ホンダロックSC

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ホンダロックSC
原語表記 株式会社ホンダロックサッカー部
呼称 ホンダロックSC
クラブカラー     
創設年 1964年
所属リーグ 日本フットボールリーグ
ホームタウン 宮崎県宮崎市
ホームスタジアム #スタジアムを参照
収容人数 12,000
代表者 川野勝
監督 井戸川一徹
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ホンダロックSC(ホンダロック エスシー、Honda Lock Soccer Club)は、宮崎県宮崎市を本拠地とする社会人サッカークラブ(実業団)。正式名称は「株式会社ホンダロックサッカー部」である。

概要・歴史[編集]

1964年、ホンダロックが社内福利厚生を目的に「本田ロック黒潮会サッカー部」として創立。選手は現在に至るまで全員がホンダロックの社員選手で構成される。本田技研工業フットボールクラブとは異なり、ほぼ毎年シーズンオフ中にて開催されるセレクション等でJリーグチームを初めとするプロチーム及び社会人チームからの移籍選手をも受け入れているが、この場合も社員選手として獲得している。その後、宮崎県社会人リーグで通算11回の優勝を果たした。

2004年
九州サッカーリーグで初優勝し、JFL昇格を懸けた全国地域リーグ決勝大会に進出するが3位に終わった。自動昇格の条件である2位以内に入らなかったが、国士舘大学サッカー部の不祥事によるJFL脱退で枠が空いたことにより2005年度からのJFL昇格が決まった。また宮崎県代表として出場した第84回天皇杯ではJ2・コンサドーレ札幌に敗退。
2005年
JFL昇格初戦は浜松市にある本田技研本社のチーム、Honda FCとの「ホンダ・ダービー」となった。このシーズンは15位に終わったが、大串良秀が1シーズン4本のフリーキックによるゴール(JFLタイ記録)を決めるなど、14得点の活躍を見せた。
2006年
前期は16位で折り返したが後期は思うように成績が伸びず、結局年間18位で入れ替え戦へ回り、地域リーグ決勝大会2位のFC岐阜を相手に第1戦0-4、第2戦1-4で連敗、2007年の九州リーグ降格が決定した。
2007年
3年ぶりの九州リーグ参戦となり、1年でのJFL復帰を目指した。最終節前の21節に勝利して首位を守り、この時点で地域リーグ決勝大会の出場権を確保した。しかし最終節のV・ファーレン長崎との試合では、終盤立て続けに2失点し、1-2で逆転負け。その前に行われた試合で勝利を収めていた2位のニューウェーブ北九州に逆転優勝を許すこととなった。最終成績が2位であったため、同年の全国地域リーグ決勝大会には出場したが、予選リーグで初戦グルージャ盛岡に勝利したものの2戦目で最終的に優勝(JFL昇格)したファジアーノ岡山に敗退し2位となったため決勝ラウンド進出を逃し、1年でのJFL復帰はならなかった。
2008年
序盤に一時首位に立つものの終盤失速し、3位に終わりリーグ戦での地域リーグ決勝大会の出場権を確保できなかった。しかし、10月の全国社会人サッカー選手権大会において3位になり、本年からこの大会の上位2チームに与えられる地域リーグ決勝大会出場権を繰り上げで獲得した[注 1]
11月22日から12月1日にかけて開催された地域リーグ決勝大会では、1次ラウンドA組を2勝1敗の首位で通過し[注 2]、決勝ラウンドは1勝2敗の3位で終えた[注 3] 2この年はJFLから3チームのJリーグ参入が決定したため、3位のホンダロックは入れ替え戦なしで3年ぶりのJFL復帰を達成した。
2009年
