FCバルセロナ

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FCバルセロナ
原語表記 Futbol Club Barcelona
愛称 Barça, Azulgrana, Blaugrana, Culers
クラブカラー 青と臙脂(えんじ)
創設年 1899年
所属リーグ リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン バルセロナ
ホームスタジアム カンプ・ノウ
収容人数 98,787
代表者 スペインの旗 ジョゼップ・マリア・バルトメウ
監督 スペインの旗 ルイス・エンリケ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

FCバルセロナカタルーニャ語: Futbol Club Barcelona)は、スペインカタルーニャ州バルセロナを本拠地とするサッカークラブチームである。

概要[編集]

FCバルセロナのユニフォーム。首に「クラブ以上の存在(MÉS QUE UN CLUB)」とある。またエンブレムはバルセロナ市の旗を基にしている。

FCバルセロナは1899年に創設されたカンプ・ノウをホームスタジアムとし、リーガ・エスパニョーラプリメーラ・ディビシオンに所属するサッカークラブである。愛称は「バルサカタルーニャ語: Barça)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラーナ(Blau Grana、青と臙脂)」と呼ばれる。数々のタイトルを獲得した世界でも屈指のビッグクラブ、名門クラブであり、リーガ・エスパニョーラの創立以来一度もプリメーラ・ディビシオンから降格したことがない。これは他にはレアル・マドリードアスレティック・ビルバオの2クラブのみである。欧州5大リーグで唯一2度の三冠を達成したクラブでもある。

「クラブ以上の存在(カタルーニャ語: MÉS QUE UN CLUB)」がクラブのスローガンでありユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされているほかカンプ・ノウの客席にも椅子の色を変えて示されている。これは1919年のカタールニャ自治憲章制定運動で登場したのがはじめであり、カタルーニャ民族主義の精神の現れだと言われる[1]。またスペイン屈指の商業都市バルセロナの市民社会の拠り所という意味も含まれる。

「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしても内容が伴わなければサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペイン国内の多くのクラブチームに存在するものではあるが、FCバルセロナは特にこの傾向が顕著であり、結果よりも内容で遥かに大きいものを求められる面が強い。

運営について[編集]

クラブ運営上の特徴として一般市民などからの会員を募り、その会費でチームを運営している点が挙げられる。会員は現在世界中で18万に達しており[2]、日本でも2004年6月より会員の募集が行われている。「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、現チームの選手も含め幾多の名選手を輩出してきた(詳細はカタルーニャ語版参照)。このカンテラ出身選手は生え抜きとしてサポーターから特に絶大な声援を受けることが多い。

2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグでは、2012-2013シーズンのクラブ収入は4億8260万ユーロであり、レアル・マドリードに次ぐ世界第2位である[3]。また、イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、FCバルセロナの平均年俸は約868万ドルと推定されており、世界で最も平均年俸が高いクラブであることが判明し、ニューヨーク・ヤンキースロサンゼルス・レイカーズなどアメリカのスポーツチームを含めて世界一である。[4]

他クラブとの関係について[編集]

サッカーのみならず政治的、地域的に長年の対立関係にある首都マドリードレアル・マドリードとは長年のライバルである。

このレアル・マドリードとの試合は『エル・クラシコ』(El Clásico)と呼ばれ、1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)から因縁の対決を続けている。その背景には、1923年-1930年プリモ・デ・リベーラ将軍による独裁政権時代、さらに1939年-1975年におけるフランコ独裁政権時代のカタルーニャに対する弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言語であるカタルーニャ語を公の場で話すことが許されなかったが、スタジアムの中でのみそれが許された。

なお、バルセロナとレアル・マドリード間の移籍は「禁断の移籍」とされ、「裏切り」と呼ばれることも多い。また、第三者のクラブ選手の移籍においても競合することが多く、これまで幾多の選手をめぐって争奪戦を繰り広げている。

同じくバルセロナを本拠地とするRCDエスパニョールとの試合はバルセロナ・ダービーと呼ばれる。

政治性について[編集]

2012年9月11日、会長のサンドロ・ロセイは個人としてカタルーニャ独立を支持するデモに参加した。9月11日は、スペイン継承戦争の最後の戦いであるバルセロナ包囲戦で、カタルーニャがスペイン・フランス連合軍に敗北した日であり、カタルーニャではカタルーニャの日カタロニア語版として特別な記念日となっている。カタルーニャの独立運動が勢いを増す中[5]、FCバルセロナは独立派勢力から距離を置くなど中立性を維持してきた。しかし、ロセイは今後、FCバルセロナが政治的中立性を保つことは出来ないだろうと語った[6]

歴史[編集]

カタルーニャ民族主義の中の草創期[編集]

1899年スイス人実業家ジョアン・ガンペールら11名により創立された。この時、上記の「えんじと青」のチームカラーが決められたが、このチームカラーとなったのは、ガンペールの縁深かったFCバーゼルのチームカラーを真似た物と一般的には信じられている[7]。初代会長はイギリス人のウォルター・ワイルド。設立から10年後の1909-10シーズンにはコパ・デル・レイで優勝した。1919年の『カタルーニャ自治憲章』制定運動がバルセロナを中心をするカタルーニャで起きたが、マドリードの中央政府が難色を見せるこの地方自治運動にFCバルセロナも参加した時に「クラブ以上の存在」というスローガンが初めて使用された。

FCバルセロナのエンブレムの基本。上半分を占める白地に赤の十字架はカタルーニャの守護聖人サン・ジョルディの十字(イングランドの国旗と同じ)、黄色(黄金)に4本の赤の縞はカタルーニャの国旗で、バルセロナの市の旗と同じである。

スペイン内戦と独裁政権期[編集]

