落合弘

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落合 弘 Football pictogram.svg
名前
カタカナ オチアイ ヒロシ
ラテン文字 OCHIAI Hiroshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1946-02-28) 1946年2月28日(72歳)
出身地 埼玉県浦和市
身長 177cm
体重 67kg
選手情報
ポジション FWMFDF
ユース
浦和市立高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1964-1966 東芝堀川町
1966-1984 三菱重工 267 (56)
代表歴
1963-1965  日本ユース 13 (5)
1974-1980 日本の旗 日本 63 (9)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

落合 弘(おちあい ひろし、旧姓:山田1946年2月28日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市領家出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」キャプテン。元々はFWや攻撃的MFを務めていた[1] が年齢と共にポジションを下げ、守備的MFやセンターバック、サイドバックをこなすなど守備のユーティリティプレーヤーとして活躍した[2]

来歴[編集]

父は宮内省の職員であったかが幼少の頃に亡くなり、母子家庭で育った。貧しかったことから技術を身に着けるために埼玉県立川口工業高校への進学を目指すも、中学時代の教師の勧めもあり浦和市立高校に入学した[3]。浦和市立高校では1年次からレギュラーとしなり、1962年と63年の国民体育大会で2連覇。全国高等学校サッカー選手権大会では1年次から3大会連続出場を果たし2年次に準優勝、3年次には3位入賞。日本ユース代表としては1963年から1965年の間にAFCユース選手権1965などで13試合に出場して5得点を記録した[2]

1964年に高校を卒業。いくつかの大学から学費免除の申し出もあったが、家計を助けるために東京芝浦電気に入社した。東芝ではサッカー部に加入したが、東芝が日本サッカーリーグ(JSL)に参加しなかったこともあり、JSLへ挑戦することなどを理由として1966年に東芝を退社。同年に三菱自動車販売に入社して、三菱重工業サッカー部に加入した[3]。1969年に結婚して「落合」に改姓。同年の日本サッカーリーグでは釜本邦茂を2得点差で上回り得点王となったが、この年を境に相手DFからのマークが厳しくなったことから得点は激減し[1]、攻撃的MFとしてゲームメイクに専念するようになった。

1973年に三菱の監督だった二宮寛によりストッパーにコンバート[1]。その後リベロにポジションを移し、この年から9年連続でベストイレブンに選ばれるなどリーグ屈指のDFとして活躍した。三菱では主将として天皇杯優勝4回、JSL優勝3回、JSLカップ優勝2回に貢献。1978年9月23日に駒沢競技場で行われた日本鋼管戦でリーグ初の200試合連続出場を達成、同年には年間最優秀選手賞を受賞した。その後1982年に連続試合出場記録を260まで伸ばし[2]1984年に現役を引退した。JSLでの通算記録は267試合出場(歴代2位[2])56得点。また、天皇杯においては、国立霞ヶ丘陸上競技場で開催された試合のうち19試合に出場しており、これは2位の釜本邦茂の16試合を3試合上回る歴代1位の記録である[4]

日本代表としては1966年にデビュー。1976年のモントリオールオリンピック予選や1980年のモスクワオリンピック予選に出場するなど国際Aマッチ63試合に出場し17得点を記録した[2]。1968年のメキシコシティオリンピック以降低迷の続く日本代表の中でチームを牽引する存在だった[2]

引退後は指導者に転じ、1988年から1992年まで日本代表コーチ、1992年から1993年まで三菱重工の後継である浦和レッドダイヤモンズのコーチを歴任。2003年からは、サッカーを通じてコミュニケーションを図ることを目的とした、「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」キャプテンに就任し、各地の小・中学校、高校、大学などを訪問し普及に努めている。

2010年8月17日日本サッカー殿堂入りが発表された[2][5]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1966 三菱 JSL 14 6 -
1967 14 13 -
1968 14 5 -
1969 14 12 -
1970 14 2 -
1971 14 4 -
1972 JSL1部 14 1 -
1973 18 2
1974 18 2 -
1975 5 18 3 -
1976 18 1
1977 18 1
1978 18 1
1979 18 2
1980 18 1
1981 18 0
1982 5 0 0 0
1983 2 0
1984 23 0 0 0 0
通算 日本 JSL1部 267 56
総通算 267 56

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1966 0 0 2 1 2 1
1967 0 0 1 0 1 0
1968 0 0 0 0 0 0
1969 0 0 2 0 2 0
1970 0 0 4 2 4 2
1971 0 0 0 0 0 0
1972 0 0 0 0 0 0
1973 0 0 0 0 0 0
1974 2 0 2 0 4 0
1975 13 3 8 1 21 4
1976 15 2 6 1 21 3
1977 5 0 12 1 17 1
1978 14 3 12 2 26 5
1979 9 1 9 0 18 1
1980 5 0 6 0 11 0
通算 63 9 64 8 127 17

得点数[編集]

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1975年6月21日 香港の旗 イギリス領香港 シンガポールの旗 シンガポール 2-1 勝利 AFCアジアカップ1976 (予選)
2 1975年8月9日 マレーシアの旗 マレーシアクアラルンプール 大韓民国の旗 韓国 1-3 敗戦 ムルデカ大会
3 1975年8月11日 タイ王国の旗 タイ 4-0 勝利
4 1976年3月14日 日本の旗 日本東京 フィリピンの旗 フィリピン 3-0 勝利 モントリオール五輪予選
5
6 1978年5月23日 日本の旗 日本名古屋市 タイ王国の旗 タイ 3-0 勝利 ジャパンカップ
7 1978年7月17日 マレーシアの旗 マレーシア、クアラルンプール Flag of Egypt (1972-1984).svg シリア 3-2 勝利 ムルデカ大会
8 1978年7月26日 タイ王国の旗 タイ 4-0 勝利
9 1979年5月31日 日本の旗 日本、東京 インドネシアの旗 インドネシア 4-0 勝利 ジャパンカップ

指導歴[編集]

  • 1987年-1992年 日本代表:コーチ
  • 1992年-1994年 浦和レッドダイヤモンズ:コーチ
  • 浦和レッドダイヤモンズ:チーム統括グループCM
  • 2003年- 「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」:キャプテン

脚注[編集]

  1. ^ a b c 井口, 54-55頁
  2. ^ a b c d e f g 日本サッカー協会 (2010年). “落合弘 (PDF)”. 2010年8月23日閲覧。
  3. ^ a b 落合 弘 16シーズン、260試合の誇り”. 三菱重工業 (2017年12月15日). 2018年4月26日閲覧。
  4. ^ 記録で見る天皇杯全日本サッカー選手権大会の歴史。新たな歴史をつくるのはどのチームか――”. 日本サッカー協会 (2013年9月6日). 2014年8月28日閲覧。
  5. ^ 日本サッカー協会 (2010年). “第7回日本サッカー殿堂 掲額者”. 2010年8月23日閲覧。

参考文献[編集]

  • 井口英規「蹴魂 フットボーラー達の伝説 第4回 落合弘」『週刊サッカーマガジン』2008年5月13日号
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
  • 『RED DIAMONDS OFFICIAL HANDBOOK 1994』、南雲堂、1994 ISBN 4-523-31036-X

外部リンク[編集]