木村和司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 和司
名前
愛称 ミスターマリノス
カタカナ キムラ カズシ
ラテン文字 KIMURA Kazushi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1958-07-19) 1958年7月19日(65歳)
出身地 広島県広島市南区
身長 168cm
体重 64kg
選手情報
ポジション MF / FW
利き足 右足
ユース
1977-1981 明治大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1992 日産自動車 202 (50)
1992-1994 横浜マリノス 31 (1)
通算 233 (51)
代表歴
1979-1987[1] 日本の旗 日本 54 (26)
監督歴
2001  日本 フットサル
2010-2011 日本の旗 横浜F・マリノス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
木村 和司
YouTube
チャンネル
活動期間 2023年3月10日
ジャンル サッカー
登録者数 1460人
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年3月22日時点。
テンプレートを表示

木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(攻撃的MF)、フォワード(ウイング)。元日本代表

日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。国際Aマッチ6試合連続ゴールは日本代表連続得点記録(2020年時点)。

来歴[編集]

初期、大学時代[編集]

広島大河FC[2] から県立広島工業高校(通称:県工)に進学[3]。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。

1977年、明治大学二部政治経済学部へ入学し、サッカー部に所属。同期には佐々木則夫がいる[4]。明治在学中に日本代表に抜擢されるほど注目された。当時の代表監督・渡辺正と同郷でもあったため、大学卒業後は新日本製鐵サッカー部入りが確実とされた。他にも読売からオファーが有り、読売入りに傾いていたが、日産自動車サッカー部加茂周監督と面会したことで[5]1981年(昭和56年)に高校の先輩・金田喜稔も所属していた、日産へ入団した[6]

日産時代[編集]

日産では社員として、サッカー以外の時間はデスクワークなどをこなしていた[7]。1981年4月5日の富士通戦でデビューを飾った[8]。加入後やや伸び悩んだが、1983年に当時日産の監督であった加茂周により、右ウイングから攻撃的MFにコンバートされると大きく成長を遂げた[8]。また、チームも優勝を逃したものの、前年度の8位から2位へと躍進、1同シーズンの天皇杯決勝ではゴールチャンスを演出し、ヤンマーを2-0と破り初タイトルを獲得した[9]1986年(昭和61年)、当時のプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の第1号選手となる。「奥寺(康彦)さんがプロのまま日本リーグに戻ってくるなら、わしもプロにしてくれ」と木村自ら名乗り出たものだった[10]。年俸は1200万円[11]。しかしこの頃から不調に陥り精彩を欠くようになり、日本代表からも外れた。1986年1月1日の天皇杯決勝、フジタ工業戦では先制ゴールを決め、チームに優勝をもたらした[8] 。日産の日本リーグ・JSLカップ天皇杯の三冠達成、木村自身も復調し、1988-89シーズン、11節の全日空戦では、木村としては珍しいヘディングでのゴールを決め(自身の決めたゴールで最も印象に残るゴールとしている[8] 。)、日産は前期無敗となる11連勝を達成した[8] 、同年のJSLオールスターサッカーでは1ゴールを決め、PK戦でもPKを成功させて大会MVPを受賞した[12]。1989年の日本リーグ年間最優秀選手賞に5年ぶりに返り咲き健在をアピールしたが、日本代表に再び招集されることはなかった。1990年、日本サッカーリーグ25周年を記念して開催されたバイエルン・ミュンヘンとの親善試合では、日本選抜としてクラウス・アウゲンターラーをかわして先制ゴールを挙げた[13]。同年のJSLカップ決勝、古河電工戦ではチームの3点目を決めて優勝に貢献した[14]

1991年、これまでレギュラーを務めてきたが、前期でチームは低迷したため、後期のリーグ戦ではオスカー監督がチームのテコ入れを図るため、ベンチスタートにさせることもあった[15]。清水監督が就任すると再びレギュラーに返り咲き、1992年元旦、第71回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の読売戦では、延長戦に入りこぼれ球をペナルティーエリア外からのボレーシュートで決めて、これが決勝点となった[16]。1993年元旦、第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の読売戦では、1点目の水沼のゴールのきっかけを作ると、延長戦ではCKで神野卓哉の決勝ゴールをアシストした[17]

マリノス発足後[編集]

