この項目では、静岡県 浜松市 に本拠を置くサッカークラブについて説明しています。
本田技研工業株式会社フットボールクラブ (ほんだぎけんこうぎょうかぶしきがいしゃフットボールクラブ)は、日本の静岡県 浜松市 を本拠地とする日本フットボールリーグ (JFL)に所属する社会人サッカー クラブ(実業団 )。呼称は「Honda FC 」(ホンダ エフシー)であり、以下の文章からは基本的に呼称で表記していく。
1971年、本田技研工業 (以下「ホンダ」)の創業地でもある浜松製作所(現・トランスミッション製造部)に置かれた浜友会サッカー部(後述 )を母体として本田技研工業サッカー部 (以下「ホンダサッカー部」)として創部。[1]
ホンダ本社のサッカー部という位置づけであるが、直接的な運営にはトランスミッション製造部内に設立された「Honda FC 事務局」のスタッフが関わっており、チーム代表もトランスミッション製造部長が務めている。実業団ながら地域密着型クラブを標榜し、下部組織 も有している[2] 。
ホームスタジアムは同市北区 都田町にあるホンダ都田サッカー場 で、JFL以外のクラブも含め日本国内で数少ない「クラブ自身が所有する自前の」スタジアムである。
過去に2度Jリーグクラブ化の構想があったが、いずれも実現していない。1999年のJFL 参入以来、優勝7回・2位4回の成績を残する。
チームのシンボルマークは、浜松の「H」とHondaの「H」が重なり合い、当時の浜松市鳥であるツバメ と雄大な遠州灘 の波を型どったデザイン[2] 。マスコットキャラクター はチームのシンボルマークでもあるツバメをモチーフ とした「パッサーロ (Passaro )」[2] 。
トップチーム在籍選手の扱い [ 編集 ]
社員選手に関しては、試合の無い日は、午前中はホンダの正社員としてトランスミッション製造部に勤務、午後からはフットボーラーという生活を送っている。一方、プロ契約選手に関しては、日本サッカー協会 が定めた規則 に沿った契約をせずにホンダが独自に社員の扱いで契約を締結しており[注釈 2] [注釈 3] 、他クラブから期限付き移籍してきている者も含めたプロ契約選手全員が総務課に籍を置いている[注釈 4] 。
創設の経緯 [ 編集 ]
ホンダの各事業所にはそれまでも同好の士を集めたサッカー部は活動していた[1] 。社員に共通の話題を提供し、社員の意識を強化を図り、士気を高めるという目的でいえば、埼玉製作所の野球部(現Honda硬式野球部 )や、鈴鹿製作所の野球部(現Honda鈴鹿硬式野球部 )が既に実績を挙げており、浜松製作所でも当初、野球部をという声も出たが、既に埼玉と鈴鹿に野球部があること、そして何よりも静岡という土壌を考え、サッカー部創設が決定した[1] 。まず監督・保崎昌訓、主将・望月修司の浜友会のメンバーを中心に、1971年春新入社の関東大学リーグ 経験者を大量に加え、それまで浜友会が所属していた静岡県リーグ2部西部リーグ からスタートを切った[1] 。翌1972年には、名相銀 の中心選手だった桑原勝義 が、日本サッカー協会 の幹部・長沼健 に口説かれ、銀行職を捨てて郷里のチームに加入[1] 。桑原は翌1973年にプレイングマネージャー となり、桑原を中心にチームは強化された[1] 。
本田技研工業サッカー部 (1971年-2001年) [ 編集 ]
創設 - JSL時代
1971年に創部。1972年 に静岡県リーグ に加盟。1973年 には東海社会人サッカーリーグ 、1975年 には日本サッカーリーグ (JSL)2部に昇格[1] 。1981年 には同1部に昇格し、以降1992年に終了するまで、トップカテゴリに居続けた。なお1989年 に開催された第1回フットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ )に出場した日本代表 は、ホンダサッカー部の選手で構成されていた。
90年代初頭、国内のトップカテゴリがJSLからJリーグ へ移行する際、本拠地である浜松市内に第一種の競技場 がなく、行政の協力も期待できなかったことから、誘致要請のあった埼玉県 浦和市 (現・さいたま市 )に本拠地を移転し、本田技研工業狭山サッカー部 と統合して浦和ホンダウィンズ としてJリーグ(オリジナル10 )へ参加することが検討された。しかし、チーム関係者の間には「浜松を本拠にJリーグへ参戦したい」とする意向が根強く、結論が出ないまま91年にJリーグへの初年度参加見送りを発表した。当時は国内経済の悪化からホンダ本社はカーレースF1 からの撤退を表明していたため、サッカー部のプロ化見送りに関しても、F1同様に「本業主義のため」という論理付けがされた。
鹿島アントラーズ へ監督の宮本征勝 (1990年にホンダサッカー部監督退任)、ヘッドコーチの関塚隆 (1991年に現役引退→早稲田大学ア式蹴球部 監督)、黒崎久志 ・長谷川祥之 ・本田泰人 ・内藤就行 ・入井和久 ・千葉修 が移籍し、読売サッカークラブ へ同ジュニアユース出身北澤豪 や同クラブを前身としたヴェルディ川崎 へは石川康 などが移籍した。
ジャパンフットボールリーグ時代
