本田技研工業フットボールクラブ

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Honda FCから転送)
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本田技研工業フットボールクラブ
原語表記 本田技研工業株式会社
フットボールクラブ
呼称 Honda FC
クラブカラー     
創設年 1971年
所属リーグ 日本フットボールリーグ
ホームタウン 静岡県浜松市
ホームスタジアム
MIYAKODA.jpg
ホンダ都田サッカー場
収容人数 4,000
代表者 山田俊彦
(浜松製作所トランスミッション工場長)
監督 井幡博康
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

本田技研工業フットボールクラブ(ほんだぎけんこうぎょうフットボールクラブ)は、日本の静岡県浜松市を本拠地とする日本フットボールリーグ(JFL)に所属する社会人サッカークラブ(実業団)。呼称は「Honda FC」(ホンダ エフシー)であり、以下の文章からは基本的に呼称で表記していく。

概要[編集]

1971年、本田技研工業(以下「ホンダ」)の創業地でもある浜松製作所(現・駆動系統括部トランスミッション製造部)に置かれた浜友会サッカー部(後述)を母体として本田技研工業サッカー部(以下「ホンダサッカー部」)として創部[1]。トップチーム所属の選手・指導者はプロ契約の者を除き、試合の無い日は、午前中はホンダの正社員としてトランスミッション製造部に勤務、午後からはフットボーラーという生活を送っている。ホンダ本社のサッカー部という位置づけであるが、直接的な運営にはホンダ浜松製作所内に設立された「Honda FC 事務局」のスタッフが関わっており、チーム代表もトランスミッション製造部長(浜松製作所長)が務めている。実業団ながら地域密着型クラブを標榜し、下部組織も有している[2]

ホームスタジアムは同市北区都田町にあるホンダ都田サッカー場で、JFL以外のクラブも含め日本国内で数少ない「クラブ自身が所有する自前の」スタジアムである。

過去に2度Jリーグクラブ化の構想があったが、いずれも実現していない。1999年のJFL参入以来、優勝7回・2位4回の成績を残する。

チームのシンボルマークは、浜松の「H」とHondaの「H」が重なり合い、当時の浜松市鳥であるツバメと雄大な遠州灘の波を型どったデザイン[2]マスコットキャラクターはチームのシンボルマークでもあるツバメモチーフとした「パッサーロPassaro)」[2]

歴史[編集]

創設の経緯[編集]

ホンダの各事業所にはそれまでも同好の士を集めたサッカー部は活動していた[1]。社員に共通の話題を提供し、社員の意識を強化を図り、士気を高めるという目的でいえば、埼玉製作所の野球部(現Honda硬式野球部)や、鈴鹿製作所の野球部(現Honda鈴鹿硬式野球部)が既に実績を挙げており、浜松製作所でも当初、野球部をという声も出たが、既に埼玉と鈴鹿に野球部があること、そして何よりも静岡という土壌を考え、サッカー部創設が決定した[1]。まず監督・保崎昌訓、主将・望月修司の浜友会のメンバーを中心に、1971年春新入社の関東大学リーグ経験者を大量に加え、それまで浜友会が所属していた静岡県リーグ2部西部リーグからスタートを切った[1]。翌1972年には、名相銀の中心選手だった桑原勝義が、日本サッカー協会の幹部・長沼健に口説かれ、銀行職を捨てて郷里のチームに加入[1]。桑原は翌1973年にプレイングマネージャーとなり、桑原を中心にチームは強化された[1]

本田技研工業サッカー部 (1971年-2001年)[編集]

