コンテンツにスキップ

ルーカス・セベリーノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルーカス
名前
本名 ルーカス・セヴェリーノ
愛称 ルーコン[1](Lucão)
ラテン文字 Lucas Severino
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1979-01-03) 1979年1月3日(45歳)
出身地 リベイラン・プレト市[2][3]
身長 183cm[4]
体重 77kg[4]
選手情報
ポジション FW / MF
利き足 右足[1]
ユース
ブラジルの旗 ボタフォゴ-SP
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-1997 ブラジルの旗 ボタフォゴ-SP 12 (2)
1998-2000 ブラジルの旗 アトレチコ・パラナエンセ 48 (19)
2000-2004 フランスの旗 スタッド・レンヌ 72 (6)
2002 ブラジルの旗 クルゼイロ 7 (2)
2003 ブラジルの旗 コリンチャンス 3 (1)
2004-2007 日本の旗 FC東京 120 (48)
2008-2010 日本の旗 ガンバ大阪 80 (21)
2011 ブラジルの旗 アトレチコ・パラナエンセ 17 (4)
2011-2013 日本の旗 FC東京 91 (30)
通算 450 (133)
代表歴
1996-  ブラジルU-20
0000-2000  ブラジルU-23 14 (03)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ルーカス・セベリーノ(Lucas Severino、1979年1月3日 - )は、ブラジル出身の元プロサッカー選手。ポジションは主にフォワード

来歴

[編集]

プロデビュー・ユース代表

[編集]

10歳の時に地元サンパウロ州ボタフォゴFCの下部組織に合格し、1995年、同クラブの下16歳でプロデビューを果たす[5]1996年、ブラジル全国選手権の3部から2部への昇格が懸かった試合で2得点。同年末、20歳以下のブラジル代表に初選出された。

1998年パラナ州アトレチコ・パラナエンセに移籍。MFケリーら攻撃陣と好連携を築く[5]1999年に開催されたコパ・リベルタドーレス出場権を懸けた大会の決勝・クルゼイロ戦では、自らのハットトリックでリベルタドーレス出場権を獲得するなど[6] 得点を量産。アトレチコPRでは103試合で54得点を挙げた[2]

2000年6月にヨーロッパへの移籍話が浮上し、イタリアのインテル・ミラノフランスオリンピック・マルセイユから熱心なオファーが届いた。マルセイユへの移籍が決まりかけた所に、同じフランスリーグのスタッド・レンヌの会長から直々に「マルセイユの倍のお金を出すから」と説得され[2]、同年7月に2100万USドル(当時のレートで約21億円)という高額な移籍金[7]レンヌへの移籍が決定。鳴り物入りの入団で「セグンダ・ロナウド」(「ロナウド二世」という意味合い)と呼ばれた[8][9]

同年9月に開催されたシドニー・オリンピックではロナウジーニョらと共にブラジル五輪代表に選ばれ[10]、4試合に出場[11]準々決勝のカメルーン戦で敗れ[注 1]、ベスト8に終わった。順調にキャリアを伸ばしていたルーカスだったが、この試合を機にキャリアがうまく行かなくなったと語っている[13]

オリンピック後にレンヌに再合流したが、初めての海外移籍でチームに中々馴染めないばかりか[8][2]、高額選手ゆえ周囲からのプレッシャーも強く[14][7][9][2]、チーム事情によって守備的なボジションで使われるなど、レンヌでは2シーズンで6得点に留まり実力を発揮できなかった[10]

2002年の後期はブラジルのクルゼイロEC2003年前期はコリンチャンスレンタル移籍で貸し出されたが、左足小指の骨折など負傷に泣き[2]、2003年後期は再びレンヌに戻ってプレーした。同年7月に夫人と入籍。

Jリーグでの活躍

[編集]

