木村和司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
木村 和司 Football pictogram.svg
名前
愛称 カズシ、ミスター・マリノス (初代)
カタカナ キムラ カズシ
ラテン文字 KIMURA Kazushi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1958年7月19日(55歳)
出身地 広島市南区
身長 168cm
体重 64kg
選手情報
ポジション MF/FW
利き足 右足
代表歴
1979-1987[1] 日本の旗 日本 54 (26)
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

木村 和司(きむら かずし、1958年(昭和33年)7月19日 - )は、広島市南区大河出身のサッカー選手サッカー解説者サッカー指導者。ポジションはMF(攻撃的MF)またはFW(ウイング)。日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。国際Aマッチ6試合連続ゴールという日本代表連続得点記録を持つ(2011年時点)[2]

来歴[編集]

現役時代[編集]

広島大河FC[3]から県立広島工業高校(通称:県工)に進学[4]。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。その後明治大学二部政治経済学部へ入学。同期には現なでしこジャパン監督の佐々木則夫がいる[5]1981年(昭和56年)に高校の先輩・金田喜稔のいる日本サッカーリーグ日産自動車サッカー部(後の横浜F・マリノス)へ入部した[6]

1979年(昭和54年)、明治大学2年で日本代表入りすると代表チームの常連となった。1983年(昭和58年)のロサンゼルス五輪予選前までは右ウイングのスペシャリストとしてプレーしたが、所属クラブと同様に攻撃的MFとなり、攻撃の核となって80年代半ばの日本代表を支えた。しかし1987年(昭和62年)のソウル五輪予選前、石井義信監督が守備的サッカーに方針を転換した事で代表から落選した。

1986年(昭和61年)、当時のプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の第1号選手となる。「奥寺(康彦)さんがプロのまま日本リーグに戻ってくるなら、わしもプロにしてくれ」と木村自ら名乗り出たものだった[7]。年俸は1200万円[8]。国産プロ第1号としての重責や、W杯予選敗退のショック等もあり、80年代後半には成績が低迷。日本代表チームからも攻撃的MFのポジションを水沼に譲る形で遠ざかっている。後に日産の日本リーグ・JSLカップ天皇杯の三冠達成で再び脚光は浴びたが、以後日本代表に再び招集されることはなかった。初国産プロ選手になった途端、対戦相手から執拗な守備に悩まされる事となり「こりゃあかん」とプロ契約半ば志砕かれ、所帯を持ちながらサッカーで生計を立てるのは難しいと苦悩を妻に漏らしていた。

1993年(平成5年)、Jリーグ発足に伴って横浜マリノスと契約。既に全盛期は過ぎたものの「ミスター・マリノス」と呼ばれ[7][9]、翌1994年(平成6年)に現役を引退した。引退会見では「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残し、その飽くなき向上心は記者・ファンに強い印象を残した[10]

指導者時代[編集]

引退後は指導者をめざし、1997年(平成9年)にS級ライセンスを取得。2000年(平成12年)から2001年(平成13年)までフットサル日本代表の監督を務めた。また、夫人とともに有限会社シュートを設立し(夫人が社長)、サッカーの解説業(主にNHK BS1Jリーグ」解説)やサッカースクールなどの運営を行った。2007年(平成19年)には横河武蔵野FCのスーパーバイザーを務めた。

2010年(平成22年)シーズンより古巣である横浜F・マリノスの監督に就任[11]。自身初の監督業挑戦となった。1年目は8位に留まり、2年目の2011年(平成23年)はシーズン中旬まで優勝争いをしていたが秋に入ってから失速し5位に終わる。同年12月29日の天皇杯準決勝で敗れ翌年のACL出場が消滅し、翌12月30日に解任された。

一方で2011年のリーグ戦5位という成績はマリノスが最後に優勝した2004年以降では最高の成績で、賞金圏内は2007年以来4年ぶりであり、一定の成績は残したともいえるが、後半戦の失速を立て直せなかったことや、結果に拘るために守備的なサッカーをしたことが「内容がない」と判断され解任となった[12][13]

2012年現在再びサッカー解説者として活動しており、NHK BS1「プレミアリーグ」で「ゲスト解説」扱いで務めている。

人物・プレースタイル[編集]

