早稲田大学高等学院・中学部

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早稲田大学早稲田高等学院(旧制)
創立 1920年
所在地 東京府東京市牛込区
初代校長
廃止 1949年
後身校 早稲田大学。校地は早稲田大学高等学院として継承。
同窓会
早稲田大学高等学院・中学部
W gakuin.jpg
(2007年当時の校舎外観。中学部開校に伴い、正面の校舎は建て替えられている)
過去の名称 東京専門学校高等予科
早稲田大学高等予科(前身)
早稲田大学附属早稲田高等学院
第一・第二早稲田高等学院
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人早稲田大学
設立年月日 1920年大正9年)4月(旧制大学予科開校)
1949年(新制高等学校開校)
創立者 大隈重信東京専門学校創立者)
共学・別学 男女別学(男子校)
中高一貫教育 併設型(外部混合有)[1]
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
高校コード 13561F
所在地 177-0044
公式サイト 早稲田大学 高等学院
早稲田大学 高等学院 中学部
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地理院地図 Googleマップ 早稲田大学高等学院・中学部

早稲田大学高等学院・中学部(わせだだいがくこうとうがくいん・ちゅうがくぶ、英名: Waseda University Senior and Junior High School)は、東京都練馬区上石神井三丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子高等学校中学校併設混合型中高一貫校)。前身は、1899年開設の東京専門学校予科である。設置者は学校法人早稲田大学。略称は「早大学院」「学院」「早高院」など[2]。高等学院では、生徒達は「学院生」と呼ばれ、正式な書類や掲示など様々な場面でもこの通称が使われている。

本項では1920年から1949年まで存在していた旧制早稲田大学早稲田高等学院(きゅうせいわせだだいがくわせだこうとうがくいん)についても述べる。

概要[編集]

成り立ち[編集]

早稲田大学直属の附属校として設置された最初の学校であり、後から設立された早稲田大学本庄高等学院1982年設立)と併せても2校のみである。一条校でありながら、「学校」ではなく「学院」を称する珍しい機関である。

設立の源流は、早稲田大学の前身東京専門学校の時代に置かれた予科にまで遡る。最初に置かれていた予科は、本科入学希望者への1年の予備教育であり(1883年 - 1886年)、2年後新規に設置された予科は高等小学校卒業者を対象に募集したが、折悪く大隈重信爆弾テロに遭うなどの諸事情で学校の運営に支障が出たことで、学校再建策の一環で廃止されている(1888年 - 1891年)。1899年に誕生した、中等学校卒業者を対象とする高等予科をもって、現在の高等学院の前身とみることができよう。1902年には東京専門学校が「早稲田大学」に改称、1908年には理工科(現・理工学部)設置と共に、理科の高等予科も開かれた。

1920年、早稲田大学の大学令による大学昇格に伴い、高等予科も大学予科としての内容の充実が図られ、「早稲田大学早稲田高等学院」と改められた[3](現在の早稲田大学戸山キャンパス内)。1922年より中学校4年修了者対象の第一高等学院・中学校卒業者対象の第二高等学院(大学構内)の2校体制を学制改革まで維持した。戦前期、早稲田大学の学部に入学するには、中等教育終了後、第一・第二いずれかの高等学院で予備教育を受ける必要があった[4]

学制改革で旧制から新制に転換する際、旧制高等学校のように新制大学教養部や各学部に再編されるのではなく、従来の実績を踏まえながら、大学の中核となる学生を育成する附属の高等学校として生まれ変わり、現在に続いている。1949年、新制早稲田大学附属早稲田高等学院が発足、1950年早稲田大学高等学院に改称。1956年上石神井に移転。2010年、中学部を新設開校。

組織[編集]

学校法人早稲田大学直属の附属校であり、大学学部と同等という位置付けである。卒業生は原則として全員が早稲田大学の各学部へ進学できるため、首都圏でも屈指の受験難易度を誇る。早稲田大学の附属校として他に早稲田大学本庄高等学院埼玉県本庄市1982年開校、2007年共学化)がある。

