松丸貞一
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名前 | ||||||
カタカナ | マツマル テイイチ | |||||
ラテン文字 | MATSUMARU Teiichi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1909年2月28日 | |||||
出身地 | 東京都文京区 | |||||
没年月日 | 1997年1月6日(87歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | HB、FW | |||||
ユース | ||||||
慶應義塾大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
慶應BRB | ||||||
東京OBクラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1934 |
![]() | 3 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1937-1940 | 慶應義塾大学 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
松丸 貞一(まつまる ていいち、1909年2月28日 - 1997年1月6日)は、東京都文京区本郷出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはハーフバック(現在のミッドフィールダー)、フォワード。
略歴[編集]
東京府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校)3年生時の1924年に同校で蹴球部が創設されたことを機にサッカーを始める。慶應義塾大学に進み、1932年に卒業した。ソッカー部では1931年より主将を務め、1932年に関東大学リーグと東西大学1位対抗に初優勝した。
天皇杯は1933年4月に慶應BRBの選手として第12回大会で優勝、同年10月には東京OBクラブの選手として第13回大会で優勝、1936年には再び慶應BRBの選手として第16回大会で優勝した。
この間、1934年極東選手権の日本代表に選ばれ、初戦のオランダ領東インド戦、2戦目のフィリピン戦に先発出場、3戦目の中華民国戦に途中出場した。
大学卒業後は慶應義塾大学のコーチを経て、1937年に監督に昇格。ソッカー部の先輩・濱田諭吉が翻訳したオットー・ネルツの指導書に大きな影響を受け、攻守に人が動き、ワンタッチパスを多用するスタイルのサッカーを標榜した。
松丸の監督時代に慶應義塾大学および慶應BRBが獲得したタイトルは、関東大学リーグ4回(1937年から1940年まで4連覇)、天皇杯3回(1937年、1939年、1940年)、東西大学1位対抗4回(1937年から1940年まで4連覇)など。公式戦での1試合平均得点は4.6点、平均失点は0.46点だった。
第二次世界大戦後は日本サッカー協会(JFA)の役職を歴任した。1950年ごろにJFA内につくられた審判委員会では委員長を務め、1953年から1957年までは国際審判員に登録されていた[1]。
代表歴[編集]
出場大会[編集]
- 1934年 極東選手権
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1934)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1934 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
参考文献[編集]
- 賀川浩. “大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)”. 賀川サッカーライブラリー. 2008年9月15日閲覧。
- 賀川浩. “JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)”. 賀川サッカーライブラリー. 2008年9月15日閲覧。
- 後藤健生『日本サッカー史・代表篇』 双葉社、2002年11月 ISBN 978-4575294897
脚注[編集]
- ^ 財団法人日本サッカー協会75年史編集委員会 『財団法人日本サッカー協会 75年史―ありがとう。そして未来へ』 日本サッカー協会、1996年、190頁。
- ^ 『第12回日本サッカー殿堂 掲額者決定』(HTML)(プレスリリース)日本サッカー協会、2015年8月7日 。2016年8月1日閲覧。
外部リンク[編集]
- 松丸貞一 - National-Football-Teams.com (英語)