清水エスパルス

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清水エスパルス
原語表記 清水エスパルス
愛称 エスパルス
クラブカラー     オレンジ[1]
創設年 1991年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン J2リーグ
クラブライセンス J1
ホームタウン 静岡県静岡市[1]
ホームスタジアム
Nihondaira stadium20090412.jpg
IAIスタジアム日本平[1]
収容人数 20,281[1]
運営法人 株式会社エスパルス[1]
代表者 日本の旗 左伴繁雄[1]
監督 日本の旗 小林伸二
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社エスパルス
S-PULSE CO., LTD.[2]
S-pluse clubhouse20080217.jpg
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
424-0901[1]
静岡県静岡市清水区三保2695-1[1]
設立 1995年11月
業種 サービス業
事業内容 サッカークラブの運営
代表者 左伴繁雄
資本金 5億5,500万円 (2015年1月期)[3][2]
売上高 32億4,800万円(2015年1月期)[3]
営業利益 4,700万円 (2015年1月期)[3]
経常利益 5,800万円 (2015年1月期)[3]
純利益 200万円 (2015年1月期)[3]
純資産 4億9,900万円 (2015年1月期)[3]
総資産 10億1,500万円 (2015年1月期)[3]
決算期 1月期
主要株主 鈴与静岡鉄道静岡ガス静岡新聞社小糸製作所中部電力静岡ビルサービスJ-オイルミルズ静岡朝日テレビヤマシタコーポレーション鈴与建設清水銀行清水綜合リース清水信用保証清水地域経済研究センター[2]
外部リンク http://www.s-pulse.co.jp
特記事項:1998年1月7日にサッカーコミュニケーションズ株式会社から商号変更。1998年2月1日、株式会社エスラップ・コミュニケーションズより営業権を譲受[2]
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清水エスパルス(しみずエスパルス、Shimizu S-Pulse)は、日本静岡県静岡市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

概要[編集]

1991年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市[1]。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平[1]、練習場はエスパルス三保グラウンド[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する[1]1993年のJリーグ開幕を戦った10クラブ(オリジナル10)の一つで、10クラブの中では唯一母体となるクラブが実業団ではなく、かつ日本サッカーリーグ (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ、1998年2月1日以降は株式会社エスパルス

クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)[1]、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生した[4] ピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示 す星より)[1]、パルちゃんの妹的な存在に当たる[5] こパルちゃん[1] である。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ[5]、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されてる[4]

歴史[編集]

クラブ発足の経緯[編集]

1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた[6]。選抜チームのオール清水(清水FC)は全日本少年サッカー選手権にて優勝8回を数え[7]、高校選手権では市内の学校(清水東高清水商東海大一)が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね[8]、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。

また、静岡県で行われた高校総体サッカー競技のメイン会場として、日本平運動公園球技場が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。[9]

Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか[10]、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県リーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された。[11]

1990年代[編集]

1991年[編集]

5月、清水FCの運営企業として、テレビ静岡をはじめとして中日新聞東海本社フジテレビジョンなどが出資、市民からも1割の持株を募り、株式会社エスラップ・コミュニケーションズを設立。チーム名を清水FCエスパルスと定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、堀池巧大榎克己長谷川健太清水東三羽烏をはじめ、初代主将となる三浦泰年澤登正朗など地元出身の選手が加入した。[12]

1992年[編集]

6月、エスピノーザに代わりエメルソン・レオンが監督に就任。7月4日には長居陸上競技場にてガンバ大阪とのプレシーズンマッチが開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている[13]1992Jリーグヤマザキナビスコカップでは準優勝を果たしている。

1993年[編集]

5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の三ツ沢球技場で開催された横浜フリューゲルスとの試合が開幕戦となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージ第2節からGKシジマールが加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、1993Jリーグヤマザキナビスコカップの準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。

1994年[編集]

1stステージは第5節から9連勝を達成、一時首位を走ったものの、国立での鹿島戦を境に失速、2位に終わった。FIFAワールドカップアメリカ大会にロナウド選手がブラジル代表として出場。クラブ所属選手では初のW杯出場となった。1stステージ終了後、エメルソン・レオンに代わり監督にロベルト・リベリーノが就任したものの、2ndステージは6位で終了。

1995年[編集]

宮本征勝が監督に就任。チーム初の日本人監督となった。1stステージはリーグワーストの63失点を喫し14チーム中12位に終わる。2ndステージから、イタリア代表FWダニエレ・マッサーロが加入。また鹿島からサントスおよび森岡隆三が加入、中盤まで優勝争いを演じた。また、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会でジュニアユースチームが初優勝を果たし、クラブ初のタイトルを獲得した。

1996年[編集]

監督にオズワルド・アルディレス、ヘッドコーチにスティーブ・ペリマンが就任。9月25日、1996JリーグヤマザキナビスコカップにてPK戦の末に優勝。トップチームが悲願の初タイトルを獲得した。また、この年開催されたアトランタ五輪では伊東輝悦白井博幸松原良香がメンバー入り、伊東はブラジル戦で決勝のゴールを決めている。

1997年[編集]

アルディレス体制2年目。固定背番号制が導入され、前年のレギュラーが一番つけていた背番号を優先的に与えた結果、森岡隆三の背番号がDFとしては珍しい11番をつけることとなった。1stステージは7位、2ndステージは6位となった。この年Jユースカップ初優勝、日本クラムユースサッカー選手権(U-15)大会3連覇など、下部組織の活躍が目立った。

11月、運営会社であるエスラップ・コミュニケーションズの経営危機が表面化。20億円を超える負債を抱え、実質的な親会社のテレビ静岡が運営からの撤退を表明した。31万人を超える署名と1500万円の募金を集め、地元清水に本拠を置く物流大手鈴与の子会社で出版業を手掛けていた「サッカーコミュニケーションズ株式会社」(1995年11月設立)が第三者割当増資を行い、これに静岡鉄道静岡ガス静岡新聞社小糸製作所が応じて株式会社エスパルスに改組、同社が営業権を譲り受けることになった[14]

1998年[編集]

