ミカエル・ラウドルップ

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ミカエル・ラウドルップ Football pictogram.svg
Michael Laudrup 2015.jpg
名前
愛称 ミカ
ラテン文字 Michael LAUDRUP[1]
基本情報
国籍  デンマーク
生年月日 (1964-06-15) 1964年6月15日(54歳)
出身地 コペンハーゲン
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
ポジション MF (OH, CH) / FW (ST, CF)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981 デンマークの旗 ケベンハウンBK 14 (3)
1982-1983 デンマークの旗 ブレンビー 38 (24)
1983-1985 イタリアの旗 ラツィオ 60 (9)
1985-1989 イタリアの旗 ユヴェントス 102 (16)
1989-1994 スペインの旗 バルセロナ 167 (40)
1994-1996 スペインの旗 レアル・マドリード 62 (12)
1996-1997 日本の旗 ヴィッセル神戸 15 (6)
1997-1998 オランダの旗 アヤックス 21 (11)
通算 479 (121)
代表歴
1980  デンマーク U-17 4 (2)
1980-1981  デンマーク U-19 19 (12)
1982  デンマーク U-21 2 (0)
1982-1998 デンマークの旗 デンマーク 104 (37)
監督歴
2000-2002 デンマークの旗 デンマーク (アシスタント)
2002-2006 デンマークの旗 ブレンビー
2007-2008 スペインの旗 ヘタフェ
2008-2009 ロシアの旗 スパルタク・モスクワ
2010-2011 スペインの旗 マヨルカ
2012-2014 イングランドの旗 スウォンジー
2014-2015 カタールの旗 レフウィヤ
2016- カタールの旗 アル・ラーヤン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ミカエル・ラウドルップ(Michael Laudrup, 1964年6月15日 - )は、デンマークコペンハーゲン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。デンマーク代表だった。現役時代のポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワードセカンドトップ)。デンマークサッカー界を代表する選手であり、1980年代中盤から1990年代のヨーロッパを代表する選手のひとり。同じくサッカー選手であった弟のブライアン・ラウドルップと共に「ラウドルップ兄弟」として知られる。父のフィン・ラウドルップ英語版も元サッカー選手で代表キャプテンを務めた。

ケベンハウンBKからデビューし、イタリアのユヴェントスFCではセリエAとインターコンチネンタルカップを優勝、1989年にスペインのFCバルセロナに移籍。4シーズン連続でプリメーラ・ディビシオン優勝を果たした。1994年にはバルセロナのライバルのレアル・マドリードに移籍し、2クラブにまたがって5シーズン連続でプリメーラ・ディビシオンのタイトルを獲得。1997年に加入したAFCアヤックスではリーグと国内カップの2冠を制した。

1982年、18歳の誕生日にデンマーク代表デビューしその試合でゴールを決めると、1986年FIFAワールドカップメキシコ大会、1998年FIFAワールドカップフランス大会に出場、1998年までに104試合に出場して37得点を挙げた。1994年11月からは代表引退するまで28試合に渡って代表キャプテンを務めた。1998年6月に現役引退した。1999年、過去25年間のリーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手賞を受賞した[2]。2000年4月にはDannebrog勲章を受勲した。 2003年11月、デンマークサッカー協会によってUEFAジュビリーアウォーズのデンマーク代表(過去50年のデンマーク最優秀選手)に選出された[3]。2006年11月には、デンマークサッカー協会によって公式に史上最高のデンマーク人選手に選出された[4]。また同じFCバルセロナとヴィッセル神戸に所属した、イニエスタの憧れた選手でもある[5]


選手経歴[編集]

幼少期[編集]

コペンハーゲンのFrederiksberg地区に生まれ、父親のフィン・ラウドルップ英語版も幼少時代にプレーしたVanløse IFでサッカーを始めた。1973年にフィンがブレンビーIFの選手兼任監督となると、ラウドルップ家はブロンビーに引っ越し、ミカエルと兄弟のブライアン・ラウドルップもブロンビーの下部組織に移った。1976年、ミカエルは父の後を追ってデンマーク・スーペルリーガ(1部)のケベンハウンBK(現FCコペンハーゲン)の下部組織に移ったが、ブライアンはブロンビーに留まった。

初期の経歴[編集]

1981年にケベンハウンのトップチームに昇格。ブロンビーでプレーしていた父親のフィンは、1981年シーズン終了後のスーペルリーガ昇格を置き土産に現役引退した。ミカエルは1982年にコペンハーゲン郊外のブロンビーに移籍し、デビュー戦となったBoldklubben 1909戦 (7-1) で2得点を挙げた。1982年シーズンはリーグ3位の15得点を挙げ、デンマーク年間最優秀選手賞を受賞した。1983年シーズンも引き続きブロンビーでプレーし、中盤戦までに9得点を挙げた。

