カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス
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名前 | ||||||
本名 | カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス | |||||
カタカナ | サントス | |||||
ラテン文字 | Alberto Souza dos Santos | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1960年12月9日(63歳) | |||||
出身地 | ゴイアス州 | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1981-1986 | ゴイアスEC | |||||
1987 | GEノヴォリゾンチーノ | |||||
1987-1989 | ボタフォゴFR | |||||
1989-1992 | CAカステロ・ブランコ | |||||
1992-1995 | 鹿島アントラーズ | 79 | (17) | |||
1995-2000 | 清水エスパルス | 160 | (16) | |||
2001 | ヴィッセル神戸 | 26 | (0) | |||
2003 | ザスパ草津 | 6 | (0) | |||
通算 | 271 | (33) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
サントスことカルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス(Carlos Alberto Souza dos Santos、1960年12月9日 - )は、ブラジル・ゴイアス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(ボランチ)。
鹿島では、ややジーコやアルシンドの影に隠れがちであったが[1]、驚異的なまでの運動量で幅広くピッチを動き[2][3]、攻守に渡りチームを献身的に支え[4]、キャプテンシーにも優れ[2]、鉄人と呼ばれていた[5]。
経歴
[編集]アントラーズ
[編集]ボタフォゴではキャプテンを務めていたが[4]、ジーコの少ない運動量をカバーしサポート出来る存在として1992年に鹿島アントラーズに加入した[4]。1993年5月29日のガンバ大阪戦でJリーグ初ゴール[6]、6月5日横浜マリノス戦[7]、6月23日ヴェルディ川崎戦[8]、6月26日ガンバ大阪戦[9] でそれぞれゴールを決め、アルシンドと並びチームのファーストステージ優勝の最大の立役者となった[10]。リーグ戦では年間32試合8ゴールを決め、初代Jリーグベストイレブンに選出された[11]。アントラーズではジーコ不在時にキャプテンを務めた。同年7月17日にはJリーグオールスターサッカーに先発出場した[12]。1994年5月18日、第17節の名古屋グランパスエイト戦でのゴールは[13]アントラーズのJリーグ通算100ゴール目のメモリアルゴールとなった。1995年シーズンのアントラーズは、これまで在籍していたレオナルドに加え、ジョルジーニョを獲得、更にセカンドステージからモーゼル、マジーニョが加わることになると戦力外通告を受け、退団が決まった中、鹿島ホームでのファーストステージ最終戦となった、7月19日のベルマーレ平塚戦ではPKで得点を挙げ、鹿島でのラストを飾った[14]。
エスパルス
[編集]元アントラーズ監督で当時清水エスパルスの監督を務めていた、宮本征勝が獲得を希望し、エスパルスへ移籍[14]、5シーズン半プレーした。1996年にはリーグカップ決勝のヴェルディ川崎戦では前半に1ゴールを決め、PK戦でもPKを成功させて勝利[15]、清水の初タイトルとなるナビスコ杯優勝に貢献し[16]、 ナビスコ杯最優秀選手賞を受賞した[17]。1999年はセカンドステージ制覇に貢献したが、チャンピオンシップ、ジュビロ磐田との第2戦の延長PK戦でファビーニョと共にPKを失敗、チームは年間優勝を逃した。2000年のリーグカップ2回戦のヴィッセル神戸戦の第2戦では、スティーブ・ペリマン監督からFWとして起用され、2得点を決めたこともあった[14]。在籍中、2023年シーズンまでにチームに在籍した外国人選手とては最多となる160試合に出場した[18]。
その後
[編集]2001年からはヴィッセル神戸で1シーズンプレー、41歳まで現役を続け、2009年に三浦知良に塗り替えられるまでJリーグ最年長の記録だった[19]。Jリーグ通算265試合33ゴール、Jリーグカップでは55試合10ゴールの成績を残した[6]。2003年にザスパ草津でプレーし、JFL昇格に貢献し引退。同年には長年に渡るJリーグへの功績が評価され、Jリーグ功労選手賞を受賞した。
引退後は清水エスパルスやアルビレックス新潟のコーチを歴任した[20]。2017年以降は、リオデジャネイロのセッチ・ジ・アブリウで監督を務めていて、ブラジルサッカー連盟の公式ライセンスであるAライセンスも取得している。夢は日本のクラブで監督を務めることだとしている[21]。
所属クラブ
[編集]- 1981年 - 1986年 ゴイアスEC
- 1987年 GEノヴォリゾンチーノ
- 1987年 - 1989年 ボタフォゴFR
- 1989年 - 1992年 CAカステロ・ブランコ
- 1992年 - 1995年 鹿島アントラーズ
- 1995年8月 - 2000年 清水エスパルス
- 2001年 ヴィッセル神戸
- 2003年 ザスパ草津
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1981 | ゴイアス | セリエA | |||||||||
1982 | |||||||||||
1983 | |||||||||||
1984 | |||||||||||
1985 | |||||||||||
1986 | |||||||||||
1987 | ノヴォリゾンチーノ | SP州選手権 | |||||||||
1987 | ボタフォゴ | セリエA | |||||||||
1988 | |||||||||||
1989 | |||||||||||
1989 | カステロ・ブランコ | RJ州選手権 | |||||||||
1990 | |||||||||||
1991 | |||||||||||
1992 | |||||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1992 | 鹿島 | - | J | - | 10 | 3 | 3 | 2 | 13 | 5 | |
