田中隼磨
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名前 | ||||||
愛称 | ハユマ、ハユ | |||||
カタカナ | タナカ ハユマ | |||||
ラテン文字 | TANAKA Hayuma | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1982年7月31日(38歳) | |||||
出身地 | 長野県松本市 | |||||
身長 | 174cm | |||||
体重 | 64kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム |
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ポジション | MF / DF (RWB、RSH、RSB) | |||||
背番号 | 3 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1992 - 1997 | FC松本ヴェガ | |||||
1997 - 1999 | 横浜フリューゲルスユース | |||||
1999 - 2000 | 横浜F・マリノスユース | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2001-2008 | 横浜F・マリノス | 168 | (10) | |||
2002-2003 | →東京ヴェルディ1969 (Loan) | 26 | (2) | |||
2009-2013 | 名古屋グランパス | 161 | (3) | |||
2014- | 松本山雅FC | 212 | (4) | |||
代表歴2 | ||||||
2006 |
![]() | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2020年12月20日現在。 2. 2006年8月9日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
田中 隼磨(たなか はゆま、1982年7月31日 - )は、長野県松本市出身のプロサッカー選手。松本山雅FC所属。ポジションはMF、DF。主に右サイドで起用される。元日本代表。
来歴[編集]
プロ入り前[編集]
桑田真澄のファンで野球をしていた父親は隼磨を野球選手にしたいと考え、小学校1、2年は足腰を鍛えるためにサッカーを、3年生からは野球をさせていた。しかし、小学校6年の時に肩を痛めたことでサッカーに転じる。中学時代は当時長野県の少年サッカー界に君臨したFC松本ヴェガでプレーした。
卒業後は単身横浜フリューゲルスのユースに加入、フリューゲルスの消滅後は横浜F・マリノスユースへ移籍した。当時は金子勇樹とのコンビで中盤の底を務め、豊富な運動量でクラブユース選手権優勝に貢献。高円宮杯、Jユースカップでも3位、更にユースチームが天皇杯予選の決勝まで進出するなどの活躍に貢献し、トップチームにも2種登録選手として出場した。坂田大輔はフリューゲルスユース時代からの同期。
横浜F・マリノス[編集]
横浜商大高卒業後、トップ昇格した2001年はトップチームの補強の失敗から新人ながらも多くの試合に出場するも結果は出せず、第2ステージ以降の緊急補強で出番を失った。翌2002年も出番が少ないことから6月にレンタル移籍で東京ヴェルディ1969に移籍した。しかしここでロリ・サンドリ監督が彼のポジションをボランチから右サイドにコンバート、これがはまったことから一気に東京Vでレギュラーを獲得した。
2004年に横浜に戻ったときには、当時右サイドのレギュラーだった佐藤由紀彦の怪我をきっかけにポジションを奪い、横浜FMの不動の右サイドとして中心選手になる。しかし、2006年序盤は吉田孝行の加入によりベンチスタートに甘んじる時期もあったが即座にレギュラーを取り戻し、同年トリニダード・トバゴ戦で日本代表初選出するなどした。2007年1月、フランスリーグ1のASサンテティエンヌの練習に参加した。
名古屋グランパス[編集]
2009年1月、ユースから10年間所属していた横浜FMから3年契約の完全移籍で名古屋グランパスに移籍した。名古屋移籍後は右サイドバックのレギュラーを確保している。
2010年は累積警告による出場停止1試合を除く33試合に先発出場した。2013年は全試合に出場したものの、同年限りでの退団が発表された。
松本山雅[編集]
2014年1月6日、地元のチームである松本山雅FCへ加入[1]。自身初のJ2参戦となる。背番号は先輩の松田直樹が他界後、空き番となっていた3番となる[2]。松本のJ1昇格に貢献し、J2で一番活躍した選手に贈られるJ2 Most Exciting Playerを受賞した。
2015年シーズンは、リーグ戦全試合に出場するも、チームは1年でJ2降格となった。
2016年、右目がほぼ見えない状態となり6月に「右眼裂孔原性網膜剥離」と診断され手術を受けた[3]。術後2週間は一日中ベッドでうつ伏せのままでの絶対安静という状況を乗り越え、9月11日のJ2リーグ第31節京都戦にて復帰、フル出場を果たした[4][5]。
2018年シーズンは、開幕から3試合連続で右サイドのレギュラーとして出場するも、チームがスタートダッシュに失敗し、自身も控えに回る事となった。しかし、9月1日の水戸ホーリーホック戦でスタメン出場し、その試合で大事な同点ゴールを挙げると、この試合以降全試合フル出場を果たしている[6]。その活躍もあり、チームは4年ぶりのJ1昇格を果たした。
特徴・評価[編集]
アテネオリンピック代表候補時代、持久力の指標となるVMAテスト(有酸素運動時における最大スピード測定)で25本という記録をマークしている。これは当時日本代表選手でトップのスタミナを持っていた加地亮の記録(23本)を超える、サッカー日本代表の全世代を通じての最高記録[7]。田中も自身の持久力について「僕の持ち味」と語っている。