設立から30年目を迎えようとする1928-29シーズンにはリーガ・エスパニョーラで初めて優勝したが、その後勃発するスペイン内戦がチームの運命を暗転させた。スペイン内戦時にはカタルーニャはフランシスコ・フランコ独裁政権に強く抵抗した。1935年には会長J・スニョルは暗殺され、ソシオの会員数は250人までに減少した。内戦後にはカタルーニャはフランコ政権の目の敵にされ、カタルーニャ語の使用の禁止など政治経済ののみならず文化面でも抑圧された。しかしバルセロナのブルジョワの独裁政権への運動もありFCバルセロナは「クラブ以上の存在」すなわちカタルーニャ民族主義の象徴として維持された。とはいえ1940年代にはフランコ政権の支援を受けたレアル・マドリードが力を伸ばしてきた時期であり、1943年の総統杯ではレアル・マドリードに11対0で敗北している。これはレアル・マドリードが中央政府の支援を受けており、戦力の差が広がった結果である。FCバルセロナとレアル・マドリードの「因縁」はこのころに形成された。またFCバルセロナのエンブレムにあるカタルーニャ国旗の部分はスペイン国旗に変更された。

しかしながら1960年代の本格化するバルセロナの経済発展と人口増は住宅需要をもたらし、FCバルセロナは「レス・コルツ」スタジアムを売却して、郊外に新しいスタジアムを建設した。1957年に落成した新スタジアムが現在の本拠地「カンプ・ノウ」である。カンプ・ノウの建設には当初予算を3倍も上回るものとなったが、周辺の土地にスポーツ関連施設を建設するなどの不動産経営で得た利益はクラブ経営の経済的基盤となった。1955-56シーズンはUEFAカップにてそれぞれ初優勝を果たした。

ホセ・ルイス・ヌニェス会長時代[編集]

1978年、初めてソシオ会員よる選挙を実施し、ホセ・ルイス・ヌニェス(任1978年-2000年)が会長に選出された。

ヌニェスは経営基盤を安定させることに努め、カンプ・ノウの改築による観客収容数の増加、有名選手の獲得によって収益を上げ、ソシオ会員数を大幅に増加させた。自ら公約に掲げた「若手育成の充実」を図るため、ラ・マシアと呼ばれる寮を開設し、カンテラに優秀な若者を集めるようになる。この時期のソシオ会員数の増加やカンテラの充実は現在のクラブ組織の基礎となっている。

1988年4月、ヌニェスと選手が対立、5月にヨハン・クライフを監督に迎え建て直しを図ったが、シーズン終了後に選手が大量退団、残留した選手は9人という異常事態に発展する。このため1987-88、1988-89、1989-90シーズンの成績は期待を大きく裏切るものであった。1989-90シーズン終了後、ソシオはクライフの解任を要求したが、クラブ側はクライフの続投を選択した。これは、ヌニェスと選手の対立を埋めるには、クラブのOBであるクライフ監督が最適であったと考えられていたことによる。

1990年代前半に入り、続投したクライフ監督の下、チームはリーガ4連覇とUEFAチャンピオンズリーグ初制覇を果たし、「エル・ドリーム・チーム」と呼ばれることになった。

1996-97シーズンは、ボビー・ロブソンを監督に招聘し、ロブソン監督の通訳として、ジョゼ・モウリーニョを起用している。このシーズンはロナウドが得点王に輝いた。

1997-98シーズンに、リバウドを獲得した他、アヤックス・アムステルダムで実績を残したルイ・ファン・ハールを監督に迎える。このシーズンはリーガと国王杯の2冠を達成し、翌1998-99シーズンも圧倒的な強さでリーグ優勝を果たした。

一方で、ファン・ハール監督はオランダ出身選手を重用し、地元カタルーニャ出身者を冷遇し続け、特にクライフ監督時代に活躍した選手を放出していった結果、「バルサ版アヤックス」と呼べるような布陣となった。この結果、1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選リーグ敗退、更には国王杯ボイコット事件などはソシオの反発を招き、2000年にヌニェスは会長を辞任し、シーズン終了後にファン・ハール監督はクラブを去った。

ジョアン・ガスパール会長時代[編集]

2000-01シーズンはファン・ハールに代わりロレンソ・セラ・フェレールが監督に就任したが、成績不振からシーズン途中に辞任しカルロス・レシャックがチームを受け継ぐも4位に終わった。2001-02シーズンもレシャックが引き続き指揮を執ったがやはり、4位に終わっている。

2002-03シーズンにファン・ハールが監督に復帰したものの、ファン・ハール自身のオランダ代表監督としての成績によるマイナスイメージに加えて、リバウドの退団、オランダ出身選手の高齢化もチームにとっては負担となった。結果、成績を残せずシーズン途中でファン・ハールは辞任、チームも15年ぶりの6位となった。

ジョアン・ラポルタ会長時代[編集]

バルセロナの選手達(2008-2009シーズン)

2003-04シーズンはフランク・ライカールトが監督に就任。2003年夏の移籍市場ではロナウジーニョルイス・ガルシアラファエル・マルケスらを獲得するも、個への依存度があまりにも高かった為12節から15節の4節で1分け3敗と苦しみ、前半の19試合は24しか勝ち点を稼げず一時は12位まで沈んでしまう。だが、2004年冬の移籍市場ではエドガー・ダービッツを獲得した事が浮上の転機となった。ダービッツが後方に構える事でロナウジーニョ、ルイス・ガルシア、ハビエル・サビオラが思う存分暴れまくり、シャビのパスセンスをフルに発揮出来たのも相まって19節からの17試合連続無敗によって後半の19試合は51もの勝ち点を稼いだ。同シーズンはリーガ・エスパニョーラを2位で終えるが、2004-05シーズンに希望を抱かせるものとなった。

