サッカーイタリア代表

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サッカーイタリア代表
国または地域 イタリアの旗 イタリア
協会 イタリアサッカー連盟
愛称 Azzurri(アズーリ
監督 チェーザレ・プランデッリ
最多出場選手 ジャンルイジ・ブッフォン(137試合)
最多得点選手 ルイジ・リーバ(35得点)
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合 1910年5月15日フランス
6-2
最大差勝利試合 1948年8月2日アメリカ合衆国
9-0
最大差敗戦試合 1924年4月6日ハンガリー
1-7
FIFAワールドカップ
出場回数 17回(初出場は1934
最高成績 優勝(1934193819822006
UEFA欧州選手権
出場回数 7回
最高成績 優勝(1968
サッカーイタリア代表
南アフリカW杯パラグアイ戦)

サッカーイタリア代表 (Nazionale di calcio italiana) はイタリアサッカー連盟 (FIGC) によって編成されるイタリアサッカーのナショナルチームである。通称はアズーリ(“青”の意)である。

概要[編集]

イタリア代表は、これまでFIFAワールドカップ出場17回、優勝4回(これはともにブラジル代表に次ぐ世界第2位の成績)を収めており、ウルグアイドイツブラジルアルゼンチンと並びW杯で複数回の優勝を達成している、世界屈指のサッカー大国の一つである。またFIFAランキングで1位になった経験を持つ7ヶ国のうちの一つでもある。

特に欧州で開催された大会ではその強さを発揮しており、1974年西ドイツ大会で、ポーランドに敗れて以来現在まで26試合無敗を継続中である。ワールドカップでのPK戦は1990年大会1994年大会1998年大会と3戦全敗であったが、2006年ドイツW杯決勝戦でのPK戦で初勝利を収めた。UEFA欧州選手権には、7回出場、1回優勝している。またフランス代表とのライバル意識が強く、国際大会で数々の名勝負を繰り広げている(詳細はサッカーにおけるイタリアとフランスのライバル対決を参照)。

国旗の色にない青という色をチームカラーとするナショナルチームのひとつであり (ほかの例としてはドイツの白、日本の青、オランダのオレンジがある)、その青色は地中海ブルーと呼ばれることもある。イタリア代表のユニフォームが青いのは、かつてのイタリア王国の王家ことサヴォイア家からきているとされることがある(王国時代は現在の国旗の中央にサヴォイア家の家紋が青い枠とともに入っていた)。

伝統としてカテナチオ(“かんぬき”の意)と呼ばれる守備的戦術を持ち、古くから多くの優秀なディフェンダー、ゴールキーパーを輩出している。代表的な選手として、ジャチント・ファッケッティディノ・ゾフガエターノ・シレアフランコ・バレージパオロ・マルディーニファビオ・カンナバーロジャンルイジ・ブッフォンなどが挙げられる。攻撃的選手では、古くはジャンニ・リベラから始まり、近年では、ロベルト・バッジョアレッサンドロ・デル・ピエロフランチェスコ・トッティなどの、いわゆるファンタジスタと呼ばれるスター選手を多く輩出している。

歴史[編集]

初期 - 1930年代[編集]

初の国際試合は1910年5月15日フランス戦で、6-2で勝利した。

1928年アムステルダム五輪では銅メダルを獲得。

ワールドカップには自国開催の1934年イタリア大会で初出場し、エースのジュゼッペ・メアッツァアンジェロ・スキアビオらの活躍により初優勝。

1936年ベルリン五輪では、金メダルを獲得し、2年後の1938年フランスW杯においては、前回大会と同じくジュゼッペ・メアッツァを中心に据えたチームに、シルヴィオ・ピオラを加え、2度目の優勝を飾り、ワールドカップ史上初の連覇を達成した。

1950年代 - 1960年代[編集]

1949年5月4日スペルガの悲劇で大半のイタリア代表メンバーが死亡。その影響で翌年の1950年W杯ブラジル大会ではグループリーグ敗退に終わり、1950年代から60年代にかけてイタリアは低迷期に入る。