私生活・その他[編集]
- 2001年にモデルのMALIA.(新保真里有)と結婚。MALIA.との間に男児が誕生するも2004年に離婚。男児(2021年からプロサッカー選手となる新保海鈴)はMALIA.が育てることになった。2006年11月に再婚し、2007年10月18日に男児が誕生し「怪獣くん」という名でしばしばブログに登場している。2010年にも男児、2013年には女児が誕生し現在の妻との間に2男1女がある。
- 2006年にイビチャ・オシム率いる日本代表に招集され、初のA代表入りを果たした。
- 公式サイトのブログは誤字・脱字や突然の改行、「!」「…」「☆」の多用、息子「怪獣」の弟のはずがなぜか「怪獣Jr」、不思議な文体などがファンの話題となった。田中が試合の後に「今日は"2-2のスコアレスドロー"に終わった」という誤った表現(注:「スコアレスドロー」は得点が全く入らず"0-0"の引き分けに終わった時しか用いられない)をし、この誤記は長期間に渡って横浜FMサポーター内でネタにされた。また、元チームメイトの中澤佑二ブログの影響か関西弁調の文章もみられる(ちなみに中澤は埼玉出身。いずれも関西に地縁はない)。
- パスタ通で知られている。
- 2011年8月4日に他界した松田直樹とは横浜F・マリノスでチームメイトであり、松田を慕い、「(松田の)背中をみてきた」と述べている[8] 。マリノス時代は松田と熱くなりピッチ上で喧嘩をし、試合後に仲直りをよくしたと話している[9] 。
- 2013年に名古屋を退団することを発表。松田と同じくチームでレギュラーを確保しながら契約非更新を告げられた[10] 。J1チームからオファーはあったが、2014年から松田が最後に在籍していたチームで自身の地元であるJ2の松本山雅へ移籍。山雅側から松田が付けていた背番号3番を提示され、松田の実家に行き松田の姉から「もし山雅に行くのならぜひ3番をつけてください。直樹も絶対に喜ぶに違いありませんから」と言われ背番号を受け継ぐ覚悟を決意した[10] 。
- 2014年11月1日にJ1への自動昇格を決めた直後、ユニフォームを脱ぎ名古屋時代から毎試合着用している「ありがとう松田直樹3」[11] と書かれたアンダーシャツでピッチ上で号泣した。また、5月に松田と同じ右膝半月板を損傷しながらも試合に出続けていたことを明かしている[12]。
- 2015年5月23日にTBSで放送されている『バース・デイ』で「松田直樹の思いを受け継ぐ者…松本山雅FCの戦い」として密着特集された[13](松田も2011年2月に同番組に出演している)。番組の中で、試合前のロッカールームで松田の写真を見て会話している事を話している。
- 2018年シーズン限りで引退を表明した川口能活から連絡を貰い「もうお前のようなギラギラ感がなくなった。だからあとは任せた。マツ(松田)の分も頑張ってくれよ」と声を掛けられている[6]。
- プロ野球選手の内川聖一とは田中が横浜F・マリノス、内川が横浜ベイスターズに在籍していた頃からの友人。内川が上記の松本がJ1への自動昇格を決めた試合を観戦し[14]、また田中も内川の所属する福岡ソフトバンクホークスの宮崎キャンプを訪問する[15] など、「同じプロアスリートとして自分にとって凄く大切な存在」と評している。
- 2016年5月に自伝『闘走心:一戦一勝一瞬に身を捧げる覚悟』を出版した[16]。
所属クラブ[編集]
- ユース経歴
- プロ経歴
- 2001年 - 2008年
横浜F・マリノス
- 2002年 - 2003年
東京ヴェルディ1969 (期限付き移籍)
- 2002年 - 2003年
- 2009年 - 2013年
名古屋グランパス
- 2014年 -
松本山雅FC
個人成績[編集]
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | 横浜FM | 32 | J1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 |
2001 | 20 | 16 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 21 | 0 | ||
2002 | 0 | 0 | 2 | 0 | - | 2 | 0 | ||||
東京V | 31 | 16 | 2 | - | 0 | 0 | 16 | 2 | |||
2003 | 7 | 10 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 15 | 0 | ||
2004 | 横浜FM | 17 | 23 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 30 | 1 | |
2005 | 7 | 31 | 1 | 4 | 0 | 1 | 0 | 36 | 1 | ||
2006 | 34 | 5 | 9 | 2 | 1 | 0 | 44 | 7 | |||
2007 | 32 | 2 | 9 | 0 | 2 | 0 | 43 | 2 | |||
2008 | 32 | 1 | 8 | 1 | 4 | 1 | 44 | 3 | |||
2009 | 名古屋 | 32 | 29 | 0 | 2 | 0 | 6 | 0 | 37 | 0 | |
2010 | 33 | 0 | 5 | 0 | 3 | 0 | 41 | 0 | |||
2011 | 34 | 1 | 2 | 0 | 5 | 0 | 41 | 1 | |||
2012 | 31 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 35 | 1 | |||
2013 | 34 | 1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 39 | 1 | |||
2014 | 松本 | 3 | J2 | 39 | 0 | - | 1 | 0 | 40 | 0 | |
