岡田武史

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岡田 武史 Football pictogram.svg
名前
愛称 岡ちゃん
カタカナ オカダ タケシ
ラテン文字 OKADA Takeshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1956-08-25) 1956年8月25日(60歳)
出身地 大阪府大阪市[1]
身長 175cm
体重 70kg
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1990 日本の旗 古河電工 189 (9)
代表歴2
1980-1985[2] 日本の旗 日本 24 (1)
監督歴
1997-1998 日本の旗 日本代表
1999-2001 日本の旗 コンサドーレ札幌
2003-2006 日本の旗 横浜F・マリノス
2007-2010 日本の旗 日本代表
2012-2013 中華人民共和国の旗 杭州緑城
1. 国内リーグ戦に限る。2008年4月12日現在。
2. 2010年7月3日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズ社外取締役城西国際大学特任教授[3]日本サッカー協会副会長。

選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド千葉)でプレーし、サッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場。

現役引退後は指導者の道に進み、サッカー日本代表のコーチを務めていた1997年、加茂周の更迭に伴って監督に昇格。日本代表を初のFIFAワールドカップ出場に導き、1998 FIFAワールドカップ本大会でも指揮を執った。2007年から再び日本代表の監督を務め、2010 FIFAワールドカップでベスト16。クラブチームではコンサドーレ札幌横浜F・マリノス、中国の杭州緑城の監督を歴任した。横浜FMでは2003年、2004年とJ1リーグ連続優勝を果たした。

「岡ちゃん」の愛称で知られる。眼鏡がトレードマークで、現役時代には眼鏡を外さずプレーしていたこともある(但し、現在一般に公開されている現役時代の写真等では眼鏡を外しているものも少なくない)[4]

来歴[ソースを編集]

幼年期〜大学時代[ソースを編集]

大阪市生まれ、父は産婦人科医。帝塚山学院小学校時代は、大阪球場を本拠としていたプロ野球球団『南海ホークス』が運営する「南海ホークス子供の会」に入会して野球に明け暮れ、ホークス応援のために大阪球場へと通う野球少年だった。ホークスではファースト、学校のクラブではピッチャーであった(「ホークス子供の会」では一学年下に岡田彰布も所属していた)。[要出典]

中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして自分には向いていないと考え、当時メキシコオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる[5]。中学時代には「ドイツに行ってプロになる」と言って両親を困らせ、両親から相談を持ちかけられた産経新聞運動部長賀川浩に諭されて思いとどまる[6][7][8][9]

天王寺高校入学後もサッカーを続ける。同校は進学校でありサッカーではまったく実績がない高校だったが[8]、岡田は3年時にユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ[8])、クウェートで開催されたアジアユース選手権に出場した。天王寺高では監督は試合の時しかいなかったため、日々の練習メニューは主将である岡田が考え実践していた[8]

一年間の浪人生活を経て、早稲田大学の政経学部に入学[10]。サッカー部(ア式蹴球部)の部長である堀江忠男からは「おそらく一年間浪人して勉強したとしても、合格するのは無理だろう。私が推薦するから、体育専攻を受験するようにしなさい」という手紙を受け取ったが、それがかえって自身のやる気に火をつけたと振り返る[10]。浪人生活のあいだに10キロ以上太り[8]、大学では当初、サッカー部には所属せずサッカー同好会の「稲穂キッカーズ」に在籍していたが、それを知った日本サッカー協会の関係者たちに説得され、6月になってからサッカー部に入部する[8][11][12]

早稲田大学時代にはユニバーシアード日本代表に選ばれた[13]

大学時代に知り合った2歳年上の八重子夫人と大学4年の時に結婚。2男1女の父。

古河電工時代[ソースを編集]

大学卒業時、岡田はマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず[8][14]、1980年に古河電工に入社。社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍[4]。1985年に9年ぶり2度目のリーグ優勝、1986年に日本のチームとして初となるアジアクラブ選手権優勝に貢献した。JSL1部での通算成績は189試合9得点[9]

1985年にリーグ優勝した際に監督だった清雲栄純は「当時の選手には珍しく理論を持っていた。身体能力や技術は高くなかったが、予測能力が高くて声で周りを動かせた。そのコーチングが非常に的確で」「声を出す選手というのはおうおうにして自分は逃げ回るタイプが多い。汚れ仕事は人にさせて、おいしいところだけ持っていくような。岡田は最後は自分の身体を張れた」[15]と岡田を評する。同年の古河が採用していたゾーンのラインディフェンスについても「岡田がいたからやれた守り方だった。戦いの意図を後ろから的確に伝えることができたから」と語る[7]