2004年夏の移籍市場ではサミュエル・エトオヘンリク・ラーションデコらを獲得し、パトリック・クライファートフィリップ・コクーハビエル・サビオラらを放出した。2004-05シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。2005-06シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、リーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズリーグにて優勝を達成する。2006年夏の移籍市場ではジャンルカ・ザンブロッタリリアン・テュラムエイドゥル・グジョンセンらを獲得。2006-07シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇を達成するも、獲得タイトルはその1つだけ。UEFAチャンピオンズリーグ王者として挑んだUEFAスーパーカップは、UEFAカップ王者として挑んだセビージャとのスペイン決戦に0-3で敗れて準優勝。3連覇を目指したリーガ・エスパニョーラは残り12試合で2位に5ポイント差をつけたにも関わらず、エトオ(5節から20節)とメッシ(11節から21節)が共にけがで欠場した11節から20節の間に5勝4分け1敗と思う様に勝ち点を伸ばせず[8]、そのリードを全て吐き出してしまった。結局2005-06シーズンと同じ6敗でレアル・マドリードに勝ち点で並び、得失点差も上回りながら[9]、前述の通り11節から20節の間の失速とクラシコに勝てなかった(1分け1敗)事が祟り2位に終わった。コパ・デル・レイでは準決勝でヘタフェCFと対戦。カンプ・ノウでの第1戦を5-2でリードしておきながら敵地での第2戦で0-4で敗れ大逆転で準決勝敗退。リーグ戦同様連覇のかかったUEFAチャンピオンズリーグでは、その前のシーズンにUEFAチャンピオンズリーグを制したリバプールと対戦し、カンプ・ノウで1-2で敗れた事が響き、アンフィールドでの(1-0で)勝利も実らずベスト16敗退。またヨーロッパ王者として挑んだFIFAクラブワールドカップ2006では、準決勝こそCONCACAFチャンピオンズカップを制したメキシコのクラブ・アメリカに4-0で快勝したものの、コパ・トヨタ・リベルタドーレスを制したブラジルのインテルナシオナルとの決勝では、前述の通りエトオとメッシの2人が揃って欠場したのが響いたのか、カルロス・アドリアーノの一発に沈み準優勝。当時の監督クライフのもとでエル・ドリーム・チームといわれながら、ブラジルのサンパウロFCに屈したトヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ時代の1992年に続きまたも世界一の夢が潰えてしまった。2007年夏の移籍市場ではティエリ・アンリガブリエル・ミリートトゥーレ・ヤヤエリック・アビダルを獲得。アンリ、ロナウジーニョ、メッシ、エトオによるクアトロ・ファンタスティコ(4人のファンタジスタ)と呼ばれ世界中の話題をさらったものの、ロナウジーニョの夜遊びや仮病疑惑等により暗い影を落とした。それによりエトオやデコが移籍志願ともとれる発言をする等内部崩壊で自滅[10]。ピッチの中でもエトオやメッシが2年続けての故障離脱でシーズンを通しての活躍が出来ず、アンリもライカールトの4-3-3フォーメーションに適応出来なかった所為で、1983-84シーズン以来24季ぶりのレアルとのクラシコに連敗し、結局2007-08シーズンは2年連続の主要タイトル無冠。しかもスーペルコパ・デ・エスパーニャ等にも出場していないので4季ぶりの完全な無冠に終わり、シーズン終了後にライカールトは監督を退任した。

UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11 決勝のスターティングメンバー。

その後、ジョゼップ・グアルディオラが監督に就任。2008年夏の移籍市場ではダニエウ・アウヴェスセイドゥ・ケイタらを獲得し、ジェラール・ピケを復帰させ、ペドロブスケッツ等をカンテラから昇格させ、ロナウジーニョ、デコらを放出した。2008-09シーズンはリーガ・エスパニョーラでは前線からの激しいプレスを前提とした攻撃的なディフェンスとシャビやイニエスタを軸とした圧倒的なボールポゼッションで総得点105のうち7割を19得点のアンリ、23得点のメッシ、30得点のエトオが叩きだし、3年ぶり19回目の優勝をはたす。コパ・デル・レイでは、ホセ・マヌエル・ピント・コロラドが準決勝のマジョルカ戦でPKをストップしたのが大ヒットし、11年ぶり25回目の優勝。UEFAチャンピオンズリーグでは決勝で2008年のバロンドーラークリスティアーノ・ロナウド擁する世界王者・マンチェスター・ユナイテッドFCを2-0で下しスペイン史上初めて獲得可能なコンペティションで全てで優勝を達成(3冠)した。2009年夏の移籍市場ではズラタン・イブラヒモビッチマクスウェルドミトロ・チグリンスキーを獲得し、イブラヒモビッチとのトレードでエトオを放出した。パスを繋ぎ、ポゼッションを重視するスタイルで新たな黄金時代を築いた。2009-10シーズンは38年の歴史上最後のUEFAカップ王者として挑んだウクライナリーグFCシャフタール・ドネツクを倒しUEFAスーパーカップを獲得。続いてコパ・デル・レイ準優勝として挑んだアスレティック・ビルバオも倒しスーペルコパ・デ・エスパーニャも獲得。FIFAクラブワールドカップ2009では、決勝のエストゥディアンテス戦で後半44分までリードされる展開だったが、ペドロが史上初となる6コンペティション全てでゴールを決める離れ業で同点に追いつくと、アウヴェスのクロスにメッシが合わせて逆転、悲願のクラブ世界一に輝いた。リーガ・エスパニョーラでも、メッシが35試合で34ゴールという超人的な活躍でレアルとのクラシコに史上初の2年連続で連勝。僅か1敗という抜群の安定感で連覇を達成した[11]。その一方で引いた相手というスペインリーグでは考えられなかった戦術には苦戦し、世界2連覇を目指したチャンピオンズリーグでは準決勝でジョゼ・モウリーニョが率いるイタリア・セリエAの王者・インテルミラノに敗れ、決勝の舞台がサンチャゴ・ベルナベウだったので永遠の宿敵のホームでビッグイヤー連覇という更なるダメージを与える夢が潰えてしまった。2009-10シーズン終了後、ダビド・ビジャを獲得。また、2010年6月30日をもってラポルタは任期満了に伴い会長職を退任した。

サンドロ・ロセイ会長時代[編集]