2015 | J1 | 34 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 40 | 0 | ||
2016 | J2 | 28 | 1 | - | 0 | 0 | 28 | 1 | |||
2017 | 40 | 1 | - | 1 | 0 | 41 | 1 | ||||
2018 | 23 | 2 | - | 2 | 0 | 25 | 2 | ||||
2019 | J1 | 31 | 0 | 2 | 0 | 1 | 1 | 34 | 1 | ||
2020 | J2 | 18 | 0 | 1 | 0 | - | 19 | 0 | |||
2021 | - | ||||||||||
通算 | 日本 | J1 | 420 | 15 | 64 | 3 | 37 | 2 | 521 | 20 | |
日本 | J2 | 148 | 4 | 1 | 0 | 4 | 0 | 153 | 4 | ||
総通算 | 568 | 19 | 65 | 3 | 41 | 2 | 674 | 24 |
- 2000年はユース所属
その他の公式戦
- 2004年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2005年
- スーパーカップ 1試合1得点
- 2016年
- J1昇格プレーオフ 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2004 | 横浜FM | 17 | 2 | 0 |
2005 | 7 | 6 | 0 | |
2009 | 名古屋 | 32 | 9 | 0 |
2011 | 6 | 0 | ||
2012 | 6 | 0 | ||
通算 | AFC | 29 | 0 |
その他の国際公式戦
- 2004年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
- 2005年
- A3チャンピオンズカップ 3試合0得点
代表歴[編集]
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(2006年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
2006 | 1 | 0 |
通算 | 1 | 0 |
タイトル[編集]
クラブ[編集]
- 名古屋グランパス
- J1リーグ:1回(2010年)
- FUJI XEROX SUPER CUP:1回(2011年)
- 松本山雅FC
個人[編集]
- J2 Most Exciting Player(2014年)
書籍[編集]
著書[編集]
- 『闘争心:一戦一勝一瞬に身を捧げる覚悟』(カンゼン、2016年5月10日)ISBN 9784862553454
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ 田中隼磨選手名古屋グランパスより完全移籍加入のお知らせ 2014年1月6日 松本山雅FC公式サイト
- ^ “松本:田中隼磨選手移籍加入会見”. J's GOAL. 2014年1月6日閲覧。
- ^ 田中隼磨選手負傷・手術について 松本山雅FC公式サイト プレスリリース2016年6月9日付
- ^ “サッカーダイジェストWeb「【松本】暗黒の谷底から這い上がった田中隼磨。「これからも人生を賭けて戦いたい」」” (2016年9月12日). 2018年11月7日閲覧。
- ^ “Number Web「田中隼磨が抗った壮絶な引退危機。松本山雅ファンの声援が“熱”の源。」” (2016年12月14日). 2018年11月7日閲覧。
- ^ a b 田中隼磨が完遂した松本山雅の優勝。偉大な先輩たちの言葉を胸に刻んで。 Number 2018年11月9日
- ^ 遅刻帳消し!田中隼磨“史上最高”25本クリア(SANSPO.COM)
- ^ “田中隼磨オフィシャルブログ「2011 8月4日 まつさん… 」” (2011年8月4日). 2011年8月4日閲覧。
- ^ “ナンバー「松本山雅の「3番」を受け継いだ男。田中隼磨、松田直樹の魂とともに。」3” (2014年3月14日). 2014年3月14日閲覧。
- ^ a b “ナンバー「松本山雅の「3番」を受け継いだ男。田中隼磨、松田直樹の魂とともに。」2” (2014年3月14日). 2014年3月14日閲覧。
- ^ “田中隼磨オフィシャルブログ 『松田 直樹』” (2012年8月4日). 2012年8月4日閲覧。
- ^ “サッカーキング「「3」を背負った田中隼磨の「覚悟」…そして明かされるJ1昇格の「代償」」” (2014年11月2日). 2014年11月2日閲覧。
- ^ 「バース・デイ」
- ^ “田中隼磨オフィシャルブログ 『うっち〜』” (2014年11月21日). 2018年11月7日閲覧。
- ^ “田中隼磨オフィシャルブログ 『刺激』” (2017年2月13日). 2018年11月7日閲覧。
- ^ “山雅・田中隼磨選手が初の自伝 移籍時の心境などつづる”. 信毎web (2016年5月9日). 2020年7月15日閲覧。
外部リンク[編集]
- 田中隼磨 - National-Football-Teams.com (英語)
- 田中隼磨 - Soccerway.com (英語)
- 田中隼磨 - Scoresway.com (英語)
- 田中隼磨 - WorldFootball.net (英語)
- 田中隼磨 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 田中隼磨 - J.League Data Siteによる選手データ
- 田中隼磨オフィシャルブログ - Ameba Blog
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