チームスローガン:Break Through

2月1日より新会社による運営がスタート。1998年W杯フランス大会の登録メンバーに、伊東輝悦、斉藤俊秀の2選手が選出される。チームは1stステージは13勝4敗で得失点差で2位。7月25日から8月22日にかけては6連勝1失点の成績を収め、8月のAFC月間最優秀チームに選ばれている。2ndステージ終了後、アルディレス監督は退任し、ペリマン監督体制となる。天皇杯は初の決勝進出を決めている。なお、ユースチームからGK野澤洋輔がトップチームに上がり、昇格第1号選手となった。

1999年[編集]

チームスローガン:dream stadium 1999

1月1日、天皇杯決勝は横浜フリューゲルスに敗れ準優勝。横浜フリューゲルス横浜マリノスのチーム合併に伴い、この年のゼロックススーパーカップアジアカップウィナーズカップ1999-2000の出場権を得ることとなった。また横浜マリノスから安永聡太郎、横浜フリューゲルスから久保山由清ベルマーレ平塚から田坂和昭が加入し戦力を補強。 リーグ戦では1stステージは勝ち点4差で3位。2ndステージは中盤で8連勝しトップの座を譲らず、11月23日、横浜国際総合競技場に開催された横浜F・マリノス戦に勝利し、念願のステージ優勝を決めた。アレックスがMVP、ベストイレブンに6選手、ペリマンも最優秀監督賞に選ばれている。

2000年代[編集]

2000年[編集]

チームスローガン:big mission 2000

AFC主催大会への初めての参加となったアジアカップウィナーズカップ1999-2000では準々決勝で安養LGチタスを破り決勝トーナメントへ進出。チェンマイでの準決勝ではバンコクバンクをPK戦の末に制すると、決勝のアル・ザウラー戦では池田昇平のゴールにより1-0で勝利。初めてアジアのタイトルを獲得した。アジアスーパーカップアジアクラブ選手権1999-2000優勝のアル・ヒラルとの間でのホーム&アウェイで行われ、1分け1敗でアジアチャンピオンには一歩届かなかった。J1リーグ戦は1stステージ3位、2ndステージは13位で終えた。J1リーグ戦終了後、ペリマンに代わりユース総監督だったゼムノヴィッチがトップチームの監督に昇格。ゼムノヴィッチ体制となって初めての大会となった天皇杯は2大会ぶりに決勝進出を果たした。

2001年[編集]

チームスローガン:Dynamic Soccer 2001

天皇杯決勝は鹿島に敗れたものの、ゼロックススーパーカップでは鹿島に3-0で勝利。前年度優勝チームとして出場したアジアカップウィナーズカップ2000-01は準々決勝でBECテロ・サーサナを制し準決勝に進出したが、大連實徳に敗れ3位に終わった。2002年のFIFAワールドカップ開催に伴い、国際試合対応の大規模なスタジアムが全国に建設される中、5月12日には静岡県内でのワールドカップ会場となるエコパスタジアムのこけら落としが行われ、延長の末に平松康平選手のゴールで勝利を飾った。J1リーグ戦は1stステージ、2ndステージともに4位。天皇杯は前年度に続いて決勝進出を果たしている。

2002年[編集]

チームスローガン:Orange Fantasia 2002

1月1日、3度目の決勝進出となった天皇杯決勝にてセレッソ大阪を延長で破り優勝。2月にはゼロックススーパーカップを連覇した。6月のFIFAワールドカップには森岡隆三、三都主アレサンドロ、戸田和幸市川大祐の4選手が出場している。アジアクラブ選手権に出場する鹿島に代わり、第80回天皇杯準優勝チームとしてアジアカップウィナーズカップ2001-02に3大会連続で出場、全北現代との準々決勝でアウェイゴールの差で準決勝進出を逃した。また、この年からアジアクラブ選手権とアジアカップウィナーズカップが統合されて初めての開催となったAFCチャンピオンズリーグ2002-2003に第81回天皇杯優勝チームとして出場。予選ラウンドからの出場となり、ニュー・ラディアントサウスチャイナに勝利し、グループステージ(準々決勝に相当)進出を決めている。J1リーグ戦では1stステージ7位、2ndステージ12位と振るわず、ゼムノヴィッチ監督が退任した。

2003年[編集]

チームスローガン:EXCITING FIELD 2003

大木武新体制でスタート。Jリーグ開幕に先立って大連で開催されたAFCチャンピオンズリーグ2002-2003のグループステージ(準々決勝に相当)は、大連實徳城南一和オーソットサパーとひとつの椅子を争うも勝ち残ることはできなかった。ヤマザキナビスコカップはベスト4まで進出。J1リーグ戦は年間11位に終わった。11月29日、大木に代わり行徳浩二が監督に就任。天皇杯は準決勝まで勝ち進んだものの、決勝へ駒を進めることはできなかった。

2004年[編集]

チームスローガン:HARD & ATTACK 2004

アントニーニョ監督体制でスタート。手腕が期待されたが、家族の看病などを理由に、1stステージ最終戦となった市原臨海競技場での市原戦後に辞意を表明、石崎信弘ヘッドコーチが監督昇格となった[15]アラウージョチョジェジンが攻撃面で奮起するものの、リーグワースト5位の53失点を喫し、J1リーグ戦は年間14位となった。この年開催されたアテネ五輪には黒河貴矢がメンバー入りを果たした。またこの年、長年ゴールマウスを守ってきた真田雅則が現役引退している。

2005年[編集]

チームスローガン:2005 かける想い

長谷川健太が初めて監督に就任。初年度となった2005年シーズンは15位で残留を決めるなど低迷が続いた。その間にスカウトの充実、ユース選手だけでなく外部からの選手の補強を図った。2005年度にデビューした枝村匠馬兵働昭弘青山直晃ら若手選手が主力として定着、同年の天皇杯で準優勝の成績を収める。

2006年[編集]

チームスローガン:かける想い S-PULSE 2006

長谷川体制2年目。2006年は新人の藤本淳吾が主力として定着、青山直晃が日本代表に選出されるなど前年以上に若手選手が台頭。日本A代表経験者の市川、森岡隆三伊東輝悦斉藤俊秀らも復調して開幕から上位につけ、4位でシーズンを終えた。この年、藤本が新人王を獲得。

2007年[編集]

チームスローガン:かける想い S-PULSE 2007

長谷川体制3年目。中断明け以降の20節から25節まで6連勝をマークしたが、その後のアウエイで連敗し優勝争いから後退。年間4位となった。この年、同一クラブ所属としてJリーグ初となるJ1通算400試合を達成している。