2004年JリーグFC東京へ移籍[5]。アトレチコPR所属時に3年間コンビを組んでいたMFケリーと、ブラジルユース代表時代のチームメイトであるDFジャーンの2人の仲の良いブラジル人選手が先に在籍しており、その2人の手助けもあって日本での日常生活には早く順応したが[9]、オリンピック以来の低迷を脱するには多少の時間を要した。前年限りでFC東京を退団し、"キング・オブ・トーキョー" と呼ばれたアマラオの後釜としての期待の大きさ[15][16](応援歌もアマラオに対し使われていたカルチャー・クラブの「カーマは気まぐれ」が引き継がれた)や、エースストライカーの符号である背番号9を付けたこと、更にケリーの負傷も重なって[17]1トップの前戦での孤立を招き、リーグ11節終了時で1得点となかなか結果を残せずにいたが、それでも当時のFC東京監督であった原博実は、ルーカスの懸命にチーム戦術を吸収しようとする真面目な姿勢を買い[18]「自信を掴めばやれるはず」と[16]辛抱強く起用[19][17]。5月頃から徐々にチームにフィットし出すと第12節のガンバ大阪戦で2得点、第14節の名古屋グランパスエイト戦でも5人抜きのドリブルシュート[20] を含む2得点を記録し地位を確立、90分フル出場を続けるようになった。ナビスコカップ準決勝の東京ダービーではハットトリックと延長Vゴールを決めるなど、FC東京の初タイトル獲得に貢献した。

2005年シーズンは夏以降、横浜でのアクシデント(後述)などもあって無得点に終わり、同年11月に長男が生まれたことで母国でのプレーを希望[21] したことから、翌年の契約は結ばない形でブラジルに帰国。しかしFC東京が進めていたアモローゾの獲得が失敗に終わったことにより、急遽再契約[22]。3年目の2006年は同シーズン監督に就任したガーロによって自身の念願でもあった[23]トップ下にコンバートされ[1]、守備やアシストなど様々な面で向上し、幅を広げただけでなく[23] 31試合18得点とJリーグでの自己最高成績を残した。

2008年ガンバ大阪に完全移籍[24]マグノ・アウベスの後釜として[25] 背番号9を着けてプレー。AFCチャンピオンズリーグ決勝 (H&A) の2試合では、両試合の先制点を含め計3ゴール1アシストを挙げる活躍で[14]優勝に貢献した。

2009年は中盤のポジションで起用されることが多く[26][14]、リーグ戦では6得点に留まったが、天皇杯では6試合8得点の活躍で、G大阪の天皇杯連覇に貢献した。

再びJリーグへ

[編集]
2011年のルーカス

2010年シーズン終了をもって7年に渡る日本でのプレーに区切りを打ち[27]2011年からは母国ブラジルの古巣であるアトレチコPRに復帰[28]。だが、アトレチコPRでは監督交代が相次ぐ[注 2] など混乱が続き、「サッカーの嫌な部分が見えてしまった[29]」と、同年5月に現役引退を表明する[注 3][30]

しかしその矢先、古巣FC東京からのオファーを受けたため、現役続行を決断。7月にFC東京復帰が発表された[31]。FWロベルト・セザーからポジションを奪うと[32]、9月10日の京都戦でハットトリックを挙げる[33] など健在ぶりを見せ、攻撃の起点として[34] 先発出場を続けた。また、天皇杯でも活躍を見せ、決勝の京都戦では2得点を挙げるMVP級の活躍で[10]、チームの天皇杯初優勝に大きく貢献した。

2012年は、チーム唯一のリーグ戦全試合出場[35](Jリーグでは自己最多出場)に加え、5年ぶりの二桁得点を達成。

2013年は主に右MF(サイドハーフ)に配されたが[36]、高い守備意識と[36]、中盤でも得点力を発揮し[37]9月28日の大宮戦ではハットトリックを達成[38][注 4]。同年11月、「いい時期に引退することを理想としていた」[40] と、2度目の現役引退を表明した[4]