ラツィオ[編集]

1983年6月、イタリア・セリエA覇者のユヴェントスFCに移籍。ブロンビーにはデンマーク史上最高の移籍金100万ドルが支払われた。ユヴェントスとの合意前にはリヴァプールFCとの契約間近だったが、リヴァプールが提示内容を3年契約から突然変更、契約年数(4年)を提示してきた、ミカエルは納得せず、リヴァプールとの交渉が決裂していた[6][7]。当時のセリエAの規定では同時に出場できる外国人選手は2人までだったが、ユヴェントスにはポーランド代表ズビグニェフ・ボニエクフランス代表ミシェル・プラティニが在籍しており、すぐに昇格組のSSラツィオへ1シーズンの契約でレンタル移籍[6]、セリエAデビュー戦となったエラス・ヴェローナFC戦 (2-4) で2得点を挙げた。1983-84シーズンのラツィオはかろうじてセリエB降格を回避した。ユヴェントスはボニエクとプラティニを手元に置くことを望み、ミカエルは再びラツィオにレンタル移籍した。1984-85シーズンのラツィオは序盤戦から低迷。ミカエル自身も1得点しか挙げられず、セリエB降格となった。

ユベントス[編集]

1985年夏、ボニエクがASローマに移籍したことでミカエルがユヴェントスに復帰し、プラティニとチームメイトとなった。1985年には再びデンマーク年間最優秀選手賞を受賞し、1985-86シーズンにはセリエAとインターコンチネンタルカップの2冠を達成。東京の国立競技場で行われたインターコンチネンタルカップのAAアルヘンティノス・ジュニアーズ戦では、82分に同点ゴールを決めて試合を振り出しに戻した。PK戦ではPKを失敗したが、ユヴェントスは2-2(PK 4-2)で勝利してタイトルを獲得した。

1986-87チャンピオンズカップのヴァルル・レイキャヴィークとの対戦の第1試合ではハットトリックを達成した、また第2戦でも2得点を決めた[8]。1987年にプラティニが引退すると、新加入のイアン・ラッシュとともにミカエルがユヴェントスを牽引することを期待されたが、以降度々怪我に苦しみ[9]、期待された程の活躍が出来ずバルセロナに売却された[6]

FCバルセロナ[編集]

1989年、少年時代のアイドル的存在であるヨハン・クライフ監督[6]が率いる、リーガ・エスパニョーラの強豪FCバルセロナに移籍した。当時のリーグ規定では3人の外国人選手の出場が許されており、ミカエルはオランダ代表ロナルド・クーマン(1989-1995に在籍)、ブルガリア代表フリスト・ストイチコフ(1990-1995に在籍)とともにプレー。ストイチコフのかなりのゴールがラウドルップのパスから生まれ[10] 、ストイチコフは後のインタビューなどで度々ラウドルップへの感謝を口にしている。彼らはエル・ドリーム・チームの支柱であり、彼ら外国人選手に加えて、スペイン人のジョゼップ・グアルディオラホセ・マリ・バケーロチキ・ベギリスタインなどが色どりを加えたエル・ドリーチームはリーグ戦では1990-91シーズンから4連覇を果たした。また、1989-90シーズンのコパ・デル・レイ、1991年と1992年のスーペルコパ・デ・エスパーニャ、1991-92シーズンのUEFAチャンピオンズカップ、1992年のUEFAスーパーカップなど、数々のタイトルを獲得した。1992年にはドン・バロン・アワードの最優秀外国人選手賞を受賞。

1989-90年度シーズン第2節オサスナ戦で移籍後初ゴールを決めた。1990-91シーズン、1991年1月19日開催のレアルマドリードとのクラシコではファンやメディアから称賛されるスライディングボレーによる先制点を決めると[11]、以降2月10日のベティス戦まで4試合連続でゴールを決め、翌シーズンにも1991年12月7日テネリフェ戦から翌年1月5日のマジョルカ戦まで4試合連続ゴールを決めた。

1993年にはブラジル代表ロマーリオが加入し、バルセロナの外国人選手は4人となった[12]。このことでラウドルップはベンチスタートなどが増えた[13]。レアルマドリ―ドとのクラシコでは途中出場からノールックパスでロマーリオのゴールをアシストするなど[12]、プレー面でロマーリオとの抜群の相性の良さを度々見せた[14]。 また優勝がかかる最終節のセヴィージャFC戦では先発出場し、前半にサイド突破からのクロスでストイチコフの同点ゴールをアシスト、後半にはストイチコフのアシストから得点を決め、勝利を引き寄せ、首位を走っていたラコルーニャに逆転での優勝に貢献した。クライフ監督とはたびたび衝突したため[15]、ミカエルは1993-94シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝・ACミラン戦ではミラン所属の弟のブライアンと共にベンチ外になった[6]。対戦したミランの監督ファビオ・カペッロはラウドルップを恐れていたが、居なくて良かった、彼をベンチ外にしたのはクライフの判断ミスだと述べた[6]

