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大分トリニータ

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大分トリニータ
原語表記 大分トリニータ
呼称 大分トリニータ
クラブカラー      ブルー[1]
     イエロー[1]
創設年 1994年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン J2リーグ
クラブライセンス J1
ホームタウン 大分市[1]別府市[1]佐伯市[1] を中心とする大分県全県[1]
ホームスタジアム
Ooita Stadium20090514.jpg
大分銀行ドーム[1]
収容人数 40,000
運営法人 株式会社大分フットボールクラブ[1]
代表者 日本の旗 榎徹
監督 日本の旗 片野坂知宏
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社大分フットボールクラブ
Oita Football Club Co.,Ltd.[2]
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 大分FC
本社所在地 870-0126[1]
大分県大分市大字横尾1629[1]
設立 1999年1月7日[2]
業種 サービス業
法人番号 1320001002904
事業内容 サッカークラブの運営等
代表者 榎徹
資本金 4,000万円 (2016年1月期)[3]
売上高 9億5,800万円 (2016年1月期)[3]
営業利益 2,800万円 (2016年1月期)[3]
経常利益 2,400万円 (2016年1月期)[3]
純利益 2,300万円 (2016年1月期)[3]
純資産 1億0,400万円 (2016年1月期)[3]
総資産 4億0,500万円 (2016年1月期)[3]
決算期 1月期
主要株主 大分商工会議所
大分県他
関係する人物 溝畑宏
外部リンク http://www.oita-trinita.co.jp
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大分トリニータ(おおいたトリニータ、Oita Trinita)は、日本大分市別府市佐伯市を中心とする大分県全県をホームタウンとする[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要

運営法人は株式会社大分フットボールクラブであり[1]1999年にJリーグへ加盟した[1]。ホームスタジアムは大分銀行ドーム[1]、練習場は大分スポーツクラブおよび大分スポーツ公園サッカー・ラグビー場である[1](詳細は#ホームスタジアム・練習場を参照)。

クラブ名は、三位一体を表す英語「トリニティ(Trinity)」とホームタウン名「大分(Oita)」を合わせた造語で[1]イタリア語で「三位一体」を表すTrinitaと同じ綴りになっている[注 1]。県民・企業・行政が一致団結することを表している。

2006年、エンブレム、ロゴマーク、チームフラッグが「Tフレアー」と呼ばれるデザインコンセプトにより一新され、クラブとしての略称「大分FC」が「FC大分」に変更された。運営法人名とは無関係。

クラブマスコットは、亀がモチーフのニータン[1] と、ウサギをモチーフにした準マスコットのリッジー。

歴史

Jリーグ加盟前

1994年4月に任意団体「大分フットボールクラブ」として発足。競技登録上のチーム名は「大分」または「大分FC」で、「大分トリニティ」という愛称が付けられた[1]大分県社会人サッカーリーグ(当時は1部リーグのみ)と九州サッカーリーグを連覇して1996年全国地域サッカーリーグ決勝大会(地元大分市営陸上競技場で開催)で2位に入り、発足から2年でジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ昇格[1]

当初は文正植朴景和と韓国人監督の下、外国籍選手についても元韓国代表皇甫官崔大植などを中心としたチームだった。

1998年、ブラジル人監督のフォルミーガポーランド語版を招聘し、外国籍選手にウィルを補強。JFL最後のシーズンは6位であった。

1999年 - 2002年(J2)

1999年1月に運営法人となる株式会社大分フットボールクラブを設立[1]。1999年から発足したJリーグ ディビジョン2(J2)に初年度から参加した[1]。なお、「トリニティ」の名前が商標登録の関係で正式なチーム名として使えないため、同年より「大分トリニータ」へ改称した[1]

監督に前山形監督の石崎信弘が就任[1]。J2初年度からJ1昇格争いに加わるが、1999年2000年とも2年連続で2位との勝ち点差1の3位で昇格を逃した。2001年はシーズン当初より不振で5月に石崎を監督より解任し、小林伸二が後任の監督に就任[1]。最終節まで昇格を争うところまで持ち直したが、結局6位に終わった。

2002年浮氣哲郎サンドロアンドラジーニャなどのライバルチームの選手を補強し、前年作り上げた堅守速攻を武器に序盤から首位を独走。J2優勝とJ1昇格を果たした。また、最終節で史上初のJ2通算100勝を達成した。

2003年 - 2009年(J1)

2003年
チームスローガン:ムーブ&バランス

J1昇格1年目の2003年、小林が引き続き指揮を執り、新潟寺川能人、前年コパ・リベルタドーレス得点王のロドリゴなどの選手を補強した。守備はある程度通用したものの、ロドリゴは期待されたような活躍は出来ずシーズン途中で退団。前年チーム得点王のアンドラジーニャも得点をあげる事ができずシーズン途中に札幌に移籍した。その結果、ストライカーが不在となり深刻な得点力不足に陥りチームも低迷。シーズン半ばに3年振りの復帰となるウィルなど多くの外国人FWを補強するも得点力不足は改善されず、2ndステージは15試合で失点数はリーグ最少の16ながら、得点は7に留まった。最終節の15位・仙台戦は、大分勝利、引き分けの場合は大分の残留、大分負けの場合は仙台が残留と両チームのJ1残留をかけた直接対決となった。大分サポーターは勿論、アウェイ・仙台サポーターも多数詰め掛け観客数は3万人を越えた。試合は前半15分に梅田高志のゴールで先制。後半に入り仙台に同点にされたが、勝ち越しは許さず1-1の引き分けで試合終了。年間順位14位(1stステージ14位、2ndステージ16位)でJ1に残留した。なお、小林は成績不振の責任をとりこの年限りで辞任した。

2004年
チームスローガン:Perform & Enjoy

オランダ人のハン・ベルガーを監督に迎える[1]。寺川が新潟に復帰したものの、元ブラジル代表マグノ・アウベス、元オランダ代表リチャード・ビチュヘ、前仙台でアテネ五輪代表候補でもあった根本裕一などの選手を獲得し、攻撃的サッカーへの転換を図った。マグノ・アウベス等の補強組が結果を残し1stステージは10位で終える。

しかし、2ndステージ前に日本の審判のジャッジの基準に慣れなかった影響でビチュヘが退団。1stステージで活躍した木島良輔のケガなどもあり失速。緊急補強としてDFのパトリックを獲得するも、2ndステージは2年連続の最下位。マグノ・アウベスが11得点、高松大樹が8得点を挙げたが、全体的な得点数は伸び悩み、順位は年間13位に終わった。ベルガーはシーズン終了後に辞任した。

2005年

チームスローガン:Together & Enjoy 皇甫官がヘッドコーチから監督に昇格[1]。なお、前年度のゲームキャプテンを務め、守備の要として活躍したサンドロが退団した。マグノは清水エスパルスへの移籍の噂が持ち上がっていたが残留し、更に新戦力として元ブラジル代表のFW・ドドを獲得。