1954年スイス大会はホスト国スイスとのプレーオフに敗れグループリーグ敗退。

1958年スウェーデン大会北アイルランドに競り負けて唯一のヨーロッパ地区予選敗退を喫し、出場権を逃した。

1962年チリ大会には、前年度バロンドールオマール・シボリや前回大会でブラジルFWとして活躍した「マゾーラ」ことジョゼ・アルタフィーニ、新鋭ジャンニ・リベラらを擁して臨んだ。グループリーグ初戦こそ西ドイツを相手にスコアレスドローだったが、第二戦はホスト国チリとの荒れに荒れた試合を露骨なホームタウンディシジョンもあって0対2で落とす。結局この敗戦が響いて1勝1敗1分のグループリーグ敗退に終わった。なお、パオロ・マルディーニの父チェーザレや、後の代表監督であるジョバンニ・トラパットーニが代表メンバーだったのもこの頃である。

1966年イングランド大会では、決勝トーナメント進出を懸けたグループリーグ最終戦で初出場の北朝鮮に0対1でまさかの敗北(この試合はW杯史上最大の番狂わせといわれている)を喫して3戦1勝2敗の成績で敗退。代表チーム一行が帰国した際には空港で待ち構えていた怒りのサポーターから腐ったトマト生卵を投げつけられるという出来事が起きた。

だが1968年、自国開催の欧州選手権では、サンドロ・マッツォーラルイジ・リーヴァジャチント・ファッケッティらを擁したチームで準決勝に進出。ソ連との試合は延長戦にもつれこんでも決着がつかなかったが、規定によって行われたコイントスの結果、イタリアが勝利した[1]ユーゴスラビアとの決勝戦も互いに譲らず、延長戦を戦って1対1の同点となったため再試合が行われ、リーヴァのゴールなどでイタリアが2対0で勝利。激闘の末、久々の国際タイトルを手にした。

1970年代 - 1980年代[編集]

欧州王者として、2年前とほぼ変わらぬメンバーで臨んだ1970年W杯メキシコ大会では、グループリーグを突破。準々決勝では開催国メキシコを下し、準決勝は西ドイツと対戦。アステカ・スタジアムで行なわれた試合は前半8分イタリアが先制点を挙げ、イタリアのリードで迎えた後半ロスタイムに西ドイツに同点ゴールを許し延長戦に突入。延長戦では打って変わって、両者合わせて5ゴールも生まれる激しい点の取り合いとなり、最終的にジャンニ・リベラの決勝ゴールでイタリアが4-3の死闘を制した。この試合は、「アステカの死闘」とも呼ばれ、W杯史上数ある名勝負のひとつとして語り継がれている。決勝の相手はイタリアと同じく2度の優勝を誇るブラジル。この試合は、勝てば3度目の優勝と、規則によりW杯を3回制したチームに与えられるジュール・リメ杯の永劫所有権を懸けた一戦となった。しかしイタリアは準決勝の激闘による疲労と、ペレ擁するブラジルの圧倒的な攻撃力の前になす術も無く1-4の完敗。準優勝となった。

1978年アルゼンチン大会では、ロベルト・ベッテガパオロ・ロッシの2トップが躍動し、1次リーグを3戦全勝で勝ち上がり、4位と好成績を残す。

2度目の自国開催となったUEFA欧州選手権1980では、パオロ・ロッシが国内リーグの八百長疑惑に巻き込まれ、2年間の出場停止処分を受けてしまい、得点源を失ったイタリアはベルギーに総得点差で敗れ、グループリーグ2位に終わり、決勝進出を逃し、4位という結果で終わる。

2年後の1982年W杯スペイン大会。開幕直前に処分が解けたロッシをベアルツォット監督は代表に招集したことで、懐疑的な声が多く挙がり、批判を浴びた。当時のイタリアは司令塔のジャンカルロ・アントニョーニ、ドリブラーのブルーノ・コンティ、キャプテンのGKディノ・ゾフらタレントは揃っていたものの、イタリアを優勝候補に挙げる者は少なかった。案の定1次リーグは、ロッシが全くの不発で無得点に終わり、3戦とも引き分けと大苦戦。総得点差で辛くも突破した。だが2次リーグではアルゼンチン戦に勝利すると続くブラジル戦で、突如としてロッシが復活。ジーコ黄金のカルテットを擁し、史上最強といわれたブラジル相手にハットトリックの大活躍。結果3-2で優勝候補のブラジルを下し準決勝に進出した。準決勝のポーランド戦でもロッシが2得点を挙げ2-0で勝利。決勝は西ドイツと対戦。ここでもロッシは先制ゴールを挙げ、イタリアは3-1で西ドイツに勝利。復活したエースの活躍でイタリアは1938年以来44年振り3度目の優勝に輝いた。なおロッシは大会MVP、得点王の2冠を達成している。