1990年1月20日に行われたゼロックス・スーパーサッカーの日本リーグ選抜対バイエルン・ミュンヘンの試合が、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった[7]。この試合で日本リーグ選抜は善戦の末1-2で破れる。日本リーグ選抜の主将を務めた[7]岡田は、海外トップチームとの対戦を通じてその埋めがたい差を身を以て実感して現役引退を決意[7]。自分がバイエルンの選手たちに追い付くのではなく、どう指導すれば彼らに勝てるような選手を育てられるかに関心は移っていった[7]

日本代表として[ソースを編集]

1980年6月1日のジャパンカップエスパニョール戦で日本代表にデビュー[9]

1982年、インドニューデリーで開催されたアジア大会に出場。当初発表された代表メンバーに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。この大会で準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田自身は2試合に起用され、1982年11月25日日の1次リーグ・韓国戦では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めている[4][16]

1984年のロサンゼルス五輪最終予選では加藤久と並んでセンターバックのレギュラーとなるはずだったが[16]、初戦の3日前に肉離れで離脱した[16]1986 FIFAワールドカップ予選では加藤の控えとしてベンチを温めた[16]

その後、代表監督に就任した石井義信は、チームの軸として加藤、岡田、木村和司を念頭に置いていたが[16]、すでに代表チームでプレーするモチベーションを失っていた岡田は誘いを断り古河でのプレーに専念するようになった[16]。最終的に国際Aマッチのキャップは24を数えた[16]

指導者としての出発[ソースを編集]

現役を引退した翌年から古河電工のコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせる。1992年ドイツへとコーチ留学し、1993年に帰国後はJリーグ発足に沸く日本サッカー界に戻り(岡田は後に、J開幕前に渡欧し、J開幕後のフィーバー状態の最中帰国したことを「浦島太郎になったようだった」と述懐している[17])、古巣・古河が母体となったジェフ市原でコーチを務めた。市原とはプロ契約[18]を交わし、清雲栄純監督の下で主にサテライトチームに携わる。この年に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア最終予選イラク戦(ドーハの悲劇)のNHK BS1でのテレビ中継のスタジオ解説を田嶋幸三とともに務める。

日本代表監督(1997年-1998年)[ソースを編集]

1995年にはサッカー日本代表コーチに抜擢される。1994年加茂周が日本代表チーム監督に就任した際、加茂は前任のファルカンのチーム計画を一旦白紙に戻し、前々任であるハンス・オフトが行ったチーム作りを継承すべく人材を集めていた。オフトの下でコーチをしていた経験のある清雲栄純にもコーチの話があったが清雲は断り、その代わりに岡田を推薦。しかし加茂と岡田はほぼ面識がなく、また岡田は指導者としての経験が浅いので、やりがいを感じていたジェフでのコーチ業を優先すべくこの話を当初固辞していたが、清雲に熱心に薦められて代表のコーチに就任した。

岡田の一大転機は1997年10月、フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂監督が更迭された事から始まる。岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名され1997年10月、対ウズベキスタン戦で指揮。終了直前に1ゴールを決めてドロー発進するも岡田は内心ある程度の確信を持つ。加茂更迭直後、急場でコーチからの監督起用でウズベキスタン戦のみの就任であり岡田もこれを了承したものだったが日本に帰国後、加茂に挨拶をして話し合い「現状を鑑みて、他の者に監督を任せるのはリスクが高い」と判断して監督続行を申し出る。コーチの枠は空席のまま代替として小野剛強化委員がチームに帯同。

最初の1試合を乗り切った岡田は監督へと昇格を果たしたものの、当初は「急場凌ぎ」との見方が大勢を占めていた。しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。最終的にイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から日本代表初の本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)。この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。

1998年の本選直前に不振だった三浦知良北澤豪をメンバーから外した事では当時その是非がマスメディアやサッカーファンや世論の間で議論を呼んだ[19]。本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。大会終了後のテクニカルレポート(FIFAや各国サッカー協会が独自に作成する大会分析レポートのこと。指導改善に役立てる)作成を最後の仕事とし代表監督を退任した。

監督退任後、半年あまりの期間は衛星放送WOWOWにてイタリア・セリエA中継の解説を担当、取材で当時ユヴェントスを指揮していたマルチェロ・リッピ監督と対談し、サッカー観、戦術面での影響を受ける。また後に横浜F・マリノスにてJ1優勝を果たした際にリッピから祝電が届くなど交流を生むきっかけとなった。