3年ぶりのJFL復帰。下馬評ではJFL残留争いだったが、得点こそ少ないものの守備が安定し、一部上位チームよりも少ない失点数で一時は中位まで順位を上げた時期もあった。第89回天皇杯に宮崎県代表として出場、2回戦ではJ2の東京ヴェルディから得たPKを前田悠佑が決め、東京Vの攻撃は持ち前の堅い守備で切り抜けて1-0で勝利し、8度目の出場で初めてJリーグクラブを倒し、かつ同大会ではJFL勢で唯一の3回戦進出チームとなった。3回戦ではJ1の名古屋グランパスに0-2で敗れた。リーグ戦も13位となり、過去最高順位で2009年を終えた。
2010年
宮崎県内での口蹄疫発生に伴い、感染拡大防止のため宮崎県内で開催しているホームゲームを5月下旬から中止・順延あるいは対戦チームのホームゲームとして開催に変更となった(順延となった試合は8月中に開催された)。また7月の2試合の主催試合も無観客試合(一般ファン立入禁止。会場も非公表→その後2011年2月に会場説明が解禁となり「フェニックスリゾートイベントスペース」(宮崎市)で開催したと公表)とする処置をとった。詳細は2010年日本における口蹄疫の流行を参照。成績も決定力不足は相変わらずも守備は安定し、前年と同じ13位で終了した。
2011年
1月に口蹄疫からの復興として元日本代表中田英寿率いる「TAKE ACTION F.C.」と対戦。釘崎康臣麻生大治郎が得点を挙げ2-2とした。これまでチームに外国籍の選手はそれまでいなかったが、黄大俊(韓国籍)が初めて外国籍の選手での入団(入社)そして、チーム初となる天皇杯のJFLシード権を獲得した(東北大震災の影響により選出方法が変わり、前期7節から開始し、11試合を行なった時点での順位上位2チームにシード権だったため)。
シーズン序盤でGK2人がケガにより戦線離脱しGKがいない事態となったが、コーチである川島正士が臨時で現場復帰している。
この年、JFL参加してから1度も勝てていなかったHonda FCに後期第9節に3-2で初勝利。
シーズン途中で監督の池田竜市が退任、後任にはコーチの城和憲(城彰二の弟)が昇格。
前半戦は好調で首位争いに加わっていたが、後期に入ると連敗などで失速。しかし、過去最高位になる8位で終了。
この年で長年ホンダロックSCを支えたDFの谷口研二、白川伸也、澤村憲司が現役引退した。
2012年
チームの要であったMF前田悠佑がV・ファーレン長崎、DF小原拓也がFC琉球へ移籍。この年入団セレクションは行われなかったものの、大学生の肝付・串間、セレッソU18から鶴崎を獲得。また各選手のポジションのコンバート(釘崎がFW専念、FW熊元がDFなど)など新体制で臨むものの、開幕から自己ワースト記録の10連敗を喫してしまう。復調の兆しを見せるも天皇杯宮崎県予選決勝にて宮崎産業経営大学に敗退、宮崎県代表として長く出場していたが、記録が途絶えた。
リーグ戦は16位となり、本来なら地域リーグ決勝大会3位チームとの入れ替え戦となるが、SAGAWA SHIGA FCの活動休止・JFL脱退のため繰り上げでJFL残留となった。
2013年
監督が川島正士に代わったものの、シーズン当初から低迷し最終節で最下位に落ちた。しかし2014年よりJ3リーグ導入に伴い、10チームがJFLからJ3に加盟するためJFL残留となった。
2014年
前半戦を9位、後半戦を12位で終える。また、長崎で行われた「長崎がんばらんば国体」サッカー成人の部として諏訪園・串間・宮路・原田・麻生がメンバー入りし35年ぶりの宮崎県勢では優勝に貢献している。

またこの年では、首藤・麻生・山下・原田・釘崎らが引退している。(実際は社業・コーチなどで活躍している) ;2015年 入団セレクションは行われず、MF山田貴文・岡田峻・坂本翔 FW米良智記が入団 キャッチフレーズは「一途」

スタジアム[編集]

戦績[編集]

