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U-20サッカー日本代表 (アンダートゥエンティ(にじゅう)サッカーにほんだいひょう)は、日本サッカー協会 (JFA)によって編成される20歳以下のナショナルチームである。FIFA U-20ワールドカップ の前年にはU-19日本代表、さらにその前年にはU-18日本代表と呼称が変わる。
歴代監督 [ 編集 ]
AFC U20アジアカップの成績 [ 編集 ]
AFC U20アジアカップ (2004年まではAFCユース選手権、2008-2020年はAFC U-19選手権)には、1959年の第1回大会から全ての大会に参加。3大会(1982年、1984年、1986年)連続での予選敗退はあったが、それ以外は全て本大会出場を果たしている。2016年に初優勝を果たした。
FIFA U-20ワールドカップの成績 [ 編集 ]
FIFA U-20ワールドカップ (2005年まではFIFAワールドユース選手権)には1979年大会 に開催国として初出場を果たすが、以降は16年間、本大会出場から遠ざかる。1995年大会 で2度目の本大会出場(初めてアジア予選を通過しての本大会出場)を果たして以降は2007年大会 まで7大会連続で本大会出場を果たしたものの、2009年大会 、2011年大会 、2013年大会 、2015年大会 と4大会連続で本大会出場ならず。2017年大会 は5大会ぶりに本大会の出場を獲得。1979年と2001年大会を除いては全て1次リーグ通過を果たしており、中でも「黄金世代」と呼ばれた小野伸二 ・本山雅志 ・高原直泰 らを擁して臨んだ1999年大会 では、準優勝をしている。
1977年チュニジア大会 [ 編集 ]
1977年チュニジア大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1979年日本大会 [ 編集 ]
1979年日本大会 では、松本育夫 監督の指揮の下、尾崎加寿夫 、水沼貴史 、柱谷幸一 、風間八宏 、柳下正明 、鈴木淳 らが出場した。2分1敗でグループリーグ3位となり、決勝トーナメント進出は果たせなかった。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
1981年オーストラリア大会 [ 編集 ]
1981年オーストラリア大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1983年メキシコ大会 [ 編集 ]
1983年メキシコ大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1985年ソビエト連邦大会 [ 編集 ]
1985年ソ連大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1987年チリ大会 [ 編集 ]
1987年チリ大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1989年サウジアラビア大会 [ 編集 ]
1989年サウジアラビア大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1991年ポルトガル大会 [ 編集 ]
1991年ポルトガル大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1993年オーストラリア大会 [ 編集 ]
1993年オーストラリア大会 は、アジア予選で敗退し、出場権獲得はならなかった。
1995年カタール大会 [ 編集 ]
グループリーグを突破し準々決勝でブラジル に1-2で敗れるが、同大会での初のベスト8進出は日本サッカー界にとって明るい話題となった。他の有力選手としては、怪我の影響のためDFの中心選手の田中誠 、この翌年にA代表へ選出された楢﨑正剛 、西澤明訓 らがメンバーから外れている。後にトルシエジャパンの主力として活躍する森岡隆三 も代表に選出されていたが、試合出場は無い。監督は田中孝司 。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
1997年マレーシア大会 [ 編集 ]
前回大会に出場した中田英寿、松田直樹に加え、宮本恒靖の3人は早生まれのため他の最年長組の選手より1学年上の先輩だったが、年齢的には国際基準の参加資格を満たしていた。しかし、中田と松田は前年のアトランタオリンピック に出場していたため、当時の大会規定で参加していない宮本のみが出場する事ができた(後にこのルールは撤廃)。その一方、一世代下から永井雄一郎 と南雄太 が飛び級で参加し、主力として活躍した。彼らを山本昌邦 監督が率いて臨み、準々決勝でガーナ に敗れるが2大会連続でベスト8進出を成し遂げた。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
1999年ナイジェリア大会 [ 編集 ]
1999年ナイジェリア大会 では、前年のフランスW杯 にも出場した小野伸二 を中心に、のちにA代表に名を連ねる本山雅志 、高原直泰 、小笠原満男 、遠藤保仁 、中田浩二 、稲本潤一 、加地亮 、酒井友之 、播戸竜二 、2大会連続出場の永井雄一郎・南雄太らを擁した、いわゆる「黄金世代 」が、フィリップ・トルシエ 監督の指揮の元に準優勝という日本サッカー史上に残る快挙を成し遂げた。大会の直前に主力であった金古聖司 ・市川大祐 を負傷と疾病で欠き、また稲本も負傷の回復途上でコンディションが整わないなど不安視される要素も多かったが、その穴を感じさせぬ各選手の活躍が目立った。精神面・戦術面双方の支柱であったキャプテン小野を警告累積による出場停止で欠いた決勝ではスペイン に0-4で完敗したものの、小野・本山は大会ベストイレブンにも選出された。