しかしドドが15試合3得点と期待通りの活躍を見せられなかったことも響き(結局ドドは前年加入したDFパトリックと共にシーズン途中で加入したエジミウソントゥーリオと入れ替わりで退団)、スタートダッシュに失敗し下位に低迷。その後一時は順位を最高8位まで上げるも、主将吉田孝行の怪我の影響もあり再び失速。神戸との最下位争いから抜け出せず、直接対決でも1-2で敗戦するなど不振が続いた為、皇甫を8月28日付で解任。後任にはペリクレス・シャムスカが就任した[1]

初采配となった浦和戦を2-1で勝利すると、そこから破竹の勢いで勝利を積み上げ、当初に掲げていた「残り12試合で勝ち点18」の目標をわずか8試合(6勝1敗1分け、勝ち点19)で達成、目標を7位に修正するほどの急速的な復調を遂げた。この出来事は「シャムスカマジック」と呼ばれた。11月23日C大阪戦に1-1で引き分けたことでJ1残留が決定。最終順位は過去3年間で最高の11位。

2006年
チームスローガン:Challenge & Challenge

シャムスカ体制2年目。チーム得点王のマグノ・アウベス、主将を務めていた吉田孝行など半数近くの選手が他クラブに移籍、または戦力外となった一方で、マグノに代わるストライカーとしてオズマールから元日本代表の増田忠俊らを獲得。25人という少数精鋭でシーズンに臨んだ。この年のリーグ王者である浦和から白星をあげるなど一時は5位につけ、シーズン前に掲げた目標を「8位以内」から「4位以内」に修正し10月にJ1残留を決めた。ただ、秋頃から失速し、最終節のFC東京戦に敗れた事でシーズン成績は8位となり賞金圏内の7位以内を逃した。

また、チーム創設以来初めて、日本代表西川周作梅崎司、後に高松大樹も招集され、梅崎と高松は試合にも出場。また、若手が台頭、西川や梅崎以外にも高橋大輔福元洋平森重真人らが試合に起用され、特に高橋はレギュラーの座を梅田高志から奪った。

2007年
チームスローガン:Challenge & Competition

エジミウソントゥーリオのボランチコンビが去り、新たにジュニオール・マラニョン宮沢正史を穴埋めとして補強。しかし、その二人が組んだ新ボランチコンビが機能せず、僅か2試合で宮沢はスタメン落ちとなった。その後は様々な選手を起用するも第7節 横浜FM戦で0-5、第8節 G大阪戦で0-4と、大量失点で負ける試合も少なくなかった。第13節には最下位の横浜FCにも1-2で敗北を喫し、前半戦(第18節)終了時点で自動降格圏内である17位と低迷した。

J1残留のために後半戦をリベンジ16と銘打ち、新潟から鈴木慎吾、元福岡ホベルト、そして半年ぶり、3度目の加入となるエジミウソンを獲得。その結果、後半戦はチーム状態が回復し、順調に白星を重ねるようになる。中でも第31節は同じく残留争いをしていた大宮との直接対決で1-1の後半44分に前田俊介の大分移籍後初得点となるゴールで逆転勝利。第33節 磐田戦を1-0で勝利し、J1残留を確定させた。

2008年
チームスローガン:One Heart,Big Challenge

シーズン前に梅崎司松橋章太三木隆司等が他クラブに次々と移籍。その穴を埋めるべくG大阪より家長昭博、前広島ウェズレイらを獲得。また、この年に大分初のクラブマスコットキャラクターとなるニータンが誕生した。

シーズン前の練習中に家長が全治6か月の大ケガを負ったが、その代役に抜擢された2年目の金崎夢生が活躍。上本大海森重真人深谷友基の3バックラインとエジミウソン・ホベルトのボランチコンビ、そしてGK西川周作との連携は成熟されリーグトップレベルの堅守を見せた(イタリア代表の「カテナチオ」とクラブマスコットであるカメのニータンを掛け合わせ「カメナチオ」と呼称)。その堅守を武器にナビスコ杯では、予選GLを2位でクラブ初の突破を果たすと、決勝トーナメントはそのままの勢いでFC東京名古屋グランパスを破り、決勝・清水エスパルス戦も高松大樹とウェズレイのゴールで2-0のスコアで勝利し、優勝を果たした(クラブ初そして九州のチーム初のタイトル)。

一方、リーグ戦も終盤まで優勝争いに加わり、チーム歴代最高の4位・勝点56でシーズンを終えた。総失点数はJ1過去最少の24失点(1試合平均0.706点)となった。また、ホームゲーム6連勝やホームゲーム13試合連続不敗を記録するなどホームである九州石油ドーム(当時)で圧倒的な相性の良さをみせた。ただ、得点数は伸び悩みリーグ戦で3得点以上を記録した試合は僅か2試合に終わり、リーグワースト2位の33得点(1試合平均0.971点)となった。

2009年
チームスローガン:One Heart,Big Challenge

神戸から坪内秀介が期限付き移籍で加入し、FC岐阜にレンタル移籍をしていた梅田高志と、仙台にレンタル移籍をしていた宮沢正史が復帰。一方でレンタル移籍で加入していた小林亮等が退団した。シーズン開幕前に開催されたパンパシフィックチャンピオンシップ2009にナビスコカップ優勝チームとして出場し3位となる。

リーグ戦では、パンパシ杯があるにもかかわらずチーム始動が遅くフィジカルトレーニングが十分に行えなかったことや、九州石油ドームの芝の張り替えに失敗し芝の状態が不安定だった影響による怪我や累積警告で、多くの主力選手の欠場が相次ぎ最下位に低迷。5月23日の広島戦で敗戦を喫したことで10連敗となり、延長戦が廃止された2003年以降のJ1では、2007年の横浜FCの9連敗を抜いてワースト記録となった。その後は連敗数は14まで続き、1勝1分15敗(勝ち点4)の最下位でシーズンを折り返した。このため、7月14日に成績不振によりシャムスカを解任。後任に元広島コーチのランコ・ポポヴィッチが就任した[1]。同月18日の第18節・浦和戦ではポポヴィッチの役員登録が完了するまでの処置として強化部の松山博明が暫定監督を務め、1-0で浦和に勝利。これで連敗を14で止め、3月21日の第3節・新潟戦以来の勝ち点、3月14日の第2節・京都戦以来の勝ち星をあげた。その後9月13日の磐田戦から10戦負けなし、またこれまでリーグ戦未勝利だった千葉にも初勝利をあげるなど復調を遂げたが、前半戦の成績が響き残留圏内まで浮上するには至らず、第30節の京都戦(勝利が残留の必要条件)に引き分けた事でリーグ戦4試合を残し8シーズンぶりのJ2降格が決定した。

一方、連覇を懸け望んだナビスコ杯は無敗であったものの、1勝5分と勝ち点3を積み上げる事ができず予選敗退となった。また8月5日にはスルガ銀行チャンピオンシップが開催され、コパ・スダメリカーナ王者・SCインテルナシオナルと対戦し、1-2で敗れた。

