松田直樹

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松田 直樹 Football pictogram.svg
名前
愛称 マツ、マツさん、ナオキ
カタカナ マツダ ナオキ
ラテン文字 MATSUDA Naoki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1977年3月14日
出身地 群馬県桐生市
没年月日 2011年8月4日(満34歳没)
身長 183cm[1]
体重 78kg[1]
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-2010 日本の旗 横浜マリノス/横浜F・マリノス 385 (17)
2011 日本の旗 松本山雅FC 15 (1)
代表歴2
2000-2005[2] 日本の旗 日本 40 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。2011年8月4日現在。
2. 2006年1月1日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - 2011年8月4日)は、群馬県桐生市出身のサッカー選手元日本代表ポジションディフェンダー

来歴[編集]

小学1年の時、兄の影響でサッカーを始める。天沼小学校の天沼FCに,小学3年生から始める既定のところを特例で入団した。当時できたリフティングは最高で16回。他にも野球・バドミントン・水泳・ラグビーと様々なスポーツに挑戦するが、負けず嫌いの性格からどうしても一番になれないサッカーに夢中になっていった[3]

中学・高校時代[編集]

桐生市立相生中学校まではFWの選手だった。当時U-15日本代表の監督であった小嶺忠敏が山田耕介(当時前橋育英高等学校監督)にいいDFがいないかを相談した際に、当時中学三年生でFWであった松田のDFとしての資質を推薦したのをきっかけに、その後のDF人生がスタートした。

U-15日本代表のメンバーに選出され、小嶺忠敏監督のもとでDFとして指導を受け、そのまま前橋育英高等学校へ進学。山田耕介監督の元で指導を受けた。その後、山田耕介監督が選手時に使用していた背番号「14」を与えられるようになった。U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)のメンバーに選出。その後U-19代表に選出、ほとんどが19歳の選手の中で松田は17歳で出場。Jリーグデビュー後もワールドユース代表に選出された。当時松田には「超高校級」の触れ込みがあり、当時のJの全12クラブのうち10クラブからオファーがあり、争奪戦となった。結果横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団する。

オリンピック・ワールドカップ[編集]

U-16日本代表に招集されて以来、各世代の日本代表に選出された。

1996年のアトランタオリンピックではマイアミの奇跡を経験。19歳4カ月でのオリンピックは、当時日本サッカー史上最年少五輪出場だった[4]。2000年のシドニーオリンピックの代表にも選出され、年齢制限のあるサッカーのオリンピック日本代表としては、数少ない2大会連続出場選手である。

トルシエジャパン時代[編集]

フラット3と呼ばれる3バックの右サイドで不動のレギュラー。

フラット3という戦術にこだわり初戦のベルギー戦で同点に追いつかれた際に、合宿場所である葛城北の丸の風呂で選手だけでミーティングをし、松田の「俺らは戦術に縛られすぎている」という発言により、選手の間でのみディフェンスラインを下げることに決めた[5]。その後の2002 FIFAワールドカップではベスト16入りを決めた。

のちに、フィリップ・トルシエは「信頼できる強い選手で、2002年のW杯では日本代表のキープレーヤーだった。」と語った[6]

ジーコジャパン時代[編集]

2004・2004・2005年日本代表選出。アジアカップ優勝時まで試合に出場したのは約8分間であり[7]、ほぼ控えに回っていた。アジアカップで優勝したが、貢献できなかった自分を悔やみ優勝メダルをスタッフにあげてしまうほどであった[7]。その後、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選バーレーン戦(最終予選、2005年3月30日)でベンチ外が決まり、スタンドでの観戦がルールであったが試合前に無断帰宅。その後謝罪の手紙を送ったが、以降代表招集は無かった。

国際Aマッチ通算40試合出場、1得点。

現役時代[編集]

1995年、当時のホルヘ・ソラーリ監督には「君は将来井原正巳を追い越す才能を持っている」と評価され[8]、3月28日、Jリーグ開幕からスタメンに抜擢。同年9月30日、名古屋グランパスエイト戦でプロ初ゴールを決めた。ワールドユースU-20出場後に戻ってくると、クラブの急激な世代交代の内乱に飲み込まれサブに回るようになる。ソラリ監督退任後、早野監督体制になってからはレギュラーを外されるようになったが、ステージ最終節に先発に抜擢され、マリノスのステージ優勝に貢献した。