1992年からジャパンフットボールリーグ (以下、旧JFL)1部に参加した。しかし、先述の通り、レギュラーの大半を失ったチームは10チーム中9位に低迷し、翌1993年 は同2部に降格したが、同年では2部優勝を果たす。翌1994年 には、旧JFLが16チームによる1部制に再編され、それを機に現場サイドでJリーグ参入へ向けた3年構想が始動した。これにより、前年にJリーグへ参戦したジュビロ磐田 から戦力外通告を受けたバウテルや東川昌典 らを補強し、翌1995年 には柏レイソル から戦力外通告された呂比須ワグナー 、大橋昭好 らを補強した。
1996年 には日本サッカー界に精通した清水エスパルス 初代監督であるジュリオ・エスピノーザをヘッドコーチとして招聘し、ヴィッセル神戸 ・鳥栖フューチャーズ ・コンサドーレ札幌 などのJリーグ参入を目指すチームと、東京ガスサッカー部 を加えた熾烈な上位争いを制し、優勝を飾った。
これを受け、翌97年にはホンダ本社所有のスタジアム(Honda都田サッカー場)に50億円を投じ、改築することで懸案だったスタジアム問題を解決する見込みを立て、浜松F.C としてJリーグ準会員 となった。この時、ホンダ本社は浜松F.Cの株式約6割を引き受けて筆頭株主となった他、ダイドードリンコ などが大口スポンサーとして名を連ねた。
しかし当時は史上最悪の製造不況および通貨危機前夜の時期であったため、産業都市である地元・浜松市内では地元紙などの影響から本田技研工業サッカー部のJリーグ参戦に対し否定的な見方が支配的であった。故に浜松F.Cの経営陣は大きく動揺し、最終的に「時期が悪い」との判断に達したことから一連の構想を白紙撤回した。その後、ホンダ本社の方針もあり、プロ契約選手を減らし、選手全員がホンダの社員として社業にも従事する、いわゆる「完全なアマチュアチーム」へと徐々に移行し始めた。
日本フットボールリーグ時代
1999年 、旧JFLに所属するチームの多くは新たに創設されたJ2に参戦したが、プロ化を断念して「完全なアマチュアチーム」へ移行し始めてから間もないホンダサッカー部はJ2には参加せず、創設された日本フットボールリーグ に所属した。1999年の第35回全国社会人サッカー選手権大会 で優勝し、2001年にJFLリーグで優勝した。同年、ホンダ本社は、2002年から選手とのプロ契約を行なわず、2013年まで社員選手のみでチームを存続させることとなった。
本田技研工業フットボールクラブ (2002年-) [ 編集 ]
2002年から2010年代前半まで [ 編集 ]
2002年 - 2008年
2008年(優勝) JFL 基本布陣
2002年、「本田技研工業サッカー部」から「本田技研工業フットボールクラブ」に改称(呼称は「Honda FC」、以下同表記または「Honda」)。この年から12年間、選手は社員のみであること、毎年の補強が高校卒業(ユースからの昇格も含む)か大学卒業の新卒選手のみとなる[注釈 5] 。並行して、所属選手がプロ選手としてJリーグに挑戦する際には快く送り出すこれまでの方針は変わりなく維持されることとなる[注釈 6] [注釈 7] 。
なお、このシーズンも優勝し、前身時代から含めての連覇を決めている。これは、横浜FC (1999・2000)に続いて、JFL史上2チーム目。JFL5回優勝(初代1回、2代目4回 2010年現在)は1992年のリーグ再編後では最多となる。
以後、12年間社員選手だけで構成されてきたものの、毎年上位につける実力を有する他、年末の天皇杯 では、たびたびJリーグチームを脅かし、時には勝利することもある。また、Jリーグの関係者からも“Jリーグチームにも匹敵する”などと言わしめられたこともあり、いつしか「Jへの門番 」という新たな異名で呼ばれることとなる[注釈 8] 。
2006年、向島満 が引退し、これ以降、7年間は元Jリーガーの在籍選手は居なくなることになった。
2009年 - 2013年
2008年にJFLで優勝すると、チームは過渡期を迎える。前年王者として迎えた2009年は1999年以降過去最悪の7位でシーズンを終えると石橋眞和 が監督を退任。代わって大久保貴広 が監督に就任するも2010年、2011年と2年連続で優勝を逃した。
また、2011年は天皇杯静岡県予選決勝 で静岡産業大学サッカー部 に敗れて18年ぶりに天皇杯本戦への出場を逃した。また、翌2012年の天皇杯は静岡県予選準決勝で浜松大学サッカー部 に1-2で敗れて2年連続で本選出場を逃し、同年の天皇杯の成績は現行のJFL創設以降において過去最低の成績となった。この頃からチームのJFL時代の全盛期を支えた新田純也 、鈴木弘大 、石井雅之 らベテランらがチームを離れ、チームの世代交代が進む傾向となる。
2013年、鈴木雄也 、栗本広輝 、砂森和也 の3名が入団。JFLが事実上の3部として最終年となった2013年は18チーム中5位であった。内、2014年度からのJ3に参戦する10チーム中6チームよりも順位が上であった。この年の天皇杯では予選決勝で藤枝MYFC に0-1で負け、3年連続予選敗退となった。シーズン最終節終了後、計7名の選手が退団することが発表され、DF浅田はFC琉球 へ移籍、FW河野・MF西・DF小栗・DF牧野・GK石川の5名が社業専念となった。また、FW齋藤はシーズン途中で諸事情により退団しているが、2014年からMIOびわこ滋賀 へ移籍したことが同クラブから公表される。