2010年夏の移籍市場ではアドリアーノハビエル・マスチェラーノを獲得。2010-11シーズンは南アフリカワールドカップで初優勝を果たしたスペイン代表を筆頭にワールドカップ出場組の始動が遅れながらも、主力がコンディションを取り戻した中盤戦以降は他を寄せ付けない圧倒的な攻撃力(リーガ・エスパニョーラは95得点、UEFAチャンピオンズリーグは30ゴール)を武器にスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇、リーガ・エスパニョーラで3連覇、UEFAチャンピオンズリーグにおいてはここ3シーズンで2度目の優勝を達成した[12][13][14][15][16]。なお、当シーズンはリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグにて計5試合のエル・クラシコが行われ、特に2011年4月16日から同年5月3日までの間に行われた計4試合はクアトロ・クラシコ(Cuatro Clásico、4回のクラシコという意味)と呼ばれた。2011年夏の移籍市場ではアレクシス・サンチェスフランセスク・ファブレガスを獲得。2011-12シーズンはコパ・デル・レイスーペルコパ・デ・エスパーニャ[17]、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ2011にて優勝を達成。しかしアビダルとティト・ビラノバの病気の発症に加え、ビジャやアンドレウ・フォンタスイブラヒム・アフェレイは怪我による長期離脱。ペドロやアドリアーノ、アレクシス、イニエスタがいずれも筋肉系の故障に悩まされ、シャビの持病だったアキレス腱痛の悪化やピケやダニ・アウベスがシーズン終盤にかけてのスランプ、ファブレガスの予想外のミスフィット等による誤算、前半の19試合で5分け1敗と出遅れた事に加え、メッシを最大限に生かすコンセプトを変えなかった事でメッシへの依存が高まる。これがシーズンの肝心な局面で露呈し[18]、最終的にはリーグ戦でカンプ・ノウでのレアル・マドリード戦を落とす始末でリーガ・エスパニョーラをそのレアル・マドリードに攫われ、そのレアルとのクラシコを挟んで行われ、連覇を目指したUEFAチャンピオンズリーグでも準決勝で2006-07シーズン以降勝った事の無いチェルシーに2戦合計2-3。シーズンの成否を決める重要な3連戦に全く勝てなかった事で2大タイトルを失い、これが決定打となり、シーズン終了後にグアルディオラが監督を退任した。

ビラノバが監督に就任。2012年夏の移籍市場ではジョルディ・アルバアレクサンドル・ソングを獲得。2012-2013シーズンはリーグ史上最多タイ記録となる勝ち点100を達成してリーガ・エスパニョーラ優勝を達成するも、これは前半の19試合で18勝した貯金を生かしたにすぎなかった[19]。ジョルディ・アルバ以外の新戦力がフィットせず昇格したカンテラーノが伸び悩み、4年連続でバロンドールを受賞したメッシへの依存度は昨年以上に高く、ビラノバが積極的に縦に仕掛ける戦術を多用した事で持ち味の連動性あるプレスが機能せず、それによってブスケッツをはじめとした守備陣の負担が増した事による失点の増加に繋がり[20]、コパ・デル・レイは準決勝でリーガ・エスパニョーラとスーペルコパ・デ・エスパーニャでは全く勝てなかったレアル・マドリードに準決勝で敗れ、UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝でドイツのレコードマイスター・バイエルン・ミュンヘンに0-7という衝撃的な大差で敗れ、今後に不安を残すシーズンとなった。

2013-2014シーズン直前の7月、ビラノバは健康上の理由から監督を退任した。後任にヘラルド・マルティーノが就任。2013年夏の移籍市場ではネイマールデニス・スアレス・フェルナンデスを獲得。

ジョゼップ・マリア・バルトメウ会長時代[編集]

2014年1月27日のマラガ戦ではリーグ史上最多記録となる59週連続首位を達成。2013-14シーズンではスーペルコパ・デ・エスパーニャを獲得するも獲得タイトルはその1つだけ。バルデスやジョルディ・アルバら主力の怪我やメッシの脱税疑惑にネイマールの移籍金問題という外部の問題に加え、マルティーノがクラブの長年の弱点だったCBの補強を見送ったツケが前線と最終ラインの間が間延びし、ゲームコントロールと守備力の低下という形で回り[21]メッシ依存症解消の切り札としてネイマールを獲得したにも関わらず、皮肉にもメッシへの依存が過去2シーズン以上に高くなったのも相まってリーグ戦は最終節まで縺れた末にアトレティコ・マドリードに奪われ、チャンピオンズリーグでもそのアトレティコとのスペイン決戦に敗れて、スリム化を目的に2次リーグが廃止され、1次リーグ(グループリーグ)を突破した16チームがその後直ぐにトーナメント戦を戦う事になった2003-04シーズン以降では初めてのベスト8敗退、コパ・デル・レイはリーグ戦では2連勝した筈のレアル・マドリードに決勝戦で敗れ準優勝と主要タイトルでは6シーズンぶりの無冠に終わった。シーズン終了後、監督のヘラルド・マルティーノが今季限りでの退団を発表。また、キャプテンのカルレス・プジョルも今季限りで退団することが決定。

2014-2015シーズンはルイス・エンリケが監督に就任。2014年夏の移籍市場ではルイス・スアレスをチーム史上最高額の移籍金で獲得したほか、クラウディオ・ブラーボマルク=アンドレ・テア・シュテーゲントーマス・ヴェルメーレンジェレミー・マテュードウグラスイヴァン・ラキティッチラフィーニャを獲得し、下部組織からジョルディ・マシップを昇格させた。メッシ、ネイマール、スアレスの3人で構成された前線は"トリデンテ"や3人の頭文字を取ってMSNと呼ばれた。その攻撃力は凄まじく、スアレスがシーズン序盤は出場できなかったにも関わらず3人で公式戦122ゴールを決め、スペインサッカー史上最も多くのゴールを奪った3トップとなった。また、開幕当初から積極的にローテーションを採用したことでシーズンを通してほとんど負傷者を出すことなく、終盤戦を万全のコンディションで迎えることに成功。リーガ・エスパニョーラではレアル・マドリードに一時首位を譲るものの後半戦で逆転し、最終節を残して2季ぶりの優勝を決めた。コパ・デル・レイでは決勝で23回と2番目に優勝回数の多いアスレティック・ビルバオを3-1で破り、1954年以来となるトーナメント全勝を達成して3季ぶり、最多となる27回目の優勝を果たしリーガとの2冠を達成した。