1997年に右膝半月板損傷、1998年に初手術を受けた。復帰後は再びレギュラーに定着し、1999年 前橋育英高校時代からの背番号「14」から、井原正巳の背番号「4」のひとつ前の「3」を付けるようになる。

2000年、A代表デビュー。シドニーオリンピック出場。スタメン出場し、アジアカップで大会制覇し、初めてのJリーグベストイレブンを受賞した。続けて2001年、コンフェデレーションズカップ準優勝。ナビスコカップ優勝。その後の国際親善試合フランス戦で「サンドニの悲劇」を経験する。

2002年、2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出。フラット3として活躍し、大会ベスト16入りに貢献。また、クラブでは2度目のJリーグベストイレブン受賞。その後、行われた契約交渉でクラブ側との意見の食い違いを見せ当時の左判社長との直接会談を要求し、その後5時間にわたって行われた直接会談が行われたが和解し”永久にマリノスだよ”という言葉を残し、契約更新をする。

2003年、2004年、チームキャプテンに就任し、2年連続でJリーグ連覇、2005年にJリーグ通算250試合出場を達成する。

2006年にはチームキャプテンに再び就任。2007年、オフに骨片が右膝十字靭帯を圧迫し、手術。その後、守備的MFとしてヤマザキナビスコカップ大宮戦で復帰した。この年、再び就任した早野監督からレギュラーを外されていたが、第16節のガンバ大阪戦でセンターバックとして先発し、39試合連続得点中のG大阪を無失点に抑えた。その後、第18節大分トリニータ戦で、リーグ戦300試合出場を達成。2006年には複数年契約拒否、2007年には約60%の減俸となったが、マリノスへの愛・サポーターからの愛情を大事にしたい一心で契約更新をする[9]

2008年、桑原隆監督の就任後、河合竜二の負傷により、DFから守備的MFに抜擢される。最終ラインを守るチームメイトからは「DFの前にDFがいる」と頼りにされた。6月下旬、小椋祥平に触発され、04年以来となる坊主頭(五厘刈り)を披露[10]。それがチーム内に連鎖し、田中裕介、小宮山尊信らが次々と丸刈りにし、選手だけではなくチームスタッフや記者まで頭を丸めた。

また2008年から2010年まで、F・マリノスの選手会長を務めた。2009年、守備的MFとしてもプレーする機会が多く、プレースタイルの幅を広げた。シーズンオフの契約更新では”引退までマリノスでプレーしたい”とコメントしていた[11]

この年、自叙伝『闘争人』を出版。

2010年、慢性的なケガを抱えていた右膝半月板の4度目の手術を行った影響で出遅れ、13節広島戦で後半開始から交代でプレーしたのがシーズン初出場となった。

初先発となった17節の仙台戦でゴールを決め、その後はイエローカードの累積による出場停止となった24節仙台戦以外は、最終節34節まで全試合にほぼ先発で起用された。2010年11月27日ガンバ大阪戦後、マリノスから戦力外通告を受けた。1995年から16年にわたってマリノス一筋でプレーし、マリノスが獲得したすべてのタイトルを経験しミスターマリノス[12] と呼ばれた松田だったが、12月4日大宮アルディージャ戦後の退団セレモニーにて「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高な所を見せたいのでこれからも続けさせてください。」という言葉を残し、横浜Fマリノスを退団した[13]

2011年、当時JFLの松本山雅FCと契約[1]。背番号は横浜FM時代から引き続き3番をつけた。主にCBとして全15試合に出場、1得点。

生涯最後の公式戦となった7月23日のJFL後期第4節Honda FC戦(アルウィン)は、Jリーグ含め公式戦通算400試合出場を達成した日であった。

突然の死[編集]

同年8月2日9時58分頃、松本市の梓川ふるさと公園にて同チームの練習中に突然倒れ、心肺停止の状態で信州大学医学部附属病院高度救命センターに緊急搬送された[14]。病名は「急性心筋梗塞」と発表[14]

人工心肺を付け、途中心拍が微弱ながら戻ったが意識を取り戻すことはなく、8月4日13時6分頃、同病院で34歳の若さで死去[15]

