チョウ・ディン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
チョウ・ディン Football pictogram.svg
名前
ラテン文字 Kyaw Din
基本情報
生年月日 1900年6月
出身地 イギリス領ビルマの旗 イギリス領ビルマ
没年月日 不詳
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不詳)は、イギリス統治下のビルマ(現ミャンマー)出身のサッカー選手、サッカー指導者。名をモン・チョー・ディンとする資料もある。

人物[編集]

チョウ・ディンの経歴は断片的に調査・紹介されているものの、特に日本留学時代以外については不明な点が多い。

イギリス統治下のビルマにおいて、幼少期からサッカーに親しんでいたとされる。 1863年にイングランド近代サッカー(現代のサッカー)が誕生した時からイングランド代表ロングボール戦法だった。イングランド代表に勝てなかったスコットランド代表は1867年にショートパス戦法考案。スコットランド代表はショートパス戦法確立後、1872年~1882年の10年間で、イングランド代表に対し、7勝2敗2分け得点39失点31試合平均得点3.55平均失点1.91と勝ち越した。この2つの戦法が、近代サッカー(現代のサッカー)伝来とほぼ同時に各国に伝播されていった。チョウ・ディンは、ショートパス戦法を編み出したスコットランド人にサッカーを学んだという[1]

大正時代に、日本の東京高等工業学校に留学した。この頃、早稲田大学のグラウンドで陸上競技の練習をしている最中に、偶然早稲田高等学院サッカー部の練習を見かけて指導を始めた。彼の指導によって、早稲田高等学院は全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)2連覇を成し遂げた[1]。この時期に指導を受けた人物の中には鈴木重義玉井操などが含まれる。それ迄は無名だった私立の早稲田の優勝の陰にチョウ・ディンの指導があったことが分かると旧制山口高校神戸一中もチョウ・ディンにコーチを依頼した。

1923年関東大震災によって東京高等工業学校の校舎が倒壊し、授業が受講できなくなった。この機会にチョウ・ディンは全国を巡回してサッカーの指導に携わった[1]。キックやパス等の基礎から、パスをつないで攻めるショートパス戦法まで、実技と理論を教え、その結果日本サッカー全体の技術力が向上し、国際舞台での活躍の基盤が整った。また、『How to play association football』という指導書を英文で執筆し、1923年8月に教え子らの協力で日本語版を出版した。当時、日本に無かった写真や図を多用し技術や戦術に関する具体的かつ理論的なテキストであったという[1]。この時期に指導を受け、後に日本サッカーを支えるようになった人物としては旧制山口高校竹腰重丸などがおり、また神戸一中は直伝のショートパス戦法を習得し、この後何度も全国制覇を成し遂げるようになる。特に、教え子の鈴木重義が監督を務め、こちらも教え子の竹腰重丸を中心に東大主力中心の初の選抜チームによる日本代表で挑んだ1930年の極東選手権大会では初の国際試合での優勝を果たした。また、6年後にはベルリン五輪での快挙として結実した[1]

1924年にチョウ・ディンはビルマへ帰国したが、その後の消息は不明である[1][2]

2007年8月、日本サッカー殿堂に選出された[1][2]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 日本サッカー人物史 チョー・ディン [Kyaw DIN] -日本サッカーアーカイブ
  2. ^ a b 「サッカー:鎌田光夫氏ら5人、殿堂入り」毎日新聞、2007年8月11日、2015年9月16日閲覧

外部リンク[編集]