史上2度目の連覇を目指し臨んだ1986年メキシコ大会では、決勝トーナメント1回戦でプラティニ率いるフランスに0-2で敗戦。ベスト16で大会を去ることとなり、連覇の夢は潰えた。

1988年の欧州選手権では、2年後の自国開催のW杯を見据え、ジャンルカ・ヴィアリジュゼッペ・ジャンニーニパオロ・マルディーニら若手主体のチームで挑み、準決勝でソ連に敗れはしたものの、ベスト4の好成績を残した。

1990年代[編集]

史上2度目の自国開催となった1990年W杯では、中盤にジャンニーニ、ロベルト・ドナドーニらを、守備陣には、フランコ・バレージジュゼッペ・ベルゴミワルテル・ゼンガらのタレントを揃えて臨んだ。特に不調だったヴィアリに代わり、大会中に彗星の如く現れたサルヴァトーレ・スキラッチが大活躍。6得点をあげて得点王と大会MVPに輝き、開催国の救世主となった。イタリアは地元の後押しに加え、スキラッチがゴールを量産し、グループリーグを3戦全勝で突破。決勝トーナメント1回戦でウルグアイを、準々決勝でアイルランドを下し、5試合無失点で準決勝に進出した。準決勝でマラドーナ率いるアルゼンチンにPK戦の末敗れ、優勝は叶わなかったが、3位決定戦でイングランドに勝利し、3位に入賞。開催国の面子を保った。なお、この大会でイタリアは準決勝でアルゼンチンに失点を許すまで、517分間のW杯連続無失点記録を樹立した。前大会も含めると「通算550分間無失点」でもあったが、この記録は2006年大会から2010年大会にかけてスイスが「559分」と記録を更新した。

1994年W杯アメリカ大会では、92年に監督に就任した名将アリゴ・サッキACミラン同様に代表にもゾーンプレスを取り入れようとするも、クラブとは異なり代表では練習時間に制限があり戦術が浸透せず、加えてほとんどの試合がデーゲームで、炎天下ではゾーンプレスが機能しなかった。このためイタリアはグループリーグ初戦で格下と目されていたアイルランドにまさかの敗北を喫してしまう。いきなり窮地に立たされたイタリアは、次戦のノルウェー戦になんとか競り勝つも、最終戦のメキシコ戦に引き分け、イタリアの属したグループは全チーム勝ち点4で並ぶ大混戦となった。イタリアはなんとかグループ3位に滑り込み、決勝トーナメントに進出した。しかしイタリアの苦戦はなおも続いた。決勝トーナメント1回戦ナイジェリア戦でも前半に1点を先制される苦しい展開となり、さらに途中交代したジャンフランコ・ゾラが、不可解な判定で退場。10人で1点を追いかける状況に追い込まれてしまう。だが後半終了間際の89分、絶体絶命のイタリアをロベルト・バッジョが救った。土壇場でバッジョが同点ゴールを決め、さらに延長戦でもバッジョが決勝点となるPKを決め、逆転勝利を収めた。準々決勝のスペイン戦でもバッジョは再び試合終了直前に決勝ゴールを挙げ2-1で勝利に貢献。準決勝のブルガリア戦でも2得点をあげて2-1で勝利した。グループリーグでは無得点と精彩を欠いたバッジョは決勝トーナメントの3試合で5得点の大活躍でイタリアを決勝戦に導いた。決勝の相手はロマーリオら攻撃陣を擁するブラジル。イタリアはそれまで怪我で離脱していたバレージが戦列に復帰。バレージを中心としたイタリア守備陣はブラジルの猛攻に耐え、120分間ゴールを割らせず完封。試合は0-0のままW杯史上初の決勝戦でのPK戦に突入した。イタリアはバレージマッサーロと失敗し、最後のキッカー、バッジョが失敗。イタリアはPK戦に敗れ、あと一歩のところで惜しくも優勝を逃した。