戒名は「照徳嶺樹清居士(しょうとくりょうじゅせいこじ)」。皆を照らしてくれてスポーツが得意という意味。喪主は松田の母が務めた。

現役選手であった松田の死去はサッカー界のみならずスポーツ界全体に衝撃をもたらした。

スペインのセビージャでは松田の死について大きく報道し、国営放送TVEではゴールデンタイムのニュース番組で報じた。死去当日に行われたスペイン親善試合アントニオ・プエルタ杯では、スペイン代表のアントニオ・プエルタ、心臓発作で亡くなったエスパニョールの主将ダニ・ハルケと共に松田の写真も掲示された[16]。また国際サッカー連盟会長ゼップ・ブラッターは「日本代表の伝説的なディフェンダー(the legendary defender of the national team of Japan)」と評し、哀悼のメッセージを贈った[17][18]

8月8日の通夜、8月9日の葬儀・告別式には中田英寿中山雅史小野伸二曽ヶ端準安永聡太郎佐藤由紀彦城彰二秋田豊川口能活楢崎正剛前園真聖三都主アレサンドロ、松本山雅所属選手(木島良輔など)、横浜Fマリノス所属選手全員(中村俊輔中澤佑二など)、木村和司フィリップ・トルシエ岡田武史西野朗など多くの関係者やサポーターなどが参列し、故人を悼んだ[19]

松田の死後行われたリーグ戦・国際試合(日韓戦)では、試合の前に松田への黙祷が捧げられ、吉田孝行等J1・J2・JFLの多くの選手たちは自身が決めたゴールを「松田直樹に捧げる」というコメントを残した。

また、チームが使用したグラウンドにはAEDが設置されていなかったことから、日本サッカー協会は、2012年度よりJリーグだけでなく、JFL等(Fリーグ、なでしこリーグ)に試合や練習におけるAED常備を義務付けることを決め[20]、日本陸上競技連盟 (JAAF) は、松田が急逝した翌週に競技場内で行うトラック・フィールド種目でのAEDの設置の義務付け・操作方法を広めると決定した[21]。また、日本循環器学会AED検討委員会と日本心臓財団が松田直樹の件を取り上げてAEDの設置および配置について具体的な目安を示し[22]、相撲協会でAED講習会が行われるなど[23]、サッカー界だけでなく全国各地でAEDへの関心が広まった。

2011年8月12日、前年まで在籍していた横浜F・マリノスが松田の背番号「3」を永久欠番とすることを発表[24] したことに対し、松本山雅は3番を背負いたい選手が現れるのを待つとして永久欠番にはしなかった。その後、2014年にマリノス時代にチームメイトだった田中隼磨が背番号「3」を付けることとなった[25]

2011年8月20日、横浜F・マリノスが試合開始前に松田直樹追悼映像を放映。8月26日、松本山雅FCにより松本平広域公園総合球技場アルウィンにて松田直樹壮行会(お別れ会)が行われた。

2011年12月5日、Jリーグ功労選手賞を受賞。

2013年5月17日、サポーター、ファンが選ぶ Jクロニクルベスト ベストイレブンに選ばれた。

人物・エピソード[編集]

一男二女の父。「松田直樹」という冠を使うと一番上の子供に肖像権料が渡ることにより[26]、松田の死後「3人の子どもたちの成長を見守り続け出来る限りの支援活動を行うため」を一つの理由として「松田直樹メモリアル」が設立された[27]

トレードマーク(ヘアバンド・3)[編集]

日韓W杯を前後して試合中に松田がつけていたヘアバンドが世間で流行する現象が起きた。当時はヘアゴムを大きな輪にしてはめていただけであったが、その後アディダスにより製作されており、背番号3と共に松田を象徴する代名詞[28] と言われた。写真集の初版限定盤にはヘアバンドがつき、死去後設立した一般財団法人松田直樹メモリアルでは、3の入った黒のヘアバンドが販売されている。

サッカー選手として[編集]

「俺は負けるのが許せないし、だからこそプロの世界で生きてこられた。」[29] と、自他ともに認める”負けず嫌い”の性格であり、 フィリップ・トルシエからは「試合に出さなきゃ殺すというオーラがある」[30] と評価され、 Jリーグ時には闘志あふれるプレースタイルで、警告処分や退場処分にされることが多かったが[31]、「本当は冷静なのに相手との駆け引きで熱く見せたりすることもある」「イエローカードも一つの勲章だと思っていた。」と語った[32]