JFLまたは九州サッカーリーグのみ

年度 所属 順位 勝点 チーム 試合 引分 得点 失点 監督
1986 九州 7位 7 10 9 2 3 4 13 16 -3 ?
1987 10位 4 10 9 1 2 6 8 15 -7 ?
年度 所属 順位 勝点 チーム 試合 90分勝 PK勝 PK負 90分負 得点 失点 監督
1997 九州 5位 26 10 18 5 3 5 5 32 31 1 ?
1998 8位 21 10 18 6 0 3 9 34 37 -3 ?
1999 4位 32 10 18 9 2 1 6 47 37 10 ?
2000 2位 37 10 18 12 0 1 5 54 24 30 ?
2001 5位 29 10 18 8 2 1 7 33 34 -1 ?
2002 3位 39 10 18 12 1 1 4 54 27 27 ?
2003 6位 31 12 22 8 1 3 9 40 44 -4 ?
2004 優勝 47 10 18 14 2 1 1 52 16 36 ?
年度 所属 順位 勝点 チーム 試合 引分 得点 失点 監督
2005 JFL 15位 15 16 30 3 6 21 38 79 -41 福田修
2006 18位 22 18 34 5 7 22 39 86 -47 生目春男 / 松山浩司
年度 所属 順位 勝点 チーム 試合 90分勝 PK勝 PK負 90分負 得点 失点 監督
2007 九州 2位 52 10 18 17 0 1 2 76 19 57 福田浩一
2008 3位 46 10 18 14 2 0 2 62 14 48
年度 所属 順位 勝点 チーム 試合 引分 得点 失点 監督
2009 JFL 13位 40 18 34 9 13 12 34 38 -4 廣池寿
2010 13位 42 18 34 10 12 12 36 39 -3
2011 8位 47 18 33 12 11 10 47 45 2 池田竜市城和憲
2012 16位 28 17 32 7 7 18 28 56 -28 城和憲
2013 18位 29 18 34 6 11 17 26 47 -11 川島正士
2014 10位 29 14 26 7 6 13 31 52 -21 井戸川一徹
2015     16 30            

チームスタッフ・選手[編集]

2014年のメンバーを記す。

スタッフ[編集]

役職 名前 備考
監督 日本の旗 井戸川一徹 2013年はコーチ
コーチ 日本の旗 谷口研二
コーチ 日本の旗 白川伸也
コーチ 日本の旗 竹井竜太
コーチ 日本の旗 釘崎康臣 選手兼任

選手[編集]

Pos No. 選手名 前所属 備考
GK 1 日本の旗 桑原一太 九州保健福祉大学
16 日本の旗 熊野一樹 ブラウブリッツ秋田 新加入
21 日本の旗 鶴崎智貴 セレッソ大阪U-18
DF 2 日本の旗 肝付将臣 駒澤大学
3 日本の旗 上田常幸 コンサドーレ札幌
4 日本の旗 串間雄峰 福岡大学
5 日本の旗 宮路洋輔 アビスパ福岡
6 日本の旗 早稲田昂平 流通経済大学
14 日本の旗 岩﨑司 鹿屋体育大学 新加入
20 日本の旗 古垣秀晃 福岡教育大学 新加入
29 日本の旗 松山周平 佐賀大学 新加入
MF 7 日本の旗 山下優一郎 阪南大学
9 日本の旗 悦田嘉彦 福岡経済大学
15 日本の旗 村山充 宮崎産業経営大学
17 日本の旗 池上智視 東京農業大学
19 日本の旗 大山直哉 鹿屋体育大学 新加入
24 日本の旗 諏訪園良平 宮崎産業経営大学
27 日本の旗 吉村康平 流通経済大学 新加入
28 日本の旗 今井康平 西南学院大学 新加入
FW 8 日本の旗 首藤啓祐 福島ユナイテッドFC 選手会長
10 日本の旗 原田洋志 九州保健福祉大学
11 日本の旗 釘崎康臣 アビスパ福岡
13 日本の旗 木下健生 福岡教育大学 主将
18 日本の旗 麻生大治郎 宮崎産業経営大学
25 日本の旗 市原大嗣 カマタマーレ讃岐

ユニフォーム[編集]

2009年までユニフォームサプライヤーは不明(おそらく個人経営商店が作成していたものや、ミズノなどを使ってた時期もある) 2010年よりKappa社製。 2009年頃まではユニフォーム以外のベンチコート等はプーマ社製だった。 なお、ユニホームには不死鳥(フェニックス)を模ったデザインがある。