天皇杯は静岡県予選決勝で藤枝MYFC (JFL)に0-1で敗れ、3年連続で本選出場を逃し、また、この年を以ってU-18チームの活動が終了した。
2014年
2002年から12年間「選手は全員アマチュア(正社員)」という体制を貫いたが、この年から再びプロ・アマ混成の体制へと一新した。
吉澤英生以来8年ぶりのプロ契約監督として、2013年までツエーゲン金沢 U-18を監督して率いていた井幡博康 が新監督に就任。井幡は選手として在籍していた1999年以来15年ぶりの古巣復帰ともなった。新入団選手は10年ぶりに復帰する形でベテラン古橋達弥 と宇留野純 をプロ契約で獲得し、また正社員選手として順天堂大学 からMF原田開 ・日本体育大学 からDF宮内啓汰 ・磐田 U-18からGK高村弘尚 の3名を獲得した。原田は現役卒業ではない新卒選手としては河野大星 以来となるが、「元Jリーガーの新卒選手」としてはクラブ初の選手となる[注釈 9] 。併せて、クラブとして元Jリーガー選手の在籍は向島満以来8年ぶりとなった。
7月にはカターレ富山 から村松知輝 、金沢から本田真吾 をそれぞれ期限付き移籍 で獲得。現行のJFLが開幕して以降、Honda FCが期限付き移籍制度を駆使すること及びシーズン中に選手補強を行うことは初となる。
2ステージ制となったこのシーズン、1stステージは鹿児島ユナイテッドFC を得失点差で交わしてステージ優勝。2ndステージは6位にとどまり年間の勝ち点では3番目となるものの、チャンピオンシップで2ndステージ優勝の佐川印刷京都SC を1勝1分で下し、6年振りのJFL王者となった。一方、天皇杯は静岡県予選からの出場、準決勝で本年度からJFLに参入したアスルクラロ沼津 を1-0で退けるも、決勝でJ3リーグ 創設によりJリーグチームとなったスーパーシードの藤枝MYFC に2-7と大敗を喫することとなった。[1]
2010年代後半 [ 編集 ]
2015年
GK中村元 が引退(社業専念)、MF宇留野純 が退団し、FW村松知輝 は期限付き移籍期間満了で富山 に復帰。新卒で三浦誠史 、松本和樹 、富田湧也 が加入。金沢 よりMF小野寺建人 、福島 よりFW久野純弥 を期限付き移籍で獲得、MF本田真吾 の金沢からの期限付き移籍期間を延長した。
シーズン途中にて、GKの清水谷侑樹 が試合中に、高村弘尚 が練習中に、それぞれ全治半年の大けがを負い、残ったGKは急遽選手登録を行ったGKコーチの川口剛史 のみという緊急事態に陥った[5] ことから、北海道コンサドーレ札幌 から阿波加俊太 を育成型期限付き移籍で、静岡産業大学 3年の羽田野将史を期限付き移籍で獲得した。
天皇杯は静岡県予選決勝でJ3の藤枝MYFC に3-4で敗れて、5年連続で本選出場を逃した[6] 。リーグ戦は1stステージは1位と勝ち点差1の3位。2ndステージは1位と勝ち点差2の2位でJFLチャンピオンシップの出場を逃し、JFL連覇はならなかった[7] 。特に2ndステージ第12節のソニー仙台FCとの首位攻防戦は勝てばソニー仙台との勝ち点を1差に迫る最大のチャンスだった試合で試合終了間際にPKで先制し、このまま逃げ切ると思われたアディショナルタイムに失点・引き分けとなり、結果2ndステージ優勝を逃す結果となった[8] 。
一方、2013年度で終了したU-18チームを翌2016年度から復活させることが発表された[9] 。
2016年
GK阿波加俊太、羽田野将史、MF小野寺建人が期限付き移籍期間満了(小野寺は現役引退)。FW伊賀貴一と深谷泰介が引退(社業専念)[10] 。DF砂森和也がJ2のカマタマーレ讃岐 に移籍した[11] 。新たに加入したのは新卒で九州産業大学 からGK楠本祐規 、高知大学 からMF曽根友祐 、鹿児島実業高校 からMF渡邊大地 の3選手と[12] 、ツエーゲン金沢から期限付き移籍で加入した大町将梧 [13] の計4選手。一方、本田真吾と久野純弥は期限付き延長となった。
リーグ戦は1stステージで16チーム中6位となったが、2ndステージで16チーム中1位でチャンピオンシップに進出。年間勝点では1位であった。チャンピオンシップでは1stステージ王者の流通経済大学ドラゴンズ龍ケ崎 (流経大D)と対戦し、流経大Dのホームである千葉県立柏の葉公園総合競技場 で行われた[14] 1stレグは2-0で前半を折り返すものの後半は追いつかれてしまい結局2-2で終えるが、Hondaのホームであるホンダ都田サッカー場で行われた2ndレグは、前半を0-0で折り返すも、後半にこのシーズンで引退を決めた香川大樹の決勝ゴールで1-0としこのまま試合終了。2戦合計3-2で、2年振り6回目のJFL年間王者となった。
天皇杯は静岡県予選決勝で4年連続の相手となったJ3の藤枝MYFCに3-2で勝利し、6年振りに本選出場を決めた[15] 。本選では1回戦でシードのFC岐阜 (J2 )に2-1と延長を制して9年ぶりにJリーグチームからの勝利を収めると、続く2回戦はシードの松本山雅FC (J2)を相手に先制されながらも2-1の逆転勝ちを収め、3回戦はベガルタ仙台 (J1 )に5-2と大勝して駒を進めてきた岩手県代表のグルージャ盛岡 (J3)に2-1と勝ちを収めて今回大会の台風の目となる。その後4回戦(ラウンド16)ではリーグ戦からの中2日を経て、ラウンド16からのシードであるFC東京 (J1)を相手に挑み、前半に先制してそのまま折り返すも、後半に逆転され1-2で敗退を喫した。
