代からの得意技で、ゲーリー・リネカーが「ミスキック」と発言したことに本人は憤慨していたという[20]

日本代表では1993年5月5日、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選の1次予選F組第7戦のスリランカ戦で、前半31分に得点し、「36歳85日」の日本代表最年長得点記録(2011年時点)を打ち立てた。同年10月のアジア最終予選では厳しいマークを受けながら奮戦したが、最終戦イラク戦で後半ロスタイムに同点とされ、あと一歩でワールドカップ出場を逃す(ドーハの悲劇)。なお、本人はたとえ本大会出場を果たしたとしても、代表から引退する意思を持っていたという[21]パウロ・ロベルト・ファルカン新体制では代表招集を辞退。監督が加茂周に代わると代表に復帰し、1995年8月9日に国立競技場で行われた親善試合日本対ブラジル戦が事実上の日本代表引退試となった[22]

1996年夏にV川崎の監督に就任したエメルソン・レオンとは以前から確執があったことから、レオンの下でプレーする事に対して拒絶反応をあからさまに示し、京都サンガへ移籍する。しかし翌1997年夏にレオンが退任するとすぐさま古巣のV川崎に復帰。

1998年11月14日の柏レイソル戦(日立柏サッカー場)で現役を退く。41歳9ヶ月5日という最年長出場記録は2009年中山雅史に抜かれるまではJリーグ記録だった。1999年8月には三浦知良武田修宏北澤豪などのヴェルディ・オールスターズとJリーグ選抜軍によるJリーグ初の公認引退試合が国立霞ヶ丘競技場で開催された。この試合の最後のあいさつでファンに向けて「生まれかわっても、日本に来て早く帰化してワールドカップへ出たい」と涙ながらに語った。

フットサル日本代表に[編集]

サッカー引退直後の1999年2月、フットサル日本代表に招集された。ラモスの加入により知名度の低いフットサル日本代表への関心が高まった。同年3月、マレーシアで開かれた第1回AFCフットサル選手権に主将として出場、4位となった。[23]

引退後[編集]

評論家[編集]

引退後は評論家として活動。一時期解説業も行っていた。現役引退までの半年前、1998 FIFAワールドカップにおいてNHKの解説を行っていた際、日本代表のふがいない戦いぶりから、試合後「何ニヤニヤしてんだよ!ワールドカップは戦争だヨ!」「こんなサッカーじゃオナニーしてんのと同じだヨ!」と、有働由美子アナウンサーのフォローを無視して激高したことがあり、中田英寿のセリエAプレー解説を務めたときも精神論を全面に押し出したコメントで「大和魂を見せろ」「あんなプレーでは相手にナメ(見下さ)られる」「気持ちを強く」と、また2002 FIFAワールドカップを控えた日本平運動公園球技場での一般公開における日本代表の紅白戦試合の取材中に辛辣なコメントを連発し、フジテレビのサッカーコーナーから姿を消す事となった。タレントの明石家さんまから「お前はサッカー熱が過ぎて精神論だけが先行しボロカス言うから、テレビから干される」と指摘され苦笑いしながら頭を抱えていた。しかし時を経るにつれて、日本代表やFIFAワールドカップ関連の番組に出演時には辛辣なコメントは控えるようになっている。 2000年にブラジル政府より「リオ・ブランコ勲章」を受勲。

沖縄かりゆしFC監督・FC琉球アドバイザー時代[編集]

2001年に、沖縄かりゆしFC(当時九州サッカーリーグ所属)のテクニカルアドバイザー兼任の形で現役復帰を果たすが、2002年シーズン終了後の経営陣との対立からの退団でチーム内選手の集団退団騒動にまで発展した。またこの年、連続テレビ小説さくら』に居酒屋の主人役で出演した。かりゆしFC退団後は、FC琉球のテクニカルアドバイザーも務めた。

柏レイソルコーチ時代[編集]

2004年10月にJリーグの監督を務めるために必要な公認S級コーチ資格を取得。2005年ビーチサッカー日本代表の監督に就任し、ビーチサッカーワールドカップではベスト4の躍進に貢献。同年9月13日、J1リーグで残留争いの真っ只中にあった柏レイソルのコーチに就任。東京VのJ2降格を決定させる試合の対戦相手として引導を渡す役目になるという皮肉な巡り合わせもあった。柏では監督の早野宏史よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、チームは東京VともどもJ2降格となりコーチを辞任。

東京V監督時代[編集]

2006年からはJ2落ちした古巣の東京Vの監督に就任。前年度のレギュラーの殆どを失うチーム状況の中、「1年でJ1復帰」を掲げ、J2に加えACL出場のため登録メンバーを大幅に増やして臨んだが日程は過密となり、前年からの課題であった守備面での不安を解消することが出来ず、J2初年度は7位で終了したが、2007年も指揮を執ることが早々と決定。