2010年 - 2012年(J2)

2010年
チームスローガン:チームスローガン:RESTART ~ONE HEART~

2009年シーズン中に表面化したチームの経営危機を受ける形でチーム予算を大幅に削減。強化運営費も例外ではなく、監督のポポヴィッチをはじめ西川周作森重真人金崎夢生エジミウソンなど主力を中心にチームの半数近くの選手・スタッフを放出。監督には前副社長の皇甫官が2005年以来5年ぶりに就任[1]

補強はユース・大卒選手を3人獲得、更に現役韓国代表であったキム・ボギョン、ベテランDFのチャン・ギョンジンの二人の韓国人選手をレンタルで獲得、また一度は戦力外となった選手の再契約などで選手の人数を補った。しかし、監督の皇甫の年俸が経営危機の中であるにも関わらず高額である事、本年契約する見込みだったフェルナンジーニョの契約解除に伴う高額な違約金負担(しかし、これは彼の移籍先である仙台に一部を負担させたと見られている)と、財政運営の見込みが甘かった(中期決算発表で黒字化の見込みと出していた)ことにより運営資金のショートが翌年の1月中に発生してしまう事態に陥った。県の緊急融資でなんとか乗り切るが、財政が芳しくない大分県からの融資には県民からの批判の声が挙がった。

開幕当初こそキムの5試合6得点という活躍もあり上位につけていたが、4月25日から8月7日富山戦で12試合ぶりの勝利を挙げるまで約3か月間勝ち星無し。その後17試合で4勝にとどまり、J2過去最低(当時)の15位に終わった。また、この年限りで皇甫が監督を退任した。

6月1日2010 FIFAワールドカップ韓国代表メンバー23人にキム・ボギョンが選出された。大分に在籍する選手がワールドカップの代表メンバーに選出されるのは史上初であった。

2011年
チームスローガン:SORYOKU戦 総力×走力

前年まで清水でヘッドコーチを務めていた田坂和昭が監督に就任[1]。オフにキム・ボギョンがレンタル元のC大阪に復帰、更に前年から続く経営危機の影響で東慶悟菊地直哉、そして藤田義明がJ1クラブに完全移籍し、高松がFC東京に期限付き移籍した。補強は水戸から大卒1年目の作田裕次藤川祐司熊本から西弘則などの若手選手を獲得した。またプロ野球福岡ソフトバンクホークス元COOの竹内孝規と1年間のクラブアドバイザー契約を締結した。シーズン途中からフォーメーションを3-4-3に変更し、FWのチェ・ジョンハン三平和司がサイドで起用されたり、DFの刀根亮輔がFW、ボランチの姜成浩がCBで起用されたりと多くの選手を様々なポジションにコンバートさせリーグを戦った。また、前田俊介森島康仁がそれぞれ自己最高の成績を残すなど若手が台頭。なお、J2シーズン成績は12位。天皇杯は3回戦で敗退した。

2012年
チームスローガン:挑戦×頂戦

昨シーズンクラブの主軸として活躍した前田、姜がJ1クラブに移籍したものの、森島、土岐田らその他の主力選手の引き止めには成功し流出を少数にとどめた。補強では、千葉から元日本代表の村井慎二を獲得し、FC東京にレンタル移籍していた高松が復帰した。後はC大阪より3人の若手選手をレンタル加入させるなど前年と同じく多くの若手選手を獲得した。また、5月、「J1昇格支援募金」を開始した(後述)。

開幕戦は2007年以来のホームスタジアムの大分銀行ドームでの開催となった。リーグ戦では第21節、アウェイでギラヴァンツ北九州を破り、バトルオブ九州初勝利を挙げ同時に6年ぶりの4連勝を達成した。第23節に首位に立ったものの自動昇格となる2位以内に入ったのはその1節のみだった。とはいえ、3連敗以上の連敗をしないなどシーズンを通じて安定した戦いを見せ、第18節以降J1昇格プレーオフ圏内である6位以内を最終節までキープした(最終順位は6位)。J1ライセンス交付の条件とされていた、後述の「公式試合安定開催基金」からの融資残額3億円についても、5月下旬から一般市民や地元政財界に支援を募り、集まった寄付金・支援金計3億3,306万1,323円から返済期限とされた10月12日までに完済したため[4]、PO進出が決まった。

11月18日のPO準決勝は京都に森島が4ゴールを決めて4-0で、11月23日のPO決勝は千葉に林丈統のゴールで1-0で勝利を収めて、2009年以来4年ぶりのJ1復帰を果たした。天皇杯は初戦(2回戦)で水戸ホーリーホックに敗退。


2013年(J1)

チームスローガン:氣力×機力

田坂体制3年目。リーグ戦チーム最多タイの14得点の三平和司石神直哉湘南からのレンタル終了で退団し、他にも作田裕次イ・ドンミョン等がチームを離れた。一方、補強では神戸より元日本代表の高木和道大宮より2009年以来の古巣復帰となる深谷友基を獲得。その他にも児玉新小松塁辻尾真二と30代手前~前半の年齢の選手を中心に、合わせて9選手が加入した。また、シーズン途中に今季加入の金永基、小松が他クラブに期限付き移籍で放出。北京五輪日本代表であった梶山陽平FC東京から期限付き移籍で獲得した。

J1リーグ戦は第8節終了時以降最下位から抜け出せなかった。公式戦の勝利は5月18日のJ1第12節アウェー新潟戦、5月22日のヤマザキナビスコカップBグループ第7節アウェー鳥栖戦、9月8日の天皇杯2回戦のHOYO大分戦、10月19日のJ1第29節アウェー大宮戦の4試合のみであった。10月5日の第28節C大阪戦に0-2で敗れ、リーグ戦6試合を残し1年でのJ2降格が決定した。更にシーズン最後のホームゲームとなる第33節・川崎戦に0-1で敗れた事でリーグ戦ホームゲームの戦績が4分13敗となり、Jリーグ史上初のシーズン中ホームゲーム未勝利(ヤマザキナビスコカップでも1分2敗だったためJリーグのチーム相手の公式戦総計は5分15敗)となった[5]。結局終わってみれば上記の記録に加え、勝利数がJ1リーグ最低新の2(過去の最低記録は2010年湘南の3勝)、勝点もJ1リーグ最低タイ記録の14(2012年札幌と同点)を記録した[6]。なお、リーグ戦ホームゲーム未勝利と勝点14は翌年徳島も記録した。

天皇杯はクラブ史上最高成績となるベスト8の成績を残した。

2014年 - 2015年(J2)