高校や大学、日産加入当初はウインガーとしてプレーしていたが、1983年(昭和58年)に同じウイングを専門とする水沼貴史の入団をきっかけに、加茂周監督によって攻撃的MFにコンバート。以降、ゲームメーカーとして中盤に君臨し日産黄金時代を築く原動力となった[14][15]ラモス瑠偉らと共に日本サッカー冬の時代を支えた選手の一人であり、「日産の背番号10と言えば木村和司」と言わしめ、80年代半ばには日産のみならず、「日本の10番と言えば木村和司」、当時の代表は「木村のチーム」とまで言わしめた程の存在であった[16][17][18][19][20]1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)、二年連続日本年間最優秀選手賞フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989年も同賞受賞。三度の受賞は釜本邦茂7度に次ぐ杉山隆一と並ぶ史上2位。1984年アシスト王、アシスト数12はJSL記録。1985年5月18日メキシコW杯アジア1次予選グループ4B第4戦シンガポール戦から同年10月26日メキシコW杯アジア最終予選第1戦韓国戦まで、1985年の1年間だけで国際Aマッチ6試合連続ゴールを成し遂げた。これは未だに日本代表連続得点記録である(2011年時点)[2][21][22]。また天皇杯に滅法強く、決勝に7回行って6回優勝[23]、いずれも大活躍し"ミスター天皇杯"とも称された[24]

現役時代はフリーキックの名手として知られた[25]。自由自在にボールをコントロールできるフリーキックは、いまだかつて日本人プレイヤーが見せたことのないものだった[7]。その正確なボールコントロールと鋭い変化から「魔術師」の異名で呼ばれ、日本リーグ、国際試合で数々の名場面を作り上げた。特に1985年(昭和60年)、ワールドカップメキシコ大会最終予選のホーム韓国戦、試合には敗れワールドカップに出場できなかったものの、40メートル手前からみせたフリーキックは、80年代の日本サッカーにおける屈指の名シーンとして伝説化しており、現在でもサッカー番組でフリーキックが特集される際には、必ずといっていいほど紹介されている[26][27][28]。出身地の広島を拠点とする中国新聞では「フリーキック自由自在」というコラムを設けていた。

エピソード[編集]