EURO 1996では、初戦でロシアに勝利するも、2戦目のチェコ戦ではスタメンを大幅に入れ替えるサッキ監督の不可解な采配もあり1-2で敗れ、最終戦のドイツ戦も0-0のスコアレスドローに終わり、まさかのグループリーグ敗退を喫した。

1998年W杯フランス大会では、バッジョからアズーリの10番を受け継ぎ、新たなエースとして期待されたデル・ピエロが不調で目立った活躍はできなかったが、ストライカーのヴィエリが5得点とゴールを量産し準々決勝に進出。準々決勝では地元フランスと対戦し、PK戦で敗れ、ベスト8の成績で大会を後にした。

2000年代[編集]

EURO 2000では、グループリーグを3戦全勝で突破。準々決勝でルーマニアを下すと、準決勝では地元オランダと対戦。試合は前半にザンブロッタが退場し、早くも10人で戦うことを余儀なくされる苦しい展開となる。しかしその後もイタリアは、オランダの猛攻に晒されながらも、お家芸のカテナチオでゴールを割らせず、オランダに与えられた2度のPKも阻止し、120分間驚異の粘りで守り抜き、スコアレスのままPK戦までもつれ込んだ。PK戦ではトッティがチップキックでゴールを決め、GKトルドが2本のPKを止める活躍を魅せ、勝利。1968年以来の決勝進出を果たした。決勝戦では98年W杯覇者のフランスと対戦。試合は後半10分にデルヴェッキオのゴールでイタリアが先制。そのまま後半ロスタイムに入りイタリアの優勝は目前と思われた矢先、フランスのヴィルトールに同点ゴールを許し、さらに延長戦でトレゼゲゴールデンゴールを決められ逆転負けし準優勝。98年W杯に続きまたしてもフランスの前に屈することとなった。

2002年W杯日韓大会ではグループリーグ初戦エクアドルに快勝するも、次戦クロアチアに逆転負け。最終戦メキシコ戦でも先制点を許し苦戦。試合終了間際にデル・ピエロが同点ゴールを決め、なんとか引き分けに持ち込み、辛くもグループリーグを突破した。しかし決勝トーナメント1回戦韓国戦では、ヴィエリのゴールで先制するも、後半43分に薛琦鉉に同点ゴールを、延長戦に安貞桓ゴールデンゴールを決められ逆転負け。失意のまま大会を後にした。

EURO 2004では、エースのトッティデンマーク戦でのクリスティアン・ポウルセンに対する唾吐き行為で3試合の出場停止処分を受け、またデンマークとスウェーデンの談合疑惑などもあり、1勝2分けという結果ながらも、グループリーグ敗退に終わった。

EURO 2004終了後に代表監督に就任した名将マルチェロ・リッピは、「カテナチオからの脱却」を掲げ攻撃的なチーム作りに着手。同年アテネ五輪で銅メダルを獲得したU-23代表からダニエレ・デ・ロッシアルベルト・ジラルディーノらを招集。またルカ・トーニファビオ・グロッソら遅咲きの選手を主力として起用した。

だが迎えた2006年W杯ドイツ大会開幕直前にカルチョ・スキャンダルが起こり、指揮官リッピやGKブッフォンも巻き込まれてしまう。この影響が大会に臨む代表チームにも及んでしまうのではないかと懸念されたが、逆にチームは結束。グループリーグ初戦のガーナ戦に快勝し、2戦目のアメリカ戦はクリスティアン・ザッカルドのオウンゴールで引き分けに終わるも、最終戦チェコ戦では負傷したネスタと途中交代で入ったマテラッツィがゴールを挙げ勝利。1位でグループリーグを通過した。決勝トーナメント1回戦では、前回大会で敗れた韓国を率いていたヒディンクが監督を務めるオーストラリアと対戦。試合は後半開始早々にマテラッツィが退場し、その後はオーストラリアに押される展開が続いたが、0-0で迎えた後半終了直前にグロッソがPKを獲得。このPKをトッティが決め土壇場で勝利した。準々決勝のウクライナ戦も3-0で快勝。準決勝では地元ドイツと対戦。一進一退の攻防が続き試合は90分間では決着が着かず延長戦に突入。延長戦でも互いに決定的なチャンスを決めることが出来ずPK戦に突入かと思われた延長後半14分にグロッソがゴールを決め、ついにイタリアが先制。さらに直後にデル・ピエロがダメ押しの追加点を挙げ、2-0の劇的勝利で決勝に進出した。フランスとの決勝戦では、試合開始早々ジダンにPKを決められるも、すぐさまマテラッツィが同点ゴールを挙げ1-1で延長戦へ。そして延長後半5分、予期せぬ出来事が起こる。この試合を最後に現役引退するジダンがマテラッツィの挑発に乗り頭突きで報復し一発退場。このジダンの衝撃的な退場劇は大会終了後に多くの議論を生んだ(ジダンの頭突き問題)。試合は延長戦でも決着が着かず史上2度目となる決勝戦でのPK戦に突入。トレゼゲが失敗したフランスに対しイタリアは全員が成功し勝利。この結果イタリアは1982年以来24年ぶり4度目の優勝を成し遂げた。