1993年、Jリーグ発足に伴って横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)と契約。「ミスター・マリノス」と呼ばれた[10][18]。Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦では先発フル出場、ショートコーナーからエヴァートンの同点ゴールをアシスト[19]、更にディアスの決勝ゴールの起点となった[20]。6月30日の浦和レッズ戦で巧みなループシュートから、Jリーグ初ゴールにしてJリーグでは唯一のゴールを決めた[21]。7月17日にはJリーグオールスターサッカーに7番を着用して先発出場[22]、スルーパスで三浦知良のゴールをアシストした[23]。後期の開幕戦となったヴェルディ戦では、スルーパスでディアスのゴールをアシストして3-0で勝利、(当時拮抗した試合が多かった両チームの対戦としては)記録的大勝に貢献した[24]。この年、ベンチスタートになることもあったが、年間を通じてパスやFKから多くのアシストを決めた。翌1994年11月5日のサンフレッチェ広島戦で63分から出場[25]、その後もベンチ入りはするも、この試合がリーグ戦での最後の試合出場となった。天皇杯では準決勝まで勝ち上がり、準決勝のセレッソ大阪戦に先発出場(大きな見せ場を作れないまま、85分に山田隆裕との交代となった[26]。)、1-2と破れ、これが現役最後の公式戦となった[8]。同年12月27日、ひらめいたという理由で現役引退を発表した[8]。引退会見では引退という表現を嫌い、卒業という言葉を用いた[8]。「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残し、その飽くなき向上心は記者・ファンに強い印象を残した[27]。1995年7月30日、三ツ沢公園球技場でライバルチームであったヴェルディ川崎(現役選手やジョージ与那城らOBからなる)との引退試合が開催された[28]

日本代表[編集]

1979年(昭和54年)、明治大学2年で日本代表入りすると、同年5月27日のフィオレンティーナとのフレンドリーマッチで先発出場、初出場を果たし[29]、以降代表チームの常連となった。1982年1月20日のゼロックス・スーパーサッカーディエゴ・マラドーナを擁したボカ・ジュニアーズ戦では直接FKからゴールを奪った[8][30]1983年(昭和58年)のロサンゼルス五輪予選前までは、右ウイングのスペシャリストとしてプレーしたが、所属クラブと同様に攻撃的MFとなり、攻撃の核となって80年代半ばの日本代表を支えた。1984年、アウエー韓国で開催された第12回の日韓定期戦では直接FKで得点を挙げ、アウエーの地では初となる日韓戦の勝利に貢献した[31]

1985年2月23日メキシコW杯アジア1次予選では、第1戦シンガポール戦で1ゴールを決めた(CKから直接ゴールを挙げた)[32]。5月18日の第4戦シンガポール戦から、同年10月26日メキシコW杯アジア最終予選第1戦韓国戦まで、1985年の1年間だけで国際Aマッチ6試合連続ゴールを成し遂げた。これは未だに日本代表連続得点記録である(2011年時点)[33][34]1987年(昭和62年)のソウル五輪予選前に、プレー振りが低調であったため、石井義信監督は悩んだ末に木村を外す決断を下した[35]

1989年には5年ぶりに日本リーグの年間最優秀選手賞に返り咲くなど復調したが、代表に召集されることはかった。1993年にドーハで開催されたワールドカップアジア最終予選時、代表監督を務めていたハンス・オフトラモス瑠偉の控えとして招集を検討していたが、実際に選出される事はなかった。ラモス瑠偉は仮にワールドカップ出場権を得られても代表引退を考えていたこともあり、出場権を得れば、オフトが自分の代わりにワールドカップ本大会のメンバーに木村を招集するだろうと考えていた。しかし、出場権を得られなかったことを前述の理由もあり謝罪したという[36]

指導者時代[編集]

引退後は指導者をめざし、1997年(平成9年)にS級ライセンスを取得。2001年(平成13年)にはフットサル日本代表の監督を務めた。また、夫人とともに有限会社シュートを設立し(夫人が社長)、サッカーの解説業(主にNHK BS1Jリーグ」解説)やサッカースクールなどの運営を行った。2007年(平成19年)には横河武蔵野FCのスーパーバイザーを務めた。

2010年(平成22年)シーズンより横浜FMの監督に就任[37]。自身初の監督業挑戦となった。1年目は8位に留まり、2年目の2011年(平成23年)はシーズン中旬まで優勝争いをしていたが秋に入ってから失速し5位に終わる。同年12月29日の天皇杯準決勝で敗れ翌年のACL出場が消滅し、翌12月30日に解任された。