2017年
中川裕平 、糸数昌太 、香川大樹 、桶田龍 の4選手が社業専念のため引退[16] 。本田真吾 が期限付き移籍期間満了に伴い退団[17] (本田はその後現役を引退しHonda FC下部組織のコーチに就任)。池松大騎 、日高大 、佐々木俊輝 、鈴木理久 、遠野大弥 の5選手が入団した[18] 。
リーグ戦の1stステージでは11勝3分1敗とソニー仙台FC と同成績だったが、得失点差で上回り優勝を飾った[19] 。2ndステージでは10勝4分1敗で1位となり優勝。JFL連覇と、2ステージ制に移行してから初の完全優勝を達成した[20] [21] 。
天皇杯ではベストアマチュアチームとして第86回大会 以来の本選シードを獲得し出場、1回戦・びわこ成蹊スポーツ大学 戦を3-1で勝利し、2回戦に進出[22] 。2回戦ではジュビロ磐田 (J1)と対戦し、1992年以来25年ぶりとなる天竜川決戦 [23] [24] となった[注釈 10] 。この試合には約1300人の応援団が10台以上のバスでヤマハスタジアム へ駆けつけた[23] [26] 。試合は接戦を極め、後半12分に磐田MF松本昌也 に先制弾を許すも、同28分に古橋達弥 が同点弾を挙げて1-1とした。試合は延長戦へと突入し、延長後半12分に途中出場の磐田FW川又堅碁 に勝ち越し弾を決められるが、同15分に遠野大弥が同点弾を挙げ、120分間で決着がつかずにPK戦 へと突入。清水谷侑樹 が磐田のキッカーを務めたアダイウトン 、松浦拓弥 、中村太亮 のPKをファインセーブしたが、最終的に4-5で敗れ2回戦敗退となった[23] [27] 。
2018年
須藤壮史 、柴田潤一郎 、曽根友祐 の3選手が社業に専念するため引退。久野純弥 が期限付き移籍期間満了に伴い、退団[28] (久野はその後現役を引退)。児玉怜音 、八戸雄太 、石田和希 、清水航輔 の4選手が入団した[29] 。また、前年までツエーゲン金沢 より期限付き移籍中で金沢との契約が満了した大町将梧 を完全移籍で獲得する[30] [31] 。
リーグ戦の1stステージでは12勝2分1敗で1位となり、4ステージ連続制覇を達成した[32] 。2ndステージでは10月20日のJFL2nd-S第11節・ホンダロックSC 戦に2-1で勝利したことで、JFL新記録となる17連勝を達成[33] 。10月29日のJFL 2nd-S第12節・東京武蔵野シティFC 戦に2-1で勝利し、2位のMIOびわこ滋賀 が翌日に開催された試合に敗れ、首位になる可能性が消滅したため、2年連続の完全優勝とJFL史上初の3連覇を達成 した[34] [35] 。2ndステージの成績は13勝2分で、無敗のまま2ndステージを終えた。また、大町将梧がシーズンを通して18得点を挙げ、初の得点王に輝いた[36] 。
天皇杯は静岡県予選から再び出場。今年度から1次予選を勝ち抜いてきた1チームを含む4チームにて争われる決勝トーナメントが設けられ、準決勝からの出場となった。同準決勝で藤枝MYFC (J3)を3-1で、決勝で2年ぶりの公式対戦となったアスルクラロ沼津 (J3)を1-0で破り、3年連続で天皇杯出場を決めた[37] [38] 。天皇杯1回戦ではアルテリーヴォ和歌山 と対戦し、延長戦の末3-2で勝利した[39] 。2回戦では鹿島アントラーズ (J1)と対戦し、前半15分に栗本広輝 が先制点を挙げるも、前後半にそれぞれ3失点し1-6で敗れ、2回戦敗退となった[40] 。
2019年
土屋貴啓 、清水谷侑樹 、宮内啓汰 の3選手が社業に専念するため引退した。また、日高大 は東北リーグ 1部のいわきFC への完全移籍が決まり退団し、栗本広輝 は北米地域の2部リーグであるUSLチャンピオンシップ のフレズノFCへの完全移籍が年明けに発表され1月に退団した[41] [42] [43] 。一方、白坂楓馬 、堀内颯人 、U-18チームからの昇格となった小野寺倖志 、昨季限りでツエーゲン金沢 との契約が満了していた山藤健太 の4選手が入団した。なお、8月には天皇杯本選2回戦の対戦相手である(後述)J1 の北海道コンサドーレ札幌 より中村桐耶 を育成型期限付き移籍で獲得した。
リーグ戦ではJFL史上初の4連覇を達成 した。開幕戦では初参入の松江シティFC 相手にドロー、アウェイ戦の2節目ではFC今治 にHonda戦初勝利を献上、5節目ではホンダロックSC にホーム初敗戦を喫するなど序盤は低調であった。しかし、6節目のラインメール青森 戦以降は3分け挟んで17戦連続負け無しとなって復調する。その後は東京武蔵野シティFC と初参入の鈴鹿アンリミテッドFC に敗戦するも、27節のアウェイ流通経済大学ドラゴンズ龍ケ崎 戦で競り勝ってリーグ4連覇を決めた。