創設 - JSL時代
1971年に創部。1972年静岡県リーグに加盟。1973年には東海社会人サッカーリーグ1975年には日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格[1]1981年には同1部に昇格し、以降1992年に終了するまで、トップカテゴリに居続けた。なお1989年に開催された第1回フットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ)に出場した日本代表は、ホンダサッカー部の選手で構成されていた。
90年代初頭、国内のトップカテゴリがJSLからJリーグへ移行する際、本拠地である浜松市内に第一種の競技場がなく、行政の協力も期待できなかったことから、誘致要請のあった埼玉県浦和市(現・さいたま市)に本拠地を移転し、浦和ホンダウィンズとしてJリーグへ参加することが検討された。しかし、チーム関係者の間には「浜松を本拠にJリーグへ参戦したい」とする意向が根強く、結論が出ないまま91年にJリーグへの初年度参加見送りを発表した。当時は国内経済の悪化からホンダ本社はカーレースF1からの撤退を表明していたため、サッカー部のプロ化見送りに関しても、F1同様に「本業主義のため」という論理付けがされた。
鹿島アントラーズへ監督の宮本征勝(1990年にホンダサッカー部監督退任)、ヘッドコーチの関塚隆(1991年に現役引退→早稲田大学ア式蹴球部監督)、黒崎久志長谷川祥之本田泰人内藤就行入井和久千葉修が移籍し、読売サッカークラブへ同ジュニアユース出身北澤豪や同クラブを前身としたヴェルディ川崎へは石川康などが移籍した。
ジャパンフットボールリーグ時代
1992年からジャパンフットボールリーグ(以下、旧JFL)1部に参加した。しかし、先述の通り、レギュラーの大半を失ったチームは10チーム中9位に低迷し、翌1993年は同2部に降格したが、同年では2部優勝を果たす。翌1994年には、旧JFLが16チームによる1部制に再編され、それを機に現場サイドでJリーグ参戦へ向けた3年構想が始動した。これにより、前年にJリーグへ参戦したジュビロ磐田から戦力外通告を受けたバウテルや東川昌典らを補強し、翌1995年には柏レイソルから戦力外通告された呂比須ワグナー、大橋昭好らを補強した。
1996年には日本サッカー界に精通したエスピノーザをヘッドコーチとして招聘し、ヴィッセル神戸鳥栖フューチャーズコンサドーレ札幌などのJリーグ参加構想チームと、東京ガスサッカー部を加えた熾烈な上位争いを制し、優勝を飾った。
これを受け、翌97年にはホンダ本社所有のスタジアム(Honda都田サッカー場)に50億円を投じ、改築することで懸案だったスタジアム問題を解決する見込みを立て、浜松F.CとしてJリーグ準会員となった。この時、ホンダ本社は浜松F.Cの株式約6割を引き受けて筆頭株主となった他、ダイドードリンコなどが大口スポンサーとして名を連ねた。
しかし当時は史上最悪の製造不況および通貨危機前夜の時期であったため、産業都市である地元・浜松市内では地元紙などの影響からホンダサッカー部のJリーグ参戦に対し否定的な見方が支配的であった。故に浜松F.Cの経営陣は大きく動揺し、最終的に「時期が悪い」との判断に達したことから一連の構想を白紙撤回した。その後、ホンダ本社の方針もあり、プロ契約選手を減らし、選手全員がホンダの社員として社業にも従事する、いわゆる「完全なアマチュアチーム」へと、徐々に移行し始めた。
日本フットボールリーグ時代
1999年、旧JFLに所属するチームの多くは新たに創設されたJ2に参戦したが、プロ化を断念して「完全なアマチュアチーム」へ移行し始めてから間もないホンダサッカー部はJ2には参加せず、創設された日本フットボールリーグに所属した。1999年の第35回全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、2001年にJFLリーグで優勝した。同年、ホンダ本社は、2002年から選手とのプロ契約を行なわず、2013年まで社員選手のみでチームを存続させることとなった。

本田技研工業フットボールクラブ (2002年-)[編集]

2002年、「本田技研工業サッカー部」から「本田技研工業フットボールクラブ」に改称(呼称は「Honda FC」)。この年から12年間、選手は社員のみであること、毎年の補強が高校卒業(ユースからの昇格も含む)か大学卒業の新卒選手のみとなるが、現役でない新卒選手の加入するという例もある。ただ、大学校や専門学校、専修学校や各種学校からの新卒選手加入実績は未だ無い。

並行して、所属選手がプロ選手としてJリーグに挑戦する際には快く送り出すこれまでの方針は変わりなく維持されることとなる。その主な例として、2004年には前年のJFL得点王だったFWの古橋達弥がシーズン途中でセレッソ大阪に移籍したことが挙げられる。また、ヴァンフォーレ甲府へは2005年に監督だった安間貴義がコーチとして移籍し、2006年にはMFの宇留野純も同チームへ移籍した。2008年のシーズンオフにはU-19日本代表に選ばれた村松大輔湘南ベルマーレに移籍し、2009年シーズンオフにはFW早坂良太サガン鳥栖に移籍している。