一方で2011年のリーグ戦5位という成績は横浜FMが最後に優勝した2004年以降では最高の成績で、賞金圏内は2007年以来4年ぶりであったが、後半戦の失速を立て直せなかったことや、結果に拘るために守備的なサッカーをしたことが「内容がない」と判断され解任となった[38][39]。その後、うつに襲われるようになったという[40]

2012年よりサッカー解説者として活動しており、NHK BS1「プレミアリーグ」で「ゲスト解説」扱いで務めており、2014年から正式に専属解説に復帰した。

2015年1月に体調不良を訴え、脳梗塞で病院に運ばれたことが、同年3月になって公表された[41]。同年8月、NHKBS1 ドイツ・ブンデスリーガ開幕節「ドルトムント×メンヘングラートバッハ」の解説より復帰した。

2020年9月10日、これまでの日本サッカー界への功績が評価され、日本サッカー殿堂入りすることが発表された[42]

人物・プレースタイル[編集]

  • 高校や大学、日産加入当初はウインガーとしてプレーしていたが、1983年(昭和58年)に同じウイングを専門とする水沼貴史の入団をきっかけに、加茂周監督によって攻撃的MFにコンバート。以降、ゲームメーカーとして中盤に君臨し日産黄金時代を築く原動力となった[43][44]ラモス瑠偉らと共に日本サッカー冬の時代を支えた選手の一人であり、「日産の背番号10といえば木村和司」と言わしめ、80年代半ばには日産のみならず、「日本の10番といえば木村和司」、当時の代表は「木村のチーム」とまで言わしめた程の存在であった[45][46][47][48][49]1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)、二年連続日本年間最優秀選手賞フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989年も同賞受賞。三度の受賞は釜本邦茂7度に次ぐ杉山隆一と並ぶ史上2位。1984年アシスト王、アシスト数12はJSL記録。
  • 現役時代はフリーキックの名手として知られた[50]。自由自在にボールをコントロールできるフリーキックは、いまだかつて日本人プレイヤーが見せたことのないものだった[10]。その正確なボールコントロールと鋭い変化から「魔術師」の異名で呼ばれ、日本リーグ、国際試合で数々の名場面を作り上げた。特に1985年(昭和60年)、ワールドカップメキシコ大会最終予選のホーム韓国戦、試合には敗れワールドカップに出場できなかったものの、40メートル手前からみせたフリーキックは、80年代の日本サッカーにおける屈指の名シーンとして伝説化しており、現在でもサッカー番組でフリーキックが特集される際には、必ずといっていいほど紹介されている[51][52][53]高橋陽一は、日本代表の試合で「パッと頭に浮かぶのは、あの木村和司さんの直接フリーキック」と述べている[54]。出身地の広島を拠点とする中国新聞では「フリーキック自由自在」というコラムを設けていた。
    フリーキックを蹴り始めるきっかけは、テレビでブラジル代表ペレリベリーノジーコがFKで直接ゴールに放り込むのを見て、大学在籍時に、遊びとして練習に励んだ[7]。足の甲は蹴り過ぎで変型しているという。もともと高校時代はウイングだったため、センタリング(クロス)は、インフロント(足甲の内側)部分を多用する事もあり、それがFKに生かされた。当時の日本にはまだ、FKを直接決める事で有名な選手はいなかった。1980年代当時、芸術的なフリーキックは世界のサッカーでは目にしても、日本サッカーでは、フリーキックが話題になることは、ほとんどなかった[50]。本格的に練習し始めたのは日産に入ってからで、チームが特注で作ってくれた鉄骨を組み合わせたものにネットをつけた簡単な壁を置いて練習した。練習相手に選んだのが新人だった松永成立。最初はヘタでどこに蹴っても入っていたが、練習してるうち段々松永が上手くなって、両方がいろいろ考え始めて上達していく相乗効果があったという。冗談で「シゲ(松永)はワシとしょっちゅう練習していたから日本代表に入れたんだ」とよく言った[51][55]

エピソード[編集]