なお、学校法人が異なり、学校法人早稲田大学とは「系属校」という形で連携する学校がある。いずれも本校と直接的な関係はない。

旧制以来の伝統を受け継ぐ大学直属の高校として、高大一貫教育を掲げてきた(中学部の創設までは)。

大学学部と同等という位置付けのため、学院の生徒証は早稲田大学の学生証とほぼ同じである。早稲田大学図書館での入館証・利用者カードとして用いることができるほか、敷地内の関係者以外立ち入り禁止の部分も大学のキャンパス同様に自由である。校内には散歩や通り抜け、の散歩などをする者も多々見られる。また、校舎は大学のキャンパスの一部という位置付けであり、大学のキャンパスの建物の通し番号(70番台)が当てられている。

校風[編集]

極めて自由である。制服として学生服が存在しているが、高等部のみ私服通学との選択制で、日々の学生生活では制服着用者と私服着用者(生徒全体の約20 - 30%)とが混在している。1年生は学ラン着用者が半数以上であるが、3年生では学ラン着用者はあまり見られなくなる[5]下駄サンダル半ズボンでの通学が禁止されている他に校則はない。アルバイトも届出なしに可能である。朝学活や終礼のようなものはなく、掃除は業者が行うため生徒による掃除活動もない。

中学部[編集]

卒業すればエスカレートで進学できる学院に対し、早稲田大学側は入学後の一部の内部進学者の成績不良を快く思っておらず、学院側に兼ねてから「共学化」または「中高一貫教育」を打診、学院側はどちらも受け入れられないとする状況が少なくとも90年代半ばくらいから続いていた。

中学部設立に関しては内外からの反対が強く、設立決定前の校内アンケートでは反対がほぼ100%を占め、反対署名などの運動も行われた。教師・OBからの反対意見も強く出ていたが、大学側に押し切られる形で設立が決定となった。

初の直系附属中学校となる高等学院中学部を、2010年度に新設することを2008年7月19日に正式発表した。校舎の着工は同年8月。生徒数は1学年4クラスの120人。中学部初の入学者を迎える2010年度から高校募集枠を480人に、2010年度入学の中学部生が高校1年になる2013年度からは、さらに360人に減らし、中高全体で1800人を保つとされる。

共学化への論議も90年代に存在していたが、そのためには教員の男女比率も半々にする必要があること、トイレなど学校施設の整備が必要という点などから、2015年の時点でも実現には至っていないものの、中学部の設立・中学校校舎建築・高校校舎立て替えが決定したため、共学化の計画は事実上無くなったとされる。なお、本庄高等学院2007年度に共学化した。

高等学院と同中学部は中高一貫校の関係にあるが、一部のクラブ(特に運動系)は、「練習メニューが中学生と高校生では違いすぎるため、同一の組織にするメリットがない」との理由から、中学部生を受け入れない方針を表明している。また、学院祭の期間中には中学部は校外活動を行うなど、高等部と中学部では行事を共有することは基本的にない。これは、根強い中学部設立反対意見に配慮したものと説明されている。

設立後の2010年度に発行された『学院雑誌』第57号でのアンケートでは「学院生にあってはならないものは?」という質問に対して「中学部」という回答が27%を占める結果となった。

校地の由来[編集]

上石神井の現校地は、1477年文明9年)に太田道灌石神井城攻めの際に築いた陣城・愛宕山塁の跡に当たる。

教育理念[編集]

早稲田大学の一員として、早稲田大学建学の精神に基づく。

なお、校歌は、学院の沿革から大学の学部と同等の扱いを受けるため、大学と同様に「都の西北」である。また、応援歌も大学と同様に「紺碧の空」である。

教育[編集]

カリキュラム[編集]

旧制以来の伝統として第二外国語が必修であり、ドイツ語フランス語ロシア語中国語のいずれかを1年次より履修する。中学部の生徒は3年次よりドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語を3ヶ月ずつ学習し、それらを参考に高等学院での第二外国語を選択する。2005年度より開始された総合的な学習の時間では、2年次にはプレゼン発表、3年次には個人で決定したテーマについて12000字程度の卒業論文の執筆が課されることとなった。そしてこの単位は学部進学要件となっている。