2002年 - 2008年
チーム名改称年となった2002年も優勝し、前身時代から含めての連覇を決めている。これは、横浜FC(1999・2000)に続いて、JFL史上2チーム目。JFL5回優勝(初代1回、2代目4回 2010年現在)は1992年のリーグ再編後では最多となる。
以後、12年間社員選手だけで構成されてきたものの、毎年上位につける実力を有する他、年末の天皇杯では、たびたびJリーグチームを脅かし、時には勝利することもある。また、Jリーグの関係者からも“Jリーグチームにも匹敵する”などと言わしめられたこともあり、いつしか「Jへの門番」という新たな異名で呼ばれることとなる。
2006年、向島満が引退し、これ以降、7年間は元Jリーガーの在籍選手は居なくなることになった。
2009年 - 2012年
2008年にJFLで優勝すると、チームは過渡期を迎える。前年王者として迎えた2009年は1999年以降過去最悪の7位でシーズンを終えると石橋眞和が監督を退任。代わって大久保貴広が監督に就任するも2010年、2011年と2年連続で優勝を逃した。
2011年、天皇杯予選決勝静岡産業大学サッカー部に敗れて18年ぶりに天皇杯本戦への出場を逃した。
この頃からチームのJFL時代の全盛期を支えた新田純也鈴木弘大石井雅之らベテランらがチームを離れ、チームの世代交代が進む傾向となる。
2013年
JFLが事実上の3部として最終年となった2013年は18チーム中5位であった。内、2014年度からのJ3に参戦する10チーム中6チームよりも順位が上であった。この年の天皇杯では予選決勝で藤枝MYFCに0-1で負け、3年連続予選敗退となった。シーズン最終節終了後、計7名の選手が退団することが発表され、DF浅田はFC琉球へ移籍、FW河野・MF西・DF小栗・DF牧野・GK石川の5名が社業専念となった。また、FW齋藤はシーズン途中で諸事情により退団しているが、2014年からMIOびわこ滋賀へ移籍したことが同クラブから公表される。
また、この年を以ってU-18チームの活動が終了した。
2014年
2002年から12年間「選手は全員アマチュア(正社員)」という体制を貫いたが、この年から再びプロ・アマ混成の体制へと一新した。
吉澤英生以来8年ぶりのプロ契約監督として、2013年まで金沢U-18を監督して率いていた井幡博康が新監督に就任。井幡は選手として在籍していた1999年以来15年ぶりの古巣復帰ともなった。新入団選手は10年ぶりに復帰する形でベテラン古橋達弥と宇留野純をプロ契約で獲得し、また正社員選手として順天堂大学からMF原田開日本体育大学からDF宮内啓汰磐田U-18からGK高村弘尚の3名を獲得した。原田は現役卒業ではない新卒選手としては河野大星以来となるが、「元Jリーガーの新卒選手」としてはクラブ初の選手となる[3]。併せて、クラブとして元Jリーガー選手の在籍は向島満以来8年ぶりとなった。
同年7月には富山から村松知輝、金沢から本田真吾をそれぞれ期限付き移籍で獲得。現行のJFLが開幕して以降、Honda FCが期限付き移籍制度を駆使すること及びシーズン中に選手補強を行うことは初となる。
2ステージ制となったこのシーズン、1stステージは鹿児島ユナイテッドFCを得失点差で交わしてステージ優勝。2ndステージは6位にとどまり年間の勝ち点では3番目となるものの、チャンピオンシップで2ndステージ優勝の佐川印刷京都SCを1勝1分で下し、6年振りのJFL王者となった。
2015年
GK中村元が引退(社業専念)、MF宇留野純が退団し、FW村松知輝は期限付き移籍期間満了で富山に復帰。新卒で三浦誠史松本和樹富田湧也が加入。金沢よりMF小野寺建人福島よりFW久野純弥を期限付き移籍で獲得、MF本田真吾の金沢からの期限付き移籍期間を延長した。
シーズン途中にて、GKの清水谷侑樹が試合中に、高村弘尚が練習中に、それぞれ全治半年の大けがを負い、残ったGKは急遽選手登録を行ったGKコーチの川口剛史のみという緊急事態に陥った[4] ことから、札幌から阿波加俊太を育成型期限付き移籍で、静岡産業大学3年の羽田野将史を期限付き移籍で獲得した。
天皇杯静岡県代表戦はJ3の藤枝MYFCに4-3で敗れて、5年連続で天皇杯出場を逃した[5]。リーグ戦は1stステージは1位と勝ち点差1の3位。2ndステージは1位と勝ち点差2の2位で惜しくもJFLチャンピオンシップの出場を逃し、JFL連覇はならなかった[6]。特に2ndステージ第12節のソニー仙台FCとの首位攻防戦は勝てばソニー仙台との勝ち点を1差に迫る最大のチャンスだった試合で試合終了間際にPKで先制し、このまま逃げ切ると思われたアディショナルタイムに失点・引き分けとなり、結果2ndステージ優勝を逃す結果となった[7]
一方、2013年度で終了したU-18チームを翌2016年度から復活させることが発表された[8]
2016年
GK阿波加俊太、羽田野将史、MF小野寺建人が期限付き移籍期間満了(小野寺は現役引退)。FW伊賀貴一と深谷泰介が引退(社業専念)[9]。DF砂森和也がカマタマーレ讃岐に移籍した[10]。新たに加入したのは新卒で九州産業大学からGK楠本祐規高知大学からMF曽根友祐鹿児島実業高校からMF渡邊大地の3選手と[11]、ツエーゲン金沢から期限付き移籍で加入した大町将梧[12] の計4選手。一方、本田真吾と久野純弥は期限付き延長となった。
リーグ戦は1stステージで16チーム中6位となったが、2ndステージで16チーム中1位でチャンピオンシップに進出。年間勝点では1位であった。チャンピオンシップでは1stステージ王者の流通経済大学ドラゴンズ龍ケ崎(流経大D)と対戦し、流経大Dのホームである千葉県立柏の葉公園総合競技場で行われた[13] 1stレグは2-0で前半を折り返すものの後半は追いつかれてしまい結局2-2で終えるが、Hondaのホームであるホンダ都田サッカー場で行われた2ndレグは、前半を0-0で折り返すも、後半にこのシーズンで引退を決めた香川大樹の決勝ゴールで1-0としこのまま試合終了。2戦合計3-2で、2年振り6回目のJFL年間王者となった。
天皇杯静岡県代表戦は4年連続の相手となったJ3の藤枝MYFCに3-2で勝利し、6年振りに天皇杯出場を決めた[14]。本選では1回戦でシードのFC岐阜J2)に2-1と延長を制して9年ぶりにJリーグチームからの勝利を収めると、続く2回戦はシードの松本山雅FC(J2)を相手に先制されながらも2-1の逆転勝ちを収め、3回戦はベガルタ仙台J1)に5-2と大勝して駒を進めてきた岩手県代表のグルージャ盛岡(J3)に2-1と勝ちを収めて今回大会の台風の目となる。その後4回戦(ラウンド16)ではリーグ戦からの中2日を経て、ラウンド16からのシードであるFC東京(J1)を相手に挑み、前半に先制してそのまま折り返すも、後半に逆転され1-2で敗退を喫した。