  • 木村の代名詞であるフリーキック(以下FK)だが、蹴り始めるきっかけはテレビで観たワールドカップで、ブラジル代表ペレリベリーノがFKで直接ゴールに放り込むのを見たこと。蹴り始めたのは大学に入ってから。"FKでも直接ゴールを狙えるんだ"と思い、遊び感覚で練習に励んだ。とはいえ足の甲は蹴り過ぎで変型しているという。もともと高校時代はウイングだったため、センタリング(クロス)は、インフロント(足甲の内側)部分を多用する事もあり、それがFKに生かされた。当時の日本にはまだ、FKを直接決める事で有名な選手はいなかった。1980年代当時、芸術的なフリーキックは世界のサッカーでは目にしても、日本サッカーでは、フリーキックが話題になることは、ほとんどなかった[25]。本格的に練習し始めたのは日産に入ってからで、チームが特注で作ってくれた鉄骨を組み合わせたものにネットをつけた簡単な壁を置いて練習した。練習相手に選んだのが新人だった松永成立。最初はヘタでどこに蹴っても入っていたが、練習してるうち段々松永が上手くなって、両方がいろいろ考え始めて上達していく相乗効果があったという。冗談で「シゲ(松永)はワシとしょっちゅう練習していたから日本代表に入れたんだ」とよく言った[29][26]
  • 明治在学中の木村を日本代表に最初に抜擢したのは、当時の代表監督・渡辺正だが、木村は"非常にコントロールの難しい選手"といわれ、練習嫌い、わがままという評判があり、渡辺と同郷でもあったため大学卒業後は新日本製鐵サッカー部入りが確実とされ、他はどこも手を出さなかった。しかし諸般の事情により日産に入部した[30]
  • 木村が代表のスター選手だった1984年(昭和59年)夏、佐山一郎は雑誌『Number』からの依頼で木村にインタビューを申し込んだ。日産の広報の担当者にそれを話すと、サッカーの専門誌以外から取材が来たのは初めてと驚かれた。当時のサッカーは『Number』ですら同じ年9月20日号の釜本邦茂引退記念号で初めてサッカー特集が成立するというマイナー状況だった。「大丈夫ですか、慣れていないから喋んないかもしれませんよ」と言われインタビューをすると、実際木村はほとんど喋らず、答えたあとに意味不明の笑いが漏れだすのにも驚嘆した。しかし会うたび喋るのがうまくなったという[31]
  • 明治大学時代の同期生であるなでしこジャパン佐々木則夫監督とは、同じ寮で過ごした仲間であり今でも親交が深い。なでしこジャパンが初優勝を決めたワールドカップ決勝戦の試合も、その日は直前に自身が指揮する横浜F・マリノスの試合があったにも関わらず、試合後にほぼ徹夜でテレビ観戦しており、なでしこジャパンと佐々木監督にも「ホントにすごい。たいしたもんよ。世界一だからな。日本一とは違うよ。涙も出てきて感動した。ただ、眠い」と祝福のコメントをした。[5]
  • 1986年奥寺康彦と共にスペシャル・ライセンス・プレーヤー第1号となるが、西ドイツ帰りの奥寺の年俸4000万円に対して木村の年俸は1200万円であった。この時は各メディアに報じられ世間の関心も高かったが、某運動部記者が木村に「1200万円では少なすぎて夢がない。嘘でもいいから4000万円と言ってくれないかな」というと、木村は「嘘はつきたくない」と拒否。しかし記者がしつこく押し問答が続いた後、折衷案として4000万円と1200万円の間を取る格好で2400万円で落ち着いた。翌日の新聞誌上には木村の年俸は「2400万円」と大々的に報じられた[32]
  • 木村の夫人は、サッカーファンが多くはなかった1960年代、日本サッカーリーグ(JSL)創設の頃からのサッカーの追っかけで、まだ原宿岸記念体育会館の小さな一室にあったサッカー協会(JFA)に、全日本(日本代表)の勝利を祈り千羽鶴を持ってきたり、よく遊びに来ていた一人だったという[33]
  • 「ラグビーは紳士がやる野蛮なスポーツ、サッカーは野蛮人がやる紳士的なスポーツ」という発言をナンバー誌上に残している。
  • かつての自身のブログ「木村和司のちょこっと、言うちゃろうか。」で、「60年、70年代はガマさんの時代やな、80年代はワシや。90年代はスケールダウンしてカズラモスあたりかの。2000年はまだいないんよな。80年代のワシはかなりイワシテいたのぅ。」と話して物議を醸したことがある[34]
  • 解説者時代のコメントには、良くも悪くもアバウトなものが多い。2000年シーズン前にテレビ番組で順位予想を行った際には、その年からJ1に昇格してきた川崎フロンターレと、FC東京を、「よく見てないんで分からないんですよねー」というコメントとともに、それぞれブービーと最下位に予想していた。 
  • マリノス監督時には広島弁を交えたコメントが話題となった[35][36][16]。監督就任時のコメント「わしが何とかしちゃる」のメッセージ入りTシャツや「和」のロゴ入りTシャツが商品化されよく売れた。また木村がよく使う言葉で「相手を翻弄する」という意味合いを持つ「ちゃぶる」もグッズ化の計画が上がり、Jリーグ日本人監督のグッズが次々と誕生するのは異例の事態であった[37]

所属クラブ[編集]

ユース経歴
プロ経歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1981 日産 25 JSL2部 18 6 2 2 2 0 22 8
1982 10 JSL1部 18 0 0 0 2 2 20 2
1983 18 5 4 6 5 2 27 13
1984 17 8 0 0 4 2 21 10
1985 21 6 4 3 4 3 29 12
1986-87 20 2 5 1 4 1 29 4
1987-88 14 1 1 0 3 1 18 2
1988-89 22 8 5 4 5 1 32 13
1989-90 22 8 4 1 5 0 31 5
1990-91 10 3 4 2 4 2 18 7
1991-92 22 3 3 1 5 1 30 5
1992 横浜M - J - 9 0 4 3 13 3
1993 - 21 1 2 0 1 0 24 1
1994 - 10 0 3 0 4 1 17 1
通算 日本 J 31 1 14 0 9 4 54 5
日本 JSL1部 202 44 30 18 41 18 273 80
日本 JSL2部 18 6 2 2 2 0 22 8
総通算 251 51 46 20 52 22 349 93

その他の公式戦

獲得タイトル[編集]

日産自動車サッカー部時代[編集]

  • MVP3回 (1983年、1984年、1989年)
  • 日本サッカーリーグ優勝 2回 (1988-1989、1989-1990)
  • JSLカップ優勝 3回 (1988年、1989年、1990年)
  • 天皇杯優勝 5回 (1983年、1985年、1988年、1989年、1991年)
  • アジアカップウィナーズカップ優勝 1回 (1991-1992)
  • アシスト王 (1984年)
    • 日本リーグ1部通算202試合44得点

横浜マリノス時代[編集]