専任教員は、ほぼ全員が修士課程以上の課程を修了しており、特に理科系においては博士号を持つ者も数多い。また、ほとんどの教員は大学でも講義をもつ、研究者である。このことは、本校が大学受験のことをまったく考えなくてよいという事情とともに、授業内容に大きな影響を与えている。すなわち、文部科学省の定める一般的なカリキュラムにとらわれることなく、大学のように教員の研究分野に沿った、より発展的・専門的な講義を、教員が展開する場合が多い。この傾向は特に社会科学系の科目に強く、教科書にまったく記述がないトピックを扱うこともままある。他方、理系科目ではコンピュータを活用するもの、大学の範囲を先取りするものなど、非常に高度かつ発展的な授業が行われている。

入学時に第二外国語科目および芸術科目を選択するが、その選択によってクラス分けが行われ、入学時から卒業までクラス替えが行われないことも特色である。そのため「学院“X”クラス同窓」としての交流は終生に及ぶ。

進級[編集]

卒業すれば早稲田大学への内部進学が原則として保証されるが、期末試験・学年末試験で然るべき成績であること、出席日数を満たすことが条件。成績は各科目100点満点で表され、50点未満が赤点となり、6単位分以上の赤点を取った場合と、一年間の総合平均が60点を下回った場合留年となる(赤点が5単位分の場合は総合平均62点未満が留年対象。これらは、学習指導要領の改訂や、授業時間数の変更などにより、時代により基準は変更されている)。50点以下が赤点という比較的高い基準であるため、毎年一学年につき20人以上が留年となる。この数は国内でも有数である。

課業[編集]

始業は朝8時40分だが、かつては週に2回、1年生と2年生は10時40分始業の日が存在した。しかし、2013年度からの新カリキュラムへの移行により、2013年度入学生より登校時間は一律8時40分となった。

1コマ50分で、終業は15時00分。朝、および帰りのホームルームは行われず、各学年週1回、授業1コマを使ってロングホームルームが行われるが、実際にはホームルームは先生が30分程度で終了することもしばしばである。

大隈重信が「男は掃除をせずに勉強しろ」と言ったため、掃除もない。校内の掃除は専属の業者が毎日行っている。校舎はまだ建て替えてまもないこともあり、トイレ等は最新の設備が導入されておりたいへん清潔である。

特色[編集]

2006年度から、文部科学省スーパーサイエンスハイスクールに、2014年度からスーパーグローバルハイスクールに指定されている。

年表[編集]

高等予科時代[編集]

  • 1899年明治32年)- 東京専門学校、英語政治科および文学部文学科・史学科に高等予科を設置。
  • 1900年(明治33年)- 高等予科を一旦廃止し、改めて大学部の予備門に位置付けて新しく設置する(修業年限1年半)。
  • 1903年(明治36年)- 第一(政治経済学科)、第二(法学科)、第三(文学科および高等師範部)、第四(商科)高等予科に分けられる。
  • 1907年(明治40年)- 高等師範部のための第五高等予科が、第三高等予科より分離して発足。
  • 1908年(明治41年)- 第五高等予科、学内の制度変更により、新設された理工科併置となる。
  • 1916年大正5年)- 「第○」高等予科の名称を、高等予科「第○部」に改める。
  • 1917年(大正6年)- 修業年限を2年に延長。
  • 1918年(大正7年)- この年より中学校卒業者に入学試験を課す。

旧制高等学院(大学予科)時代[編集]

  • 1920年(大正9年)- 早稲田大学高等予科を早稲田大学附属早稲田高等学院に改め、当時の東京府東京市牛込区戸山町(現在の早稲田大学戸山キャンパス)に開校。
  • 1921年(大正10年)- 高等学院を第一部(3年制・文科と理科)・第二部(2年制・文科のみ)の2部制にする。
  • 1922年(大正11年)- 第一部・第二部をそれぞれ第一早稲田高等学院第二早稲田高等学院に改組。第二高等学院は大学構内に置かれた。

新制高等学院時代[編集]

  • 1949年昭和24年)- 学校教育法に基づく新制高等学校として、早稲田大学附属早稲田高等学院が発足。
  • 1950年(昭和25年)- 現校名に改称。
  • 1956年(昭和31年)- 現校地である練馬区上石神井の地に移転、現在に至る。同地は旧智山学園から大学が1954年に購入した。
  • 2010年平成22年)- 中学部を新設開校。
  • 2014年(平成26年)- 第二期改築工事が終了し、講堂および体育施設棟が完成。