その後は母国ブラジルで不動産業に携わる他、FC東京やG大阪との関わりを続け[41] クラブ主催イベントにも参加した。2015年には、ガンバ大阪のファン感謝祭にも招待された。2014年末、Jリーグ功労選手賞を受賞[42]

人物・エピソード

[編集]
  • 日本語を話すことができる[1][37]。本人曰く、訪日2年目で話の内容が分かるようになり、5年目でマスター[3]。試合後のインタビューなどではポルトガル語通訳を介して対応をするが、日本人選手との意思疎通には問題は無く、練習中などでは新加入のブラジル人選手の隣に行き通訳の役を買って出たり[43]、日本での生活の面倒を見るなどの支援をしていた[44]。2011年にFC東京の練習場を訪れた際には日本語で自己紹介をした上、通訳の飯野一徳には「来年は自分が通訳をやるよ」と冗談を言い、梶山陽平からは「昔よりうまくなっていた」と評価された[45]

試合中の脳震盪

[編集]

2005年9月17日日産スタジアムで行われたJ1第24節・横浜F・マリノス戦の試合終了間際、味方のジャーンと激突し[46]脳震盪で意識不明の状態に陥るアクシデントが起きた。試合は中断され、ピッチ上ではFC東京のドクターだけでなく対戦相手の横浜FMのドクターも応急処置に当たりピッチ上で点滴などの処置が施されたが意識が戻らず、10数分後マラソン用の北ゲートから救急車をピッチ内へと入れ、そのまま病院に搬送された[47]。また、この試合はNHK-BSで生中継されており、午後9時までの予定だった中継を急遽5分間延長したが、それでも試合終了のホイッスルを待たずに中継を終える事となった。

約20分の中断の後試合は再開されたが[48]ロスタイムはほぼ取らず[46]、そのままスコア0-0で試合終了となった[47]。両チームの選手ともプレーできる精神状態に無く[49]、横浜FM監督の岡田武史は「お互いに、もう攻め合う気になどなれなかった」と述べ、FC東京監督の原博実も「レフェリーの判断は正しかった」と述べた[46]

このアクシデントの影響で試合翌日実施予定だったJサテライトリーグの同一カード(横浜FM対FC東京)も中止、順延された[48]。ルーカスは翌日には意識を取り戻し退院[50]、約1ヵ月後の試合で復帰した。

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1996 (pt ボタフォゴSP セリエC 1 0
1997 (pt セリエB 11 2
1998 アトレチコPR セリエA 15 3
1999 28 11
2000 5 5
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
2000-01 (en レンヌ 19 リーグ・アン 28 4
2001-02 (en 33 2
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2002 クルゼイロ セリエA 7 2
2003 コリンチャンス 21 3 1
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
2003-04 (en レンヌ 19 リーグ・アン 11 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2004 FC東京 9 J1 27 11 7 6 3 1 37 18
2005 30 7 2 0 1 0 33 7
2006 31 18 5 0 2 2 38 20
2007 32 12 8 2 3 0 43 14
2008 G大阪 31 8 4 1 5 1 40 10
2009 30 6 2 0 6 8 38 14
2010 19 7 2 1 3 1 24 9
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2011 (en アトレチコPR 9 セリエA 16 4 5 3
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2011 FC東京 49 J2 23 9 - 6 3 29 12
2012 J1 34 10 4 1 1 0 39 11
2013 34 11 1 1 3 0 38 12
通算 ブラジル セリエA 58 22
ブラジル セリエB 11 2
ブラジル セリエC 1 0
フランス リーグ・アン 72 6
日本 J1 268 90 35 12 27 13 330 115
日本 J2 23 9 - 6 3 29 12
総通算
その他の公式戦
  • 2009年
  • 2010年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2012年
    • スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
CONMEBOLリベルタドーレス杯クラブW杯
2000 アトレチコPR -
2003 コリンチャンス -
AFCACLクラブW杯
2008 G大阪 9 9 6 3 0
2009 5 0 -
2010 4 1 -
2012 FC東京 49 5 0 -
通算 AFC 23 7 3 0
その他の国際公式戦
出場歴