1993 | 32 | 8 | 6 | 0 | 5 | 0 | 43 | 8 | |||
1994 | 22 | 4 | 1 | 1 | 1 | 0 | 24 | 5 | |||
1995 | 25 | 5 | - | - | 25 | 5 | |||||
清水 | 18 | 3 | - | 1 | 0 | 19 | 3 | ||||
1996 | 27 | 1 | 15 | 1 | 3 | 0 | 45 | 2 | |||
1997 | 5 | 31 | 3 | 6 | 0 | 3 | 3 | 40 | 6 | ||
1998 | 30 | 4 | 5 | 1 | 4 | 2 | 39 | 7 | |||
1999 | J1 | 27 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 34 | 1 | ||
2000 | 27 | 4 | 5 | 4 | 5 | 1 | 37 | 9 | |||
2001 | 神戸 | 4 | 26 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 29 | 0 | |
2003 | 草津 | 8 | 関東2部 | 6 | 0 | - | 1 | 0 | 7 | 0 | |
通算 | ブラジル | セリエA | |||||||||
ブラジル | SP州選手権 | ||||||||||
ブラジル | RJ州選手権 | ||||||||||
日本 | J1 | 265 | 33 | 55 | 10 | 28 | 8 | 348 | 51 | ||
日本 | 関東2部 | 6 | 0 | - | 1 | 0 | 7 | 0 | |||
総通算 |
その他の公式戦
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1996年
- サントリーカップ 1試合0得点
- 1999年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
個人タイトル
[編集]代表歴
[編集]指導歴
[編集]- ザスパ草津選手兼コーチ(日本) 2003年
- エスタシオ大学サッカー部監督(ブラジル)2004年
- 清水エスパルスヘッドコーチ(日本)2005年
- アルビレックス新潟コーチ (日本) 2011年
- アングラ・ドス・レイスEC監督(ブラジル) 2015年
- 7 de Abril監督(ブラジル) 2017年 -
脚注
[編集]- ^ Sports Graphic Number 332 1994年2月3日号 p.42-43
- ^ a b サッカーマガジン 1994年1月5日-12日号 p .22-30
- ^ Sports Graphic Number 332 1994年2月3日号 p.36-37
- ^ a b c サッカーマガジン 1993年5月22日 no.415号 別冊 p.6-8 ベースボールマガジン社
- ^ “HISTORY of SHIMIZU S-PULSE since 1991 1995年”. www.s-pulse.co.jp 8 April 2020閲覧。
- ^ a b “Jリーグベストイレブン”. j-league 8 April 2020閲覧。
- ^ “93Jリーグサントリーシリーズ 第7節第1日”. j-league 8 April 2020閲覧。
- ^ “93Jリーグサントリーシリーズ 第12節第1日”. j-league 8 April 2020閲覧。
- ^ “93Jリーグサントリーシリーズ 第13節第1日”. j-league 8 April 2020閲覧。
- ^ サッカーマガジン 1993年8月19日 no.422号 142-143
- ^ “サントス”. j-league 8 April 2020閲覧。
- ^ “93JリーグKodakオールスターサッカー”. data.j-league. 21 April 2020閲覧。
- ^ “94Jリーグサントリーシリーズ 第17節”. j-league 8 April 2020閲覧。
- ^ a b c “「あんなジーコを見たのは最初で最後」 “鉄人”のブラジル人助っ人が明かす、神様が“勝者のメンタリティー”を注入した瞬間”. フットボールゾーン (2023年12月18日). 2023年12月19日閲覧。
- ^ “96Jリーグヤマザキナビスコカップ 決勝戦=”. data.j-league 8 April 2020閲覧。
- ^ “HISTORY of SHIMIZU S-PULSE since 1991 1996年”. www.s-pulse.co.jp 8 April 2020閲覧。
- ^ “ナビスコカップ歴代優勝チーム”. /web.ultra-soccer.jp 8 April 2020閲覧。
- ^ “歴代外国人出場試合数ランキング1位 サントス”. FCHANNEL. 2023年4月16日閲覧。
- ^ “清水エスパルス、歴代最強外国籍選手5人。シジマールの“クモ男”伝説、そして日本代表になった男も”. www.footballchannel 26 April 2020閲覧。
- ^ “[鹿島]OBのサントス氏がクラブハウスに。「トモダチがいっぱいだからとても楽しい」”. EG 8 April 2020閲覧。
- ^ “「僕の心の半分は白と赤」 ブラジル出身の“鉄人”が抱く「日本で監督をする」目標”. フットボールゾーン (2023年12月18日). 2023年12月19日閲覧。
- ^ “新潟が鹿島や清水で活躍したサントス氏のコーチ就任を発表”. /web.gekisaka.jp 8 April 2020閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス - FootballDatabase.eu
- カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス - WorldFootball.net
- カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス - Transfermarkt.comによる選手データ
- カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス - J.League Data Siteによる選手データ
- カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス - TheFinalBall.com