2014年
チームスローガン:前進×全心

田坂体制4年目。2013年のチーム内得点王であった森島康仁川崎に、正GKを主に努めた丹野研太が古巣・C大阪にそれぞれ完全移籍。主将・宮沢正史は契約満了に伴いFC岐阜に移籍。その他には梶山陽平松原健など計16人が退団した。補強面では鳥栖から室拓哉、C大阪から武田洋平千葉から伊藤大介をいずれも完全移籍で、鳥栖から末吉隼也とクラブ初のコロンビア人となるジョナサン新潟から増田繁人名古屋から田中輝希神戸からカン・ユングをいずれも期限付き移籍で獲得。更に新人として大阪体育大学から伊佐耕平が加入した。また、前年から期限付き移籍中の松本怜の期限付き移籍期間を1年間延長し、2014年新体制発表時点での選手数は25人となった。チーム創立から20周年の節目のシーズンになる事に併せ[7]6月21日愛媛戦は20周年記念試合と銘打ち開催された(詳細については20周年記念試合を参照)。

アウェー・ケーズデンキスタジアム水戸で迎えた開幕戦は水戸に1-2で敗北したが、ホーム開幕戦となる第2節で北九州に1-0で勝利し、昨シーズンから続いたリーグ戦ホームゲーム未勝利記録を17でストップさせた。その後は極端に調子を崩すことは無かったものの順位を3位以上に付けることができず、J1昇格プレーオフの枠を磐田、千葉、北九州(クラブライセンスの関係によりプレーオフ出場権無し)、山形らと争う形となった。その後シーズン途中で大宮から加入したラドンチッチ(11月に膝の手術のため退団)、FC東京(シーズン前半は岡山に期限付き移籍)から期限付き移籍で加入した林容平、ラドンチッチとほぼ入れ替わりで加入したダニエルの活躍もあって39節終了時点でプレーオフ圏内の6位につけるも、第40節の水戸戦で逆転負けを喫し7位に後退。その後最終節・湘南戦に敗北した事で最終順位が7位で確定。2年振りのJ1昇格プレーオフ進出を果たす事はできなかった。

またこの年開催された2014 FIFAワールドカップでは、大分U-18に在籍し2種登録選手としてトップチームに登録されている坂井大将が、名古屋の杉森考起と共にトレーニングパートナーとして日本代表に直前合宿から大会終了まで帯同した[8][9]

2015年
チームスローガン:結集×決蹴 ALL FOR J1

田坂体制5年目。昨年主軸としてプレーした伊藤が岡山に、末吉が古巣・福岡に移籍。そして林はFC東京に復帰した。また、高木が契約満了となり岐阜に移籍した。その他8人の選手が退団し合計12選手が大分を去った。一方補強面ではブラジル人のエヴァンドロ、東ティモール国籍のムリロ・アルメイダ、更には新潟から岡本英也、そして京都から三平和司が3年振りに復帰するなど前線の選手を多く補強した。また伊藤、末吉等が去った中盤の穴埋めとして千葉から兵働昭弘が加入。その他にも8選手が加入し、大分に加入後即V大分に期限付き移籍となったフェリペを含め併せて14選手が加入した。キャプテンには2004年のサンドロ以来、11年ぶりの外国籍選手キャプテンとなるダニエルが就任した。

開幕戦で讃岐に0-2で完封負け。その後も低迷して第16節終了時点で2勝5分9敗の最下位に留まり6月1日に田坂を監督より解任。強化育成部長兼コーチ(5月より兼任)の柳田伸明が監督代行を経て7月2日より監督に就任。当月は東京V戦での15試合ぶりの白星を含む3勝と復調の兆しを見せたが勢いを持続させることはできず、降格圏から脱出するまでには至らなかった。最後は4連敗を喫するなど不安定なチーム状況のまま21位でリーグ戦を終え、J2・J3入れ替え戦に出場する事となった。

入れ替え戦は2戦2敗の成績でJ3・2位の町田に敗れ、J1経験クラブ・タイトル獲得クラブとして初のJ3降格が決まった[10]。シーズン終了後に柳田が監督を退任した。

2016年(J3)

2016年
チームスローガン:原点回帰 RETURN TO THE ORIGIN

新監督として、G大阪でヘッドコーチを務めていた片野坂知宏が就任。クラブ初の「大分トリニータ」在籍経験者の監督就任となった(過去には前チーム名「大分トリニティ」に在籍した皇甫官が監督経験がある)。またコーチメンバーにも吉村光示山崎哲也(U-18監督より配置転換)が新たに加入し、留任したGKコーチ・吉坂圭介を含め全員が大分トリニータOBとなった。

他クラブに期限付き移籍中の選手を含め全選手に対して契約延長のオファーを出したが、チーム得点王であった為田大貴をはじめとして、昨シーズン先発出場機会の多かった若狭大志武田洋平兵働昭弘安川有西弘則等が他J1・J2クラブに移籍。また阪田章裕荒田智之が同ディビジョンとなるJ3・長野に移籍。期限付き移籍中だった風間・岡本も期限付き移籍先に完全移籍する等、退団選手は計13人となった。補強では、元日本代表・山岸智広島から獲得。他には黄誠秀千明聖典染矢一樹(4月1日契約解除[11])、山之内優貴、更には若手選手を3人期限付き移籍で獲得。そしてユースから3選手が昇格した。また昨シーズン限りで退任した青野浩志の後任として、新社長に榎徹が就任。強化育成部長には昨シーズン途中から代理で努めていた西山哲平が就任した。

4月16日未明に熊本地方で発生した地震の影響により、4月17日に大分銀行ドームで開催予定であったJ3第5節・福島戦は中止とされていたが[12]、のちに振り替え試合として6月5日に行われた[13]

開幕3連勝を記録し、同節終了時には首位に浮上するも、第4節でFC琉球に敗れ首位を明け渡すと、その後は得点力不足に陥り勝ち星を伸ばすことができなくなり、同節から4試合未勝利(1分3敗、上記の通り第5節は延期)で、第8節終了時には一旦10位まで順位を下げた。第15節では最下位・YS横浜に敗戦を喫し、前半戦を昇格圏外となる3位で折り返した。そして第19節には9連勝中の首位・栃木に敗戦を喫し首位との勝ち点差が9に広がった。しかしその後、シーズン途中に加入した八反田康平らの活躍により第28節終了時までで7勝1分1敗という追い上げを見せ、栃木を追走。ホーム最終戦となった第29節・YS横浜戦にて大分が勝利し、栃木が敗北した為、栃木と勝点で並び得失点差で第3節以来の首位に立った。そして最終節の鳥取戦を4-2で勝利し、最終5節を5連勝で終えJ3リーグ優勝、1年でのJ2リーグ復帰を果たした。

また、このシーズンを以て2000年の入団以降、FC東京へ期限付き移籍した2011年を除き在籍していた高松大樹が現役を引退した。現役最後の試合となったホーム・大銀ドームで開催されたYS横浜戦には、J3記録(当時)となる11,065人の観衆が詰めかけた[注 2]

2017年 - (J2)