レアルマドリード[編集]

1994年夏、レアル・マドリードに移籍。ラウドルップは移籍の理由は遺恨などではなく[6]、プロとしてのものであり、またバルセロナはワールドカップアメリカ大会にかなりの所属選手を出していた為、疲労によりチーム力が落ちると考えたからだと語った[6]グアルディオラは記者からラウドルップの移籍を聞き涙を流すなど大きな動揺を見せ[9]、ストイチコフはミカエルを放出したフロントを批判した[16]。バルセロナ最大のライバルに移籍したことで議論を呼んだが、入団初年度の1994-95シーズン、ここでもサモラーノなどに多くのゴールをアシスト[17]、リーグ優勝を果たした[10]。特に古巣バルセロナに5-0と勝利したゲームではサモラーノのゴールをアシストするなど目覚ましい活躍を見せた。バルセロナ時代の4連覇を合わせて、個人としてはリーグ5連覇[10] 、異なる二つ以上のクラブでリーガ・エスパニョーラ5連覇を達成したの最初の選手となった[12]。なお、バルセロナに在籍していた前シーズンのエル・クラシコでは、レアル・マドリード相手に5-0の大勝を記録していたが、レアル・マドリードに在籍していた1994-95シーズンのエル・クラシコでは、バルセロナ相手に同じスコアで勝利している。

1995-96シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝ユベントスFC戦では、ラウールの決勝ゴールをアシストし第1戦に1-0で勝利したが、第2戦イエロ、レドンド、サモラーノを欠き、ベスト8敗退した。3月31日第34節のアトレチコマドリードとのダービー、第36節セビリア戦では決勝ゴールを決めたが、前シーズンに比べて冴えないシーズンとなった。レアル・マドリードでは2シーズンプレーしただけにもかかわらず、2002年にマルカ紙が実施したインターネット調査では、レアル・マドリードの歴代最優秀選手投票で12位にランクインした[18]

ヴィッセル神戸[編集]

1996年、ジャパンフットボールリーグ(2部に相当)のヴィッセル神戸に入団[19]、8月18日ミカエルの加入もあり、シーズン最多の観客を集めて行われた[19]、JFL後期の開幕戦第16節ブランメル仙台戦でデビューを飾ると、その試合でいきなり2ゴールを決める活躍を見せたが[19]、「自分が得点した事よりも、チームが勝ったことが大事」とお立ち台でのヒーローインタビューを拒否、あくまでも『チームの勝利』という事にこだわりを見せた[19]。ワールドカップ予選で度々チームを離れることもあったが[19]、第21節コンサドーレ札幌戦では3アシストの活躍[19]、第29節福島FC戦では決勝ゴールを含む2ゴールの活躍[19]、得失点差で優勝は逃したが[19]、チームを牽引し2位でのJリーグ昇格に貢献した[19]

1997年はJリーグで3試合、ナビスコカップ6試合でプレー[20]、3月29日ナビスコカップ、柏レイソル戦でシーズン初ゴールでヴィッセル神戸では最後となるゴールを決めた[20]。Jリーグ第3節4月19日の横浜フリューゲルス戦に先発したが、負傷のため前半16分に交代、神戸での最後の試合となった[21]

アヤックス[編集]

1997-98年度シーズンモアテン・オルセン率いるエールディヴィジAFCアヤックスに加入し、第3節ユトレヒト戦で移籍後初ゴールを決め[22]、第21節RKCヴァールヴァイク戦ではハットトリックを達成[22]、4月11日第30節SCヘーレンフェーンでクラブチームでの現役ラストゴールを決めた[22]。怪我で離脱することもあったが、リーグ戦21試合で11ゴール9アシストの活躍で[22]、1997-98シーズンのリーグ優勝を助け、更に同シーズン5月17日KNVBカップ決勝のPSV戦に勝利し2冠を達成、契約延長の話を受けたが同試合を最後に引退した。

デンマーク代表[編集]

1986 FIFAワールドカップスペイン戦でのラウドルップ

ケベンハウンに所属していた1981年2月28日、U-19フランス代表戦でU-19デンマーク代表デビューを飾り、U-19代表では25試合に出場して14得点を記録した[23]。ブロンビーでのデビューシーズンにデンマークA代表に初招集され、18歳の誕生日である1982年6月15日、ノルウェー戦でA代表デビュー、デビュー戦でいきなりA代表初ゴールを決める活躍を見せた。またハラルド・ニールセンに次いで歴代2位の年少出場記録を作った。