UEFAチャンピオンズリーグでは決勝トーナメント1回戦で昨シーズンも同じシチュエーションで対戦したイングランド・プレミアリーグの王者・マンチェスター・シティに勝利し、CL最多の8シーズン連続ベスト8進出を決めたのに続き、グループステージでも対戦したフランス・リーグアンの王者パリ・サンジェルマンにも勝利し、過去2シーズン戦った相手を返り討ちにした。準決勝では2シーズン前に同じく準決勝で対戦し、2試合合計0-7で大敗し、かつてバルセロナでプレーし、監督としても黄金時代を築いたグアルディオラ率いるドイツ・ブンデスリーガの王者バイエルン・ミュンヘンと対戦。MSNが活躍し、合計スコア5-3で勝利してリベンジを果たし、過去10年間で4度目となる決勝進出を決めた。決勝では圧倒的な強さでリーグ4連覇を決め、準決勝では宿敵レアル・マドリードを撃破したイタリア・セリエAの王者・ユベントスと初対戦した。これにより、決勝トーナメントの全試合で各国リーグの前年度王者と対戦することになった(また、グループステージではエールディヴィジの王者・アヤックス・アムステルダムキプロス・ファーストディビジョンの王者APOELニコシアを破っている)。ユベントスもセリエAとコッパ・イタリアを制し2冠を達成しているので、お互いに3冠を賭けての決勝戦となった。これに3-1で勝利し、4シーズン振り5度目の優勝を決めた。これによりビッグイヤーの永久保持が認められ、さらにヨーロッパ史上初となる2度目の3冠を達成した。

5月21日、シャビが今季限りで退団することを発表。また、シーズン終了後カタールアル・サッドへの移籍が発表された。

2015-2016シーズンはFIFAから夏の移籍市場での補強禁止処分を下されているため、他チームからの補強が出来なくなっていたが、来冬まで出場できないことを双方分かった上でアレイクス・ビダルを獲得した。移籍が噂されたダニエウ・アウヴェスペドロ・ロドリゲスは契約延長で残留することが決まった。 また、クラブ史上初であるボーダー柄のホームユニフォームを着用することが発表された。

下部組織[編集]

概要[編集]

FCバルセロナも他のスペイン国内クラブ同様、カンテラと呼ばれるユースチームを所有している。FCバルセロナの下部組織はヨーロッパのクラブチームの中でも予算面などで充実している。ラ・マシアと呼ばれる選手寮には、カタルーニャ出身の子弟か、家族とともにカタルーニャに移住した外国人しか入れない。そのため生え抜きの選手は自然とカタルーニャ人が多数派となる。このようなカタルーニャ人選手が優勢な状況もまた、このチームをバルセロナ市民、カタルーニャ人をして「クラブ以上の存在」言わしめるものである。

スペインでは法律により18歳になるまではプロ契約ができないため、近年では育成した選手がトップチームに昇格する直前にプレミアリーグのクラブに引き抜かれる事件がしばしば起きている。アーセナルにはセスクとフラン・メリダリヴァプールにはパチェコマンチェスター・ユナイテッドにはジェラール・ピケが引き抜かれ批判を起こしている。しかしFCバルセロナ自身、当時12歳だったアルゼンチンCAリーベル・プレートエリク・ラメラを家族ごとスペインに連れてこようとし、アルゼンチン国内で批判の声が上がるなど、特に安価で選手を揃えられる南米などの貧困地域で類似の問題を引き起こしている。

組織形態[編集]

ユースチームは能力や年齢によって、以下の11チームに分けられている。

名称 対象年齢 責任者
FCバルセロナB[22] 全年齢 エウセビオ・サクリスタン・メナ
フベニルA 17歳〜20歳 オスカル・ガルシア
フベニルB 17歳〜18歳 ガルシア・ピミエンタ
カデーテA 15歳〜16歳 キケ・アルバレス
カデーテB
インファンティルA 13歳〜14歳
インファンティルB
アレビンA 12歳
アレビンB 11歳
ベンジャミンA 10歳
ベンジャミンB 9歳〜10歳

ユニフォーム[編集]

  • 1999-2000シーズン後半は、クラブ創立100周年ユニフォームが使用された。
  • 2005-06、2010-11、2015-16シーズンのファーストユニフォームのパンツはえんじ色だった。
  • 2ndユニフォームの配色は毎年異なる。2007-08シーズンはシャツ、パンツ共に水色、2006-07シーズンはシャツ、パンツ共にオレンジ色だった。
  • 例年、前年の2ndユニフォームはサードユニフォームとして使用される。
  • バスケットボールなど、サッカー以外のチームでも青色とえんじ色の縦ストライプのユニフォームを用いている。こちらはフットボール部門とは違い、商業的な胸スポンサーロゴ契約が結ばれている。

スポンサー[編集]

一般に多くのサッカークラブではユニフォームにスポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナはソシオ[要曖昧さ回避]により運営していることから、スポンサーのロゴを入れないことがクラブの伝統となっていた。歴史的な背景もあり、ソシオの会員はクラブに非常に誇りを持っている。上記のような伝統があるが、2006年に児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフに対して5年契約で毎年190万ドルの寄付、総額950万ドルの寄付をすることで合意した[23]。これにより、2006年9月12日から史上初めて胸にロゴを入れたユニフォームを着用している。ロゴ本来の色は白であるが、白は宿敵であるレアル・マドリードのチームカラーでもあるため、ホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。2011-12シーズンから5年間の契約でカタール財団とスポンサー契約を結び、1899年のクラブ創設以来初の商用ロゴ入りユニホームを着用している。「カタール財団」が胸スポンサーになったことにより、2011-12シーズンからユニセフのロゴは背番号下に入る。カタール財団のロゴの導入に当たっては、ソシオやクラブOBなどの反対も強く、元選手であり名監督であったヨハン・クライフは「シャツにしみをつけるなんてまっぴらだ。クラブ収益の一割にも満たない金のためにクラブの独立性を捨てるのか!」と反対した。また、スタジアムには「カタールにNO!」と抗議のポスターを掲げるサポーターも現れた。しかし、前会長の就任後にはクラブは4億ユーロの負債を抱えており、その前の4年間はタイトルから離れていた上にライバルのレアル・マドリードの後塵を拝していた。最終的には、現会長の尽力もあって2011年、秋のソシオの総会で承認を得た。現会長のサンドロ・ロセイは「皆さんが反対なら契約は結ばない。しかし、クラブには前会長の残した多大な負債がある」と語った。[2]。2013-14シーズンからはカタール財団とともにスポンサーとなっていたカタール航空のロゴが胸に掲示される。また2013年12月には半導体メーカーのインテルともスポンサー契約を結んだが、スポンサーロゴはユニホームの内側にプリントされており、選手がシャツをたくし上げると見えるようになっている。