活動[編集]

部活動[編集]

米式蹴球部・漕艇部をはじめとして、ラグビー部・雄弁部グリークラブヨット部・軟式野球部・弓道部は全国レベルである。

米式蹴球部は全国大会優勝5回準優勝5回を誇る名門である。1990年代中盤には停滞期もあったが、近年では全国大会の常連となっている。2010年はクリスマスボウル関西学院高等部を17-6で下し24年ぶり2度目の全国優勝を成し遂げている。2011年もまた、関東大会を制しクリスマスボウルへ出場し、大阪産業大学附属高校との熱戦を繰り広げ、10-10の両校優勝を果たし、2年連続日本一を成し遂げている。2012年も一年を通し無敗で、春秋と関東を制してクリスマスボウルへ出場した。クリスマスボウルでは関西学院高等部に28-17で勝利し、優勝、日本一。2013年のクリスマスボウルでは立命館宇治高校に勝利し、関東勢では史上初となる全国4連覇を達成した。2010年、2011年、2012年の3年間では、公式戦、練習試合において一度も負けること無く3連覇を達成した。

漕艇部は1993年の全国選抜で舵手付きフォアで優勝、夏のインターハイでも3位入賞した(翌1994年にも全国選抜で4位になり、2006年に12年ぶりに全国選抜4位となった)。また、2007年に行われた秋田わか杉国体に12年ぶりに出場し入賞した。新制高等学院の開校の年から存在する、最も伝統のある部である。

弓道部は、2006年に個人競技で、2011年に団体競技でインターハイに出場。全国選抜大会には2009年に個人競技で、2015年、2016年に団体競技でそれぞれ出場するなど、東京都トップレベルの実力を有する。2013年には関東個人大会で優勝、2015年には東日本大会で団体ベスト8に進出した。都大会での実績も順調で、秋季大会では2013年から2年連続で準優勝、2014年は新人大会と都個人大会で優勝、2015年には新人大会で準優勝、2016年には関東大会都予選と秋季大会で優勝を果たした。

ヨット部は2001年から2006年までの6年連続で国体東京都少年男子FJ級代表に選ばれている。

雄弁部は、競技ディベートを軸に活動している。激戦区である関東甲信越地区においては2006年夏季以降2年間不敗という戦績を残し、全国大会においては2009年に優勝し、2003年には準優勝、2002年や2007年にベスト4に入るなど目覚しい活躍を上げている。

グリークラブは2003年に全日本合唱コンクール全国大会で金賞を受賞している他、NHKに出演してNHK全国学校音楽コンクール課題曲の参考演奏をするなど、セミプロ的活動も行っている。

軟式野球部も全国に度々出場し、2012年の秋には関東の決勝で延長15回引き分け再試合という熱戦を繰り広げ、準優勝に輝いている。2013年には、関東大会準優勝・全国大会ベスト8、国体準優勝を果たした。

硬式野球部は2010年の第92回全国高等学校野球選手権西東京大会でベスト4になっている。準決勝では早実との兄弟対決となり神宮球場は大いに盛り上がった。2014年秋季都大会では強豪二松學舍大学附属高相手に延長15回の末0-1という熱戦を演じた。2015年の夏の西東京予選ではシード校となっている。

有志の活動[編集]

  • 生徒自身の手による課外活動も盛んであり、その代表例が、2000年に生徒有志によって発足した「環境プロジェクト」である。環境プロジェクトは、年2回行われている「高校生環境フォーラム」の中心的な存在であるだけでなく、2002年には「高校生環境連盟」を発足させ、活動の幅を広げている。
  • 年1回発行で、学校生活に関する特集やアンケートなどが組まれる『学院雑誌』は約60年の歴史を有し、教師からは存在意義が疑問視されているものの、生徒らの手によって作成され続けている。
  • 2005年TBS系列で放映されたテレビ番組「学校へ行こう!MAX」での企画「文舞両道フリツケ甲子園(2005年9月6日O.A.)」においては、有志がダンスユニット「早稲6(ワセシックス)」を結成している。

行事[編集]