2008年[編集]

チームスローガン:WE BELIEVE 2008
2008年ナビスコカップ決勝時のコレオグラフィー

長谷川体制4年目。リーグ戦は序盤の3連敗が響き、一時は降格圏の順位となったものの、若手の成長もあって終盤追い上げ、年間順位は5位となった。ヤマザキナビスコカップは決勝に進出。大分トリニータと対戦したが0-2で敗れている。

2009年[編集]

チームスローガン:WE BELIEVE 2009

長谷川体制5年目。横浜FCから太田宏介を、浦和から永井雄一郎を、名古屋からフローデ・ヨンセンを獲得し大型補強に成功。札幌期限付き移籍していた平岡康裕も復帰。その一方で、森岡隆三高木和道矢島卓郎西澤明訓などが移籍。

開幕戦の大宮戦、スコアレスドローに終わり、リーグ開幕戦で初めて無得点に抑えられた。夏場までは引き分けが多い(28節までに11引き分け)ものの、負けないサッカーを展開。特にホームでは負けることがなく、前年から続くリーグ戦ホーム無敗記録を20まで伸ばした(ただし、その間にナビスコカップのホームゲームで山形に敗れている)。9月29日長谷川健太の監督続投決定。10月3日第28節広島戦で1対1で引き分けるも得失点差で鹿島を上回り首位に立ったが、第29節の負ければJ2降格となる大分にシーズン初の逆転負けをしたのを皮切りに、第30節にはFC東京戦ではシーズン初のリーグ戦ホームでの1-2での黒星になるなど、優勝はおろかACL出場権も得れず最終順位は7位。天皇杯は準決勝で名古屋に敗れた。

2010年代[編集]

2010年[編集]

2010年度天皇杯決勝時のコレオグラフィー
チームスローガン:THE CONFIDENCE

長谷川体制6年目。新戦力として千葉からボスナーを、VfLボーフムから小野伸二を獲得。に期限付き移籍していた杉山浩太東京Vに期限付き移籍していた廣井友信が復帰、ユースチームから鍋田亜人夢が加入。第9節の浦和戦で、鹿島、磐田に続き3チーム目のJ1通算300勝を達成。最終順位は6位、シーズン終了後長谷川監督退任。天皇杯で準優勝。

2011年[編集]

チームスローガン:Spirit Up!

長谷川健太の後任監督にはイラン代表監督(当時)のアフシン・ゴトビが就任。東京Vから高木俊幸、湘南から村松大輔、韓国Kリーグ水原から元日本代表高原直泰ギリシャ・スーパーリーグイラクリスから元日本代表小林大悟滝川第二高校から樋口寛規AリーグシドニーFCからオーストラリア代表アレックス・ブロスケをそれぞれ完全移籍で獲得した。

その一方で、伊東輝悦市川大祐甲府青山直晃横浜FM西部洋平湘南へ、フローデ・ヨンセンオッド・グレンランドへ、それぞれ契約満了後に移籍した。主力であった藤本淳吾が名古屋へ、本田拓也が鹿島へ、岡崎慎司VfBシュトゥットガルトへ、兵働昭弘へ移籍。スーパーサブであった原一樹が浦和へ移籍、前年のチームは大刷新された。クラブ生え抜きの伊東・市川、前シーズンリーグ戦32試合に出場した西部を含む主力の相次ぐ放出劇は2010年度の赤字転落に伴う人件費圧縮の必要性が背景にあったものだが、このことが結果的にフロントと選手の間に不信感を生じさせ、後年の主力の相次ぐ退団劇や低迷の要因の一つとなったと伝えられている[16][17]

開幕戦の戦で0-3で大敗したが、小野、高原などの活躍もあり、その後は6勝4分け1敗と好調を維持し上位を伺う位置につけたが、第6節C大阪、第19節広島、第20節新潟と夏場のアウェー3連戦全てを0-4で大敗し3連敗。8月に北京五輪オランダ代表のDFカルフィン・ヨン・ア・ピンと元スウェーデン代表フレドリック・ユングベリを獲得。終盤J2降格の決まっていた福岡に2点リードの状態から追いつかれて引き分けると、その後3連敗、守備に課題を残し、10位でシーズンを終了。

9月、GKコーチの真田雅則が死去。

開幕直後に発生した東日本大震災によるリーグ戦の中断期間中にはJリーグクラブで唯一海外での被災者支援のチャリティーマッチを行い、アヤックス・アムステルダムと対戦。この試合の入場料などの収益と約2週間の募金活動で合計約600万ユーロ(約7億2600万円)をオランダ赤十字を通して義援金として寄付[18]

2012年[編集]

クラブ創設20周年のコレオグラフィー。第17節 川崎戦にて
チームスローガン:「一」 One Team, One Mission.

ゴトビ体制2年目。

補強は、大分から姜成浩、甲府から吉田豊、ROCシャルルロワ=マルシェンヌ(ベルギー)から林彰洋、FCチョルノモレツ・オデッサ(ウクライナ)からジミー・フランサが完全移籍で加入、犬飼智也河井陽介八反田康平柏瀬暁白崎凌兵李記帝が加入。ユース登録の石毛秀樹が2種登録。一方で太田宏介がFC東京、ボスナー水原三星ブルーウィングスへそれぞれ完全移籍、永井雄一郎が横浜FC、木島悠大分山本真希が札幌、児玉新がC大阪、岡根直哉山形竹内涼北九州へ期限付き移籍、熊本へ期限付き移籍していた長沢駿京都、新潟へ期限付き移籍していた武田洋平G大阪へ期限付き移籍、熊本に期限付き移籍の廣井友信の期限付き移籍期間が延長。

1月、2012アジアスーパーチャレンジカップに出場して準優勝。3月15日、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)による21世紀のアジアクラブ・ランクで21位となった。Jクラブの中では、G大阪、鹿島、浦和に次いで4位。

リーグ戦、第10節終了時点2位、第11節セレッソ大阪戦から第19節横浜F戦まで9戦勝利なし(4分5敗)と失速する。シーズン途中に小野伸二ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCアレックスアル・アインFC辻尾真二が広島、岩下敬輔がG大阪、枝村匠馬がC大阪、橘章斗松本へ移籍、ジミー・フランサ東京Vへ期限付き移籍した一方、三吉聖王金賢聖、強化指定選手として筑波大学瀬沼優司が加入。なお、第30節終了時点で4位につけていたが、その後、1分け3敗と4戦未勝利となり最終順位は9位。

ヤマザキナビスコカップは決勝で鹿島に1-2で敗れて準優勝。石毛秀樹がニューヒーロー賞選出。

2013年[編集]

チームスローガン:One team, One mission. FORWARD!