年度 メーカー 胸スポンサー
1982–1992 Meyda なし
1992–1998 Kappa
1998–2006 Nike
2006–2011 UNICEF
2011–2013 Qatar Foundation
2013– Qatar Airways

現所属メンバー[編集]

2014-15シーズン 基本フォーメーション

Soccer.Field Transparant.png

ブラーボ
# 13
D.アウべス
# 22
ピケ
# 3
マスチェラーノ
# 14
ジョルディ
# 18
ブスケツ
# 5
イニエスタ
# 8
ラキティッチ
# 4
メッシ
# 10
ネイマール
# 11
スアレス
# 9
2015年6月7日現在
No. Pos. 選手名
1 ドイツの旗 GK マルク=アンドレ・テア・シュテーゲン
2 スペインの旗 DF マルティン・モントヤ
3 スペインの旗 DF ジェラール・ピケ (第4主将)
4 クロアチアの旗 MF イヴァン・ラキティッチ (Flag of Switzerland.svg)
5 スペインの旗 MF セルヒオ・ブスケツ (第3主将)
7 スペインの旗 FW ペドロ・ロドリゲス
8 スペインの旗 MF アンドレス・イニエスタ (Captain sports.svg)
9 ウルグアイの旗 FW ルイス・スアレス
10 アルゼンチンの旗 FW リオネル・メッシ (副主将) (Flag of Spain.svg)
11 ブラジルの旗 FW ネイマール
12 ブラジルの旗 MF ラフィーニャ (Flag of Spain.svg)
13 チリの旗 GK クラウディオ・ブラーボ (Flag of Spain.svg)
14 アルゼンチンの旗 DF ハビエル・マスチェラーノ (Flag of Italy.svg)
No. Pos. 選手名
15 スペインの旗 DF マルク・バルトラ
16 ブラジルの旗 DF ドウグラス
18 スペインの旗 DF ジョルディ・アルバ
20 スペインの旗 MF セルジ・ロベルト
21 ブラジルの旗 DF アドリアーノ・コレイア (Flag of Spain.svg)
22 ブラジルの旗 DF ダニエウ・アウヴェス (Flag of Spain.svg)
23 ベルギーの旗 DF トーマス・フェルメーレン
24 フランスの旗 DF ジェレミー・マテュー
25 スペインの旗 GK ジョルディ・マシップ
-- スペインの旗 MF アレイクス・ビダル
-- カメルーンの旗 MF アレクサンドル・ソング
-- オランダの旗 MF イブラヒム・アフェレイ

※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。

監督

ローン移籍[編集]

out
No. Pos. 選手名
-- スペインの旗 MF デニス・スアレス (セビージャ)
-- スペインの旗 FW クリスティアン・テージョ (ポルト)

クラブ成績[編集]