2017年
チームスローガン:初志貫徹 Just for Victory

片野坂体制2年目。前述した高松大樹の引退をはじめ、松本昌也磐田に移籍、J3優勝に大きく貢献した八反田康平ら4人が期限付き移籍期間満了、2015年にキャプテンを務めたダニエル千明聖典ら5人が契約満了で合計11名がチームを去った。また江頭一輝東海社会人サッカーリーグ鈴鹿アンリミテッドFC期限付き移籍となった。

補強面では、2種登録時代を含め2007年から6年間在籍していた小手川宏基、2014年に期限付き移籍で加入していた林容平、ユース出身の岸田翔平というクラブに縁のある選手をはじめ竹内彬黒木恭平川西翔太高木駿が完全移籍で加入。また鈴木惇坂井達弥前田凌佑が期限付き移籍で加入し、昨シーズン期限付き移籍で大分に在籍した清本拓己大津耀誠が完全移籍に移行。そしてユースから野上拓哉、U-18出身の國分伸太郎立命館大学より加入した。

成績

タイトル ・表彰

国内

Jリーグカップ:1回[1]
J2リーグ:1回[1]
J3リーグ:1回[1]
フェアプレー賞:1回[1]
  • 2016年

個人別

J1リーグ
J2リーグ
Jリーグカップ
  • MVP
  • ニューヒーロー賞
    • 2008年 金崎夢生

経営問題

大分トリニータを運営する株式会社大分フットボールクラブ(以下「大分FC」と記す。)には、1999年の会社設立以来、住宅リフォームメーカーのペイントハウスが筆頭株主として経営に参加していた(日経ビジネスオンラインによると、同社の創業者だった星野初太郎の肝いりだったという[14])。しかし、ペイントハウスの拡大路線が行き詰まり、同社の経営に投資コンサルタントの阪中彰夫が関与し始めた頃から、ペイントハウス、ひいては大分FCの経営が揺らぎはじめ、これをきっかけとなって様々な問題が生じ、クラブ経営が翻弄され続けることになった。

2004年から2005年

2004年、クラブ創設以来ユニフォームスポンサーを務めていたペイントハウスが年度途中で撤退。これをきっかけとして大分FCは経営難に陥り、2005年9月時点で7億2,500万円の累積赤字、3億4,400万円の債務超過となった[15]。また、これと相前後して、2004年途中にペイントハウスの代わりにユニフォームの胸スポンサーに就いた、ミュージシャンの小室哲哉が役員を務めるイベント会社「トライバルキックス[注 3]」が年間スポンサー料7,000万円の滞納が発覚した[16]。大分FCの経営諮問委員会は2005年9月14日にとりまとめた答申で「極めて厳しい状況。運転資金確保が緊急の課題」と結論づけ、大分FCが9月21日までに2億円の調達が必要であるとし、大分県に公的支援を要請した[15]

これを受け、大分FCは大分県の外郭団体である大分県スポーツ文化振興財団から2億円の融資を受けた他、6月にユニフォーム胸スポンサーとなったパチンコホール運営会社のマルハンが2006年から6年間の年間シートを購入し、資金繰りを乗り切った。マルハンのスポンサードに関してはJリーグの規定に抵触するのではないかとの指摘があったものの、このときは特例として認められた。

2006年12月、Jリーグから、「(マルハンをはじめとする)ホール業界がJリーグのスポンサー自粛カテゴリーであたり、2007年シーズン以降のユニフォームスポンサーとして許可できない」との方針が示された[17][注 4]ことを受け、マルハンはこれ以降「スペシャルスポンサー」としてトリニータの支援を行うことになる。

2009年以降

2009年9月14日、大分FCは、マルハンが「ユニホームに企業名が入らず広告対価が伴わない」ことを理由にスポンサーを完全撤退したことを発表[17][18][19]。加えて、2006年以降スポンサーに名を連ねていたフロンテック(「BOWS」表記)、オメガプロジェクト(現・ソーシャル・エコロジー・プロジェクト)が役員逮捕[注 5]を起因とする経営難などから2009年までに相次いで撤退[20]、さらに一度はスポンサー継続を決めていたジョイフル[21] も、業績悪化で代表取締役の交代が決まった直後の3月にユニフォームスポンサーから撤退。そのうえ2009年途中からユニフォームの胸スポンサーとなったフォーリーフジャパンはそのビジネス手法などを巡り当初からサポーターの反発を受けていたこともあってに同年限りでスポンサーから降板するなど、大口スポンサーの撤退が相次いだことで再度の経営危機が一気に表面化した。

具体的には、2009年1月期現在で累積赤字が11億円、債務超過額が5億5,800万円[22] となっており、更には成績不振による入場料減収や監督交代に伴う人件費増加もあって、翌2010年度の運営費を前倒しで使う自転車操業のような経営方針もあいまって[23]、2009年11月からのリーグ戦残り3節(うちホーム2試合)の運営が困難となった。

2009年11月11日、日本プロサッカーリーグが設立した公式試合安定開催基金からの緊急融資を申請した[24](J1所属クラブが同基金からの融資を申請するのは史上初[25])。申請の際、本年度のみで2億円程度不足とみられていた[25] が、大分県は本年度のみで約4億円不足すると発表した[23]。11月17日、Jリーグ理事会にて合計6億円の融資(当初3億5,000万円、2010年1月末に2億5,000万円)を決定。Jリーグは大分FCについて「経営破たんに近い、あってはならない経営」と指摘[26]。11月20日、大分FC社長の溝畑宏が12月5日の公式戦終了後に引責辞任して、副社長の皇甫官が社長代行に就任することを発表[27]。12月12日には、皇甫および強化部長の原靖が辞任し、大分県経営企画部長の青野浩志が代表取締役代行に就任した[28]

当初の緊急融資を受け、大分FCは再建計画書をJリーグに提出したが、「経費削減が不十分」として[29][30] 12月14日のJリーグ理事会で追加融資分2億5千万円の承認が否決。12月23日のJリーグ臨時理事会でも同様の理由により否決されたため、大分FCは地元銀行からのつなぎ融資を受け当座の資金を確保した[31]。これを受け、大分県や地元企業らが中心になって新たに「大分トリニータを支える県民会議」が発足[32]。また大分市役所内にチーム支援のための募金箱を設置し、当面「5,000万円を目標」として募金を募った[33]。ただ大分県内でもチーム支援に対する考えは地域によって温度差があり、大分市以外では「なぜトリニータばかり優遇するのか」という不満の意見もあった[34]

2010年1月19日、大分FCが再提出した運営予算を削減した計画書に基づき、Jリーグ理事会は更なる予算圧縮を要望しつつ残り2億5,000万円の追加融資を決定[35]。2月16日には、大分FCが再度提出した予算を更に修正した計画書に基づき、Jリーグ理事会は追加融資を正式に了承した[36]。大分県は再建支援のため、これまで半額免除であった大分銀行ドームの使用料を、2010年シーズンは全額免除することを決定。その後、全額免除は2012年シーズンまで続いている[37]