ゴトビ体制3年目。愛媛FCから内田健太、札幌から髙原寿康高木純平カタール1部アル・アラビからバレーを完全移籍で獲得。イ・ミンス湘南)、樋口寛規(FC岐阜)、橘章斗(松本山雅)、岡根直哉(山形)、竹内涼北九州)、廣井友信(熊本)が期限付き移籍先から復帰、三浦弦太六平光成藤田息吹加賀美翔が新加入。

大前元紀ドイツ・ブンデスリーガフォルトゥナ・デュッセルドルフへ、高原直泰が東京V、山本海人神戸碓井健平千葉小林大悟MLSバンクーバー・ホワイトキャップスへ移籍。広島へ期限付き移籍していた辻尾真二が大分、G大阪へ期限付き移籍していた武田洋平がC大阪、岩下敬輔が期限付き移籍先のG大阪へ完全移籍、姜成浩が京都へ期限付き移籍、三吉聖王、東京Vへ期限付き移籍していたジミー・フランサ金賢聖が退団、京都へ期限付き移籍していた長沢駿が松本へ期限付き移籍、C大阪へ期限付き移籍している枝村匠馬の期限付き移籍期間が延長。

シーズン中、バレーが中国スーパーリーグ天津泰達足球倶楽部へ完全移籍、林彰洋鳥栖へ、犬飼智也が松本、柴原誠、樋口寛規が岐阜、白崎凌兵富山柏瀬暁NASLニューヨーク・コスモスへ夫々期限付き移籍した一方、を退団した三浦雄也、C大阪を退団した村田和哉、鹿島から本田拓也を完全移籍で、Kリーグ水原三星からラドンチッチ、デュッセルドルフへ移籍していた大前元紀を期限付き移籍で獲得。

第1節大宮戦は2-2で引き分け、ゴトビ体制初の開幕戦での得点と勝ち点を得る。しかしその後、横浜FM戦では5-0、広島戦では4-0と大敗する。4月は初勝利となった第5節鳥栖戦を含め無敗で乗り切るものの、5月はリーグ戦2勝3敗、カップ戦2敗と苦戦。

7月、リーグ戦再開後復調。鹿島甲府名古屋、鳥栖戦と、ホームでは4試合連続逆転勝利。

最終的にはリーグ戦は9位、ヤマザキナビスコカップはグループリーグ敗退、天皇杯は4回戦敗退。

2014年[編集]

チームスローガン:One team, One mission. RISING!

ゴトビ体制4年目。FCユトレヒトから高木善朗、町田から相澤貴志MLSD.C. ユナイテッドからカナダ代表ヤコヴィッチ1.FCケルンからスロベニア代表ノヴァコヴィッチを完全移籍で獲得。長沢駿樋口寛規柏瀬暁が期限付き移籍から復帰。

一方で、橘章斗が退団、髙原寿康町田へ、伊藤翔が横浜FMへ、柴原誠福島へ完全移籍、内田健太が富山へ、瀬沼優司岡根直哉イ・ミンス栃木SCへ、八反田康平仙台へ、姜成浩が東京Vへ期限付き移籍(途中で期限付き移籍先が金沢へ変更)、林彰洋が期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍、犬飼智也白崎凌兵の期限付き移籍期間が延長、C大阪へ期限付き移籍していた枝村匠馬は名古屋へ期限付き移籍、ラドンチッチが期限付き移籍期間満了で大宮へ移籍。

シーズン途中、村松大輔徳島、樋口寛規が湘南鍋田亜人夢福岡へ期限付き移籍したが、ブエノが新加入、栃木SCへ期限付き移籍していた瀬沼優司が復帰。

シーズン序盤から中位から下位を低迷。7月23日のG大阪戦に敗れリーグ戦7戦勝ちなしとなった試合後の緊急ミーティングで、ゴトビ監督が選手に対して「君たちは私を辞めさせるために、わざと無気力な試合をしているのか」と発言したことで、それまで選手起用を巡ってくすぶっていた指揮官と選手の間の亀裂が決定的なものとなり[19][20]、7月29日付けでアフシン・ゴトビを解任[21]。後任には清水生え抜きでユース監督の大榎克己が就任した。8月9日にホーム通算200勝を達成。大榎の就任後の後半戦はわずか4勝で17位まで順位を落とすが、最終節に甲府に引き分けてJ1残留を確定させた。最終成績10勝6分18敗の勝ち点36、順位は15位。

ナビスコ杯グループリーグ敗退、天皇杯ベスト4。

2015年[編集]

チームスローガン:Heat Attack Express Beyond the Limit!

大榎体制2年目。GK杉山力裕が川崎から、GK碓井健平が千葉から、DF鎌田翔雅湘南から、FW澤田崇熊本からいずれも完全移籍(碓井は3年ぶりの復帰)。期限付き移籍していたDF内田健太富山から、DF村松大輔徳島から、DF犬飼智也松本から、MF枝村匠馬神戸から、MF八反田康平仙台から、MF白崎凌兵が富山から、それぞれ復帰。DF水谷拓磨、MF宮本航汰、FW北川航也が清水ユースから昇格、DF松原后浜松開成館高校から新加入。一方、GK相澤貴志が徳島へ、GK三浦雄也長崎へ、DF廣井友信金沢、DF吉田豊鳥栖へ、DFイ・キジェニューカッスル・ジェッツへ、FW高木俊幸浦和、FWノヴァコヴィッチ名古屋へいずれも完全移籍。MF藤田息吹とFW瀬沼優司愛媛へ、DFブエノは神戸へレンタル移籍、柏瀬暁が契約満了で退団した。