天皇杯は2年連続で静岡県予選準決勝から出場。準決勝で藤枝MYFC (J3)を0-0のまま突入したPK戦の末に退け、決勝では2年連続の顔合わせとなったアスルクラロ沼津 (J3)をオウンゴールの1点を守りきる形で破り、4年連続で本選への出場を決めた。天皇杯1回戦では福井ユナイテッドFC と対戦し、前半を0-2で折り返すものの、後半は遠野大弥と古橋達弥の両名が途中出場してからの4得点で相手の反撃を許さず、4-2で逆転勝利を収める。2回戦では札幌と対戦し前半を2-0で折り返し、後半は同点までに追いつかれるも更に2得点して札幌を突き放して4-2で勝利。台風接近中の最中に行われた3回戦では徳島ヴォルティス (J2)に前半1得点、後半1得点の2-0で勝利し、2016年以来のベスト16入り。ラウンド16では前回大会優勝チームで歴代ACL 王者でもある浦和レッズ (J1)と対戦し、後半終盤の2得点で2-0の勝利を収め、Hondaとしては12年ぶり及びJリーグ創設以降のリーグレベル が4部以下のチームとしては初[44] となる準々決勝進出となった。準々決勝は前回大会にて1-6で敗れた鹿島アントラーズ (J1)とJリーグ開幕以降4回目の対戦となるも、後半65分に土居聖真 からゴールを決められそのまま守りきられてしまい0-1で敗退、今大会の成績はベスト8入りとなった。
2020年代 [ 編集 ]
2020年
川嶋正之 、細貝竜太 、渡邊大地 の3選手が社業に専念するために引退し[45] 、遠野大弥 がJ1 の川崎フロンターレ への完全移籍が決まり退団した[46] 。また、J1の北海道コンサドーレ札幌 から育成型期限付き移籍中の中村桐耶 は移籍期間の延長が決定した[47] 。一方、流通経済大学 から岡﨑優希 、近畿大学 から川畑隼人 と川浪龍平 、U-18チームからの昇格となった平川貴也 の計4選手が入団した[48] 。
下部組織 [ 編集 ]
小学生を対象にしたスクールと、U-10、U-12、U-15、U-18の各カテゴリのチームを持っている。かつては女子チームも保有していた(後述)。
特にU-18チームは、2004年度・2007年度の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会 、2009年度のJリーグユース選手権大会 等の全国大会に出場した実績を持つ。
また、U-18チームとU-15チームは年間を通したリーグ戦に参入しており、2020年現在の在籍リーグは、U-18チームが静岡県リーグBリーグ(=2部リーグ)であり[注釈 11] 、U-15チームが東海リーグ となっている。
主な下部組織出身の選手を以下に挙げる。
ホンダFCレディース [ 編集 ]
単独記事 も参照のこと。トランスミッション製造部の製作所名が浜松製作所だった時代にクラブが保有していた女子サッカー 部門である。1991年に設立して以降、静岡県西部支部女子リーグ、静岡県女子リーグ、東海女子リーグ(トップチーム、セカンドチームは引き続き県リーグ所属)と昇格、2004年に廃止・解散するまでの間に数多くのタイトルを獲得した。またU-19日本代表 としてAFC U-19女子選手権 に出場した佐藤シェンネン 、所属当時は中学生 で後にアルビレックス新潟レディース に所属した口木未来 などを始め、数多くの選手を輩出した。廃止・解散後、所属選手の多くはジュビロ磐田のホームタウン推進部が受け入れ、同クラブ下部組織チーム「ヤマハジュビロレディース」が設立されている。
本田浜松サッカー部 [ 編集 ]
1954年に本田技研工業浜松製作所浜友会サッカー部 として創部された浜松製作所のサッカー部である。このクラブが本社側のクラブであるHonda FCの母体となっている。 同じ所内に本社チームが創設されて以降も長らく東海リーグ に所属し、その後静岡県リーグに所属していたが、2012年、県1部で年間成績最下位となったのを最後にリーグを脱退し活動休止。なお、このチームには、Honda FCのOBも選手や指導者として活躍していた。
本田技研工業サッカー部 (1971年-2001年) [ 編集 ]
年度
所属
順位
勝点
試
勝
分
敗
得点
失点
差
数
備考
1971
静岡県西部
優勝
昇格
1972
静岡県1部
優勝
昇格
1973
東海
優勝
25
14
12
1
1
48
13
+35
8
1974
優勝
21
13
9
3
1
10
昇格
1975
JSL 2部
4位
22
18
10
2
6
33
29
+4
10
1976
4位
21
18
6
9
3
25
17
+8
10
1977
7位
29
18
5
3PK勝/3PK敗
7
25
24
+1
10
1978
優勝
57
18
13
1PK勝/3PK敗
1
39
9
+30
10
1979
4位
44
18
10
1PK勝/2PK敗
5
31
25
+6
10
1980
優勝
28
18
13
2
3
43
17
+26
10
昇格
1981
JSL 1部
6位
14
18
5
4
9
23
28
-5
10
1982
9位
14
18
4
6
8
17
29
-12
10
1983
8位
14
18
4
6
8
17
23
-6
10
1984
5位
19
18
7
5
6
26
23
+3
10
1985
3位
28
22
8
12
2
30
20
+10
12
1986/87
9位
20
22
6
8
8
20
24
-4
12
1987/88
8位
20
22
6
8
8