  • 木村が代表のスター選手だった1984年(昭和59年)夏、佐山一郎は雑誌『Number』からの依頼で木村にインタビューを申し込んだ。日産の広報の担当者にそれを話すと、サッカーの専門誌以外から取材が来たのは初めてと驚かれた。当時のサッカーは『Number』ですら同じ年9月20日号の釜本邦茂引退記念号で初めてサッカー特集が成立するというマイナー状況だった。「大丈夫ですか、慣れていないから喋んないかもしれませんよ」と言われインタビューをすると、実際木村はほとんど喋らず、答えたあとに意味不明の笑いが漏れだすのにも驚嘆した。しかし会うたび喋るのがうまくなったという[56]
  • 明治大学時代の同期生であるサッカー日本女子代表監督の佐々木則夫とは、同じ寮で過ごした仲間であり今でも親交が深い。なでしこジャパンが初優勝を決めたワールドカップ決勝戦の試合も、その日は直前に自身が指揮する横浜F・マリノスの試合があったにも関わらず、試合後にほぼ徹夜でテレビ観戦しており、なでしこジャパンと佐々木にも「ホントにすごい。たいしたもんよ。世界一だからな。日本一とは違うよ。涙も出てきて感動した。ただ、眠い」と祝福のコメントをした。[4]
  • 1986年奥寺康彦と共にスペシャル・ライセンス・プレーヤー第1号となるが、西ドイツ帰りの奥寺の年俸4000万円に対して木村の年俸は1200万円であった。この時は各メディアに報じられ世間の関心も高かったが、某運動部記者が木村に「1200万円では少なすぎて夢がない。嘘でもいいから4000万円と言ってくれないかな」というと、木村は「嘘はつきたくない」と拒否。しかし記者がしつこく押し問答が続いた後、折衷案として4000万円と1200万円の間を取る格好で2400万円で落ち着いた。翌日の新聞紙上には木村の年俸は「2400万円」と大々的に報じられた[57]
  • 木村の夫人は、サッカーファンが多くはなかった1960年代、日本サッカーリーグ(JSL)創設の頃からのサッカーの追っかけで、まだ原宿岸記念体育会館の小さな一室にあったサッカー協会(JFA)に、全日本(日本代表)の勝利を祈り千羽鶴を持ってきたり、よく遊びに来ていた一人だったという[58]
  • 「ラグビーは紳士がやる野蛮なスポーツ、サッカーは野蛮人がやる紳士的なスポーツ」という発言を『Number』誌上に残している。
  • かつての自身のブログ「木村和司のちょこっと、言うちゃろうか。」で、「60年、70年代はガマさんの時代やな、80年代はワシや。90年代はスケールダウンしてカズラモスあたりかの。2000年はまだいないんよな。80年代のワシはかなりイワシテいたのぅ。」と話して物議を醸したことがある[59]。 
  • マリノス監督時には広島弁を交えたコメントが話題となった[45][60][61]。監督就任時のコメント「わしが何とかしちゃる」のメッセージ入りTシャツや「和」のロゴ入りTシャツが商品化されよく売れた。また木村がよく使う言葉で「相手を翻弄する」という意味合いを持つ「ちゃぶる」もグッズ化の計画が上がり、Jリーグ日本人監督のグッズが次々と誕生するのは異例の事態であった[62]

所属クラブ[編集]

ユース経歴
プロ経歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1981 日産 25 JSL2部 18 6 2 2 2 0 22 8
1982 10 JSL1部 18 0 0 0 2 2 20 2
1983 18 5 4 6 5 2 27 13
1984 17 8 0 0 4 2 21 10
1985 21 6 4 3 4 3 29 12
1986-87 20 2 5 1 4 1 29 4
1987-88 14 1 1 0 3 1 18 2
1988-89 22 8 5 4 5 1 32 13
1989-90 22 8 4 1 5 0 31 5
1990-91 10 3 4 2 4 2 18 7
1991-92 22 3 3 1 5 1 30 5
1992 横浜M - J - 9 0 5 3 14 3
1993 21 1 2 0 1 0 24 1
1994 10 0 3 0 4 1 17 1
通算 日本 J 31 1 14 0 10 4 55 5
日本 JSL1部 202 44 30 18 41 18 273 80
日本 JSL2部 18 6 2 2 2 0 22 8
総通算 251 51 46 20 53 22 350 93

JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 7回出場:1982年、1984年、1986年、1987年、1989年、1991年、1992年

・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 4得点:1982年、1984年、1989年、1992年

その他の公式戦

タイトル[編集]

日産自動車[編集]