2004年以来11年ぶりの2ステージ制となった本年では、1stステージ3勝4分10敗の勝ち点13の最下位とクラブ史上最低の成績となり、2ndステージ第5戦目後に成績不振を理由に大榎克己が監督を辞任[22]。後任に大分監督退任後にヘッドコーチに就任していた田坂和昭が就任。8月に鄭大世が完全移籍で、角田誠が期限付き移籍で加入したが、10月17日のセカンドステージ第14節仙台戦に敗れ、15位新潟がその日の夜の試合に勝利したことから年間順位16位以下が確定、クラブ史上初のJ2降格が決定した。なお、2ndステージ第13節から、シーズン4度目の年間通算最下位となっていたが、同16節で、同じくJ2降格が決定していた山形に勝利、2ndステージ2勝目を挙げると同時に年間通算勝点で山形に並び、最終節甲府戦で引き分け、同節で山形が敗れたことにより、年間最終順位で山形を抜き17位に終わった。シーズン終了をもって田坂が監督を辞任[23][24]

2016年[編集]

チームスローガン:RESTART NO GUTS, NO WIN.

徳島小林伸二が監督に就任。J2降格に伴い、2020年までの5か年強化計画を設定。目標として、1年目をプレーオフ進出でJ1復帰することに加え、主力多くの残留、出場機会減少の選手を期限付き移籍させて、選手の背番号を多く変更すること、選手育成などを目標に挙げた。

カルフィン・ヨン・ア・ピン山形にレンタル移籍していた高木純平が退団。ピーター・ウタカ広島へ、櫛引政敏鹿島へ、平岡康裕仙台へ、村松大輔神戸へ、宮本航汰長崎へ期限付き移籍したほか、ブエノ鹿島へ完全移籍。藤田息吹内田健太が期限付き移籍先の愛媛へ、相模原へ期限付き移籍していた樋口寛規福島へ完全移籍。瀬沼優司高木善朗の期限付き移籍期間が延長した。一方、期限付き移籍していた角田誠福村貴幸が完全移籍、川崎から6年ぶりに西部洋平が復帰、新潟から川口尚紀、広島からビョン・ジュンボンを期限付き移籍で獲得し、さらには光崎伸が入団した。

成績[編集]

タイトル[編集]

国際タイトル[編集]

国内タイトル[編集]

個人別[編集]

Jリーグ
ヤマザキナビスコカップ
アジアカップウィナーズカップ
  • 最優秀選手 (MVP)
    • 2000 アレックス

その他受賞[編集]

  • フェアプレー特別賞
    • 1998
  • フェアプレー賞 高円宮杯
    • 2008
  • 最優秀育成クラブ賞
    • 2015

クラブ記録[編集]

連勝記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 9試合 【1993年7月31日 NICOS第2節 対広島 - 1993年11月6日 NICOS第10節 対広島】
    • 9試合 【1994年3月26日 サントリー第5節 対V川崎 - 1994年4月30日 サントリー第13節 対平塚】

連敗記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 7試合 【1996年5月4日 第12節 対浦和 - 1996年9月7日 第18節 対V川崎】

連続無敗記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 13試合 【2009年7月4日 第16節 対京都 - 2009年10月3日 第28節 対広島】
  • J1リーグ戦ホーム
    • 22試合 【2008年7月20日 第18節 対新潟 - 2009年10月3日 第28節 対広島】

連続未勝利記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 9試合 【2012年5月12日 第11節 対C大阪 - 2012年7月28日 第19節 対横浜FM】

最多得点記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 6-0 【1998年9月12日 2nd第4節 対福岡】
    • 6-3 【2001年10月13日 2nd第8節 対神戸】
    • 6-3 【2010年8月1日 第16節 対湘南】
    • 6-4 【2013年10月19日 第29節 対鳥栖】

最多失点記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 1-6 【1995年6月24日 サントリー第19節 対横浜F】

連続得点記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 21試合 【2009年5月5日 第10節 対千葉 - 2009年10月25日 第30節 対FC東京】

連続失点記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 16試合 【2005年7月13日 第16節 対FC東京 - 2005年11月20日 第31節 対柏】

連続無失点記録[編集]

  • J1リーグ戦
    • 6試合 【1993年8月4日 NICOS第3節 対横浜M - 1993年8月28日 NICOS第8節 対V川崎】

個人記録[編集]

リーグ戦通算出場記録[編集]

※2016年1月16日現在。他チームでの出場も含む。
※現在清水に所属中、もしくは、引退時に清水に所属していた選手のみ記載。

リーグ戦シーズン最多得点[編集]

リーグ戦通算最多得点[編集]

  • 85得点 - 澤登正朗

リーグ戦無失点記録[編集]

リーグ戦記念ゴール[編集]

  • 7,500得点目 - 久保山由清 【2001年11月3日 2nd第12節 対市原】
  • 15,000得点目 - 辻尾真二 【2011年5月22日 第12節 対大宮】

ハットトリック[編集]

国際大会出場選手[編集]

FIFAワールドカップ[編集]

オリンピック代表[編集]

オリンピック日本代表

年代別代表[編集]

U-20W杯日本代表
U-17W杯日本代表

エスパルス栄誉賞[編集]

クラブ在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対し「エスパルス栄誉賞」を授与、その功績を称える。 原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。

  • 1999年 スティーブ・ペリマン、長谷川健太、堀池巧
  • 2000年 カルロス・サントス
  • 2002年 大榎克己
  • 2005年 真田雅則
  • 2006年 澤登正朗
  • 2010年 伊東輝悦、市川大祐
  • 2014年 齊藤俊秀

スタジアム・練習場[編集]

ホームスタジアム[編集]

ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平(旧名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)[1]。1994年に客席増設工事を実施した期間を除き、ほぼ全ての試合を開催している。2001年に開場された静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)でも一部の試合を開催している。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照。

練習場[編集]

練習場はエスパルス三保グラウンド[1]、三保移転前は蛇塚グラウンドを使用[25]。過去には静岡市清水総合運動場も使用していた。

新スタジアム構想[編集]

IAIスタジアム日本平は2013年から発効している「Jリーグクラブライセンス制度」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない[26]

スタジアム規定では「A等級基準」である収容人員15000人以上(J1基準)は満たしているものの、「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」や「トイレ(洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。[注 1] 現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。

エスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿った新スタジアムの建設を、2014年7月、同市長田辺信宏に対し要望書を提出。このスタジアム計画については2015年度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指している[27]

有力な候補地として、葵区にあるJR東海東静岡駅北の約2.5haの市所有地が挙げられている。当初この箇所は1990年に「東静岡地区新都市拠点整備事業構想」で、体育館の建設が予定されていた他、新市庁舎の建設計画も予定されていた。しかしいずれも計画がとん挫しており、現状も空き地になっている。そこで静岡市は2013年にこの私有地の活用を市民や専門家から意見を聞くための都市デザイン案のコンペティションを実施し、その意見には、スポーツ施設や文化施設(総合博物館)などの誘致を期待する声が寄せられていた。

周辺の病院や高層マンションなどの騒音対策や、防災機能を兼ね備えた公園整備などの選択肢も考えられていること、更に東静岡駅の南側に、静岡県草薙総合運動場陸上競技場同球技場もあることから、なお難航が懸念されており[28]、実際、田辺は2014年9月の静岡市第3次総合計画の骨子案を発表した時も、この8年間で予定している計画案に何を建設するかを盛り込まず、事実上結論を出すことを凍結した影響から、静岡県知事・川勝平太はサッカー場を建設すべきであるとする私見を述べている[29]

下部組織[編集]

清水エスパルスユース[編集]

高円宮杯U-18リーグ Jリーグユース選手権大会 クラブユース選手権
1993 - 予選敗退 -
1994 - 予選敗退 -
1995 - 予選敗退 -
1996 - ベスト8 ベスト8
1997 - 優勝 グループリーグ敗退
1998 - 3位 グループリーグ敗退
1999 3位 ベスト8 3位
2000 - 準優勝 グループリーグ敗退
2001 ベスト8 1回戦敗退 5位
2002 1回戦敗退 ベスト8 優勝
2003 ベスト8 3位 3位
2004 1ラウンド敗退 1回戦敗退 -
2005 6位 予選リーグ敗退 グループリーグ敗退
2006 4位(東海) 予選リーグ敗退 グループリーグ敗退
2007 - 予選リーグ敗退 -
2008 準優勝(東海) 決勝T1回戦 グループリーグ敗退
2009 6位(東海) 予選敗退 グループリーグ敗退
2010 ベスト8位 決勝T2回戦 グループリーグ敗退
2011 3位(イースト) 3位 -
2012 5位(イースト) 決勝T1回戦敗退 -
2013 2位(イースト) 決勝T2回戦敗退 3位

清水エスパルスジュニアユース[編集]

高円宮杯U-15リーグ クラブユース選手権 JFAプレミアカップ
1995 3位 優勝
1996 - 優勝
1997 ベスト8 優勝
1998 優勝 準優勝
1999 優勝 準優勝 3位
2000 優勝 ベスト16
2001 - ベスト16
2002 - ベスト16
2003 3位 3位
2004 - -
2005 1ラウンド敗退 予選リーグ敗退
2006 ベスト8 準優勝
2007 3位 ベスト8
2008 1ラウンド敗退 グループリーグ敗退
2009 1ラウンド敗退 グループリーグ敗退
2010 ベスト8位 優勝
2011 ベスト8位 優勝 3位
2012 ベスト16位 3位
2013 1回戦敗退 ベスト8

ユニフォーム[編集]

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) オレンジ[1] オレンジ[1] オレンジ[1]
FP(2nd) 白/青[1] [1] [1]
GK(1st)
GK(2nd) ピンク ピンク
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー[編集]

  •     オレンジ
    • チームカラーのオレンジは、静岡県の名産であるミカンの色であることに加え、喜び・希望・若さ・前進・元気などをイメージさせることい由来[2]
    • 当初清水市(現:静岡市)が港を中心として発展してきた街であること、市内のサッカー強豪高校が青系統のユニフォームを使用していることなど、市民には青が馴染みのある色であったため青系が検討された。しかし、Jリーグ創設時の10クラブに青系統のクラブが既に多数(横浜マリノス、横浜フリューゲルス、ガンバ大阪)あったことから差別化を図ることや各クラブ間の色のバランスをとるために別の色を検討した結果、静岡県を表すオレンジがメインとなった。なお、2013年の2ndユニフォームにクラブとして初めて青を採用している。
    • Jリーグ開幕以降、新潟および大宮が1999年にディビジョン2に加入するまで、Jリーグでオレンジをメインとするチームは無かった。

ユニフォームデザイン[編集]

  • 1992年チーム発足時、既存のユニフォームとの差別化を図り安部兼章氏にデザインを依頼。「世界へはばたくクラブ」の思いから、世界地図を取り入れたユニフォームを採用した。
  • 世界地図をモチーフとしたデザインは2006年まで継続された。2007年のプーマの世界戦略モデルユニフォーム導入にともない一旦消滅したが、2012年シーズンに復活した[30]。2014年シーズンは背面にプリント。
  • タイトル獲得クラブだが、タイトル獲得を表す星をユニフォームに入れていない[注 2]

スポンサー[編集]

ユニフォームスポンサー[編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
鈴与 Suzuyo 2006年 - 2003年途中 - 2004年は袖
背中上部 アイエイアイ IAI 2016年 -
背中下部 なし
日本航空 JAL 2006年 - 2010年
2013年 -
1992年 - 2005年は胸
2011年 - 2012年はパンツ
パンツ なし

ユニフォームサプライの遍歴[編集]

  • 1992年 - 1996年:リーグ戦はミズノ、カップ戦はプーマ
  • 1997年 - 現在:プーマ

歴代ユニフォームスポンサー年表[編集]

年度 背中上部 背中下部 パンツ サプライヤー
1992 JAL glico 解禁前 HONEN PUMA
1993 Mizuno /
PUMA
1994
1995
1996
1997 PUMA
1998
1999
2000
2001
2002 豊年
2003 豊年 /
Suzuyo
2004 Suzuyo
2005 star☆ THE 3RD
PLANET
2006 Suzuyo JAL
2007 CRS
2008 SAN-AI
2009
2010
2011 アウト
ソーシング!
JAL
2012
2013 JAL -
2014 YAZAKI
2015 - /
星光社印刷
2016 IAI - -

JALによる広告掲出[編集]