タイトル

[編集]

クラブ

[編集]
コリンチャンス
アトレチコ・パラナエンセ
FC東京
ガンバ大阪

個人

[編集]
  • Jリーグ優秀選手賞:1回 (2004年)

代表歴

[編集]

脚注

[編集]
注釈
  1. ^ ルーカスが選手交代で退いた後に、カメルーンは2人の退場者を出したが、ブラジルは攻めあぐね、延長戦で失点し1-2で敗れた[12]
  2. ^ 4月までにセルジオ・ソアレスジェニーニョアジウソンの3人が監督を務めている。
  3. ^ もし(7年間)日本でプレーする機会がなければ、もっと早く引退していただろうともコメントしている[13]
  4. ^ これにより、J1、ナビスコカップ、天皇杯の日本三大タイトルでのハットトリックを達成した[39]
出典
  1. ^ a b c d 選手データベース”. 2007年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2007年2月13日)
  2. ^ a b c d e f g 『FC東京ファンブック2005』毎日新聞社、2005年4月1日、72-76頁。ISBN 4620792535 
  3. ^ a b 『Jリーグ サッカーキング 2011年12月号』朝日新聞出版、2011年、26-27頁。 
  4. ^ a b c ルーカス選手 現役引退のお知らせ FC東京 (2013年11月7日)
  5. ^ a b c d 新外国籍選手加入のお知らせ”. 2012年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 FC東京 (2003年12月22日)
  6. ^ 『FC東京ファンブック2004』毎日新聞社、2004年、79頁。 
  7. ^ a b The forgotten £18m forward now making a splash in Japan(英語)FOOTBALL.COM (2013年3月21日)
  8. ^ a b 『FC東京ファンブック2006』毎日新聞社、2006年、104頁。 
  9. ^ a b c 本誌連動インタビューVOL.987”. 2008年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2004年8月11日)
  10. ^ a b c 光ったルーカスのサッカー偏差値 「取りにいった」タイトル戦は面白い! 47NEWS (2012年1月2日)
  11. ^ ルーカス・セベリーノFIFA主催大会成績(英語) FIFA.com
  12. ^ MATCH Report Brazil - Cameroon Archived 2011年7月22日, at the Wayback Machine.(英語)FIFA
  13. ^ a b Lucas explica por que decidiu pendurar as chuteiras(ポルトガル語)パラナ・オンライン (2011年5月15日)
  14. ^ a b c 連載インタビュー・海を渡った志士のいま第5回「日本で過ごした10年間に本当に感謝している」(ルーカス) (2/3) blogola (2014年6月29日)
  15. ^ 『フットボールサミット第23回』カンゼン、2014年、194頁。ISBN 978-4862552631 
  16. ^ a b 365日FC東京 原語録【G大阪戦(12日)終了後】”. 2005年9月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 東京中日スポーツ (2004年6月14日)
  17. ^ a b 待望の男の目覚め (FC東京 2-1 G大阪) スポーツナビ (2004年6月14日)
  18. ^ 【J1-1st:第12節】F東京 vs G大阪:原博実監督(F東京)記者会見コメント J's GOAL (2004年6月12日)
  19. ^ 連載インタビュー・海を渡った志士のいま第5回「日本で過ごした10年間に本当に感謝している」(ルーカス) (1/3) blogola (2014年6月29日)
  20. ^ 後藤勝 (2005). トーキョーワッショイ!. 双葉社. p. 200 
  21. ^ ルーカス 母国でのプレー希望”. 2006年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 東京中日スポーツ (2005年12月10日)
  22. ^ わだかまりなし ルーカス ササそろって再来日”. 2006年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 東京中日スポーツ (2006年1月22日)