ピッチに立つことに強い思いがある選手であり、シドニー五輪ではトルシエと衝突し無断離脱したことがあるが、その後の2002年ワールドカップの日本代表に招集された[33]。 博多の森でのアビスパ福岡戦(2000年5月13日)では、負けている相手チームがこれ以上の失点を防ぐために守りに入っていることに対し本気で激高し、ピッチ上でボールに座り、相手を手招きしながらののしった。試合後のインタビューでは「あいつらはプロじゃない。必死に戦ってくれているサポーターの気持ちが分からないのかな」と涙ながらに発言し[34]、 2003年ナビスコ杯ジュビロ磐田戦では、西野泰正と接触プレー後西野のプレーに憤激して主審に向かい言い放った「やるよ、やっちゃうよ」はピッチ外マイクに拾われてテレビに流れ、以後、松田を象徴する名文句となった[35]

気合を入れるためにチームメイトに殴ってもらうことがあり、2004年CS(対戦相手は浦和)の試合前には栗原勇蔵に殴らせて気を失いかけた[36]。負傷で離脱している選手や退団が決まった選手の名前をアンダーシャツに書いて着用し[37]、仲間に対する想いも強かった。また 同世代の経験の豊かな選手が次々と戦力外として外されていくことに危惧しており、「若返り」と「身の丈経営」を理由にベテラン選手が解雇されていくJリーグの現状を危惧する発言を、自身が戦力外を通告される前から度々していた[38]

サポーターやクラブへの愛が強く、横浜FM時代にはミスターマリノス[12]と呼ばれるほど親しまれた。2007年のレギュラーから外されていた時期の練習中には、サポーターによって松田の名前が入った横断幕が常に掲げられていた。その年のリーグ戦初出場となったガンバ大阪戦では松田のコールが響き渡った[39]。のちに、松田は「あの時の横断幕は俺を奮い立たせてくれた」と語っている[40]松本山雅ではサポーターの多さと、サポーターとの距離が近いスタジアムにまず興味を示し[41]松本山雅入団当時にはクラブ・監督・選手・サポーターが一丸となってJ2に上がりJ1へ行くと公言し、シーズン新体制発表の前に松本山雅FCのスタッフやチームメイトと共に松本市内の神社を訪れ、J2への「昇格」を祈願した[42]

選手・サポーターへの影響力[編集]