19
22
-3
12
1988/89
9位
27
22
7
6
9
20
23
-3
12
1989/90
6位
32
22
10
2
10
32
29
+3
12
1990/91
3位
38
22
10
8
4
29
21
+8
12
1991/92
10位
23
22
5
8
9
18
25
-7
12
リーグ再編
1992
旧JFL 1部
9位
16
18
4
4
10
19
36
-17
10
降格
1993
旧JFL 2部
優勝
-
18
15(0延 0PK)
-
3(0延 1PK)
62
21
+41
10
リーグ再編
1994
旧JFL
9位
-
30
12(1延 2PK)
-
18(2延 1PK)
49
36
-13
16
1995
7位
49
30
16(2延 0PK)
-
14(3延 1PK)
58
42
+16
16
1996
優勝
75
30
25(3延 0PK)
-
5(0延 0PK)
83
35
+48
16
1997
4位
65
30
23(2延 1PK)
-
7(1延 0PK)
60
37
+23
16
1998
5位
54
30
19(3延 0PK)
-
11(2延 0PK)
57
45
+12
16
リーグ再編
1999
JFL
2位
50
24
18(5延長)
1
5(0延長)
69
34
+35
9
2000
2位
49
22
17(2延長)
0
5(1延長)
51
29
+22
12
2001
優勝
71
30
22
5
3
74
19
+55
16
本田技研工業フットボールクラブ (2002年-) [ 編集 ]
年度
所属
順位
勝点
試合
勝
分
敗
得点
失点
差
天皇杯
2002
JFL
優勝
41
17
13
2
2
39
14
+25
3回戦敗退
2003
2位
67
30
21
4
5
73
30
+43
3回戦敗退
2004
2位
62
30
19
5
6
64
36
+28
4回戦敗退
2005
5位
56
30
17
5
8
59
37
+22
4回戦敗退
2006
優勝
83
34
26
5
3
77
36
+41
4回戦敗退
2007
5位
58
34
16
10
8
61
42
+19
ベスト8
2008
優勝
74
34
22
8
4
80
33
+47
3回戦敗退
2009
7位
51
34
13
12
9
49
38
+11
2回戦敗退
2010
4位
59
34
18
5
11
52
43
+9
2回戦敗退
2011
6位
52
33
15
7
11
40
36
+4
県予選敗退
2012
5位
53
32
16
5
11
55
39
+16
県予選敗退
2013
5位
53
34
14
11
9
54
38
+16
県予選敗退
2014
優勝
53
26
16
5
5
58
28
+30
県予選敗退
2015
3位
68
30
21
5
4
73
22
+51
県予選敗退
2016
優勝
61
30
18
7
5
52
29
+23
4回戦敗退
2017
優勝
70
30
21
7
2
72
20
+52
2回戦敗退
2018
優勝
79
30
25
4
1
76
25
+51
2回戦敗退
2019
優勝
63
30
19
6
5
59
30
+29
ベスト8
2020
4位
22
15
5
7
3
20
12
+8
ベスト6
タイトル [ 編集 ]
リーグ戦 [ 編集 ]
東海社会人サッカーリーグ 1部:2回 (1973年、1974年)
日本サッカーリーグ 2部:2回 (1978年、1980年 1980年優勝で自動的に1部昇格)
ジャパンフットボールリーグ 2部(旧J2):1回 (1993年 1994年に1・2部統合のため、旧J2最後の優勝クラブとなる)
ジャパンフットボールリーグ(旧JFL):1回 (1996年)
日本フットボールリーグ (JFL):9回 (2001年、2002年=旧JFLを含めリーグ再編後初の連覇、2006年、2008年、2014年、2016年‐2019年=旧JFLを含めリーグ再編後最多の4連覇)
※旧JFLを含めたJFLとしての通算優勝回数:10回
カップ戦 [ 編集 ]
ホームゲーム開催実績 [ 編集 ]
(1999年の日本フットボールリーグ=現JFL発足以後)
年度
都田
その他
1999
11
2000
10
2001
15
2002
9[49]
2003
15
2004
15
2005
15
2006
17
2007
17
2008
17
2009
17
2010
17
2011
17
2012
16
2013
17
2014
13[50]
三重・鈴鹿 1
2015
14
三重・鈴鹿1
2016
15[50]
栃木グリスタ 1
2017
15
2018
15
2019
15
※ジャパンフットボールリーグ 時代も基本の本拠地は本田技研都田サッカー場だったが、年数回、遠州灘海浜公園球技場 でも主管試合を開催したほか、1994年 には柏レイソル 戦のホームゲームをレイソルの本拠地である日立柏サッカー場 で行った事例もある。
歴代キャッチフレーズ [ 編集 ]
年度
キャッチフレーズ
2006
Aggressive action
2007
Fighting for team
2008
The Next Challenge.