コンサドーレ札幌監督[ソースを編集]

1999年にJ2降格となったコンサドーレ札幌の監督に就任。自身初となるJリーグの監督として、さらに前年にワールドカップ日本代表を率いていたこともあり報道も多く、注目度・期待度が高かったが、就任1年目はJ1昇格争いには加われずJ2リーグ5位に終わった。シーズン終了後、札幌監督就任から続いた采配時のスーツ着用をやめてジャージ着用に変え、自身の発想も転換した以外にも、チームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。スカウティングも自分で行った。

2年目の2000年にはこれらの努力が結実し、2位の浦和レッズに勝点12差をつけてJ2優勝・2年での1部復帰を果たす。チームとしてもJ2発足後初のJ1、自らも監督として初のJ1となった2001年は年間11位(1stステージ:8位(勝ち点21、6勝3分6敗)、2ndステージ:14位(勝ち点13、4勝2分9敗))の成績を収めてJ1残留に成功。ここを区切りに札幌の監督を辞任し、解説者の視点から世界のサッカーを見つめなおすこととなる。札幌を指揮した期間ではエメルソン播戸竜二山瀬功治今野泰幸など若い才能を発掘・起用した。さらにこの年、当時J2だった大分トリニータから獲得したウィル(24得点)が得点王に輝くなど、監督としての才能を十分発揮させた。

2002年はサッカー解説者として活動。FIFAワールドカップ日韓大会ではNHKの解説者を務め、フィリップ・トルシエ退任後の次期日本代表監督候補にも噂された。

横浜F・マリノス監督[ソースを編集]

2003年横浜F・マリノス監督に就任。充実した戦力を率いた1年目の1stステージからいきなり優勝を飾り、その余勢を駆って2ndステージも優勝。就任1年目にして完全優勝の栄冠を手にした。2004年も1stステージを制し、Jリーグ史上初の3ステージ連覇の偉業を成し遂げる。浦和レッズと争ったサントリーチャンピオンシップでは2試合の通算得点が同点となり、延長戦を経て迎えたPK戦を制して、2年連続の年間王者に輝く。

2005年も優勝候補の一角に挙げられていたが、AFCチャンピオンズリーグA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦における主力の離脱により順位は低迷。結局、9位という期待外れの成績に終わる。成績低迷の責任を取り監督を辞任するとの観測も流れる中、2006年以降も横浜FMで監督を続投することが公式に発表された。

復活を期して臨んだ2006年は開幕4連勝を飾ったものの、その後急激にチームコンディションが悪化。再浮上の切っ掛けが掴めないまま18節終了時点で自力優勝が消滅し、19節の大宮戦終了後に辞意を表明。翌8月24日に辞任し、3年半に渡った横浜での指揮にピリオドを打った。表面上は家族を亡くしたこと[20]、および成績不振によるものとされているが、真の理由は強化方針を巡るフロントとの確執にあるとも言われている。岡田は後に「俺は自分の指導者としての限界を感じていたのではないか」と語っている[20]

日本代表監督(2008年-2010年)[ソースを編集]

本大会出場を決めて歓喜する日本代表チーム(中央のスーツ姿が岡田)

日本サッカー協会の特任理事として活動中、次期日本代表の日本人監督として名も挙がっていた中、2007年11月に日本代表のイビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院し、2008年2月のW杯予選で指揮を執ることが困難になり、小野剛日本サッカー協会技術委員長(当時)から後継監督として打診を受ける。その際、小野は、元浦和監督のホルガー・オジェックらがオシムの後任日本代表監督候補に上がる中、岡田に打診した理由として、(1) オシムが築いてきた土台の上に新しい色、個性を積み上げられる、(2) 強烈なリーダーシップ、求心力を持っている、(3) 翌年2月6日の予選まで与えられた時間が少ないためにコミュニケーション能力がある監督としての3点を挙げている[21]

2007年12月7日、日本代表監督再就任が当時日本サッカー協会会長だった川淵三郎によって正式に発表され[22]2008年から指揮を執るようになった。なお、ワールドカップで通算成績が0勝3敗の監督が再度同じ国の代表監督をするのは史上初であった[23]。前回の在任時はコーチ陣と同じジャージ姿での采配が話題となったが、再就任後は2008年7月に日本サッカー協会会長に就任した犬飼基昭の指示でスーツ姿で指揮を執ることが多くなった(悪天候時はジャージまたはグラウンドコート姿で指揮を執ることもあった)。