この年、チームは名波浩服部年宏など実績あるベテランを獲得。在籍メンバー大半を入れ替える大型補強を行い、開幕前にはJ1昇格候補の筆頭に挙げられた。体制発表の際にクラブの萩原代表からは、圧倒的な強さを見せられなかった場合は早期解任の可能性まで示唆されており、背水の陣で臨むシーズンとなった。開幕5試合で4勝1分とスタートダッシュに成功したが、その後課題の守備面の不安が露呈し連敗を重ね、第7節(アビスパ福岡戦)から第12節(サガン鳥栖戦)まで6連敗を喫してしまい、「(この先)2連敗なら解任」などといった厳しい状況に追い込まれた。

そのような状況の中、第13節(水戸ホーリーホック戦)も大敗を喫しクラブワーストタイの7連敗となり、しかも不調かつ未勝利の水戸に1-5という大量得点での今期初白星を献上するという失態に、次節の結果に関係なく解任濃厚(後任はコーチの柱谷哲二の昇格が有力)と報道された。しかし、続く第14節(京都サンガF.C.戦)で4-1と大勝し、一転続投が決まった。

その後こだわり続けた4-4-2から3-5-2へとシステムを変更、守備の立て直しを図り、以後は安定して勝ち点を得られるようになった。9月頃からはフッキを1トップに据えた4-5-1へとシステムを変更したがこれが功を奏し、8連勝を記録するなど追い上げを見せ、2位でシーズンを終了。東京VのJ1復帰を成し遂げた。なお、J1昇格を決めたセレッソ大阪戦は、監督に就任してちょうど100試合目(リーグ、ACL、天皇杯を含め)であった。シーズン終了後に監督を退任。

同年9月15日に母がリオデジャネイロの病院で心臓発作のため82歳で死去した。だがこのことを選手にも伝えず、帰国もしないで指揮を執り続けた。

監督退任後[編集]

エグゼクティブディレクター(マスコミなどでは「常務」の肩書)として東京Vのフロント入り。Jリーグの選手経験者として初となるクラブ経営者として注目を浴びた。2009年4月に退任すると、5月には東京Vスーパーバイザーに就任したが、同年末の契約切れと共に退任した[24]

ビーチサッカー代表監督[編集]

2005年ビーチサッカー日本代表監督に就任し、FIFAビーチサッカーワールドカップ2005リオデジャネイロ大会で4位入賞(フェアプレイ賞も獲得)。日本代表の活躍と監督の手腕がFIFA公式ウェブサイトでも紹介された。2009年7月には元サッカー日本代表の前園真聖らを代表に加え、10月にアラブ首長国連邦ドバイで開催されたワールドカップではグループステージを1位で通過するもポルトガルに破れベスト8となった。2013年、フランス領ポリネシアタヒチで開催されたFIFAビーチサッカーワールドカップ2013ではグループDを2位で通過したが、決勝トーナメント初戦でブラジルに敗れベスト8となった。

FC岐阜監督時代[編集]

人物[編集]

1977年に来日。1989年に日本に帰化1984年に結婚した初音夫人との間に1男1女。左肩に妻の名前とハートマークに弓矢の刺さったタトゥーを施しており、Jリーグ開幕前後に多数あったスポーツニュース系番組での密着取材の際に愛情の証としてたびたび披露していた。

2011年7月19日、最愛のであったラモス初音が日本女子サッカーW杯の優勝を見届け、夫のビーチサッカーも世界一になるようエールを送った後に転移性肝ガンのため52歳の若さで他界[13]。ラモスは初音の最期を看取った際、言葉を発することなく大きなショックを受けた。ラモスの希望により、瑠偉初音夫人の葬儀・告別式は2人の結婚式が行われた聖イグナチオ教会7月22日に行われた。当初は再婚しないと語っていたものの、2015年11月に再婚している。

帰化した経緯[編集]

ラモスの自著である『ラモスの黙示録』によれば、来日当初のラモスは日本人になるとは全く考えておらず、来日した正直な理由はお金のためだった[27]。その後日本で長く暮らし日本人女性と結婚したものの、読売クラブのコーチから帰化を勧められた際には、自身の人生がクラブ事情(外国人枠)と天秤にかけられているように感じて始めはムッとした[28]。帰化を決意したきっかけは一人娘である妻やその家族のためであると述べている[29][30]。帰化した時点では日本代表に選ばれるとも思っていなかったため、日本代表に初招集されたときには、夢のようで嬉しくて涙がこぼれたとも述べ[31]、もうブラジル人ではなく日本人になったのだと実感したと語っている[32]