下部組織[編集]

小学生を対象にしたスクールと、U-10、U-12、U-15、U-18の各カテゴリのチームを持っている。

主な下部組織出身の選手を以下に挙げる。

U-18チームは、2004年度・2007年度の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会、2009年度のJリーグユース選手権大会等の全国大会に出場した実績を持つ。なお、2016年現在の所属リーグはU-18静岡県西部リーグ(カテゴリは3部B)である[15]

かつては女子チーム「ホンダFCレディース」も保有していた。女子チームは1991年に設立して以降、静岡県西部支部女子リーグ、静岡県女子リーグ、東海女子リーグ(トップチーム、セカンドチームは引き続き県リーグ所属)と昇格し、2004年に廃止されるまでの間に、数多くのタイトルを獲得した。またU-19日本代表としてAFC U-19女子選手権に出場した佐藤シェンネン、所属当時は中学生で後にアルビレックス新潟レディースに所属した口木未来などを始め、数多くの選手を輩出した。廃止後、所属選手の多くはジュビロ磐田のホームタウン推進部が受け入れ、同クラブ下部組織チーム「ヤマハジュビロレディース」が設立されている。

本田浜松サッカー部[編集]

1954年に本田技研工業浜松製作所浜友会サッカー部として創部された浜松製作所のサッカー部である。このクラブが本社側のクラブであるHonda FCの母体となっている。同じ所内に本社チームが創設されて以降も長らく東海リーグに所属し、その後静岡県リーグに所属していたが、2012年、県1部で年間成績最下位となったのを最後にリーグを脱退し活動休止。なお、このチームには、Honda FCのOBも選手や指導者として活躍していた。