世界王者として臨んだEURO 2008では、大会開幕直前に守備の要カンナバーロが負傷し大会を欠場。またエースとして期待されたトーニが無得点の大不振に陥り、この影響で初戦オランダ戦では0-3と大敗を喫し、続くルーマニア戦を引き分け。最終戦のフランス戦に勝利し、なんとかグループリーグを突破するも準々決勝で後に大会を制することになるスペインにPK戦で敗れ、ベスト8で敗退した。大会終了後、マルチェロ・リッピが代表監督に再び就任。2010年ワールドカップ予選に臨むこととなった。

FIFAコンフェデレーションズカップ2009にもW杯王者として参加。初戦のアメリカ戦に勝利するも、続くエジプト戦でまさかの敗戦。第3戦のブラジル戦にも0-3の完敗を喫し、グループリーグ敗退で大会を後にした。この惨敗で、未だW杯優勝メンバーが主力を占めるチームの高齢化、世代交代の遅れが叫ばれ、大きな批判を浴びることとなった。

2010年代 -[編集]

2010 FIFAワールドカップ

2010年W杯南アフリカ大会では、大会直前にピルロが負傷(最終的にGL第3戦で復帰)。更に第1戦のパラグアイ戦ブッフォンも負傷し残り2試合を欠場と、攻守の要を失ったチームは精彩を欠き最終的に1敗2分でグループリーグ敗退。前回優勝国が決勝トーナメントに進めずに大会を去るという屈辱を喫した(イタリアにとっては1950年ブラジルW杯に続き2度目)。また、1勝も出来ずに敗退したのは17回出場した中で初の事であった。[2][3]

FIFAワールドカップの成績[編集]

開催国 / 年 成績
ウルグアイの旗 1930 不参加
イタリア王国の旗 1934 優勝 5 4 1 0 11 2
フランスの旗 1938 優勝 4 4 0 0 11 5
ブラジルの旗 1950 1次リーグ 2 1 0 1 4 3
スイスの旗 1954 1次リーグ 3 1 0 2 6 7
スウェーデンの旗 1958 予選敗退
チリの旗 1962 1次リーグ 3 1 1 1 3 2
イングランドの旗 1966 1次リーグ 3 1 0 2 2 2
メキシコの旗 1970 準優勝 6 3 2 1 10 8
西ドイツの旗 1974 1次リーグ 3 1 1 1 5 4
アルゼンチンの旗 1978 4位 7 4 1 2 9 6
スペインの旗 1982 優勝 7 4 3 0 12 6
メキシコの旗 1986 ベスト16 4 1 2 1 5 6
イタリアの旗 1990 3位 7 6 1 0 10 2
アメリカ合衆国の旗 1994 準優勝 7 4 2 1 8 5
フランスの旗 1998 ベスト8 5 3 2 0 8 3
日本の旗大韓民国の旗 2002 ベスト16 4 1 1 2 5 5
ドイツの旗 2006 優勝 7 5 2 0 12 2
南アフリカ共和国の旗 2010 1次リーグ 3 0 2 1 4 5
ブラジルの旗 2014
ロシアの旗 2018
カタールの旗 2022
合計 出場17回/優勝4回 80 44 21 15 126 74

UEFA欧州選手権の成績[編集]