シーズン 国内 UEFA 監督 会長
順位 試合 カップ スーパーカップ CL カップ[24]
1899-1900 リーグ存在せず 存在せず 存在せず 存在せず 不明 ウォルター・ワイルド
1900-1901
1901-1902 準優勝 バルトミュー・テラデス
1902-1903 ポール・ハース
1903-1904 アルサー・ウィティー
1904-1905
1905-1906 ジョセップ・ソラー
1906-1907 ジュリ・マリアル
1907-1908
1908-1909 ヴィセン・レイグ
ハンス・カンパー
1909-1910 優勝[25] ハンス・カンパー
1910-1911 オット・グメリン
1911-1912 優勝 ハンス・カンパー
1912-1913 優勝[25]
1913-1914 フランシス・デ・モホ
1914-1915 フランシス・デ・モホ
アルバー・プレスタ
ホアキン・ペリス・デ・バーガス
1915-1916 ラファエル・ロパート
1916-1917 ジョン・バロー ガスパー・ロセス
1917-1918 ジャック・グリーンウェル ハンス・カンパー
1918-1919 準優勝
1919-1920 優勝 リカルド・グラエルス
1920-1921 ガスパー・ロセス
1921-1922 優勝 ハンス・カンパー
1922-1923
1923-1924 エリック・カルドナ
1924-1925 優勝 ポソニ・イェサ ハンス・カンパー
1925-1926 優勝 ラルフ・カービー アラディー・バラガー
1926-1927 ジャック・デムビー
1927-1928 優勝 ローマ・フォルンス
1928-1929 優勝 18 11 3 4
1929-1930 2位 18 11 1 6 ジェームス・ベラミー トーマス・ロセス
1930-1931 4位 18 7 7 4 ガスパー・ロセス
1931-1932 3位 18 10 4 4 準優勝 ジャック・グリーンウェル アントニ・オリバー
ジョアン・コマ
1932-1933 4位 18 7 5 6 ジョアン・コマ
1933-1934 9位 18 8 0 10 ジャック・デムビー
1934-1935 6位 22 9 6 7 フェレンツォ・プラトコ エステベ・サーラ
1935-1936 5位 22 11 2 9 準優勝 パトリック・オコーネル ジェセップ・スニョール・ガリーガ
1936-1937 スペイン内戦により
開催されず
開催されず 不明 不明
1937-1938
1938-1939 ジョセップ・プラナス
1939-1940 9位 22 8 3 11
1940-1941 4位 22 13 1 8 エンリケ・ピネイロ
1941-1942 12位 26 8 3 15 優勝 開催されず ラモン・グスマン
1942-1943 3位 26 14 4 8 ジョアン・ジョセップ・ノゲス ジョセフ・ヴィダル・リバス
⇒エンリケ・ピネイロ
1943-1944 6位 26 10 8 8 ジョセフ・アントニ・デ・アルベルト
ジョセフ・ヴェンドレル
1944-1945 優勝 26 17 5 4 アルゼンチンの旗 ホセ・サミティエール ジョセフ・ヴェンドレル
1945-1946 2位 26 14 7 5 優勝
1946-1947 4位 26 14 3 9 不明
1947-1948 優勝 26 15 7 4 エンリケ・フェルナンデス
1948-1949 優勝 26 16 5 5 優勝
1949-1950 5位 26 13 3 10 準優勝 エンリケ・フェルナンデス
ラモン・ローレンス
1950-1951 4位 30 16 3 11 優勝 フェルディナント・ダウチーク
1951-1952 優勝 30 19 5 6 優勝 準優勝
1952-1953 優勝 30 19 4 7 優勝 優勝 アグスティ・モンテリ・ガロバルト
1953-1954 2位 30 16 4 10 準優勝 優勝 エンリック・マルティ
1954-1955 2位 30 17 7 6 開催されず サンドロ・プッポ
1955-1956 2位 30 22 3 5 優勝 プラットコー・フェレンツ
1956-1957 3位 30 16 7 7 優勝 ドメネク・バルマナヤ
1957-1958 3位 30 17 4 9 ドメネク・バルマナヤ
アルゼンチンの旗 エレニオ・エレーラ
1958-1959 優勝 30 24 3 3 優勝 優勝 アルゼンチンの旗 エレニオ・エレーラ
1959-1960 優勝 30 22 2 6 ベスト4
1960-1961 4位 30 13 6 11 準優勝 リュビシャ・ブロチッチ
エンリケ・オリサオラ
1961-1962 2位 30 18 4 8 準優勝 ルイス・ミロ エンリック・ラウデ
1962-1963 6位 30 11 9 10 優勝 ラディスラオ・クバラ
ジョセップ・ゴンサルボ
1963-1964 2位 30 19 4 7 スペインの旗 セサル・ロドリゲス
1964-1965 6位 30 14 4 12 スペインの旗 セサル・ロドリゲス
ヴィセンツォ・サソ
1965-1966 3位 30 16 6 8 優勝 ロケ・オルセン
1966-1967 2位 30 20 2 8
1967-1968 2位 30 15 9 6 優勝 サルバドール・アルティガス
1968-1969 3位 30 13 10 7 ナルシス・デ・カレーラス
1969-1970 4位 30 13 9 8 ジョセップ・セゲール アグスティ・モンタル
1970-1971 2位 30 19 5 6 優勝 優勝 ビク・バッキンガム
1971-1972 3位 34 17 9 8 オランダの旗 リヌス・ミケルス
1972-1973 2位 34 18 10 6 初戦敗退
1973-1974 優勝 34 21 8 5 準優勝 初戦敗退
1974-1975 3位 34 15 7 12
1975-1976 2位 34 18 7 9 ベスト4 ドイツの旗 ヘネス・バイスバイラー
ラウレアノ・ルイス
1976-1977 2位 34 18 9 7 ベスト8 オランダの旗 リヌス・ミケルス
1977-1978 2位 34 16 9 9 優勝 ベスト4 レイモン・カラスコ
1978-1979 5位 34 16 6 12 フランスの旗 ルシアン・ミュラー ホセ・ルイス・ヌニェス
1979-1980 4位 34 13 12 9 ホアキム・リフェ
1980-1981 5位 34 18 5 11 優勝 2回戦敗退 エレニオ・エレーラ
1981-1982 2位 34 19 7 8 ドイツの旗 ウド・ラテック
1982-1983 4位 34 17 10 7 優勝 ドイツの旗 ウド・ラテック
ジョセップ・ルイス・ロメロ
1983-1984 3位 34 20 8 6 準優勝 優勝 アルゼンチンの旗 セサル・ルイス・メノッティ
1984-1985 優勝 34 21 11 2 イングランドの旗 テリー・ヴェナブルズ
1985-1986 2位 34 18 9 7 準優勝 準優勝 準優勝
1986-1987 2位 44 24 15 5 開催されず
1987-1988 6位 38 15 9 14 優勝 スペインの旗 ルイス・アラゴネス
1988-1989 2位 38 23 1 4 準優勝 オランダの旗 ヨハン・クライフ
1989-1990 3位 38 23 5 10 優勝
1990-1991 優勝 38 25 7 6 準優勝
1991-1992 優勝 38 23 9 6 優勝 優勝
1992-1993 優勝 38 25 8 5 優勝
1993-1994 優勝 38 25 6 7 準優勝 準優勝
1994-1995 4位 38 18 10 10 優勝 ベスト8
1995-1996 3位 42 22 14 6 準優勝
1996-1997 2位 42 28 6 8 優勝 優勝 イングランドの旗 ボビー・ロブソン
1997-1998 優勝 38 23 5 10 優勝 準優勝 グループステージ敗退 オランダの旗 ルイ・ファン・ハール
1998-1999 優勝 38 24 7 7 準優勝 グループステージ敗退
1999-2000 2位 38 19 7 12 準優勝 ベスト4 ジョアン・ガスパール
2000-2001 4位 38 17 12 9 1次グループリーグ敗退 ロレンソ・セラ・フェレール
スペインの旗 カルロス・レシャック
2001-2002 4位 38 18 10 10 初戦敗退 ベスト4 スペインの旗 カルロス・レシャック
2002-2003 6位 38 15 11 12 初戦敗退 ベスト8 オランダの旗 ルイ・ファン・ハール
セルビアの旗 ラドミル・アンティッチ
ジョアン・ガスパール
エンリック・レイナ
2003-2004 2位 38 21 9 8 ベスト8 ベスト16 オランダの旗/スリナムの旗 フランク・ライカールト ジョアン・ラポルタ
2004-2005 優勝 38 25 9 4 初戦敗退 ベスト16
2005-2006 優勝 38 25 7 6 ベスト8 優勝 優勝
2006-2007 2位 38 22 10 6 ベスト4 優勝 ベスト16
2007-2008 3位 38 19 10 9 ベスト4 ベスト4
2008-2009 優勝 38 27 6 5 優勝 優勝 スペインの旗 ジョゼップ・グアルディオラ
2009-2010 優勝 38 31 6 1 ベスト16 優勝 ベスト4
2010-2011 優勝 38 30 6 2 準優勝 優勝 優勝 サンドロ・ロセイ
2011-2012 2位 38 28 7 3 優勝 優勝 ベスト4
2012-2013 優勝 38 32 4 2 ベスト4 準優勝 ベスト4 スペインの旗 ティト・ビラノバ
2013-2014 2位 38 27 6 5 準優勝 優勝 ベスト8 アルゼンチンの旗 ヘラルド・マルティーノ サンドロ・ロセイ
ジョゼップ・マリア・バウトメウ
2014-2015 優勝 38 30 4 4 優勝 優勝 スペインの旗 ルイス・エンリケ ジョゼップ・マリア・バウトメウ
合計 優勝23回 優勝27回[26] 優勝15回[27] 優勝5回 優勝4回[28]