戦績[編集]

本田技研工業サッカー部[編集]

年度 所属 順位 勝点 得点 失点 備考
1971 静岡県西部 優勝 昇格
1972 静岡県1部 優勝 昇格
1973 東海 優勝 25 14 12 1 1 48 13 +35 8
1974 優勝 21 13 9 3 1 10 昇格
1975 JSL2部 4位 22 18 10 2 6 33 29 +4 10
1976 4位 21 18 6 9 3 25 17 +8 10
1977 7位 29 18 5 3PK勝/3PK敗 7 25 24 +1 10
1978 優勝 57 18 13 1PK勝/3PK敗 1 39 9 +30 10
1979 4位 44 18 10 1PK勝/2PK敗 5 31 25 +6 10
1980 優勝 28 18 13 2 3 43 17 +26 10 昇格
1981 JSL1部 6位 14 18 5 4 9 23 28 -5 10
1982 9位 14 18 4 6 8 17 29 -12 10
1983 8位 14 18 4 6 8 17 23 -6 10
1984 5位 19 18 7 5 6 26 23 +3 10
1985 3位 28 22 8 12 2 30 20 +10 12
1986/87 9位 20 22 6 8 8 20 24 -4 12
1987/88 8位 20 22 6 8 8 19 22 -3 12
1988/89 9位 27 22 7 6 9 20 23 -3 12
1989/90 6位 32 22 10 2 10 32 29 +3 12
1990/91 3位 38 22 10 8 4 29 21 +8 12
1991/92 10位 23 22 5 8 9 18 25 -7 12 リーグ再編
1992 旧JFL1部 9位 16 18 4 4 10 19 36 -17 10 降格
1993 旧JFL2部 優勝 - 18 15(0延 0PK) - 3(0延 1PK) 62 21 +41 10 リーグ再編
1994 旧JFL 9位 - 30 12(1延 2PK) - 18(2延 1PK) 49 36 -13 16
1995 7位 49 30 16(2延 0PK) - 14(3延 1PK) 58 42 +16 16
1996 優勝 75 30 25(3延 0PK) - 5(0延 0PK) 83 35 +48 16
1997 4位 65 30 23(2延 1PK) - 7(1延 0PK) 60 37 +23 16
1998 5位 54 30 19(3延 0PK) - 11(2延 0PK) 57 45 +12 16 リーグ再編
1999 JFL 2位 50 24 18(5延長) 1 5(0延長) 69 34 +35 9
2000 2位 49 22 17(2延長) 0 5(1延長) 51 29 +22 12
2001 優勝 71 30 22 5 3 74 19 +55 16

本田技研工業フットボールクラブ (2002年-)[編集]

年度 所属 順位 勝点 試合 得点 失点 天皇杯
2002 JFL 優勝 41 17 13 2 2 39 14 +25 3回戦敗退
2003 2位 67 30 21 4 5 73 30 +43 3回戦敗退
2004 2位 62 30 19 5 6 64 36 +28 4回戦敗退
2005 5位 56 30 17 5 8 59 37 +22 4回戦敗退
2006 優勝 83 34 26 5 3 77 36 +41 4回戦敗退
2007 5位 58 34 16 10 8 61 42 +19 ベスト8
2008 優勝 74 34 22 8 4 80 33 +47 3回戦敗退
2009 7位 51 34 13 12 9 49 38 +11 2回戦敗退
2010 4位 59 34 18 5 11 52 43 +9 2回戦敗退
2011 6位 52 33 15 7 11 40 36 +4 県予選敗退
2012 5位 53 32 16 5 11 55 39 +16 県予選敗退
2013 5位 53 34 14 11 9 54 38 +16 県予選敗退
2014 優勝 53 26 16 5 5 58 28 +30 県予選敗退
2015 3位 68 30 21 5 4 73 22 +51 県予選敗退
2016 優勝 61 30 18 7 5 52 29 +23 4回戦敗退
2017 優勝 70 30 21 7 2 72 20 +52 2回戦敗退
2018 30 2回戦敗退

ホームゲーム開催実績[編集]

(1999年の日本フットボールリーグ=現JFL発足以後)