2016年のインタビューでは帰化の経緯について少し違う話が出ている。ある監督がブラジルに帰るとき、一緒に行こうと誘いを受けた。しかしラモスの妻は一人娘で連れていくわけには行かない。所属している読売クラブは、ラモスが1年間出場停止になったりバイクで大怪我をしたときに、ラモスを守ってくれた。ラモスにとって読売クラブは自分のファミリーだった。監督からは「じゃあクラブに恩返ししなさい。帰化したら外国人枠が1つ増える」と言われた。母から人に恩返しすることを教えられていたこともあって、読売クラブへの最後の恩返しとして帰化することにした[33]

日の丸[編集]

日の丸」への愛着をたびたび語っている。自著『ラモスの黙示録』では3ページにわたって日の丸への思いをつづり、国を代表し家族や仲間のために日の丸を背負ったからこそ、頑張れたと述べている[34]。ラモスが初めて日本代表に招集された当時の代表ユニフォームには日の丸がどこにもなく、左胸にJFAのシンボルマークである「カラス八咫烏)エンブレム」だけであったが、選手達の発案により左腕に日の丸が入るようになった[35]。ドーハでのイラン戦の際、国歌斉唱が終わった直後にユニホームの袖を引き寄せ、日の丸に口づけし気合を入れるラモスの映像がテレビで流れている。2010 FIFAワールドカップの日本代表ユニフォームが発表された際には、自身のブログにおいて「やっと日の丸が胸についた! 最高だ!」と大変喜んでいた[36]。同時に日本代表には青のユニフォームではなく日の丸と同じ赤と白のユニフォームにしてほしいと述べている[37]

読売・ヴェルディへの愛着[編集]

読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ1969)に強い愛情を持ち、「読売はオレのサッカー人生そのもの」と述べている[38]。監督との確執で移籍したことはあってもクラブを嫌いになったことはなく、「嫌いになれと言われてもなれない、心底愛しているから」と述べている[39]日本リーグの二部にいた時代から同クラブを支えており、ラモス自身は「ヴェルディ」ではなく「読売」と呼称している。

読売グループのクラブ運営撤退後、経営危機に陥った東京Vについて、「日本サッカー界の輝ける歴史を作って引っ張ってきたこのチームが消えてなくなってしまうなんてありえない」「心あるお金持ちの人いないのかなあ」とクラブの行く末を案じている[40][41]

背番号10へのこだわり[編集]

読売への愛着同様、背番号10もかなりの愛着を持っており、日本代表は勿論、背番号固定制施行以前も主に10番を背負い(読売時代は長らく背番号8を付けていた。)、ラモスの代名詞とも言える番号だった。その事はほかの選手も認識しており、当時ヴェルディのチームメートであったビスマルクは、彼への敬意から、こだわりのあった背番号10ではなく、7番を自ら選択するほどであった(ラモスが日本代表で離脱したときに一度だけ10番をつけている)。日本代表では、1991年から背番号10となりゲームメーカーとして活躍した。

特徴・評価[編集]

ブラジルの名将であり読売クラブ特別コーチだったジノ サニは、ラモスのゲームメイクを高く評価。「ラモスの頭には、サッカーの地図がある」とコメントしている。

プロサッカーコーチ湯浅健二の「闘うサッカー理論」(三交社)では、「ラモスは、フリーランニングの天才」と記述されている。

技術・攻撃的能力が高く、FW、攻撃的MF、ボランチと中盤から前ではどのポジションでも一流の実績を残した。都並敏史など当時の同僚たちは「ラモスのように正確でやわらかいパスを出せる選手はその後現れていない」との言葉を残している。

現役引退後でも、親交のある選手(いわゆる「ドーハ組」など)の引退試合などに招待出場する機会があると、現役選手に混ざっていても色あせないプレーを見せ周囲を驚かせる。生田智子中山雅史の妻)はテレビ番組で「ラモスさんは技術があったから40歳まで(現役を)続けた」とコメントしている。

2007年にTBS『スーパーサッカー』の企画にて、現役サッカー女子日本代表を揃えた「なでしこオールスターズ」を相手に、元日本代表で固めた「スーパーサッカーオールスターズ」の一員として参加。年下の小倉隆史福田正博をさしおいて当時49歳とは思えないプレーでチームの挙げた得点の半分である5得点を叩き出し衰えない技術を披露。この活躍ぶりに加藤浩次から賞賛の意味で「今季は(ヴェルディで)プレイングマネージャーでいけるんじゃない?」とコメントをもらった。

所属クラブ[編集]