タイトル[編集]

国内タイトル(カタルーニャ)[編集]

国内タイトル[編集]

  • プリメーラ・ディビシオン:23回
    • 1928-29, 1944-45, 1947-48, 1948-49, 1951-52, 1952-53, 1958-59, 1959-60, 1973-74, 1984-85, 1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94, 1997-98, 1998-99, 2004-05, 2005-06, 2008-09, 2009-10, 2010-11, 2012-13, 2014-15
  • コパ・デル・レイ:27回
    • 1909-10, 1911-12, 1912-13, 1919-20, 1921-22, 1924-25, 1925-26, 1927-28, 1941-42, 1950-51, 1951-52, 1952-53, 1956-57, 1958-59, 1962-63, 1967-68, 1970-71, 1977-78, 1980-81, 1982-83, 1987-88, 1989-90, 1996-97, 1997-98, 2008-09, 2011-12, 2014-15

国内タイトル(親善大会)[編集]

国際タイトル[編集]

歴代所属選手[編集]

カンテラ出身選手は、公式戦でのトップチーム・デビュー年度から表記)

GK[編集]


DF[編集]


MF[編集]


FW[編集]


脚注[編集]

  1. ^ FCバルセロナはカタルーニャ民族主義の象徴であるが、クラブ側はカタルーニャ独立運動には選手に自制を促すなど抑制的である。
  2. ^ a b 「転機のサッカービジネス」『朝日新聞グローブ』2012年4月1日発行通巻84号
  3. ^ Deloitte Football Money League 2014(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
  4. ^ 2012年にイギリスメディア『sportingintelligence.com』が調査した、世界のスポーツチームの平均年俸ランキング
  5. ^ “カタルーニャ独立運動 募る政府への不満”. NHK. (2012年11月1日). http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2012/11/1101m.html 2013年9月14日閲覧。 
  6. ^ ジミー・バーンズ (2012年11月27日). “名門バルサにカタルーニャ独立運動の影”. ニューズウィーク. http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/11/post-2777.php 2013年9月14日閲覧。 
  7. ^ FCBarcelona.cat”. FCBarcelona.cat. 2009年1月21日閲覧。
  8. ^ 日本スポーツ企画出版社 2006-2007 EUROPE SOCCER TODAY 完結編10-11頁
  9. ^ バルセロナは得点が78で失点が33だったのに対し、レアル・マドリードは得点が66で失点が40だった。
  10. ^ 日本スポーツ企画出版社 2007-2008 EUROPE SOCCER TODAY 完結編31頁
  11. ^ 圧倒的な強さで連覇を達成しても、バルサの攻撃サッカーは発展途上。 -NumberWeb: 2010年5月19日
  12. ^ モウリーニョとレアルを完全凌駕した、グアルディオラとバルサの戦術と能力。 -NumberWeb: 2011年4月28日
  13. ^ レアルの敵はバルサ+疑惑の判定!?激闘のクラシコ最終戦を読み解く。 -NumberWeb: 2011年5月5日
  14. ^ 「熟成」のマンUと「進化」のバルサ。2年前とは似て非なるCL決勝の風景。 -NumberWeb: 2011年5月28日
  15. ^ バルサ4度目のCL制覇を陰で支えた、プジョルとアビダルの見えない功績。 -NumberWeb: 2011年5月30日
  16. ^ 最新トレンドは「ポジションレス」!? CL決勝にみる、バルサ究極の進化形。 -NumberWeb: 2011年6月12日
  17. ^ 同大会の3連覇はレアル・マドリードが1988-89シーズンから1990-91シーズンにかけて達成したが、1989年は1988-89シーズンのリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイをいずれも優勝したことで認定されたため、3年とも試合を行っての3連覇は史上初である。
  18. ^ 日本スポーツ企画出版社 2011-2012 EUROPE SOCCER TODAY 完結編120-121頁
  19. ^ 因みにシーズンの成績は32勝4分け2敗だったが、このうちの3分け2敗が後半の19試合で記録したものだった。
  20. ^ 日本スポーツ企画出版社 2012-2013 EUROPE SOCCER TODAY 完結編14-15頁
  21. ^ 日本スポーツ企画出版社 2013-2014 EUROPE SOCCER TODAY 完結編16頁、120頁
  22. ^ 2007年までバルサCが存在していたが、バルサB(当時)のテルセーラ・ディビシオン降格にともない、消滅した。
  23. ^ “FCバルセロナ ユニセフとの歴史的パートナーシップを発表” (プレスリリース), UNICEF, (2006年9月7日), http://www.unicef.or.jp/library/pres_bn2006/pres_09_08.html 2012年7月1日閲覧。 
  24. ^ 1955-1956シーズンから1970-1971シーズンまではインターシティーズ・フェアーズカップ、1971-1972シーズンから2008-2009シーズンまではUEFAカップ、2009-2010シーズン以降はUEFAヨーロッパリーグ
  25. ^ a b 1909-1910シーズン、1912-13シーズンはスペインサッカー連盟主催の大会とスペインサッカークラブ連合主催の大会が並存しており、FCバルセロナが優勝したのはスペインサッカークラブ連合の大会
  26. ^ うち2回はスペインサッカークラブ連合主催
  27. ^ うち4回はコパ・デ・オロ・アルヘンティーナとコパ・エバ・ドゥアルテ
  28. ^ ただし、全てUEFAカップの前身となったインターシティーズ・フェアーズカップ

参考文献[編集]

  • 岡崎明子『バルセロナ地中海都市の歴史と文化』(中央公論新社、2010年)
  • 田澤耕『カタルーニャを知る辞典』(平凡社、2013年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯41度22分32秒 東経2度3分7秒 / 北緯41.37556度 東経2.05194度 / 41.37556; 2.05194