  23. ^ a b F.C.TOKYO MAGAZINE BR TOKYO 2014年04月号』ユーメイド、2014年、10頁。 
  24. ^ ルーカス選手 ガンバ大阪へ完全移籍決定のお知らせ”. 2008年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 FC東京 (2008年1月7日)
  25. ^ ルーカス破格オファーでG大阪に完全移籍へ 東京中日スポーツ (2007年12月24日)
  26. ^ ルーカス古巣は得意 狙うぞ! 3戦連発 東京中日スポーツ (2009年4月29日)
  27. ^ FWルーカス選手 契約満了に伴い、2010シーズンをもって退団のお知らせ”. 2010年11月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 ガンバ大阪 (2010年11月24日)
  28. ^ Lucas:“Estou voltando para casa” (cache)(ポルトガル語)アトレチコ・パラナエンセ (2010年12月22日)
  29. ^ 週刊サッカーマガジン増刊 FC東京J1昇格記念号』ベースボール・マガジン社、2011年、24頁。 
  30. ^ ルーカス 東京のオファーだから 心動いた 東京中日スポーツ (2011年6月28日)
  31. ^ ルーカス選手 移籍加入決定のお知らせ FC東京 (2011年6月30日)
  32. ^ セザー代役 ルーカス1トップ 東京中日スポーツ (2011年8月25日)
  33. ^ 【試合詳報】ルーカスのハットなどで6発大勝 首位ガッチリキープ vs.京都 東京中日スポーツ (2011年9月11日)
  34. ^ 【J2:第28節 愛媛 vs FC東京】レポート J's GOAL (2011年9月18日)
  35. ^ ルーカス“皆勤賞弾”で締める 東京中日スポーツ (2012年12月1日)
  36. ^ a b ポポヴィッチ監督「ウチの若い選手にとっての見本が二人いるのは、重要なこと」 blogola (2013年9月24日)
  37. ^ a b 東京ルーカス来日10年目で初ハット 日刊スポーツ (2013年9月29日)
  38. ^ 2013Jリーグディビジョン1 第27節 ルーカス選手(F東京)ハットトリック達成 Jリーグ (2013年9月28日)
  39. ^ 東京ルーカス今季で引退「完全燃焼」 日刊スポーツ (2013年11月8日)
  40. ^ FC東京・ルーカス引退「自分が理想としていた形」 サンケイスポーツ (2013年11月8日)
  41. ^ 連載インタビュー・海を渡った志士のいま第5回「日本で過ごした10年間に本当に感謝している」(ルーカス) (3/3) blogola (2014年6月29日)
  42. ^ 功労選手賞について』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2014年10月22日http://www.j-league.or.jp/release/000/00006114.html2014年10月23日閲覧 
  43. ^ 『FC東京ファンブック2007』毎日新聞社、2007年、88頁。 
  44. ^ 東京4発!助っ人大暴れ ルーカス夫人に誕生日プレゼント J1第11節 5月12日(土)vs.千葉 東京中日スポーツ (2007年5月13日)
  45. ^ 来年は通訳やる!? 東京中日スポーツ (2011年6月28日)
  46. ^ a b c 【J1:第24節 横浜FM vs F東京 レポート】両チームとも、得点機を生かせずにスコアレスドロー。試合終了間際には、F東京ルーカスが接触プレー後に救急車で運ばれる緊急事態。 J's GOAL (2005年9月18日)、2018年8月8日閲覧。
  47. ^ a b 『FC東京ファンブック2006』毎日新聞社、2006年、116頁。 
  48. ^ a b ルーカス選手が意識不明 横浜M-F東京戦で 47NEWS (2005年9月17日)
  49. ^ 【J1:第24節】横浜FM vs F東京:試合終了後の各選手コメント J's GOAL (2005年9月17日)、2018年8月8日閲覧。
  50. ^ ルーカス選手の検査結果について”. 2006年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。 FC東京 (2005年9月18日)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]