  • 天皇杯優勝 1回 (1992年)
  • アジアカップウィナーズカップ優勝 1回 (1992-1993)

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 54試合 26得点(1979-1987)[1]
    • CAP数54は歴代36位、代表ゴール数26は歴代5位。


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1979 3 0 9 0 12 0
1980 9 4 11 1 20 5
1981 1 0 0 0 1 0
1982 8 1 16 4 24 5
1983 10 8 18 4 28 12
1984 7 4 5 2 12 6
1985 10 7 8 3 18 10
1986 6 2 6 1 12 3
1987 0 0 3 0 3 0
通算 54 26 76 15 130 41

得点数[編集]

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1980年3月24日 マレーシアクアラルンプール フィリピンの旗 フィリピン 10-0 勝利 モスクワ五輪予選
2 1980年3月28日 マレーシア、クアラルンプール インドの旗 インド 2-0 勝利 モスクワ五輪予選
3 1980年12月22日 香港 シンガポールの旗 シンガポール 1-0 勝利 1982 FIFAワールドカップ予選
4 1980年12月28日 香港 ポルトガルの旗 マカオ 3-0 勝利 1982 FIFAワールドカップ予選
5 1982年11月21日 インドニューデリー イランの旗 イラン 1-0 勝利 アジア競技大会
6 1983年9月4日 日本東京 フィリピンの旗 フィリピン 10-1 勝利 ロサンゼルス五輪予選
7 1983年9月4日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 10-1 勝利 ロサンゼルス五輪予選
8 1983年9月7日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 10-1 勝利 ロサンゼルス五輪予選
9 1983年9月7日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 10-1 勝利 ロサンゼルス五輪予選
10 1983年9月7日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 10-1 勝利 ロサンゼルス五輪予選
11 1983年9月7日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 10-1 勝利 ロサンゼルス五輪予選
12 1983年9月7日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 10-1 勝利 ロサンゼルス五輪予選
13 1983年9月15日 日本、東京 チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ 2-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
14 1984年3月6日 ブルネイバンダルスリブガワン ブルネイの旗 ブルネイ 7-1 勝利 親善試合
15 1984年3月6日 ブルネイ、バンダルスリブガワン ブルネイの旗 ブルネイ 7-1 勝利 親善試合
16 1984年4月15日 シンガポール タイの旗 タイ 2-5 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
17 1984年9月30日 大韓民国ソウル 韓国の旗 韓国 2-1 勝利 日韓定期戦
18 1985年2月23日 シンガポール シンガポールの旗 シンガポール 3-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
19 1985年5月18日 日本、東京 シンガポールの旗 シンガポール 5-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
20 1985年5月26日 日本、東京 ウルグアイの旗 ウルグアイ 1-4 敗戦 キリンカップ
21 1985年6月4日 日本、名古屋 マレーシアの旗 マレーシア 3-0 勝利 キリンカップ
22 1985年8月11日 日本、神戸 香港の旗 香港 3-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
23 1985年9月22日 香港 香港の旗 香港 2-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
24 1985年10月26日 日本、東京 韓国の旗 韓国 1-2 敗戦 1986 FIFAワールドカップ予選
25 1986年9月20日 大韓民国、太田 ネパールの旗 ネパール 5-0 勝利 アジア競技大会
26 1986年9月20日 大韓民国、太田 ネパールの旗 ネパール 5-0 勝利 アジア競技大会

指導者経歴[編集]

  • 2010年 - 2011年 横浜F・マリノス 監督

監督成績[編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 ナビスコ杯 天皇杯
2010 J1 横浜FM 8位 34 51 15 6 13 予選リーグ敗退 4回戦敗退
2011 5位 34 56 16 8 10 ベスト8 ベスト4
J1通算 - 68 - 31 14 23