  • MVP3回 (1983年、1984年、1989年)
  • 日本サッカーリーグ優勝 2回 (1988-1989、1989-1990)
  • JSLカップ優勝 3回 (1988年、1989年、1990年)
  • 天皇杯優勝 5回 (1983年、1985年、1988年、1989年、1991年)
  • アジアカップウィナーズカップ優勝 1回 (1991-1992)
  • アシスト王 (1984年)
  • JSL東西対抗戦(オールスター戦)最優秀選手賞 2回 (1982年、1989年)
    • 日本リーグ1部通算202試合44得点

横浜マリノス[編集]

  • 天皇杯優勝 1回 (1992年)
  • アジアカップウィナーズカップ優勝 1回 (1992-1993)
  • 日本年間最優秀選手賞 (1983年、1984年、1989年)
    • Jリーグ通算31試合1得点

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 54試合 26得点(1979-1987)[1]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1979 3 0 9 0 12 0
1980 9 4 11 1 20 5
1981 1 0 0 0 1 0
1982 8 1 16 4 24 5
1983 10 8 18 4 28 12
1984 7 4 5 2 12 6
1985 10 7 8 3 18 10
1986 6 2 6 1 12 3
1987 0 0 3 0 3 0
通算 54 26 76 15 130 41

得点数[編集]

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1980年3月24日 マレーシアクアラルンプール フィリピンの旗 フィリピン 10-0 勝利 モスクワ五輪予選
2 1980年3月28日 インドの旗 インド 2-0 勝利
3 1980年12月22日 香港 シンガポールの旗 シンガポール 1-0 勝利 1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
4 1980年12月28日 ポルトガルの旗 マカオ 3-0 勝利
5 1982年11月21日 インドニューデリー イランの旗 イラン 1-0 勝利 アジア競技大会
6 1983年9月4日 日本東京 フィリピンの旗 フィリピン 7-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
7
8 1983年9月7日 10-1 勝利
9
10
11
12
13 1983年9月15日 チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ 2-0 勝利
14 1984年3月6日 ブルネイバンダルスリブガワン ブルネイの旗 ブルネイ 7-1 勝利 親善試合
15
16 1984年4月15日 シンガポール タイ王国の旗 タイ 2-5 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
17 1984年9月30日 大韓民国ソウル 大韓民国の旗 韓国 2-1 勝利 日韓定期戦
18 1985年2月23日 シンガポール シンガポールの旗 シンガポール 3-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選
19 1985年5月18日 日本、東京 5-0 勝利
20 1985年5月26日 ウルグアイの旗 ウルグアイ 1-4 敗戦 キリンカップ
21 1985年6月4日 日本、名古屋 マレーシアの旗 マレーシア 3-0 勝利
22 1985年8月11日 日本、神戸 香港の旗 香港 3-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選
23 1985年9月22日 香港 2-1 勝利
24 1985年10月26日 日本、東京 大韓民国の旗 韓国 1-2 敗戦
25 1986年9月20日 大韓民国、太田 ネパールの旗 ネパール 5-0 勝利 アジア競技大会
26

指導者経歴[編集]

監督成績[編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 ナビスコ杯 天皇杯
2010 J1 横浜FM 8位 34 51 15 6 13 予選リーグ敗退 4回戦敗退
2011 5位 34 56 16 8 10 ベスト8 ベスト4
J1通算 - 68 - 31 14 23

テレビ出演[編集]

  • NHKBS1 サッカ-放送解説 (不定期出演)
  • NHK ワールドカップ解説 (2002年大会、2006年大会、2010年大会、2014年大会、2018年大会)
  • 木梨憲武のVS (2005) (ラモス瑠偉との対談)
  • 超星艦隊セイザーX 第21話「勝利へのフリーキック」木村和司本人役として出演(2006年2月25日)
  • Jの記憶 「#100 1985年10月26日 ワールドカップの扉に手をかけた瞬間」テレビ朝日 (2010)
  • 証言ドキュメント 日本サッカーの50年 「W杯への遠い道のり」NHK (2010)
  • 人生が変わる1分間の深イイ話 「超アブナイサッカー伝説SP」日本テレビ (2012)
  • 天皇杯を彩った侍たち NHK 「木村和司」(2015)
  • 爆報!THEフライデー あのスポーツ選手は今…壮絶!引退後の人生SP TBS (2017)
  • 岡田武史とレジェンドたちが斬るワールドカップ NHKBS1 (2018)
  • 『あの試合をもう一度!スポーツ名勝負』Jリーグ開幕戦『ヴェルディ川崎対横浜マリノス』(試合放送前後のトーク) NHKBS版 (2020年4月5日)
  • 『あの試合をもう一度!スポーツ名勝負』Jリーグ開幕戦『ヴェルディ川崎対横浜マリノス』(試合放送前後のトーク、副音声解説者の一人として) NHK総合版 (2020年6月28日) etc.