2009年6月6日、W杯南アフリカ大会アジア最終予選の第6戦。アウェーでのウズベキスタン戦を1-0で勝利。グループAをオーストラリア代表に次ぐ2位で通過し、日本代表を4大会連続4度目の本大会出場に導いた。なお、この試合の終了直前に審判に異議を唱えたとして監督生活初の退席処分を受けた。

国内組で臨んだ2010年東アジアサッカー選手権では4チーム中で3位[24]、その後同年4月7日のキリンチャレンジ杯セルビア代表(監督は代行監督、ワールドカップ予選に参加していた選手はベンチメンバー1名のみの、国内選抜チーム)戦では0-3で敗れ、4月26日にサポーターから日本サッカー協会へおよそ1000人による解任の署名が提出された[25]。また、5月24日に行われたキリンチャレンジ杯の韓国代表戦に0-2で敗退した後に、犬飼基昭日本サッカー協会会長に対して「進退伺い」ともとれる発言をしたとされることや[26]5月30日イングランド戦にも敗退し、6月4日コートジボワール代表戦まで4連敗を喫し決定力の低さを解消できないことなどを受けて、国内のサポーターやマスコミからは岡田の監督連投や選手の起用法に批判が集中し、Yahoo! JAPANが行ったインターネット調査ではサポーターからの支持率がわずか16%という低さであった[27]ため、ワールドカップ中の解任すらマスコミ上で取り沙汰された[28]

岡田は今大会における目標を「ベスト4入り」と表明していたが、強化試合で結果が出せなかったことから、その目標は「非現実的」だとして国内外のマスコミに酷評され続けた[29]ほか、グループリーグの対戦相手発表を受けて、セルジオ越後釜本邦茂杉山茂樹などのサッカー評論家が1勝もせぬままのグループステージ敗退を予想するなど[30]、サポーターやマスコミに渦巻く不信感と低評価の中ワールドカップ本戦に臨んだ。

しかし、格上と見られていたカメルーン代表6月14日に行われた初戦では、前半に入れた1点を守り抜き、1-0で勝利した[31]。なおこの勝利は、ワールドカップの国外開催大会での初勝利であった[32]。その後6月19日に行われたオランダ代表との第2戦は0-1で負けたものの、6月24日に行われたデンマーク代表との第3戦では、前半に2点を入れた後も終始リードを保ったまま3-1で勝利を収め[33]グループリーグを2勝1敗の勝ち点6とし、国外開催大会で初めてのワールドカップ決勝トーナメント進出を果たした[34]

このサポーターやマスコミの多くが予想していなかった快進撃に、国内外のマスコミはこれまでの批判的な姿勢を一転し、岡田の采配を絶賛する論調ばかりとなっただけでなく[35][36]、グループステージでみせた日本代表の堅い守りを、イタリア代表の「カテナチオ」をもじって「オカナチオ」と呼ぶ記事すら現れた[37]。大会前の4連敗も、あえて格上と戦ったことが決勝トーナメント進出という結果として現れたと評価を一転させた。さらにインターネット掲示板やツイッター上を中心に、かつて岡田に対する非難や不信感を表明していた者からの「謝罪」の表明が相次ぐ事態となり[38][39]、「岡ちゃん、ごめんね」という言葉は2010年新語・流行語大賞にもノミネートされた。

日本サッカー界史上初のベスト8進出をかけたパラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦は、90分では決着がつかず0-0のまま延長戦に突入した。しかし延長戦でも決着がつかず、日本代表史上初めてワールドカップでのPK戦に突入したものの結果的に3-5で敗北[40]した。しかし、日本代表としての様々な記録を残したチームを作り上げた手腕に対し、開幕前との評価とは一転して「名将」、「感謝」と称賛する評価が相次いだ[41]。日本代表監督としての契約が同大会を最後に切れる[42]ことになっていたが、試合後の会見で改めて今大会を最後に退任する意向を表明した[27][43]。また、一部ネットニュースでは人望の厚さや人脈の豊富さから「将来の日本サッカー協会会長へ」という声も出た[44]

JFA理事へ[ソースを編集]

2010年7月25日に行われた日本サッカー協会(JFA)の役員改選で、JFA理事に就任した。これはJFAの新会長となった小倉純二の推挙によるもので、小倉は今後岡田がどこかのクラブの監督となった場合も「兼務で理事をやらせる」と語った。当時は主に環境問題を担当したが[45]、2012年6月の役員改選で理事を退任している。