  • 松田の戦力外の報道がされると、その日の内にクラブハウスにサポーターが大勢押し寄せ、戦力外を直接伝えたと言われる下條佳明統括本部長に撤回を求め詰め寄った[43]。ファン・サポーターによって集められた再契約に関する嘆願書の署名数は数日で2万通を超えた。2010年12月4日の最終節後のセレモニーでは嘉悦朗球団社長と木村和司監督の挨拶はサポーターの松田のチャントでかき消され[12]、セレモニー後のスタジアムには数千人のサポーターが6時間以上座りこんだ。
  • 2011年12月4日、横浜FMの最終戦からちょうど1年後、松田の4か月目の月命日に松本山雅はホンダロックSC相手に2-0とJ2昇格を決定する勝利を納めた。試合後、選手たちは松田が着ていたユニフォームやフラッグと共に喜び、サポーターは松田の死後封印していた松田直樹のチャントを歌った[44]
  • 生前、「練習試合でもいいからマリノスと戦いたい」[45]。と発言していたが、2011年12月17日、松田が所属していた横浜FMと松本山雅FCが天皇杯4回戦で対戦した(4-0)。ウォーミングアップに入ると、松本山雅の選手全員が松田の背番号「3」入りの練習着を身にまとった[46]。試合後には横浜F・マリノスの選手全員が松本山雅のサポーターの元に足を運んで深々と一礼し、山雅のサポーターからは「Fマリノス」と大きくコールを受けた[47]
  • 親友である安永聡太郎佐藤由紀彦は「一般財団法人松田直樹メモリアル」を設立し、2012年1月22日に日産スタジアムにて松田直樹メモリアルゲームが開催された。4万人を超える観客と松田直樹と親交の深い多くのサッカー関係者・音楽関係者が国内外から集まった[48]。また、この日のために5年ぶりにブラジルから来日した横浜FM時代の同僚アントニオ・モンテイロ・ドゥトラは、2か月後、横浜Fマリノスに復帰することとなった。
  • 生前、親友の佐藤由紀彦の妻のまだ微妙な大きさのお腹に松田はいち早く気づいていた。その半年後(松田の死後)に産まれた佐藤由紀彦の四男は、松田直樹から一字とり[49]、由紀彦の”紀”と組み合わせて”直紀”と名づけられた。
  • 横浜FMの試合では松田の顔が描かれた横断幕が掲げられており、日産スタジアムの試合では3ゲートに掲げられている。日韓W杯で代表を共にした柳沢敦は、ベガルタ仙台移籍後初ゴールを決めたマリノス戦でのインタビューで「(松田の)横断幕を見ながらプレーした。また新しい思い出がつくれた。」と語っている[50]
  • 横浜FM・松本山雅でチームメイトだった木島良輔は、松田の死後の直後の8月7日のJFL後期第6節の対SAGAWA・SHIGA・FC戦にて途中出場した際、松田の3のヘアバンドと自身のユニフォームの下に松田のユニフォームを着こみ試合に臨んだ[51]。以降、試合に出場する際は必ず3のヘアバンドをつけている。
  • 横浜FMへ背番号3の永久欠番を提案した中村俊輔は、2013年12月10日に「2013Jリーグアウォーズ」最優秀選手賞を受賞し「彼の存在なしに今の私はいないと思っています。」というコメントを残した[52]
  • 全く同じ生年月日で 松田と深い交友のあった吉田孝行は、”いつも一緒に戦っていた”と語り、松田の死後の2011年8月6日に2ゴールを決め、その直後喪章と共に右手で3を作り天に示した[53]。また自身の引退である2013年11月24日には1ゴールを決め、その直後に松田直樹メモリアルが製作した3のヘアーバンドを取り出して頭につけている[54]
  • 松本山雅で3の背番号を引き継いだ田中隼磨は、2014年11月1日にJ1への自動昇格を決めた直後、ユニフォームを脱ぎ号泣しながらピッチへ膝をついた。名古屋グランパス所属時代から毎試合着用しているアンダーシャツ[55] には”ありがとう松田直樹3”と書かれており、試合後には、5月に松田と同じ右膝半月板を損傷しながらも試合に出続けていたことを発表した。その理由について「マツさんの遺志を受け継いだチームをJ1へ昇格させることにサッカー人生を懸けていた。」と語った[56]
  • 2015年2月21日に、『「Jリーグ プレシーズンマッチ AED普及マッチ」横浜F・マリノス 対 松本山雅FC』が行われた(0-1)。AEDと心肺蘇生の一般普及の活動をしている松田直樹メモリアルの理事の安永聡太郎、佐藤由紀彦、松田の姉である松田真紀が会場入りした[57]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1995 横浜M - J 33 1 - 1 0 34 1
1996 16 0 11 2 1 0 28 2
1997 14 31 2 6 0 2 0 39 2
1998 12 0 4 1 1 0 17 1
1999 横浜FM 3 J1 27 0 2 0 3 0 32 0
2000 24 2 3 0 2 1 29 3
2001 29 0 9 0 1 0 39 0
2002 25 2 0 0 1 0 26 2
2003 20 0 5 0 0 0 25 0
2004 24 1 4 0 1 0 29 1
2005 27 1 4 1 1 0 32 2
2006 29 4 9 3 0 0 38 7
2007 8 1 5 0 2 0 15 1
2008 30 1 7 0 3 0 40 1
2009 31 1 10 2 3 0 44 3
2010 19 1 3 0 3 0 25 1
2011 松本 JFL 15 1 - - 15 1
通算 日本 J1 385 17 82 9 25 1 492 27
日本 JFL 15 1 - - 15 1
総通算 400 18 82 9 25 1 507 28

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2004 横浜FM 3 4 0
2005 4 0
通算 AFC 8 0

その他の国際公式戦

経歴[編集]

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 40試合 1得点(2000-2005)[2]


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2000 14 0
2001 10 0
2002 12 0
2003 0 0
2004 3 0
2005 1 1
通算 40 1

ゴール[編集]

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2005年1月29日 日本、横浜市 カザフスタンの旗 カザフスタン ○4-0 キリンチャレンジカップ

個人賞[編集]

関連情報[編集]

関連書籍[編集]

松田直樹メモリアル[編集]

一般社団法人 松田直樹メモリアル
団体種類 一般社団法人
設立 2011年10月
主要人物 安永聡太郎 (代表理事)
佐藤由紀彦 (理事)
越後有希 (理事)
活動地域 日本の旗 日本
活動内容 松田の功績を後世に伝えるとともにサッカーの普及の活動、
AEDと心肺蘇生の一般普及の活動
ウェブサイト http://www.matsu3.jp/
テンプレートを表示