脚注[編集]

  1. ^ a b “木村 和司”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ka/kazushi_kimura.html 
  2. ^ 木村は同FC創設時から在籍。後輩には森島寛晃田坂和昭平沢政輝畑喜美夫などがいる。
  3. ^ 二学年上に楚輪博、一学年上に金田喜稔石崎信弘、一学年下に猿沢茂沖宗敏彦沖野隆幸ら。
  4. ^ a b 横浜M和司監督「たいしたもんよ」同期の佐々木監督を祝福”. スポーツ報知 (2011年7月19日). 2011年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月21日閲覧。
  5. ^ 31年ぶり開幕戦対決!25日東京Vー横浜FMへ伝説対談…木村和司氏「伝統に」北澤豪氏「この試合に懸けてもいい」”. スポーツ報知 (2024年2月24日). 2024年3月9日閲覧。
  6. ^ 『モダンサッカーへの挑戦』加茂周講談社、p58-59、1994年
  7. ^ a b Number 1992年12月号 no.305 p.76-77
  8. ^ a b c d e f g h i 週刊サッカーマガジン 1995年2月1日 no.490号 p.123-125 ベースボールマガジン社
  9. ^ 代表クラスが6人加入。1983年の日産大補強【連載◎J前夜を歩く第14回】”. soccermagazine. 2020年4月17日閲覧。
  10. ^ a b c 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションII』文藝春秋、1998年、p151-164
  11. ^ 加茂周『モダンサッカーへの挑戦』 (講談社)
  12. ^ サッカーストライカー 1989年12月号 p.8-10 小学館
  13. ^ サッカーストライカー 1990年4月号 p.3-5
  14. ^ サッカーストライカー 1990年11月号 p.27-31 学研
  15. ^ ストライカー 1991年7月号 付録 オスカーのインテリジェントサッカー全科 p.3-10
  16. ^ サッカーマガジン 1992年3月号 no.395 p.5-11 壮絶120分日産延長のゴールラッシュで2年ぶり栄冠 ベースボールマガジン社
  17. ^ サッカーマガジン 1993年2月21日号 no.409 p.5-10 ベースボールマガジン社
  18. ^ vol.16 「-木村和司杯-」|木村和司のシュート|コラム|読む
  19. ^ Jリーグ開幕戦「神奈川ダービー」に、“運命”を感じてしまうワケ”. gendai.ismedia. 2021年3月5日閲覧。
  20. ^ 岡ちゃん連覇 悲運俊輔は号泣/4度目V横浜の軌跡”. www.nikkansports.com. 2020年4月17日閲覧。
  21. ^ 木村和司”. data.j-league. 2020年4月9日閲覧。
  22. ^ 93JリーグKodakオールスターサッカー”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  23. ^ 週刊サッカーマガジン 1993年8月19日 no.422号 p.39-47
  24. ^ 週刊サッカーマガジン 1993年8月19日 no.422号 p.20-22
  25. ^ 94JリーグNICOSシリーズ 第18節”. data.j-league. 2020年4月9日閲覧。
  26. ^ 週刊サッカーダイジェスト 1995年1月18日 p.118
  27. ^ #39「新たなる船出」~帰ってきたミスターマリノス・木村和司~”. BS日本. 2013年9月6日閲覧。
  28. ^ 憧れのMF、木村和司と水沼貴史の去り際に”. soccermagazine.jp. 2020年4月9日閲覧。
  29. ^ ジャパンカップ1979”. samuraiblue.jp. 2020年4月17日閲覧。
  30. ^ ゼロックス・スーパーサッカー 日本代表 X ボカ・ジュニアーズ”. samuraiblue.jp. 2020年4月9日閲覧。
  31. ^ サッカー日韓戦“激闘の歴史” 好ゲームもあれば「猿まね」「独島メッセージ」の問題”. dot.asahi. 2021年3月10日閲覧。
  32. ^ 日本 対シンガポール”. samuraiblue.jp. 2020年12月11日閲覧。
  33. ^ わがまま木村和司”. 2011年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月30日閲覧。 木村和司オフィシャルサイト / 有限会社シュート
  34. ^ 岡崎カタール戦で4戦連発、カズに並ぶ - 2010年南アフリカW杯ニュース
  35. ^ Jリーグ誕生を促した雨中の中国戦――晩年に遺された指揮官の舞台裏証言録”. soccerdigestweb. 2021年3月10日閲覧。
  36. ^ Number 2013年10月17日号 no.839 p.28-31
  37. ^ 来シーズンの監督についてのお知らせ”. 2009年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月6日閲覧。