なお、債務超過額については、2009年1月期時点での5億8千万円あまりから、2009年12月の調査時点で大分FCによる調査で実質9億円以上になると判明[29]。2010年1月末時点では11億6,700万円の債務超過額であることが4月27日の大分FCの株主総会で明らかにされた[38]

2010年5月、ティエムシー(旧・ペイントハウス)が保有していた大分FCの株式を買い取った大分商工会議所が筆頭株主となった[39][40][41]

2011年、ダイハツ九州が胸スポンサーとなった[42]

2010年11月17日、2011年1月までに必要な運転資金5億円のうちの1億9,000万円が不足する可能性が出たため、大分FCは大分県文化スポーツ振興財団から2億円の追加融資を受けた(この時点で、2005年の融資のうち8,000万円が未返済であった[43])。

2012年1月31日、Jリーグの公式試合安定開催基金から融資を受けていた5億円の内の2億円を返済[44]。その一方で、10月12日までに公式試合安定開催基金からの融資の残り3億円の返済を完了しなければ、成績上の条件(2位まで自動昇格、3-6位は今年度から採用される「J1昇格プレーオフ」進出権利)を満たしても2013年度からJ1昇格をすることができないという条件が課せられた。同年5月、3億円のうちの1億円を目標に、市民・団体などから寄付(1口5,000円、上限なし)を募る「J1昇格支援金」の募集を開始。支援金は、8月17日に目標の1億円に到達し[45]、最終的には約1億2,380万円に達した。この支援金に、地元経済界からの支援約1億920万円、大分県等の行政からの支出1億円を合わせて、支援の総額は約3億3,300万円となり、大分FCは10月12日に基金からの融資を完済した[46]。なお、2012年10月12日時点の債務超過額は約5億8,500万円である[46]

サテライト

Jサテライトリーグの廃止に伴い、サテライト選手については、2011年より九州地区のJリーグチーム等で構成される九州チャレンジャーズリーグに参加している。

アカデミー

アカデミー(育成組織)は、日本代表選出経験のある西川周作梅崎司清武弘嗣東慶悟を大分U-18から輩出するなど、日本代表やJリーグで活躍する選手を数多く育成している。また、2005年の経営危機の際に「育成重視」の方針を打ち出して以来、福元洋平(2005年)、小手川宏基(2007年)、松原健為田大貴(共に2010年)がユース在籍中にトップチームに2種登録され、公式戦に出場した。為田は現在大分史上最年少公式戦及びリーグ戦出場記録を保持している。

大分U-18は、2013年プリンスリーグ九州1部にて初優勝。プレミアリーグ参入戦に臨んだが、愛媛FC U-18に敗れ参入は見送りとなった。翌2014年、プリンスリーグ九州で連覇を果たすと、この年の参入戦で大谷室蘭高校米子北高校に勝利し2015シーズンからのプレミアリーグWESTへの昇格が決定した。

タイトル

アカデミーの出身者

大分トリニータレディース

将来的な日本女子サッカーリーグ参入を視野に入れ、女子サッカーチームの「大分トリニータレディース」を2007年4月に創設。2006年10月に第一回セレクションを開催し、30名の選手が選抜された。2007年に大分県女子サッカーリーグおよび九州各県女子リーグ決勝大会で優勝し、2008年より九州女子サッカーリーグに所属している。

クラブ記録

試合記録

J1リーグ戦連続無敗記録
J1リーグ戦ホーム連続無敗記録
連続無失点試合
ホーム最多連勝記録
リーグ戦最多連敗記録
  • 14連敗 (2009年4月4日J1第4節 浦和レッズ戦 〜 7月13日第13節 ジュビロ磐田戦) ※J1ワースト3位、延長戦廃止後ワースト1位

得失点記録(Jリーグ加盟後)

最多得点試合

ホーム
アウェー

最多失点試合

ホーム
  • J1:4失点
    • 0-4 (2003年第12節 ジュビロ磐田戦) 他5試合
  • J2:4失点
    • 2-4 (1999年第20節 FC東京戦) 他2試合
  • J3:3失点
アウェー
  • J1:6失点
    • 0-6 (2007年第23節 ジェフユナイテッド千葉戦、2013年第25節 ベガルタ仙台戦)
  • J2:5失点
    • 0-5 (1999年第3節 大宮アルディージャ戦、2010年第19節 ジェフユナイテッド千葉戦)
  • J3:2失点

その他

年間総失点数
  • 24失点 (1試合平均 0.706点、2008年) ※J1最少記録
    • ホーム 9失点 (1試合平均 0.529点)、アウェー 15失点 (1試合平均 0.882点)
リーグ戦年間完封試合数
  • 34試合中17試合 (2008年)

歴代チーム内最多得点者

得点数が太字の箇所はリーグ得点王。

年度 ディビジョン 名前 得点数
1999 J2 日本の旗 神野卓哉 19
2000 ブラジルの旗 ウィル 22
2001 ブラジルの旗 ベンチーニョ 16
2002 ブラジルの旗 アンドラジーニャ 18
2003 J1 日本の旗 吉田孝行 7
2004 ブラジルの旗 マグノ・アウベス 11
2005 ブラジルの旗 マグノ・アウベス 18
2006 日本の旗 高松大樹 12
2007 日本の旗 高橋大輔 10
2008 ブラジルの旗 ウェズレイ 7
2009 日本の旗 高橋大輔 5
2010 J2 大韓民国の旗 チェ・ジョンハン
大韓民国の旗 キム・ボギョン
8
2011 日本の旗 森島康仁 11
2012 日本の旗 三平和司
日本の旗 森島康仁
14
2013 J1 日本の旗 森島康仁 7
2014 J2 日本の旗 林容平 7
2015 日本の旗 為田大貴 6
2016 J3 日本の旗 後藤優介 14

ホームスタジアム・練習場

ホームスタジアム

大分銀行ドーム外観
  • 大分銀行ドームがホームスタジアムである[1]。過去の開催スタジアムは下表を参照のこと。
  • 2007年までは熊本県民総合運動公園陸上競技場(現:うまかな・よかなスタジアム)で年1-2回ホームゲームを開催していた。
    • 2007年10月20日はKKWINGで13時からロッソ、19時30分からトリニータが同日開催した。
    • 2004年は雷雨により中止となったが、この時に熊本県民総合運動公園屋内運動広場(パークドーム熊本)南側の駐車場が冠水し、駐車していた約150台が動かなくなった。ところが、この駐車場はもともと洪水を防ぐために雨水を一時的に貯める貯水池だったことから、後日トリニータの補償問題に発展した。
  • 2008年、J1第26節の札幌戦は第63回国民体育大会(チャレンジ!おおいた国体)の関係で鹿児島県立鴨池陸上競技場を使用した。

練習場

練習場は大分スポーツクラブおよび大分スポーツ公園サッカー・ラグビー場である[1]。なお、2002年頃までは、リバーパーク犬飼等各地のグラウンドを転々として練習を行っていた。