また2010年8月にはWOWOWの専属サッカー解説者となることが発表され、以後同局のリーガ・エスパニョーラ中継の解説を担当した。解説者就任に伴い開かれた記者会見では、海外から代表監督(本人は具体的な国名は挙げなかったが、メディアではカタール代表と伝えられた)のオファーを受けていたものの断っていたことも明らかにされた[46][47]

2010年11月、アジアサッカー連盟(AFC)より、日本人では桑原隆(1998年)、西野朗(2008年)以来3人目となるAFC最優秀監督賞を受賞。

杭州緑城監督[ソースを編集]

2012年から中国サッカー・スーパーリーグ杭州緑城足球倶楽部にて指導者に復帰。2013年11月6日契約を1年残し退任を発表した。また当面は監督に就かない事も発表した。

経営者の道へ[ソースを編集]

2014年2月、デロイトトーマツコンサルティング、特任上級顧問に就任[48]。同月には内閣府『選択する未来』委員会の委員に就任し、主に教育問題に取り組んでいる[49]

2014年11月、四国サッカーリーグFC今治の運営会社に出資し、同チームのオーナーに就任[50]。指導者ではなく敢えてオーナーとなること、それも地域リーグのクラブを選んだ理由について、岡田は「日本のサッカーはこのままでいいのか」という疑問に対する一つの答えとして「日本のサッカーはこういうものだという『型』(=一貫したスタイル)が必要だ」「それは代表監督や日本サッカー協会が作るものでもない。むしろ、クラブから生まれるべき時代が来ている」という結論に至ったこと、当時J1とJ2のクラブから、全権監督としてのオファーがあったものの「新しいチャレンジをするために潰すべき既存の枠組みもその分大きいし、時間もかかる」「小さいチームなら、時間はかかるかもしれないけれど一から始めることは比較的簡単」という考えから、大学時代の先輩がオーナーをしていたFC今治からのオファーを受け入れたと述べている[51]

2016年3月、日本サッカー協会(JFA)副会長に就任[52]

他、Jリーグの試合解説やサッカーに関わるインタビュー等の媒体出演、講演などで活動。

所属クラブ[ソースを編集]

個人成績[ソースを編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1980 古河 JSL1部 14 0
1981 17 0
1982 18 0
1983 15 1
1984 17 0
1985 22 4
1986-87 21 1
1987-88 22 1
1988-89 21 1
1989-90 2 22 1 2 0
通算 日本 JSL1部 189 9
総通算 189 9

代表歴[ソースを編集]


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1980 3 0 5 0 8 0
1981 5 0 7 0 12 0
1982 2 1 0 0 2 1
1983 7 0 10 0 17 0
1984 4 0 6 0 10 0
1985 3 0 6 0 9 0
通算 24 1 34 0 58 1

指導経歴[ソースを編集]

監督成績[ソースを編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1999 J2 札幌 5位 36 55 17 6 13 1回戦 3回戦
2000 J2 札幌 優勝 40 96 31 5 4 1回戦 4回戦
2001 J1 札幌 11位 30 35 10 5 15 1回戦 3回戦
2003 J1 横浜FM 完全優勝 30 58 17 7 6 準々決勝 準々決勝
2004 J1 横浜FM 優勝 30 59 17 8 5 準々決勝 5回戦
2005 J1 横浜FM 9位 34 48 12 12 10 準決勝 5回戦
2006 J1 横浜FM 12位 19 23 6 5 8 - -
  • 2006年は成績不振で引責辞任。順位は辞任当時のもの。

監督表彰[ソースを編集]

指導者としてのスタイル・エピソード[ソースを編集]

  • 2008年、国内組で組んだ日本代表を率いた大学生との練習試合にて、流通経済大学に0-1で負けている[53]。なお、横浜F・マリノス時代には天皇杯の市立船橋高校との試合で延長でも決着がつかず、PK戦まで追い込まれ辛勝したことがある[54]
  • W杯南アフリカ大会抽選会会場にて、3ヶ月前に親善試合を行ったオランダのベルト・ファン・マルワイク監督と英語で話している時に、「ところで、日本の監督は誰だ?どこにいるの?」と言われ、まったく覚えられていないことが発覚[55]。その後、すぐに会場から去ったため、恒例である同グループリーグの代表監督の集合写真は日本の監督だけ写らなかった。報道陣から、そのことについて尋ねられると、二度目のW杯であるにも関わらず恒例であることを知らなかったとの返答。
  • 2008年に川口能活に対して、代表内で競争させることもせずサブで残るか代表を離れるかの選択を迫った[56]
  • W杯南アフリカ大会の会見で起用法とシステムの変更について聞かれたときに、中心の選手がJリーグでも不調が続いており、コンディションが戻るんじゃないかと期待したが、踏ん切りをつけ変えたと答えている。[57]

その他のエピソード[ソースを編集]

メディア出演[ソースを編集]

テレビ[ソースを編集]

  • 岡田武史の見る世界基準と日本の挑戦〜2014FIFAワールドカップ〜(2014年6月10日、NHK総合)
  • Jリーグラボ 第27回、第28回(2015年5月30日、6月6日、スカパー!)