また、準々決勝のメキシコ戦で、日本の鮮やかなプレーに興奮した観客が試合終了後選手を祝福しようとピッチになだれ込むハプニングがあったことに代表されるように、この大会における日本の試合の質は高かった。グループリーグのイングランド戦では照明灯の半分が突然ダウンし薄暗い中での試合が強行される、決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦では後半開始早々、交代3人枠を使い切ったポルトガル のキーパーが負傷退場し急遽、フィールドプレイヤーが代わりにキーパーになり10人で戦うなどの珍事もあった。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
2001年アルゼンチン大会 [ 編集 ]
西村昭宏 監督の指向する攻撃的サッカーで挑んだが、大久保嘉人 、阿部勇樹 、松井大輔 、今野泰幸 、茂庭照幸 といった既にJリーグの各クラブで主力の位置にあった選手を怪我で欠いたこともあって、グループリーグ突破は成らなかった。この年代は1999年 のFIFA U-17世界選手権 の出場を逃し、ワールドユースでいきなり世界と戦うことになったことから「強化の谷間」という意味で「谷間の世代 」と呼ばれていたが、前3大会で果たした決勝トーナメント進出を逃したことで、「実力的な谷間」という意味が付きまとう様になった。しかし、この年代からは多くの日本代表選手を輩出し中核を担っている。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
※当初、選出されていた茂庭照幸 は怪我のため登録解除され、代わりに那須大亮 を登録。
2003年UAE大会 [ 編集 ]
2003 FIFAワールドユース 布陣
(阿部)
(成岡)
(菊地)
2003年UAE大会 では監督に大熊清 が就任し、前大会の出場を直前の怪我で逃した今野泰幸を中心とする世代を率いた。グループリーグを突破しベスト16ラウンドでは韓国に勝利。準々決勝でブラジルに大敗するもベスト8の成績を残した。なお、坂田大輔 が4得点を挙げ大会得点王に輝いた。また、平山相太 が2歳年少ながら飛び級で招集された。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
2005年オランダ大会 [ 編集 ]
2005 FIFAワールドユース 布陣
(小林)
2005年オランダ大会 では2大会連続で出場した平山相太を中心とするメンバーで、前回大会に引き続いて大熊清監督が指揮を取って挑んだ。日本はグループリーグを2分1敗の勝ち点2という成績だったが、同グループ1位通過のオランダを除く3カ国が2分1敗の勝ち点2で並び、結果得失点差でグループリーグを2位で通過することとなった。しかし決勝トーナメントの初戦(ベスト16)で、モロッコに0-1で敗退。結局、大会を通じて1勝も出来ずに大会を終える結果となった。大熊は大会後、「チーム立ち上げ時からの選手に情が入ってしまった」と振り返った。
2007年カナダ大会 [ 編集 ]
2007 FIFAワールドユース 布陣
2007年カナダ大会 では、長年ユース年代の代表にコーチングスタッフとして参加した吉田靖 が監督に就任した。
グループリーグではFIFA主催の世界大会において日本サッカー史上初めて2試合で突破を決めたが、決勝トーナメント初戦では、この大会を準優勝したチェコ相手に2点をリードしながら追いつかれ、PK戦に敗れた。前回とは対照的に1敗もすることなく(PK敗退は記録上引き分け扱い)同じベスト16で大会を終えたが、FIFA フェアプレー賞 を受賞した。
ゴールを決めたときに行うビリーズブートキャンプ などのパフォーマンスでも注目を集め、明るいチームカラーから「調子乗り世代」「悪ガキ世代」「お調子者世代」と評された。また、全4試合を戦ったヴィクトリア でも人気は高く、日本代表のユニフォームは完売した程であった。
2009年エジプト大会 [ 編集 ]
AFC U-19選手権2008 布陣
(香川)
(吉田)
2009 FIFA U-20ワールドカップ は、その前年2008年 に開催されたアジア予選 で準々決勝で敗退し、1995年 大会以来の8大会続けての出場権獲得はならなかった。監督は牧内辰也 。
2011年コロンビア大会 [ 編集 ]
AFC U-19選手権2010 布陣
2011 FIFA U-20ワールドカップ は、2010年に開催されたアジア予選 準々決勝で敗退したため、出場ならず。監督は布啓一郎 。
2013年トルコ大会 [ 編集 ]
2013 FIFA U-20ワールドカップ は、2012年に開催されたアジア予選 準々決勝で敗退したため、出場ならず。これで3大会連続で本戦出場を逃した。監督は吉田靖 。
2015年ニュージーランド大会 [ 編集 ]
2015 FIFA U-20ワールドカップ は、2014年に開催されたアジア予選 準々決勝で敗退したため、出場できなかった。これで4大会連続で本戦出場を逃したことになる。さらに、この年はU-17日本代表もアジア予選 を突破出来なかったため28年ぶりに両代表が世界大会へ出場出来ないという事態となった[2] 。監督は鈴木政一 。
2017年韓国大会 [ 編集 ]
2017 FIFA U-20ワールドカップ は、2016年に開催されたAFC U-19選手権2016 大会において優勝を果たし、日本にとって5大会ぶりの出場となった。監督は内山篤 。
2019年ポーランド大会 [ 編集 ]
2019 FIFA U-20ワールドカップ は、2018年に開催されたAFC U-19選手権2018 大会はベスト4で2大会連続での出場となった。監督は影山雅永 。
関連項目 [ 編集 ]
外部リンク [ 編集 ]
関連団体 ナショナル チーム
国内リーグ
国内カップ
育成年代
1種(大学生) 2種(高校生) 3種(中学生) 4種(小学生) 女子 フットサル
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