野々村芳和

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野々村芳和 Football pictogram.svg
名前
カタカナ ノノムラ ヨシカヅ
ラテン文字 NONOMURA Yoshikazu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1972-05-08) 1972年5月8日(46歳)[1]
出身地 静岡県静岡市清水区[注 1]
身長 175cm
体重 67kg
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-1999 ジェフユナイテッド市原 96 (6)
2000-2001 コンサドーレ札幌 58 (2)
2009-2011 小樽FC
1. 国内リーグ戦に限る。2013年11月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

野々村 芳和(ののむら よしかづ[1]1972年5月8日 - )は静岡県静岡市清水区[注 1]出身の元サッカー選手、サッカー解説者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。

来歴[編集]

静岡県清水市[注 2]で生まれ、小学1年の時にサッカーを始める[2]。小学6年から原因不明の発作に襲われるも試合に出続けたが、試合中に発作が起きるようにもなった[2]清水市立第四中学校から静岡県立清水東高等学校へと進学。高校サッカ―選手権は2度出場したが、発作よってフル出場できない時もあった[2]。精神面を鍛えることによって発作を抑えることができるようになった[2]

慶應義塾大学法学部法律学科に進学[3]。20歳頃に初めて心臓病と診断され手術を受け[2]、手術後は心臓病を克服しサッカーに打ち込んだ。慶應義塾体育会ソッカー部は2年連続で関東2部優勝などを果たした[2]慶應義塾大学を卒業。

市原時代[編集]

1995年ジェフユナイテッド市原に加入[1][4]3月16日のJリーグ開幕戦からベンチ入りをして、3月29日の1st第4節横浜M戦にプロ初出場を果たす。4月からスタメンを勝ち取り、4月8日の1st第7節広島戦で初イエローカードをもらい、2枚目のイエローカードで初退場した。出場停止明けの試合でもスタメン出場し、4月22日の1st第10節横浜F戦でプロ初得点を記録。5月上旬から出場機会を失った。11月4日の2nd第20節広島戦で90分間フル出場を果たした。1年目で15試合出場1得点の成績を残した[5]

1996年には6月頃のナビスコカップからスタメンを獲得、それからは残りの試合を出続けるようなった。

1997年の2年間は主力として出場し[5]1998年ナビスコカップに決勝戦を含む全試合に出場を果たした[5]

5年目の1999年は、ゲルト・エンゲルスが監督就任してから、ほとんど試合に出ることがなかった[5]5月29日の1st第15節磐田戦で79分の途中出場したがイエローカード2枚で90分に退場処分を受けた。その後、出場機会を減らした[5]。成績不振でエンゲルス監督が解任され、2ndステージから新監督が就任して、8月18日の2nd第3節からベンチ入りを果たした。9月18日の磐田戦でをでスタメン出場が4試合で途中出場が4回と1stステージよりは試合に絡めるようになったが、その年は9試合に出場しただけだった[5]

札幌時代[編集]

2000年コンサドーレ札幌に監督就任が決まっていた岡田武史から直接電話でオファーを受け、札幌へ移籍を決意[1]。その年からレギュラーを確保し、副主将として40試合中36試合に出場。J2優勝に貢献した[6]

2001年から札幌はJ1の舞台となり、主将として22試合に出場しJ1残留を果たした。しかし、戦力外通告を受けクラブはフロント入りを要請があり、他クラブからのオファーがあったが悩んだ結果『やめるなら札幌で』ということ29歳で現役を引退した[6][1]

引退後[編集]

引退後は、サッカー解説者及びコンサドーレ札幌のチームアドバイザーを務める。

2006年6月、株式会社クラッキ設立し、代表取締役社長としてサッカースクールを各地で展開するなどした[7]

2009年から北海道のサッカー活性化を目的に道央ブロックリーグに所属する小樽FCに加入[8]