イベント出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b “木村 和司”. サッカー日本代表データベース. http://www.japannationalfootballteam.com/players_ka/kazushi_kimura.html 
  2. ^ a b 日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」
  3. ^ 木村は同FC創設時から在籍。後輩には森島寛晃田坂和昭平沢政輝畑喜美夫などがいる。
  4. ^ 二学年上に楚輪博、一学年上に金田喜稔石崎信弘、一学年下に猿沢茂沖宗敏彦沖野隆幸ら。
  5. ^ a b 横浜M和司監督「たいしたもんよ」同期の佐々木監督を祝福”. スポーツ報知 (2011年7月19日). 2011年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月21日閲覧。
  6. ^ 『モダンサッカーへの挑戦』加茂周講談社、p58-59、1994年
  7. ^ a b c 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションⅡ』文藝春秋、1998年、p151-164
  8. ^ 加茂周『モダンサッカーへの挑戦』 (講談社)
  9. ^ vol.16 「-木村和司杯-」|木村和司のシュート|コラム|読む
  10. ^ #39「新たなる船出」~帰ってきたミスターマリノス・木村和司~”. BS日本. 2013年9月6日閲覧。
  11. ^ 来シーズンの監督についてのお知らせ - ウェイバックマシン(2009年11月9日アーカイブ分)
  12. ^ 横浜M・和司監督、無念…電撃解任 デイリースポーツonline
  13. ^ 結果にこだわり 木村監督「ワシらしいサッカーができなかった」 スポーツニッポン
  14. ^ 木村和司氏 横浜M来季監督決定的/サッカー - ウェイバックマシン(2009年11月9日アーカイブ分) デイリースポーツonline(2009年11月9日時点のアーカイブ
  15. ^ 「ミスターマリノス 木村和司 栄光の軌跡」
  16. ^ a b カズシ語録がオシム語録を超える日 (1) - ウェイバックマシン(2010年4月9日アーカイブ分) スポーツナビ
  17. ^ カズシ語録がオシム語録を超える日 (2) - ウェイバックマシン(2010年4月9日アーカイブ分)
  18. ^ 「アディダス パフォーマンスセンター コレットマーレみなとみらい」オープニングイベント
  19. ^ 木村和司オフィシャルサイト/有限会社シュート|所属:鈴木正治、金山友紀オフィシャル[リンク切れ]
  20. ^ 日刊スポーツ連載「世界4強 岡田ジャパン 奇跡への条件」2010年4月7日9面
  21. ^ わがまま木村和司 - ウェイバックマシン(2011年2月21日アーカイブ分) 木村和司オフィシャルサイト / 有限会社シュート
  22. ^ 岡崎カタール戦で4戦連発、カズに並ぶ - 2010年南アフリカW杯ニュース
  23. ^ 週刊サッカーダイジェスト』2010年11月23日号 p61
  24. ^ 第90回天皇杯横浜F・マリノス×V・ファーレン長崎2010年(平成22年)9月5日BS1放送内。
  25. ^ a b 阿部が持つ魔法の杖。 - WEBサッカーマガジン|Keiichi Chinoの辛口コラム[リンク切れ]
  26. ^ a b 連載「W杯がやってくる」「世界」を感じさせたFK 木村和司1 - ウェイバックマシン(2001年12月13日アーカイブ分)
  27. ^ 和司監督、俊輔よ「伝説のFK」再現しろ! - ウェイバックマシン(2010年5月14日アーカイブ分) サンケイスポーツ
  28. ^ 第221回 フリーキックとは何か(下)フットボールの真実 大住良之 - ウェイバックマシン(2008年2月11日アーカイブ分)
  29. ^ 『サッカークリニック』2008年4月号 p53-57 (ベースボール・マガジン社)
  30. ^ 『モダンサッカーへの挑戦』p58-60
  31. ^ 『Jリーグよ! サッカーめざめの年に』佐山一郎 (オプトコミュニケーションズ、1994年1月)
  32. ^ 木之本興三『日本サッカーに捧げた両足 真実のJリーグ創世記』ワニブックス、2013年、p144-145
  33. ^ サッカー批評』20号 p33 (双葉社、2003年9月)
  34. ^ 00年代は誰の時代? / サッカー瞬刊誌 サポティスタ
  35. ^ マリノス・木村和司は名将か?「会見力」で試される監督の能力。
  36. ^ 和司監督、初陣完封負けで決意の1ミリ刈り - ウェイバックマシン(2010年3月11日アーカイブ分) デイリースポーツonline
  37. ^ 和司監督「ちゃぶれ」語源不明もグッズ化 - サッカーニュース

参考文献[編集]

  • 「ズームアップ 木村和司」『サッカーマガジン』1979年7月25日号
  • 「クローズアップ「青春」 木村和司」『サッカーマガジン』1981年6月号
  • 「ワールドカップ予選日韓対決」『サッカーマガジン』1986年1月号
  • 「復活、日産!天皇杯2度目の優勝」『サッカーマガジン』1986年3月号
  • 『木村和司の攻撃サッカー・「背番号10」のプレー』 (池田書店、1995年) ISBN 4262162435
  • 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年
  • 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』双葉社、2007年
  • 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションII』文藝春秋、1998年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]