年度 都田 その他
1999 11
2000 10
2001 15
2002 9[16]
2003 15
2004 15
2005 15
2006 17
2007 17
2008 17
2009 17
2010 17
2011 17
2012 16
2013 17
2014 13[17] 三重・鈴鹿1
2015 14 三重・鈴鹿1
2016 15[17] 栃木グリスタ1
2017 15
ジャパンフットボールリーグ時代も基本の本拠地は本田技研都田サッカー場だったが、年数回、遠州灘海浜公園球技場でも主管試合を開催したほか、1994年には柏レイソル戦のホームゲームをレイソルの本拠地である日立柏サッカー場で行った事例もある。

歴代キャッチフレーズ[編集]

年度 キャッチフレーズ
2006 Aggressive action
2007 Fighting for team
2008 The Next Challenge.
2009 THE UNITED POWER
2010 前へ
2011
2012 意志
2013 体現
2014 矜持
2015 考撃
2016 一意専心

ユニフォーム[編集]

現在のサプライヤーはアンブロ。2011年より、ユニフォームの背番号の上に選手名がローマ字で書かれるようになった。かつては、アディダスディアドラなどがサプライヤーであった。

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st)
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd) ピンク ピンク
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

エピソード[編集]

浦和市への移転撤回に関するその他の理由
前述の通り、役員会議、関係者は“浜松を本拠にJリーグへ参入したい”という意向があった。サッカー部発足時から現在に至るまで浜松を本拠地にしていたこともあり、“Jリーグ発足のために浦和に移転することは、今までチームを応援してくれた地元・浜松の「お客様を裏切る」ことになり、企業イメージのマイナスになる”との判断があった[18]
2度目のJリーグ参入を目指して表面化した行政との溝
浜松F.C発足を仕掛けたのはホンダ側であったが、同社はチームを浜松F.Cに移管する際はいちスポンサーとしてやっていけばいいという考えであったため、あくまで浜松F.Cを「地域のクラブ」であることをアピールしていた。しかし、Jリーグ参入には行政の協力や理解が必要不可欠であるものの、当時の浜松市側は「ホンダ」というブランドが担保になるなら協力してもいいというスタンスであったという。また浜松市側からJリーグ参入について積極的に動いた形跡はなく、やがて“ホンダがやるのであれば応援する”という市長の言葉を耳にした、当時のホンダ社長であった川本信彦“おい、話が違うぞ”とJリーグ参入に対する浜松市の態度に相当なギャップを感じていたという[18][19]
「静岡県代表」として出場した第87回の天皇杯での活躍
2007年に行われた第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、リーグの前期で1位になれずにシード権を獲得できなかったため、天皇杯が現在の形式になってから初めて県代表を決めるための予選に参加し、天皇杯への出場を獲得。その後、大会ではJリーグチームを3つ破って前身時代以来16年振りの準々決勝(ベスト8)進出を果たし、当大会よりHonda FCが各都道府県代表として初の準々決勝進出を果たしたチームとなった。また、監督も含めて全員がアマチュア登録ということもあって話題となった。それまでHonda FCは、1998年の第78回大会でプロ契約選手を抱えていた本田技研時代に3回戦でジェフユナイテッド市原を破って以降、Jリーグチームに勝利したことはなかった[20]。第87回大会以前における以前の回の試合では、第83回大会(2003年)の3回戦のFC東京戦で、第85回大会(2005年)の4回戦のセレッソ大阪戦で、それぞれ追い詰めるものの、いずれもPK戦で涙を呑んでいる[21]。しかし、この大会以降Honda FCは天皇杯での低迷が続き、天皇杯のシード権を獲得できない状況が続くこととなった。そして2011年での天皇杯予選決勝で静岡産業大学サッカー部に1-3で敗れ、再び本選出場を果たせなくなり、16年続いた天皇杯の連続出場記録も途切れた。なお、2012年以降も予選敗退が続き、再びの本選出場は2016年の第96回まで待つことになる。
16年ぶりの年代別代表選手の選出
1993年にJリーグが開幕して以降、本田技研時代も含めて各年代別共に長らくHonda FCから代表選手は選出されなかったが、2008年10月20日当時、AFCユース選手権日本代表に(先述通り、後にJリーグ所属の湘南ベルマーレへ移籍した)村松大輔が選出された。Honda FCからの年代別代表選出は、本田技研時代の1992年、バルセロナオリンピック出場予選での日本代表に選出された石川康以来、実に16年ぶりとなった[22]。また、当時の日本フットボールリーグに所属する選手から選出されたのは彼のみであると同時に、同リーグからの年代別日本代表選手の輩出は、リーグが1999年に開催されて以降ともなった。