2012年、11月頃に当時の株式会社北海道フットボールクラブ[注 3](以下、HFC)取締役だった石水勲にもう一度、社長に就任してもらおうと依頼した。一度は承諾したが、1週間後に石水から呼ばれ『お前がやれ』と社長就任を薦められた[9]。その場では断ったが、その後、クラブ関係者と会って話していくうちに社長になることを決断した[10]12月20日に行われたHFCの定例取締役会でHFC顧問に就任決定の発表と取締役候補であることも発表された[11]

2013年1月1日付でHFC顧問に就任[4]。2月にクラッキの代表取締役を退任し、取締役に就任[1][4]3月22日に札幌市内で代表取締役会が行われ、HFCの代表取締役社長に就任することが決まった[1][4]

2015年4月28日公益社団法人日本プロサッカーリーグの理事に選任[12]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 市原 - J 15 1 - 1 0 16 1
1996 18 0 13 0 1 0 32 0
1997 14 31 1 8 0 2 0 41 1
1998 8 23 3 6 1 0 0 29 4
1999 J1 9 1 0 0 0 0 9 1
2000 札幌 7 J2 36 2 2 0 4 1 42 3
2001 J1 22 0 1 0 0 0 23 0
通算 日本 J1 118 6 28 1 4 0 150 7
日本 J2 36 2 2 0 4 1 42 3
総通算 154 8 30 1 8 1 192 10

タイトル[編集]

  • 2000年 - J2リーグ優勝

書籍[編集]

出演番組[編集]

現在の出演番組
過去の出演番組

CM出演[編集]

  • 石屋製菓 白い恋人 (2001年、2014年、2015年)
  • エゾデン (2016年)

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ a b 旧 清水市
  2. ^ 現在の静岡市清水区
  3. ^ 現在の株式会社コンサドーレ
出典
  1. ^ a b c d e f g “株式会社北海道フットボールクラブ 代表取締役社長 野々村芳和 就任のお知らせ” (プレスリリース), コンサドーレ札幌, (2013年3月22日), http://web.archive.org/web/20140903033437/http://www.consadole-sapporo.jp:80/news/2013/03/014328.html 2018年11月12日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f 発作に苦しみながらサッカーを続け、20歳で心臓病を克服(2017年10月21日)VICTORY SPORTS NEWS 2018年11月9日閲覧。
  3. ^ コンサドーレ 野々村芳和の経営論(前編)『サッカークラブも働き方改革』 日経XTECH 2018年11月9日閲覧。
  4. ^ a b c d 平成24年12月期有価証券報告書 (PDF) 株式会社コンサドーレ p27 2018年11月12日閲覧。
  5. ^ a b c d e f ジェフ市原でレギュラーを掴むも、出場機会を減らして退団(2017年10月21日)VICTORY SPORTS NEWS 2018年11月9日閲覧。
  6. ^ a b コンサドーレ札幌のJ1昇格に貢献し、29歳の若さで現役引退(2017年10月21日)VICTORY SPORTS NEWS 2018年11月12日閲覧。
  7. ^ コンサドーレ 野々村芳和の経営論 北海道から世界のクラブへ(2017年11月6日)日経BP社 2018年11月12日閲覧。
  8. ^ 野々村氏ら元札幌6戦士が小樽FCに参戦”. 日刊スポーツ (2009年4月15日). 2018年11月12日閲覧。
  9. ^ コンサドーレ 野々村芳和の経営論 サッカークラブも働き方改革(2017年11月6日)日経BP社 2018年11月12日閲覧。
  10. ^ コンサドーレ札幌の社長になったきっかけ(2016年7月24日)ログミー 2018年11月12日閲覧。
  11. ^ 札幌 野々村氏Jクラブ初のOB社長(2012年12月21日付)日刊スポーツ 2018年11月12日閲覧。
  12. ^ “理事選任の件” (プレスリリース), 公益社団法人 日本プロサッカーリーグ, (2015年4月28日), http://www.jleague.jp/release/post-35122/ 2018年11月12日閲覧。 
  13. ^ a b c d e 野々村芳和さんのプロフィール”. HBC北海道放送. 2014年1月26日閲覧。[リンク切れ]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
矢萩竹美
北海道コンサドーレ札幌社長
2013年-
次代:
-