2009
THE UNITED POWER
2010
前へ
2011
絆
2012
意志
2013
体現
2014
矜持
2015
考撃
2016
一意専心
2017
歩
2018
新たなカタチの創出
2019
挑戦~Beginning of a new legend~
2020
CONCENTRATION 最強の証明
ユニフォーム [ 編集 ]
現在のサプライヤーはアンブロ 。かつては、アディダス やディアドラ などがサプライヤーであった。
2020年より旧JFL(1996年)およびJFL優勝(2001年・2002年・2006年・2008年・2014年・2016年-2019年)を示す星がエンブレムの上に付けられている。
2021年はホンダ本社以外のユニフォームスポンサーがクラブ史上初めて付くことが明らかになっており、Honda Cars店 が背部下にロゴを掲出する。[51] [52]
ユニフォームの色
カラー
シャツ
パンツ
ストッキング
FP(1st)
赤
赤
赤
FP(2nd)
白
黒
黒
GK(1st)
黄
黄
黄
GK(2nd)
緑
緑
緑
歴代ユニフォーム [ 編集 ]
エピソード [ 編集 ]
浦和市への移転撤回に関するその他の理由
前述の通り、役員会議、関係者は「浜松を本拠にJリーグへ参入したい」という意向があった。サッカー部発足時から現在に至るまで浜松を本拠地にしていたこともあり、“Jリーグ発足のために浦和に移転することは、今までチームを応援してくれた地元・浜松の「お客様を裏切る 」ことになり、企業イメージのマイナスになる”との判断があった[53] 。
2度目のJリーグ参入を目指して表面化した行政との溝
浜松F.C発足を仕掛けたのはホンダ側であったが、同社はチームを浜松F.Cに移管する際はいちスポンサーとしてやっていけばいいという考えであったため、あくまで浜松F.Cを『地域のクラブ』であることをアピールしていた。それに呼応するように、1995年1月には市民グループが16万4000人の署名と要望書を東京都のホンダ本社とホームタウンである浜松市に届け、また、Jリーグ準会員に承認される4ヵ月前の1997年2月には地元経済界らによる「浜松J連絡会」が発足していた[54] 。しかし、Jリーグ参入には民間だけでなく行政の協力や理解も必要不可欠となっているものの[注釈 12] 、当時の浜松市側は『ホンダ』というブランドが担保になるなら協力してもいいというスタンスであったという。また浜松市側からJリーグ参入について積極的に動いた形跡はなく、やがて「ホンダがやるのであれば応援する」という市長の言葉を耳にした、当時のホンダ社長であった川本信彦 は「おい、話が違うぞ」 とJリーグ参入に対する浜松市の態度に相当なギャップを感じていたという[53] [注釈 13] [注釈 14] 。
「静岡県代表」として出場した第87回の天皇杯での活躍
2007年に行われた第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会 では、リーグの前期で1位になれずにシード権を獲得できなかったため、天皇杯が現在の形式になってから初めて県代表を決めるための予選に参加し、天皇杯への出場を獲得。その後、大会ではJリーグチームを3つ破って前身時代以来16年振りの準々決勝(ベスト8)進出を果たし、当大会よりHondaが各都道府県代表として初の準々決勝進出を果たしたチームとなった。また、監督も含めて全員がアマチュア登録ということもあって話題となった。それまでHondaは、1998年の第78回大会でプロ契約選手を抱えていた本田技研時代に3回戦でジェフユナイテッド市原 を破って以降、Jリーグチームに勝利したことはなかった[55] 。第87回大会以前における以前の回の試合では、第83回大会(2003年 )の3回戦のFC東京 戦で、第85回大会(2005年 )の4回戦のセレッソ大阪 戦で、それぞれ追い詰めるものの、いずれもPK戦で涙を呑んでいる[56] 。しかし、翌第88回以降もHondaは天皇杯での低迷が続き、特に天皇杯のシード権を獲得できない状況が続くこととなった。そして2011年 での天皇杯予選決勝で静岡産業大学サッカー部 に1-3で敗れ、再び本選出場を果たせなくなり、16年続いた天皇杯の連続出場記録も途切れた。なお、2012年以降も予選敗退が続き、再びの本選出場は2016年の第96回まで待つことになる。
16年ぶりの年代別代表選手の選出
1993年にJリーグが開幕して以降、本田技研時代も含めて各年代別共に長らくHondaから代表選手は選出されなかったが、2008年10月20日当時、AFCユース選手権 の日本代表 に(先述通り、後にJリーグ所属の湘南ベルマーレへ移籍した)村松大輔が選出された。Honda FCからの年代別代表選出は、本田技研時代の1992年、バルセロナオリンピック 出場予選での日本代表 に選出された石川康 以来、実に16年ぶりとなった[57] 。また、当時の日本フットボールリーグに所属する選手から選出されたのは彼のみであると同時に、同リーグからの年代別日本代表選手の輩出は、リーグが1999年に開催されて以降初 ともなった。
トップチームの実力評価
各シーズンにおける周囲の評価をここで述べる。
2007年、第87回の天皇杯において東京ヴェルディの当時の監督であるラモス瑠偉 は「J2クラブ並みの力があるチーム」と評しており[58] 、同じく第87回の天皇杯において名古屋グランパスの当時の監督であるセフ・フェルホーセン は、5回戦で対戦する前に同年のJFL 後期第16節のホーム戦 (YKK AP FC 戦)を視察した上で「JFLのレベルではない」、「非常にレベルが高いチーム。多くのチャンスを作れるとは思えないが、組織や規律がしっかりしている。」と評している[59] 。