日本航空(JAL)によるユニフォームの胸部分への広告掲出(ゼッケンスポンサー)は他のクラブの先駆けとなるものであったが次のような逸話がある。

Jリーグ初年度参加の10クラブが発表された頃、日本航空宣伝部にいた欧州サッカー通の社員が次のようなことを考えた。

「欧州サッカーでは80年代からゼッケンスポンサーが始まった。日本で始まるプロサッカーの中に清水FCというクラブがある。他の9クラブは企業クラブだから胸に親企業の社名・商品名を入れるだろう。清水はどうするのか。ひょっとしたら空いているのかもしれない。空いているんだったら買いに行けば面白いんじゃないか…」

1991年月5月、清水FC代表に了解を取り付け、クラブ側営業担当と面会した。クラブ側営業担当は当初は「売りもしないのに勝手に日本航空が買いに来た」と面食らったが、「こういう商売もあったのか」と興味を持ち、水面下で話は進んでいった。

しかし1991年9月19日、日刊スポーツ紙に「JAL 清水エスパルスを援助」と大見出しですっぱ抜かれてしまう。 直属の上司からは「どこから漏れたのかはわからないが、漏れるような話じゃダメだな。あきらめろ」 と撤退を勧告された。またこのスクープによって「ゼッケンスポンサー」という広告の魅力に気付いた大企業は各クラブとの交渉を開始。

「日本初のゼッケンスポンサー」を考えた日航の宣伝部員は「このままではアイディアを他企業に横取りされてしまう」とノイローゼになり、退社をも考えたが、清水側の営業担当の笑顔に励まされた。 実は日刊スポーツ紙のスクープ以来、清水エスパルスには日本航空以外の企業からの売り込みがあった。しかし清水側は最初にゼッケンスポンサーの話を持ちかけた日本航空とその担当者に敬意を表し、他企業からのゼッケンスポンサーの申し出を断り続けていた。

1992年2月、日航の宣伝部員は再度上司にB4判5枚にも上る企画書を提出。 企画書には協賛主旨として企業利益の社会還元、継続的な露出などの他に「ライバル企業である全日空対策(初年度参加チームのAS横浜フリューゲルスの親会社)としてJリーグにおける全日空のイメージ独占を阻止できる」「JAL対ANAとして注目を集める中、清水FCは全日空FCに勝てる可能性は非常に高いクラブ」「プロクラブ所有と比較して十分の一以下の費用」、更には移籍可能性のある選手としてスーパースター三浦知良(カズ)や北澤豪の名前を勝手に盛り込んだ。

数々の障害をはねのけ、1992年5月16日、清水エスパルスは日本航空とのスポンサー契約を結んだ。 日本航空の機内ではエスパルスの勇姿がビデオに映し出され、機内誌には毎号選手紹介の特集ページが組まれ、空港には「頑張れ!エスパルス」のポスターが貼られ、各都市の繁華街にある「JALプラザ」ではJAL・エスパルスグッズが販売されるようになった[31]

2010年1月19日にJALが会社更生法を申請し、スポンサーを継続することが困難となったが、チーム創設以来継続してスポンサードが行われてきた事に敬意を表し、それ以降はクラブ側がJALに対し無償で広告スペースを提供。

出資会社[編集]

サポーター[編集]

応援スタイル[編集]

サポーターによる応援では多くの楽器を用いてサンバを踊るなど、応援に関してはJリーグクラブの中でもかなり特徴的な応援である。静岡県は在日ブラジル人の比率が高く[注 3]、さらにサッカー少年団の遠征などでブラジルとの交流が深かったため、ブラジルの文化であるサンバが受け入れられやすい環境にあった上、清水エスパルスの発足当時は監督・コーチ・外国人選手もブラジル人が多かった[注 4]事もあり、エスパルスではサンバ応援が定着しその後も継承された。Jリーグの発足直後はヴェルディ川崎横浜フリューゲルスでもサンバ隊による応援が行われていたが、横浜Fのサポーター有志が中心となって作られた横浜FCを最後に他のクラブではサンバによる応援が姿を消したため、Jリーグではサンバは清水独特のものとなった。

2011年からはサンバ応援の「エスパルスサンバ隊」がブログとツイッターを開始し、試合での活動やサンバ練習の予定などを公表している。全てポルトガル語で歌われるサンバとは別に、日本語の歌詞が付いた応援歌やチャントも作られている。

日本平で試合に勝利すると公式応援歌「王者の旗」が流されるが(下記参照)、2008年からはサポーターが応援の一種であるロコロコ(通称:勝ちロコ。原曲はブラジルのサンパウロFCのサポーター“INDEPENDENTE”が歌っている)が踊るようになり、2009年以降選手・サポーター・ORANGE WAVE・パルちゃん含めて皆で踊るようになった。

最下位に沈んだ2015年1stステージ最終節(清水2-3FC東京)後、清水側サポーター席に「12番目の選手が力不足でした。後半はもっと力に!やってやるぜ!」の横断幕が掲出された。

公式応援歌[編集]

「王者の旗」
  • 作詞:一般公募作品
  • 作曲:林哲司
  • 2000年8月30日制定

ホームゲームでエスパルスが勝利した試合の後、場内に流され、サポーターが合唱する。CDでは高井治が歌っている。

また、サポーターズソングとしてribbonが歌う「"S"ENSATIONAL WIND」が存在していた。

応援歌として大沢桃子の「翔たけエスパルス」、Jam9の「真夏の風」がある。

関連施設[編集]

フットサル施設[編集]

  • エスパルスドリームフィールド (フットサル施設)
    • エスパルスドリームフィールド清水
    • エスパルスドリームフィールド静岡
    • エスパルスドリームフィールド富士
    • エスパルスドリームフィールド藤枝
    • エスパルスドリームフィールド駿東

店舗[編集]

  • エスパルスドリームハウス (オフィシャルショップ)
    • エスパルスドリームハウス清水
    • エスパルスドリームハウス静岡葵
    • エスパルスドリームハウス静岡駿河 (エスパルスドリームフィールド静岡併設)
    • エスパルスドリームハウス駿東 (エスパルスドリームフィールド駿東併設)
    • エスパルスドリームハウス藤枝 (エスパルスドリームフィールド藤枝併設)
    • エスパルスドリームハウス富士 (エスパルスドリームフィールド富士併設)
    • エスパルスドリームハウス静岡駅 (静岡駅ビルパルシェ内)