個人タイトル[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯 オープン杯 期間通算
1975 サージ
1976
1977
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1977 読売 8 JSL2部 4 5 0 0 2 1 6 6
1978 JSL1部 - - - -
1979 15 14 4 4 0 0 19 18
1980 15 7 2 1 2 1 19 9
1981 9 1 1 0 0 0 10 1
1982 13 1 1 0 3 1 17 2
1983 14 10 0 0 3 1 17 11
1984 16 9 2 2 0 0 18 11
1985 18 7 4 0 2 1 24 8
1986-87 10 15 4 0 0 5 1 20 5
1987-88 17 4 0 0 5 1 22 5
1988-89 17 3 3 2 3 1 23 6
1989-90 22 5 3 3 3 0 28 8
1990-91 21 2 2 0 2 0 25 2
1991-92 18 2 5 0 5 0 28 2
1992 V川崎 - J - 8 1 4 1 12 2
1993 30 4 1 0 1 0 32 4
1994 26 3 3 0 0 0 29 3
1995 23 2 - 0 0 23 2
1996 9 0 0 0 - 9 0
京都 10 0 9 0 2 2 21 2
1997 10 10 0 2 0 - 12 0
V川崎 10 0 0 0 2 0 12 0
1998 29 0 1 0 0 0 30 0
通算 ブラジル
日本 J 147 9 24 1 9 3 180 13
日本 JSL1部 210 69 27 12 33 7 270 88
日本 JSL2部 4 5 0 0 2 1 6 6
総通算

その他の公式戦

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

サッカー

フットサル

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 32試合 1得点(1990年 - 1995年)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1990 3 0
1991 2 0
1992 10 0
1993 14 1
1994 0 0
1995 3 0
通算 32 1

指導歴[編集]

監督成績[編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦 備考
順位 試合 勝点 ナビスコ杯 天皇杯
2006 J2 東京V 7位 48 71 21 8 19 - 3回戦敗退
2007 2位 48 89 26 11 11 - 3回戦敗退
2014 岐阜 17位 42 49 13 10 19 - 2回戦敗退
2015 20位 42 43 12 7 23 - 2回戦敗退
2016 18位 24 24 7 3 14 - - 解任(24節)時点の成績
J2通算 - 180 - 79 39 86

サッカー以外での受賞歴[編集]

  • アクアピースゴールデンハート賞(2002年) ※アクアピースネットワーク主催[42]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

  • NHK 連続テレビ小説さくら」(レオナルド役)
  • TBS(JNN)系列 S・1(エス・ワン) スポーツ番組
  • TBS(JNN)系列『みのもんたの朝ズバッ!』(みのもんたのあさズバッ!)

        <FIFAワールドカップ南アフリカ2010大会コメンテーター)

  • TBS(JNN)系列『炎の体育会TV』FK対決
2013年テレビ出演
  • NTV ナイナイアンアサー3時間スペシャル(2月26日OA)
  • NHK サッカープラネットスペシャル(3月24日OA)
  • TBS 炎の体育会TV3時間スペシャル(4月6日OA)
  • NHK 週刊深読み「Jリーグ20周年」(5月OA)
  • NHK NHKアーカイブ「Jリーグを創った男たち(5月OA)
2014年
  • NHK BS-1スペシャル「体感!ブラジルサッカー紀行」(1月放送 レポーター)
  • TBS バースディ「密着!ラモス瑠偉・FC岐阜再建への挑戦」(3月OA)
  • テレビ朝日 モーニングバード「」(5月OA)
  • BS TBS SAYONARA KOKURITSU「Jリーグ開幕」(5月31日OA)
  • NHK ゆうどき「人生ドラマティック」(6月OA)
  • フジテレビ FIFAワールドカップブラジル大会・ディリーハイライト(スペシャルコメンテーター)
  • 日本テレビ FIFAワールドカップブラジル大会・ディリーハイライト(スペシャルコメンテーター)
  • TBS FIFAワールドカップラジル大会・ディリーハイライト(スペシャルコメンテーター)
  • TBS あさチャンFIFAワールドカップコーナー
  • フジテレビ ワンダフルライフ(7月20日OA)

CM[編集]

映画[編集]

テレビゲーム[編集]

参考文献[編集]

  • 鈴木洋史 (1998) : 天国と地獄―ラモス瑠偉のサッカー戦記 (文春文庫)
  • ラモス瑠偉 (1999) : ラモスの黙示録 (ザ・マサダ)

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ 太字はブラジルポルトガル語発音に即した表記。
  2. ^ 病室内で二人がキスをしていたという目撃談があるが、本人は完全否定している。
  3. ^ 初音夫人はポルトガル語の日常会話程度を習得し、子供の一男一女もポルトガル語名を命名されている。
  4. ^ ブラジル政府は自国民の国籍放棄を一切認めておらず、日本国政府は二重国籍を認めていないため、矛盾するが書類上ではブラジルと日本の正式な戸籍を保有している。
出典
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]