2009年度におけるJFLの各チームの関係者は“実力はJリーグ2部の下位クラブより上”と評している[60] 一方、V・ファーレン長崎 の監督であった東川昌典 は、自身が指揮したチームと比較してみた場合に限り「(Hondaとの)レベルの差があるとは思わない」と述べている[61] 。
2013年では対戦相手のFC琉球 に所属する元Jリーガーの永井秀樹 が、自身のブログでHondaのサッカーについて語っている。ブログ内では「個の質が数年前より若干下がったが故に、勝ち点3を確実に奪う力は多少弱まった」と指摘しながらも「JFLというカテゴリーにおいて、この数年間で最も質の高いサッカーを展開してるのはHondaだ」と評し、その上で「チームとしての方向性と理念は常に変わらないように思える」と述べている。また、自身が所属するFC琉球についてHondaと比較した上で「これからJを目指し、JFL優勝を真剣に考えるならば、最低限Honda以上のサッカーをしなければならない」と言及している[62] 。
2017年の6月21日に第97回天皇杯 の2回戦・ジュビロ磐田 戦後、当時の磐田監督である名波浩 は記者会見にて、試合前にマッチコミッショナーから『Hondaが勝っても、何の驚きもない。ジャイアントキリング でも何でもない』という話を聞かされ「負けられない理由が増えて内心メラメラとなった」と語っており[27] 、続けて「Hondaの技術の高さ、それから穴を突く戦術眼は素晴らしいものがあった」との評価を残し、その上で「どちらに転んでもおかしくないような、2対2でPK決着という結果通りのゲームだった」とコメントした[63] 。
^ 単に「門番」、あるいは在籍リーグに準えて「JFLの門番」とも呼ばれる。ちなみにWikipedia英語版 では「J's Gatekeeper」と表記されている。
^ フリーライターの市川伸一による2014年当時のJFL事務局長である加藤桂三へのインタビューにおいて、市川が2014年当時のHondaに在籍したプロ契約選手である古橋達弥 と宇留野純 について「サッカー協会の選手登録区分としては、彼らはプロ選手ではないですが、限りなくプロ選手と同じですよね」という問いかけに対し、加藤が「基本的にはあれは、日本協会の統一契約じゃないんだけども、社員選手というか専門契約っていう感じで、カテゴリー的に言えばプロなんですよ」 と述べている。[3]
^ 日本サッカー協会公式サイト『プロサッカー選手の契約、登録および移籍に関する規則 』も参照のこと。
^ 2020年シーズンでは当時のプロ契約選手全4名(古橋達弥 、大町将梧 、山藤健太 、中村桐耶 (J1 の北海道コンサドーレ札幌 からの期限付き移籍))が総務課に籍を置いていることがオフィシャルガイドブックにて確認できる。[4]
^ 大学校や専門学校、専修学校や各種学校からの新卒選手加入実績は、プロ契約選手再獲得後も未だ無い。
^ 主な例として、2004年には前年のJFL得点王だったFWの古橋達弥 がシーズン途中でセレッソ大阪 に移籍したことが挙げられる。また2006年にはMFの宇留野純 がヴァンフォーレ甲府 に、2009年にはU-19日本代表に選ばれた村松大輔 が湘南ベルマーレ に、2010年にはFW早坂良太 がサガン鳥栖 に、それぞれ移籍している。
^ 選手のみならず、指導者やその他スタッフの移籍もあり、主な例が監督だった安間貴義 が2005年にヴァンフォーレ甲府 へコーチとして移籍している。
^ このHonda FCのリーグ内における立ち位置を由来として「昇格圏内に入れる実力を持ちながら昇格せず、且つ結果として昇格を目指す他チームの邪魔をする形となったチーム」のことを総じて『門番』と呼ぶようにもなっており 、これは他のカテゴリにも波及していく形となった。(例:2018年のJ2リーグ におけるFC町田ゼルビア )
^ Jリーグ経験のある新卒選手の先例として順天堂大学蹴球部から水戸ホーリーホックへ加入した岡本達也 が挙げられる。
^ 両クラブは2011年に震災復興支援TMで対戦している[25]
^ 第2種区分(U-18)における静岡県リーグの名称は各々、1部リーグが「Aリーグ」、2部リーグが「Bリーグ」、3部リーグが「Cリーグ」となっている。また、4部以下のリーグは県内各地の支部リーグとなっている。
^ なお、Jリーグ公式サイト 『Jリーグ入会(J3リーグ参加)の手引き 』(2020年6月7日閲覧)には「Jリーグ百年構想クラブ規程 第2条〔百年構想クラブの条件〕」の「(2) 申請クラブは、申請にあたり、以下に定める協力を得なければならない。」という項目に「前項第 5 号において予定または決定したホームタウンが、申請クラブのJリーグ入会を応援するとともに、Jリーグ入会に向けた取り組みを支援する姿勢を、文書で具体的に示していること」 と記載されている。
^ なお、サッカー批評(第38号)のインタビューにおいて、当時取材に応じた一人はこの一件を回想しつつ「そんなわけで、最後のチャレンジは終わってしまったと……。あれが、最後の本気、でした。今後は企業チームとして、ずっと、やっていくしかない―――そう思いましたね」 と述べている。
^ この浜松市の態度の裏には、市内に本社を置くホンダの同業ライバル社であるスズキ の影響があったとも言われている。
関連項目 [ 編集 ]
外部リンク [ 編集 ]
^ 【インタビュー】りんたろー。(EXIT)~「今の僕を作った」サッカーへの感謝の気持ち~ 恩師・長谷川監督とのエピソードも
^ クラブ公式Twitterアカウント 2019年10月2日19時55分の呟きより