開催国 / 年 成績
フランスの旗 1960 不参加
スペインの旗 1964 予選敗退
イタリアの旗 1968 優勝 3 1 2 0 3 1
ベルギーの旗 1972 予選敗退
ユーゴスラビアの旗 1976
イタリアの旗 1980 4位 4 1 3 0 2 1
フランスの旗 1984 予選敗退
西ドイツの旗 1988 ベスト4 4 2 1 1 4 3
スウェーデンの旗 1992 予選敗退
イングランドの旗 1996 1次リーグ 3 1 1 1 3 3
ベルギーの旗オランダの旗 2000 準優勝 6 4 1 1 9 4
ポルトガルの旗 2004 1次リーグ 3 1 2 0 3 2
オーストリアの旗スイスの旗 2008 ベスト8 4 1 2 1 3 4
ポーランドの旗ウクライナの旗 2012 準優勝 6 2 3 1 6 7
フランスの旗 2016
合計 出場7回/優勝1回 33 13 15 5 33 25

FIFAコンフェデレーションズカップの成績[編集]

(出場した大会のみ表記)

開催国 / 年 成績
南アフリカ共和国の旗 2009 グループリーグ 3 1 0 2 3 5
ブラジルの旗 2013 3位 5 2 2 1 10 10
合計 出場2回/優勝0回 8 3 2 3 13 15

選手[編集]

GK[編集]

DF[編集]

MF[編集]

FW[編集]

出場試合数ランキング[編集]

2013年10月11日時点
  水色は現役選手
# 名前 出場 得点 期間
1 ジャンルイジ・ブッフォン 137 0 1997-
2 ファビオ・カンナヴァーロ 136 2 1997-2010
3 パオロ・マルディーニ 126 7 1988-2002
4 ディノ・ゾフ 112 0 1968-1982
5 アンドレア・ピルロ 104 13 2002-
6 ジャンルカ・ザンブロッタ 98 2 1999-2010
7 ジャチント・ファッケッティ 94 3 1963-1974
8 ダニエレ・デ・ロッシ 92 15 2004-
9 アレッサンドロ・デル・ピエロ 91 27 1995-2008
10 マルコ・タルデッリ 81 6 1976-1984
フランコ・バレージ 81 1 1982-1994
ジュゼッペ・ベルゴミ 81 6 1981-1998

得点数ランキング[編集]

2012年12月6日時点
  水色は現役選手
# 名前 得点 出場 期間 得点率
1 ルイジ・リーヴァ 35 42 1965-1974 0.83
2 ジュゼッペ・メアッツァ 33 53 1930-1939 0.62
3 シルヴィオ・ピオラ 30 34 1935-1952 0.88
4 アレッサンドロ・デル・ピエロ 27 91 1995-2008 0.28
ロベルト・バッジョ 27 56 1988-2004 0.48
6 フィリッポ・インザーギ 25 57 1997-2007 0.44
アレッサンドロ・アルトベッリ 25 61 1980-1988 0.41
アドルフォ・バロンチェリ 25 47 1920-1930 0.53
9 クリスティアン・ヴィエリ 23 49 1997-2005 0.47
フランチェスコ・グラツィアーニ 23 64 1975-1983 0.36

監督[編集]

チェーザレ・マルディーニ 1997年1月22日 - 1998年7月31日
ディノ・ゾフ 1998年8月1日 - 2000年7月4日
ジョバンニ・トラパットーニ 2000年7月6日 - 2004年7月15日
マルチェロ・リッピ 2004年7月16日 - 2006年7月13日
ロベルト・ドナドーニ 2006年7月14日 - 2008年6月26日
マルチェロ・リッピ 2008年7月1日 - 2010年6月30日
チェーザレ・プランデッリ 2010年7月1日 -

U-21代表[編集]

U-21欧州選手権では、大会最多となる5度の優勝を誇る。またUEFA所属の国の中では珍しくオリンピックに力を入れていることでも知られる。

オリンピックの成績[編集]

U-21欧州選手権の成績[編集]

  • 優勝5回(1990年-1992年、1992年-1994年、1994年-1996年、1998年-2000年、2004年-2006年)
  • 準優勝1回(1984年-1986年)

出典・脚注[編集]

  1. ^ 準決勝の記憶:イタリア
  2. ^ 地に墜ちたアズーリ再建の鍵は?新監督プランデッリが背負う重責。 -NumberWeb: 2010年7月19日
  3. ^ 代表再建にかけるプランデッリ監督。EURO予選に見る新生アズーリの姿。 -NumberWeb: 2011年7月13日

外部リンク[編集]