一般社団法人 松田直樹メモリアルは、松田と親友であった安永聡太郎佐藤由紀彦が中心となって設立させた一般社団法人である。

メモリアルゲーム[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 選手加入のお知らせ、松本山雅(2011年1月9日)
  2. ^ a b “松田 直樹”. サッカー日本代表データベース. http://www.japannationalfootballteam.com/players_ma/naoki_matsuda.html 
  3. ^ 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、32頁
  4. ^ “平山相太、日本サッカー史上最年少の五輪出場”. サンケイスポーツ. (2004年7月17日). http://www.sanspo.com/athens2004/football/news/st2004071702.html 
  5. ^ 早すぎる別れ。偉大なDF松田直樹に捧ぐ」”. Reuters (2011年8月5日). 2014年12月20日閲覧。
  6. ^ サッカー=松田選手死去、トルシエ氏「34歳の死は悲劇」”. Reuters (2011年8月4日). 2014年11月4日閲覧。
  7. ^ a b 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、160頁
  8. ^ 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、60頁
  9. ^ 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、199頁
  10. ^ “DF松田が決意の”五厘刈り””. カナロコ 神奈川新聞社 (2008年6月24日). 2014年11月7日閲覧。
  11. ^ 横浜松田、契約保留も「生涯マリノス」、日刊スポーツ(2009年12月8日)
  12. ^ a b c “若手に追い出して欲しかった……。松田直樹にみるベテランの存在価値。””. NumberWeb (2010年12月7日). 2014年11月23日閲覧。
  13. ^ 弊クラブ所属選手の来季契約非更新について 横浜FM[リンク切れ]、J's GOAL(2010年11月29日)
  14. ^ a b 救急搬送の元日本代表DF松田、意識なく「厳しい状態」、ロイター通信 2013年5月7日閲覧
  15. ^ 意識戻らず…無念 松田直樹選手 家族に看取られ死去、スポーツニッポン 2011年8月4日閲覧
  16. ^ 豊福晋 (2011年8月19日). “「悲劇を忘れずに」 プエルタ杯に込めた思い。〜日本でも松田直樹を偲ぶ試合を〜”. Number Web. 2013年12月21日閲覧。
  17. ^ Blatter saddened by Matsuda's passing”. FIFA.com. 2012年8月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年12月21日閲覧。
  18. ^ サッカー=松田選手急死、FIFA会長「悲しみに沈んでいる」、ロイター通信 2013年5月7日閲覧
  19. ^ 松田直樹さん告別式にナオキコール響く 、nikkansports 2011年8月9日閲覧
  20. ^ 二宮寿朗「松田直樹の悲劇から1年 広がる救命の輪」 、現代ビジネス 2012年08月01日閲覧
  21. ^ ──松田選手の死から広がるAED設置── 、株式会社 ピースフル 2014年12月20日閲覧
  22. ^ AED設置の条件 、公益財団法人日本心臓財団 2014年12月20日閲覧
  23. ^ サッカー松田さん急死受け、相撲協会がAED講習会 、スポニチ Sponichi Annex 2011年09月09日閲覧
  24. ^ “松田さんの「3」永久欠番に 横浜M、J1で初”. 47NEWS. (2011年8月12日). http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011081201000465.html 2011年8月12日閲覧。 
  25. ^ 松本:田中隼磨選手移籍加入会見”. J's GOAL. 2014年1月6日閲覧。[リンク切れ]
  26. ^ ボクたちは松田直樹さんの心を忘れない!”. zakzakby夕刊フジ (2012年1月13日). 2014年12月12日閲覧。
  27. ^ 松田直樹メモリアルとは?”. 松田直樹メモリアル. 2014年12月12日閲覧。
  28. ^ ”松田魂”を受け継ぐ栗原勇蔵。代表レギュラー奪取に懸ける決意。”. NumberWeb (2012年1月25日). 2014年11月22日閲覧。
  29. ^ 小宮良之『フットボール・ラブ』集英社、2011年、11頁
  30. ^ トルシエ氏 松田さんに「”試合に出さなきゃ殺す”というオーラが」”. スポーツニッポン (2011年8月5日). 2013年12月21日閲覧。
  31. ^ 小宮良之『フットボール・ラブ』集英社、2011年、18頁
  32. ^ 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)、2009年、207頁
  33. ^ TEAM心の言葉『心のゴールネットをゆらした 日本代表監督8人の言葉』学研教育出版、2012年、10頁
  34. ^ 盧載鎭 (2011年8月5日). “試合中ボールに座り…”. 日刊スポーツ. 2013年12月22日閲覧。
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]