注釈[編集]

注釈
  1. ^ 上記は「B等級基準」であり、これらを満たしていない場合でもライセンスの剥奪はないが、制裁を科すとしており「事実上の条件付き交付」となっている。
  2. ^ 他クラブではFC東京が挙げられる。湘南ベルマーレは2012年まで星を入れていなかった
  3. ^ 近年は日系ブラジル人の減少が指摘されているが、2009年でも静岡県には約4万2千人の在日ブラジル人がいるとされる。これは静岡県全体の人口の約1.1%に当たり、日本全体(約0.2%)の5倍を超える比率となる。ただし、その居住者は静岡市よりも県西部の浜松市などに多いともされる。「在日ブラジル人」の項目も参照。
  4. ^ 当時清水の選手だった向島建の回想によると、三浦泰年・知良兄弟の伯父である納谷聖司(当時の私設応援団「シャペウラランジャ」代表)がブラジルからプロのサンバ隊を清水に招き、日本人にサンバの基本を教えたとされる[32]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w プロフィール:清水エスパルス”. 日本プロサッカーリーグ. 2015年10月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e クラブ概要”. 清水エスパルス. 2014年4月5日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 2014年度(平成26年度)Jクラブ個別情報開示資料”. 日本プロサッカーリーグ. 2015年10月7日閲覧。
  4. ^ a b スタジアムイベント”. 清水エスパルス. 2013年4月12日閲覧。
  5. ^ a b マスコット紹介”. 清水エスパルス公式サイト. 2013年4月12日閲覧。
  6. ^ 静岡蹴球物語/3 清水の礎築いた堀田さんの指導 選手育成の制度確立”. 毎日新聞静岡地域版 (2016年1月4日). 2016年1月9日閲覧。
  7. ^ 全日本少年サッカー大会出身Jリーガーは!? 歴史を学ぼう”. サカイク公式サイト (2011年8月11日). 2015年12月26日閲覧。
  8. ^ 全国高校サッカー選手権歴代優勝校”. 日刊スポーツ公式サイト. 2015年12月26日閲覧。
  9. ^ IAIスタジアムの生い立ち”. IAIスタジアム日本平ガイド. 2015年12月26日閲覧。
  10. ^ 常松鉄雄 (2016年1月6日). “かなわなかった、カズの清水入団 J発足時の関係者語る”. 朝日新聞. 2016年1月9日閲覧。
  11. ^ 大住良之 (2012年6月27日). “Jリーグを創った男・佐々木一樹 第2回”. Sportsnavi. 2015年12月26日閲覧。
  12. ^ 次世代に伝えるスポーツ物語”. 日本トップリーグ連携機構. 2016年1月9日閲覧。
  13. ^ クラブ沿革 1992 初の檜舞台で眩い輝き放つ”. 清水エスパルス. 2014年11月4日閲覧。
  14. ^ 新会社「エスパルス」スタート 営業権譲渡を契約 朝日新聞、1998年1月15日、2014年4月8日閲覧
  15. ^ アントニーニョ監督辞任/後任に石崎コーチ昇格”. 四国新聞社. 2016年1月11日閲覧。
  16. ^ 落日の王国 清水初のJ2降格という悲劇を招いた歪んだチームマネジメント”. SOCCER MAGAGINE ZONE (2015年10月17日). 2015年10月22日閲覧。
  17. ^ “<清水陥落>(2)赤字出せず選手放出 新制度、編成に足かせ”. 静岡新聞date=2015-10-20. http://www.at-s.com/sports/article/shizuoka/spulse/topics/162907.html 2015年10月22日閲覧。 
  18. ^ 清水がオランダで慈善試合 義援金は約7億円 スポーツナビ 2011.4.14
  19. ^ “<残留への軌跡>(上) ゴトビ体制の崩壊”. 静岡新聞. (2014年12月8日). http://www.at-s.com/sports/article/shizuoka/spulse/topics/84353.html 2015年10月24日閲覧。 
  20. ^ “清水、ピッチ内外で迷走した末のJ2降格…左伴社長「重みを受け止めている」”. サッカーキング. (2015年10月18日). http://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20151018/360637.html 2015年10月24日閲覧。 
  21. ^ “アフシン・ゴトビ監督 解任のお知らせ” (プレスリリース), 清水エスパルス, (2014年7月30日), http://www.s-pulse.co.jp/news/detail/26232/ 2015年10月24日閲覧。 
  22. ^ 大榎克己監督 辞任のお知らせ”. 清水エスパルス (2015年8月1日). 2015年8月1日閲覧。
  23. ^ 田坂和昭 監督辞任のお知らせ”. 清水エスパルス (2015年11月19日). 2015年12月12日閲覧。
  24. ^ J2降格の清水、田坂監督の辞任発表 後任は未定”. 日刊スポーツ (2015年11月19日). 2015年12月12日閲覧。
  25. ^ “[m-shimizu.co.jp/case/清水蛇塚グラウンド維持管理.html 清水蛇塚グラウンド維持管理]”. グリーンマスターズ清水公式サイト. 2016年1月11日閲覧。
  26. ^ 新スタジアムを検討 委員会発足へ(静岡新聞2013年4月26日付け 2014年7月11日閲覧)
  27. ^ 清水新スタジアム建設へ市長に要望書提出(日刊スポーツ2014年7月3日 同7月11日閲覧)
  28. ^ 東静岡駅地区にサッカー場構想 エスパルス本拠地に(エスパルス遅報に転載された中日新聞の記事 2014年11月7日閲覧)
  29. ^ 知事「サッカースタジアム造るべき」東静岡地区の再開発に一石(YouTube・静岡放送公式)
  30. ^ 清水6年ぶり「地図柄」復活 クラブW杯出場見据え - スポーツニッポン、2011.11.18
  31. ^ 田中孝一著 清水エスパルス Jリーグへの挑戦 第5章 情熱のゼッケンスポンサー「日本航空です。胸のスポンサードに興味があります」
  32. ^ 「サポーターの存在」 川崎フロンターレ公式サイト「TATSURU'S CHECK」2004年9月16日付

関連項目[編集]


外部リンク[編集]