CM[ソースを編集]

  • エスエス製薬「ガストール」(2010年11月〜 「2010年最も胃の痛かった男?」と称し、日本代表の試合のインタビューをバックに流している)
  • 高橋書店「2011年版「手帳は高橋」年末広告」(2010年12月〜)

ゲームソフト[ソースを編集]

  • FIFA 08 ワールドクラス サッカー(EA SPORTS)解説(実況・西岡明彦
  • FIFA 09 ワールドクラス サッカー(EA SPORTS)解説(実況・西岡明彦)
  • FIFA 10 ワールドクラス サッカー(EA SPORTS)解説(実況・西岡明彦)
  • FIFA 11 ワールドクラス サッカー(EA SPORTS)解説(実況・西岡明彦)
  • FIFA 12 ワールドクラス サッカー (EA SPORTS) 解説(実況・西岡明彦)
  • FIFA 13 ワールドクラス サッカー (EA SPORTS) 解説(PSVITA版のみ)(実況・西岡明彦)

書籍[ソースを編集]

単著

共著

関連書籍

関連項目[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

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  1. ^ 出生地は香川県高松市
  2. ^ a b “岡田 武史”. サッカー日本代表データベース. http://www.japannationalfootballteam.com/players_a/takeshi_okada.html 
  3. ^ “講演会:岡田武史さんがサッカーを語る−−城西国際大 /千葉”. 毎日jp. (2012年12月9日). http://mainichi.jp/area/chiba/news/20121209ddlk12040082000c.html 2012年12月18日閲覧。 
  4. ^ a b c 長田浩一 (2010年6月25日). “岡田さん、ごめんなさい”. 時事通信. 2010年6月29日閲覧。
  5. ^ JDFA 2008, p. 308.
  6. ^ JDFA 2008, pp. 310-311.
  7. ^ a b c d e f 「ニッポン異才伝 岡田武史 ③」
  8. ^ a b c d e f g 「コーチング・イズ・マイライフ/岡田武史②」
  9. ^ a b c 「オシムに代わる代表監督――火事場に強い男 岡田武史」
  10. ^ a b JDFA 2008, pp. 312-313.
  11. ^ JDFA 2008, p. 313.
  12. ^ サッカー日本代表監督 岡田 武史さん”. 早稲田ウィークリー. 2015年5月1日閲覧。
  13. ^ J-WAVE : ANA WORLD AIR CURRENT”. J-WAVE (2004年6月24日). 2015年5月1日閲覧。
  14. ^ JDFA 2008, pp. 314-315.
  15. ^ 「ニッポン異才伝 岡田武史 ①」
  16. ^ a b c d e f g 「ニッポン異才伝 岡田武史 ②」
  17. ^ http://www.tamakimasayuki.com/sport_bn_76.htm
  18. ^ 「J2躍進の指揮官に注目/③岡田武史(コンサドーレ) 」
  19. ^ “カズ切り、俊輔切り…岡田監督 鬼に徹して勝利つかんだ”. スポーツニッポン. (2010年6月15日). オリジナル2010年6月18日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/20100618113329/www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100615022.html 2011年2月13日閲覧。 
  20. ^ a b Business Media 誠:岡田武史氏が語る、日本代表監督の仕事とは (1/7)”. ITmedia. 2010年7月7日閲覧。
  21. ^ “オシム監督の後任、岡田武史氏に要請”. スポーツニッポン. (2007年11月28日). http://www.nikkansports.com/soccer/japan/p-sc-tp2-20071128-288662.html 2011年2月13日閲覧。 
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参考文献[ソースを編集]

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  • 国吉好弘「コーチング・イズ・マイライフ/岡田武史③」、『週刊サッカーマガジン』第1031号、ベースボール・マガジン社、2005年6月28日、 47頁。

外部リンク[ソースを編集]

杭州監督 岡田武史の「中国細見」コラム-日経新聞