主な行事は「学院祭」・「体育祭」・「学芸発表会」であり、修学旅行は存在しない(かつては実施されていたが、1976年(昭和51年)に学院生の一人が京都御所に侵入および放火をし逮捕されたため中止となった。現在は「御所乱入事件」として学院生の間で都市伝説的に語られている)。毎年10月に行われる文化祭、「学院祭」には約10,000 - 20,000人もの来場者が訪れていたこともあったが、2015年には7000-8000人程度まで減少している。ただし中学部はこの期間中は校外活動を行う。これは根強い中学部設立反対意見に配慮したものと説明されている。体育祭の時期も、中学部は校外活動を行う。体育祭は、男子校ゆえに非常に熱くなるが、中には朝出席だけ取って帰る人や、教室でずっと遊んでいる者もいる。

期末試験後は終業式までおよそ1週間前後の休み、入試期間中にも約1週間の休みが与えられ、そして夏休みは7月半ばから9月第1週まで、など休みが多い。

その他[編集]

  • 時々、教員の学会出席などのために授業が休みとなることがある。通常これを大学では休講というが、本学院では代講という。その理由は名目上他の教員が代わりに授業することになっているからであるが、多くは出欠を確認するだけで終わる(ただし、本当に授業時間を目いっぱい使って「代講」を実施するケースもごくまれに見られる)。この時間帯は校外へ外出することも可能である。授業が休みの場合、その日の最終時限を担当する教員の都合が良ければ代わりに授業を行うことがあり、その場合は最終時限の授業が繰り上がり実施されたと見なされ、早く帰宅することが可能な場合もある。なお、これは教員の裁量で行われるものである。
  • 運動系の部のチーム名がほぼ全て「Big Bears」なのは、「Big Bear」→「大きい熊」→「大熊」→「大隈」と創立者大隈重信にかけているのだと言われている。この名称は、大学での運動系の部活やサークルでも用いられることが多い。
  • 旧南グラウンドには中学部の新校舎が建設された。測量などが行われたり、校舎建設のために樹木が伐採されたりするなど、校内の環境は激変し、最終的には旧来の面影はほとんどなくなってきている。
  • 最寄りバス停は西武バス「早稲田高等学院」。車内案内の英語表示は「WASEDA KOTOGAKUIN Sr.high.」と高校である旨が分かるようになっている。中学部開校の対応(末尾に「&Jr.high.」を追加)は、開校から約4年後の2014年3月に一部車両で実施されたが、まだ普及には至っていない。
  • 1990年代終わり頃から、都内の女子高生の間で学院の指定バッグが流行し、都内各所で女子高生が「学院バッグ」を持ち歩く姿が見られた。また、学院バッグは学院構内の購買で販売されているため、わざわざ購入しに訪れた女子高生の姿も敷地内で度々目撃されていた。

関係者一覧[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 早稲田大学高等学院中学部-中学受験スタディの「基本情報」の表による。
  2. ^ 現在はあまり早高院とは呼ばれず、早大学院と呼ばれることがほとんどである。戦前の文書に「早高」という語が散見されるが、これは当時の学院を指す略称である(例:「○○中学4年修了で第一早高に進学」など)。現在使用される「早高」は、系属校である早稲田高等学校(旧制時代の略称は「早中」)を意味することが多いので、解釈には注意を要する。
  3. ^ 一部の文献・資料で高等学院を旧制高等学校の一つに数えるものがあるが、誤りである。カリキュラムは高等学校に準拠しているが、高等学院は大学令第12条に基づいて設置された予科である。
  4. ^ 例外的に、併設の早稲田大学専門部高等師範部高等学校専門学校などの卒業者、他大学予科修了生、および特別に入学を認められた者が学部に編入することもあったが、当時早大を含めたいずれの旧制私立大学も、学部生は予科修了生をそのまま進学させることで確保していた。
  5. ^ 本来は制帽も定められていたが、服装自由化により廃れた。大学の角帽と違い、中学校でも採用されている一般的な学生帽(丸形)であった。

関連書籍[編集]

  • 早稲田大学高等学院編『三十周年記念誌:1979』1980年発行
  • 早稲田大学高等学院編『継承そして創造:五十年の軌跡-未来に向けて』1999年発行
  • 早稲田大学高等学院米式蹴球部OB会編『半世紀の道のり:早稲田大学高等学院米式蹴球部50年史』2000年発行

関連項目[編集]

外部リンク[編集]