年度・競技場別の試合数

※1999年のJリーグ加盟以後。[47]
年度 リーグ戦 Jリーグ杯 備考
大分ス 大分市陸 その他
1999 - 16 佐伯2 大分市陸2
2000 - 17 佐伯2
水前寺1
大分市陸1
2001 6 15 水前寺1 大分市陸1
熊本陸1 
大分ス完成。登録本拠地を大分ス・大分市陸の2か所併記に
2002 12 8 熊本陸1
長崎県立1
不参加 J1昇格
2003 14 0 熊本陸1 大分ス2 この年より登録本拠地を大分ス一本に絞る
2004 14 0 熊本陸1 大分ス3
2005 16 0 熊本陸1 大分ス3
2006 16 0 熊本陸1 九石ド3 大分ス=命名権採用により「九州石油ドーム(九石ド)」に変更
2007 16 0 熊本陸1 九石ド3
2008 16 0 鴨池1 九石ド5 (Jリーグ杯)九石ド=決勝T2を含む
Jリーグ杯優勝
2009 17 0   九石ド3 J2降格
2010 17 0 鴨池1 不参加 大分ス=命名権スポンサー変更により「大分銀行ドーム(大銀ド)」に変更
2011 19 0
2012 21 0 J1昇格(J1昇格プレーオフ優勝)
2013 17 0 大銀ド3 J2降格
2014 21 0 不参加
2015 21 0 J2・J3入れ替え戦にて大銀ド1回使用
J3降格
2016 15 0 J2昇格
2017 21 0

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) ブルー ブルー ブルー
FP(2nd) ホワイト ホワイト ホワイト
GK(1st) イエロー イエロー イエロー
GK(2nd) レッド レッド レッド
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー

  •      ブルー[1]

フィールドプレーヤー用

  • 1stユニフォームはブルーを基調としている。
    • 2006年まではイエローも配色されていたが、2007年にプーマの世界戦略ユニフォームを採り入れて以降は、イエローに変わりブラックと組み合わされた配色が多い。2015年のユニフォームには久し振りにイエローが大きく配色された。
  • 2ndユニフォームは、2005年まではシャツ、パンツ、ソックス共にホワイトを基調としていたが、2006年からはシャツがグレーに、2008年からは更にパンツがブラックになった。ただ、2009年は前年のユニフォームに比べグレーが濃くなり(例:    )、特に青系の色を基調としているチームとの対戦では区別しづらいという意見も出た[誰?]。しかし、2010年はさらにグレーが濃くなり、殆どブラックに近い色となった(例:    )。2011年はホワイトのソックスを試合によっては着用したが、視認性の問題の大きな改善には至らなかった。2012年より色を上下ともにホワイトに変更したため視認性での問題は無くなった。

ゴールキーパー用

  • 1stユニフォームについては2006年まではイエローを基調としていたが、2007年よりブラック若しくはダークグレーを基調としたユニフォームとなっており、イエローは2nd以降のユニフォームとして使われている。2010年 - 2013年は1stはレッドを基調としたものであった。2015年に1stが9年ぶりにイエローとなった。

エピソード

  • 2007年はアウェー戦は、ユニフォームの色が同系色ではない清水エスパルス戦やジェフユナイテッド千葉戦、浦和レッズ戦も含め全試合を2ndユニフォームで行った。
  • 2009年から2008年のJリーグカップ優勝による星マークを胸のエンブレムにつけている。
  • 2010年 - 2012年まで、ユニフォームの右袖部分のJリーグロゴマークの下に「LOVE 大分」の文字を入れていた。2013年からは同じ箇所に「OITA」の文字が入っている。

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
ダイハツ九州 ダイハツ九州 2011年 - 2013年 - 2016年は「ダイハツ」「九州」の二行表記
背中上部 ジェイリース ジェイリース 2016年 - 2014年 - 2015年は袖
背中下部 大分合同新聞社 大分合同新聞 2016年 -
大分銀行 OITA BANK 2016年 -
パンツ 九州乳業 みどり牛乳 2014年 - 1998年は背中

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 箇所 サプライヤー 配色
背中上部 背中下部 パンツ 1st 2nd
1998 朝日ソーラー /
ペイントハウス
みどり牛乳 解禁前 NEXD SOPH. - PUMA 青青青 白白白
1999 ペイントハウス PAINT
HOUSE
2000
2001
2002 Coca Cola SOPH.
2003 ペンタくん コロンブスの床
さとうベネック
2004 ペンタくん /
Tribalkicks
2005 – /
MARUHAN
Joyfull
2006 MARUHAN BOWS Joyfull Coca Cola 灰灰灰
2007 -
2008 オメガ
プロジェクト
灰黒灰
2009 - /
FOUR LEAF
Net One Systems
2010 - Net One Systems - /
KOYOU
2011 ダイハツ九州 KOYOU
2012 白白白
2013 ダイハツ
九州
Net One Systems /
net one
2014 net one ジェイリース みどり牛乳
2015
2016 ジェイリース 大分合同新聞 OITA BANK
2017 ダイハツ九州

スポンサー

エピソード

カラーボード

2008年のナビスコカップ決勝時の大分サポーターによるコレオグラフィー(人文字)

開幕戦など重要な試合ではサポーターがカラーボードを掲げている(コレオグラフィー、人文字)。

  • 過去にはサポーターの背番号である「12」や「GO!2006」、「OITA」などの人文字を作っている。
  • アウェーではバトルオブ九州などで行っている。
  • 2008年、国立競技場でのナビスコカップ決勝戦でも掲げている。これまでで最大規模であり、カラーボードも決勝進出にあわせて有志が追加作成した。

守備放棄試合

2003年のJリーグカップ京都戦(3月8日西京極)で、1-1で迎えた後半17分、大分・高松大樹が負傷したために京都側はボールを一旦フィールドの外に出した。試合再開後に大分も京都の選手に向かって蹴ったが、そのボールをロドリゴがカットし、そのままゴールを決めてしまった。ルール上は大分の得点として認められるが、京都側はマナーに反する行為であるとして猛烈に抗議し、会場は一時騒然となった。

その後京都側のキックオフで試合が再開されたが、当時大分の監督だった小林伸二は選手に対し守備を放棄するように指示。京都・中払大介のシュートを大分守備陣は見送り、スコアは2-2と再びイーブンになった。

奇しくもこの試合はtotoGOALがスタートして最初の試合だった。「totoGOAL」は指定されたチームの得点を「0点」「1点」「2点」「3点以上」で予想するものであるため、今回の出来事がtotoGOALの結果を変えてしまったという点で問題となったが、日本サッカー協会川淵三郎キャプテンは大分の守備放棄という行為に対して「あの状況では仕方がなかった」という見解を示し、Jリーグ側も大分を処罰しなかった。