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st)
FP(2nd) グレー グレー グレー
GK(1st)
GK(2nd) 水色 水色 水色
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

エンブレム・マスコットキャラクター[編集]

[2]

エンブレム
  • 長方形にチームカラーの赤と白を使って、フェニックスとサッカーボールをデザイン。
    • チームスローガンである「闘う集団」の象徴として、また宮崎の県木「フェニックス」と県鳥「こしじろやまどり」を不死鳥である「フェニックス」に置き換えて表現。
    • 「フェニックス」には「永遠に生き続ける者」「強い者」「唯一無二」という意味が込められており、イメージカラーである炎の赤は「攻め」「生命力と情熱」「南国の太陽」「エネルギー」「闘争心」を表現。
マスコットキャラクター
  • 「ロッキー」
    • 「闘う集団」のスローガンの下、前向きにゴールを目指す姿勢の、アグレッシブで負けん気の強いキャラクターです。燃える闘志を不死鳥ならではの「炎」で表現し、太い線や赤を基調とした色づかいが力強さを強調。
    • 「ロッキー」という名前は、一般公募を実施して200件を超える募集の中から選ばれた。「ロック」という社名やチーム名の他、映画「ロッキー」のように、明日に向かって闘うキャラクターという思いや、壮大な「ロッキー山脈」を越えて羽ばたく不死鳥であって欲しい、といったサポーターの思いが込められている。

エピソード[編集]

  • HONDA FC同様、現在ではプロ化の意思はない。宮崎県のサッカー協会などからプロ化への打診はあったようだがチームスローガンにもあるとおり「アマチュアで日本一」を目指している。
  • ロック総統』と呼ばれる名物サポーターがいる[3]ガンダムシリーズシャア・アズナブルのコスプレで「Jへの鍵」を持ってアウェーサポーター席に乗り込み、パフォーマンスを繰り広げることが、ホンダロック、ひいてはJFLの名物ともなっている。
    • 彼自身は元ホンダロック社員で、以前は電撃ネットワークのメンバー(デビュー前)及びマネージャーを務めていたという[3]。ちなみにシャアの衣装は、ゴール裏で「総統」と呼ばれていたことからギレン総統の衣装をオーダーしたつもりがシャアの衣装になっていたことに由来するとのこと[3]
    • ホンダロックを応援するきっかけになったのは、自身が宮崎出身であることと、電撃ネットワークのマネージメントでイングランドを訪れた際に見た、レイトン・オリエントFC(当時Div.3)の「昇格を目指さない」チームスタイルに影響されたものだという[3]
    • これらのパフォーマンスを行っている最大の理由は、現在のJリーグの「勝利至上主義」に疑問を呈し、サッカーには様々な楽しみ方が合っていいとの考えによるものだと語っている[3]
    • また2月の宮崎のキャンプシーズンでは、多くのJリーグチームの練習試合の受け皿となることが多い。

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 同年の全国社会人選手権で優勝したAC長野パルセイロ北信越フットボールリーグの優勝によってすでに地域リーグ決勝大会の出場権を得ていたため、ホンダロックが繰り上がった。
  2. ^ 対戦順に、AC長野パルセイロに2-2からのPK負け、九州サッカーリーグチャンピオンの沖縄かりゆしFCに0-0からのPK勝ち、前年同大会決勝ラウンド4位のバンディオンセ加古川に2-1で90分勝ち。地域決勝大会は90分で同点の場合はすぐにPK戦を行う。A組は過去の大会での上位チームが集まり、6試合中3試合がPK戦になったことで改めて「死の組」とも評された[1]
  3. ^ 対戦順に、九州サッカーリーグ2位のV・ファーレン長崎に0-5で90分負け、中国サッカーリーグ優勝のレノファ山口戦を2-0で90分勝ち、関東サッカーリーグ優勝のFC町田ゼルビアには1-2で90分負け。
出典

関連項目[編集]

外部リンク[編集]