「Honda FC」としての実力評価
各シーズンにおける周囲の評価をここで述べる。
  • 2007年、第87回の天皇杯において東京ヴェルディの当時の監督であるラモス瑠偉は“J2クラブ並みの力があるチーム”と評しており[23]、同じく第87回の天皇杯において名古屋グランパスの当時の監督であるセフ・フェルホーセンは“JFLのレベルではない。”、“非常にレベルが高いチーム。多くのチャンスを作れるとは思えないが、組織や規律がしっかりしている。”と評している[24]
  • 2009年度におけるJFLの各チームの関係者は“実力はJリーグ2部の下位クラブより上”と評している[25] 一方、V・ファーレン長崎の監督であった東川昌典は、自身が指揮したチームと比較してみた場合に限り“(Honda FCとの)レベルの差があるとは思わない。”と述べている[26]
  • 2013年では対戦相手のFC琉球に所属する元Jリーガーの永井秀樹が、自身のブログでHonda FCのサッカーについて語っている。ブログ内では「個の質が数年前より若干下がったが故に、勝ち点3を確実に奪う力は多少弱まった」と指摘しながらも“JFLというカテゴリーにおいて、この数年間で最も質の高いサッカーを展開してるのはHondaだ。”と述べている。また、自身が所属するFC琉球についてHonda FCと比較した上で“これからJを目指し、JFL優勝を真剣に考えるならば、最低限Honda以上のサッカーをしなければならない。”と言及している[27]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g 「連載7 日本リーグ強豪の歴史 本田技研」『サッカーマガジンベースボール・マガジン社、1985年4月号、No.306、110-113頁。
  2. ^ a b c チームプロフィール”. 本田技研工業フットボールクラブ. 2015年6月21日閲覧。
  3. ^ Jリーグ経験のある新卒選手の先例として順天堂大学蹴球部から水戸ホーリーホックへ加入した岡本達也が挙げられる。
  4. ^ GKの状況について - 2015年6月15日 Honda FC
  5. ^ <スルガ杯>ホンダFC破り、3年連続天皇杯へ - 2015年8月24日 静岡新聞・SBS
  6. ^ ホンダFCは2位 JFL第2ステージ - 2015年11月16日 静岡新聞・SBS
  7. ^ JFL2ndステージ第12節 - 2015年10月26日 日本フットボールリーグ
  8. ^ Honda FC U-18 再チャレンジのご案内 - Honda FC
  9. ^ Honda FC 得点ランキングトップの伊賀など5選手の退団を発表 - 2015年11月16日 SOCCER NOW
  10. ^ 砂森 和也選手Honda FCより完全移籍加入のお知らせ - 2016年1月12日カマタマーレ讃岐公式HP
  11. ^ 2016年度スタート式と新加入選手のお知らせ - 2016年2月2日 Honda FC公式サイト
  12. ^ 2016年シーズンに向けた選手加入のお知らせ - Honda FC公式サイト
  13. ^ 本来のホームスタジアムである茨城県龍ケ崎市のたつのこフィールドが改修中であった為の措置
  14. ^ ホンダFC 天皇杯切符 6年ぶり、延長で藤枝破る - 2016年8月22日 静岡新聞・SBS
  15. ^ 3部リーグ日程表(PDFファイル) - 一般財団法人静岡県サッカー協会西部支部公式サイト
  16. ^ 2002 FIFAワールドカップ日韓大会に伴う変則1回戦総当たり
  17. ^ a b チャンピオンシップ1含む
  18. ^ a b 参考:サッカー批評第38号
  19. ^ この浜松市の態度の裏には、同じく浜松市に本社を置くライバル企業のスズキの影響があったとも言われている。
  20. ^ 第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会:1~3回戦プログラム より
  21. ^ スポーツナビ/サッカー:天皇杯 バックナンバー より
  22. ^ 日刊スポーツ 2008年10月21日付けの記事 より
  23. ^ J's GOAL 第87回天皇杯3回戦 東京V vs Honda FC:プレビュー
  24. ^ 中日スポーツ 2007年12月5日付けの記事 より
  25. ^ 静岡新聞 2009年3月13日付けの記事 より
  26. ^ 長崎新聞 2009年3月29日付けの記事 より
  27. ^ 永井秀樹公式ブログ『Wander of This Life』- 「vs HONDA FC」 より

関連項目[編集]

外部リンク[編集]