リベンジ16

2007年のJリーグの第18節の横浜F・マリノス戦(6月30日、九州石油ドーム)で0-3と惨敗。連敗続き、そして自動降格圏17位でチームに対し、約1,000人のサポーターがスタジアムに試合終了後2時間居残り、不甲斐ないチームや経営陣への不満を爆発させた。サポーターに対し、一度はスタッフが説明を行ったが、「社長出て来い」とサポーターは収まらず、最終的には社長の溝畑宏が「近日中に話し合いの場を設ける」ことを約束。7月8日に経営陣とサポーター代表との話し合いが持たれた。

チームは2007年リーグ後半戦の16試合を「リベンジ16」と銘打ち、「リベンジ三戦士」として鈴木慎吾ホベルトエジミウソンを獲得、即戦力の補強を行なうと、「リッジー」がこのプロジェクトのキャラクターとして登場し、これを盛り上げた。この16試合を8勝7敗1分と、ほぼ五分の成績で終え、「前半戦で降格圏内にいるチームはJ2に降格する」というジンクスを見事に破り、J1残留を果たした。

「リベンジ16」の中で唯一対戦していなかった横浜FMについては、2007年に2戦とも大敗かつ無得点(第7節・A0-5/第18節・H0-3)だったことから、2008年のホームゲームで「リベンジ」と銘打ってリッジーも再登場のもと行なわれた。試合は1-0で勝利し、リベンジを果たした。

ナビスコカップ優勝記念リング

2009年2月25日 前年のナビスコカップ優勝を受けて製作され、この日2008年在籍した、選手・監督・コーチ・職員に配られた。 ナビスコカップ優勝時の記念品として、優勝メダルが決勝戦ベンチ登録されたメンバー全員に主催者により送られた。 しかしメダルはその試合に登録されたメンバーしかもらえず、選手や監督・コーチ・裏方さんみんなの力で優勝できた、みんなで優勝の喜びを分かち合いたいと言うことで、当時の社長・溝畑宏の発案、SOPH代表取締役清永浩文のデザインによって製作された。

スタジアムDJ

男女1人ずつが交代で担当している。原則的にクラブと協力関係にあるエフエム大分のDJが担当する場合が多い。

過去のスタジアムDJ
  • TOM G(2002年-2009年)

20周年記念試合

2014年にクラブ創立20周年を迎えた大分は特設サイトを開設し[48]、更には同年6月21日愛媛FC戦を「20周年記念試合・大分県民DAY」と銘打ち開催した。試合前には大型ビジョンにて歴代ベストイレブンが発表された他、過去に大分に在籍した西川周作森重真人清武弘嗣からのメッセージも公開された。歴代ベストイレブンは以下の通り。

脚注

注釈
  1. ^ 厳密にはイタリア語ではアクセント記号をつけてtrinitàと綴る。
  2. ^ 翌年ギラヴァンツ北九州に更新される。観衆14,935人。
  3. ^ トライバルキックスがトリニータのスポンサードを行った背景には、小室の妻・kcoが大分県臼杵市出身で、小室がトリニータのファンとなったという縁があるという[16]
  4. ^ パチンコ業界関連では、過去にはリーグスポンサーにパチンコ製造メーカーの平和が名を連ねたことがある。他に、アビスパ福岡の大株主である大都技研も、子会社にパチンコホールがあることを理由にユニフォームスポンサーを断られた例がある。
  5. ^ これらの企業はペイントハウスにも関わった阪中彰夫や、阪中と親しい間柄にあったとされる横濱豊行が経営に関与していた。阪中と横濱は2009年にそれぞれ別の容疑で逮捕されている[14]
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak プロフィール:大分トリニータ”. 日本プロサッカーリーグ. 2015年10月30日閲覧。
  2. ^ a b 会社概要”. 大分トリニータ. 2014年4月1日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 2015年度(平成27年度)Jクラブ個別情報開示資料”. 日本プロサッカーリーグ. 2016年8月20日閲覧。
  4. ^ J2大分 J借入金3億円完済 1部昇格の条件満たす 西日本スポーツ 2012年10月13日付記事
  5. ^ “史上初の屈辱…大分、ホーム0勝 劣悪ピッチで地の利なし”. SponichiAnnex. (2013年12月1日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/12/01/kiji/K20131201007116640.html 2013年12月2日閲覧。 
  6. ^ “【トリニータ】2勝…否めぬ戦力差”. 大分合同新聞. (2013年12月8日). http://www.oita-press.co.jp/localSports/120726999419/2013_138646733552.html 2013年12月9日閲覧。 
  7. ^ “【トリニータ】「戦い抜く」新体制発表”. 大分合同新聞. (2014年1月20日). https://www.oita-press.co.jp/localSports/120726999419/2014_13901807808.html 2014年1月20日閲覧。 
  8. ^ 2014FIFAワールドカップブラジル SAMURAI BLUE(日本代表)FIFA登録30名およびトレーニングパートナー 公益財団法人日本サッカー協会、2014年5月13日
  9. ^ 「2014 FIFA ワールドカップブラジル」日本代表トレーニングパートナー 坂井大将選手 帯同期間延長のお知らせ 大分トリニータ公式サイト、2014年6月7日
  10. ^ “町田が入れ替え戦連勝で4年ぶりJ2復帰!!大分はJ1経験クラブで初のJ3降格”. ゲキサカ. (2015年12月6日). http://web.gekisaka.jp/news/detail/?177873-177873-fl 2015年12月6日閲覧。 
  11. ^ 染矢一樹選手 契約解除のお知らせ - 大分トリニータ、2016年4月1日
  12. ^ 4月17日(日)明治安田生命J3第5節 vs 福島ユナイテッドFC開催中止のお知らせ - 大分トリニータ、2016年4月16日
  13. ^ 大分vs福島の試合結果・データ(明治安田生命J3リーグ第5節:2016年6月5日) - Jリーグ.jp、2016年6月5日
  14. ^ a b 問題企業の“パス回し”に翻弄された大分トリニータ”. 日経ビジネスオンライン. 日経BP (2009年11月25日). 2013年10月6日閲覧。
  15. ^ a b “県に2億円支援 大分FC経営諮問委「21日までに必要」”. 大分合同新聞. (2005年9月15日). オリジナル2006年2月22日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20060222150601/http://www.oita-press.co.jp/read/read.cgi?2005=09=15=922451=chokan 2013年10月6日閲覧。 
  16. ^ a b “かつてのスポンサー 小室哲哉 大分J1復帰に喜び「名試合だった」”. スポーツニッポン. (2012年11月23日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/11/23/kiji/K20121123004619270.html 2013年10月6日閲覧。 
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  18. ^ 【トリニータ】 マルハン完全撤退 - 大分合同新聞、2009年9月14日
  19. ^ マルハン スポンサー撤退へ 大分に合計約13億円支援 - 西日本新聞、2009年9月15日
  20. ^ 大分、スポンサー撤退でさらに経営難に - 報知新聞、2009年11月11日
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関連項目


外部リンク