  38. ^ 横浜M・和司監督、無念…電撃解任 デイリースポーツonline
  39. ^ 結果にこだわり 木村監督「ワシらしいサッカーができなかった」 スポーツニッポン
  40. ^ 元サッカー日本代表の木村和司氏、脳梗塞、糖尿、うつで闘病…右半身まひに”. デイリースポーツ online (2017年10月13日). 2022年5月8日閲覧。
  41. ^ 木村和司氏が脳梗塞…現在は回復傾向と所属事務所(ゲキサカ2015年3月6日 3月7日閲覧)
  42. ^ 木村和司氏とトルシエ氏が日本サッカー殿堂に掲額”. www.nikkansports.com (2020年9月10日). 2020年9月10日閲覧。
  43. ^ 木村和司氏 横浜M来季監督決定的/サッカー”. 2009年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月30日閲覧。 デイリースポーツonline(2009年11月9日時点のアーカイブ
  44. ^ 「ミスターマリノス 木村和司 栄光の軌跡」
  45. ^ a b カズシ語録がオシム語録を超える日 (1)”. 2010年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月9日閲覧。 スポーツナビ
  46. ^ カズシ語録がオシム語録を超える日 (2)”. 2010年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月9日閲覧。
  47. ^ 「アディダス パフォーマンスセンター コレットマーレみなとみらい」オープニングイベント
  48. ^ 木村和司オフィシャルサイト/有限会社シュート|所属:鈴木正治、金山友紀オフィシャル[リンク切れ]
  49. ^ 日刊スポーツ連載「世界4強 岡田ジャパン 奇跡への条件」2010年4月7日9面
  50. ^ a b 阿部が持つ魔法の杖。 - WEBサッカーマガジン|Keiichi Chinoの辛口コラム[リンク切れ]
  51. ^ a b 連載「W杯がやってくる」「世界」を感じさせたFK 木村和司1”. 2001年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年6月29日閲覧。
  52. ^ 和司監督、俊輔よ「伝説のFK」再現しろ!”. 2010年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月30日閲覧。 サンケイスポーツ
  53. ^ 第221回 フリーキックとは何か(下)フットボールの真実 大住良之”. 2008年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月30日閲覧。
  54. ^ 二宮寿朗 (2018年6月22日). “サッカー日本代表 激闘日誌 漫画家・高橋陽一にとってのサッカー日本代表”. Number Web. 文藝春秋社. 2018年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月19日閲覧。
  55. ^ 『サッカークリニック』2008年4月号 p53-57 (ベースボール・マガジン社)
  56. ^ 『Jリーグよ! サッカーめざめの年に』佐山一郎 (オプトコミュニケーションズ、1994年1月)
  57. ^ 木之本興三『日本サッカーに捧げた両足 真実のJリーグ創世記』ワニブックス、2013年、p144-145
  58. ^ サッカー批評』20号 p33 (双葉社、2003年9月)
  59. ^ 00年代は誰の時代? / サッカー瞬刊誌 サポティスタ
  60. ^ マリノス・木村和司は名将か?「会見力」で試される監督の能力。
  61. ^ 和司監督、初陣完封負けで決意の1ミリ刈り”. 2010年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月12日閲覧。 デイリースポーツonline
  62. ^ 和司監督「ちゃぶれ」語源不明もグッズ化 - サッカーニュース

参考文献[編集]

  • 「ズームアップ 木村和司」『サッカーマガジン』1979年7月25日号
  • 「クローズアップ「青春」 木村和司」『サッカーマガジン』1981年6月号
  • 「ワールドカップ予選日韓対決」『サッカーマガジン』1986年1月号
  • 「復活、日産!天皇杯2度目の優勝」『サッカーマガジン』1986年3月号
  • 『木村和司の攻撃サッカー・「背番号10」のプレー』 (池田書店、1995年) ISBN 4262162435
  • 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年
  • 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』双葉社、2007年
  • 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションII』文藝春秋、1998年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]