1984年にフランスで開催されたUEFA欧州選手権1984には中心選手として全試合に出場し、エンツォ・シーフォらとともに将来有望な若手選手として脚光を浴びた。

1986年にメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップでは、「ダニッシュ・ダイナマイト」と賞賛された攻撃的なチームの中でエルケーア・ラルセンと2トップを組み、大会を席巻。同大会でデンマーク初の決勝トーナメント進出に貢献した。なお、1次リーグ第2戦のウルグアイ戦(6-1)では、52分に技巧的なドリブル突破からデンマークの3点目の得点を決めている。

1988年に西ドイツで開催されたUEFA欧州選手権1988にも出場。デンマークの2得点のうち1点を挙げるなど、個人的には成功を収めたが、デンマークはグループリーグ敗退に終わった。長年代表を率いたドイツ人のゼップ・ピオンテック監督が大会後に退任すると、その後の監督たちとは対立し、代表辞退と復帰を繰り返すようになった[24]UEFA EURO '92予選では3試合に出場したが、1990年11月、メラー・ニールセン監督との意見の相違から、弟のブライアンやヤン・モルビーとともに代表からの引退を表明した[12][25]。ブライアンはピーター・シュマイケルなどとともにUEFA EURO '92本大会に出場し、ニールセン監督のチームは快進撃を続けて初優勝を果たした[12]

ミカエルは1993年8月に代表に復帰したが、1994 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ではスペイン戦とアイルランド戦に敗れて予選敗退となった。

1995年にはキング・ファハド・カップFIFAコンフェデレーションズカップの前身)に出場し、南米代表のアルゼンチン戦 (2-0) で得点するなどして優勝に貢献。

UEFA EURO '96予選では10試合に出場して4得点し、本大会には兄弟そろって出場したが、グループリーグ敗退に終わった。

1998年には、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップにデンマーク代表のキャプテンとして出場。グループリーグのフランス戦でペナルティーキックでゴールを決め(これがキャリアのラストゴールとなった。)、決勝トーナメント1回戦ではアトランタオリンピック優勝のナイジェリアと対戦し、絶妙なパスでエッベ・サンドの得点をアシスト、4-1の大差で勝利し、デンマークをベスト8まで牽引した。準々決勝ではブラジルに2-3で一歩及ばず敗れ、その試合が現役ラストゲームとなった。大会後にはFIFAによるワールドカップフランス大会オールスターメンバーにも選ばれた[6]

指導者経歴[編集]

デンマーク代表コーチ[編集]

1998年の現役引退後には、空き時間などにリンビーBKのシニアチームでプレーすることもあった[26]。2000年にデンマーク代表のアシスタントコーチに就任し、36歳で指導者の道を歩み始めた。モアテン・オルセン監督のチームは4-2-3-1フォーメーションを採用し、両翼に機動力のあるウイングを配置してショートパスでボールを支配するサッカーを探求。2002 FIFAワールドカップでは決勝トーナメントに進出した。

ブレンビー[編集]

2002年、デンマーク・スーペルリーガブレンビーIF監督に就任。代表と似たような戦術の採用を明らかにし、選手時代にデンマーク代表でともにプレーし、監督としてリーグ優勝経験のあるヨン・イェンセンをアシスタントコーチに据えた。ベテラン選手や経験豊富な選手を放出し、下部組織出身の若手有望株や新加入選手を積極的に起用することでチームを刷新。また、守備を安定させるためにデンマーク代表で実績のあるモアテン・ビスガードを獲得した。就任初年度の2002-03シーズンには、ダニッシュ・カップの決勝でFCミッティランを破って優勝した。リーグ戦では2度2位となった後、2004-05シーズンに就任後初優勝。このシーズンにはダニッシュ・カップと合わせて国内2冠を達成し、2005-06シーズンは再びリーグ戦で2位となった。ブレンビーとの契約延長交渉がうまくいかず、2005-06シーズン終了後にコーチのイェンセンとともにブレンビー監督を退任した。古巣のレアル・マドリードや、ラーシュ・ラーゲルベック監督の後任を探していたスウェーデン代表を含め、いくつかのクラブ・代表から関心を示された。2007年、ブレンビーはラウドルップの承諾を得て、スタジアムに「ミカエル・ラウドルップ・ラウンジ」という名称の新しいラウンジをオープンさせた。

ヘタフェ[編集]

2007年6月21日、スペインのマルカ紙ヘタフェCFがラウドルップと接触していると報じ、7月9日、レアル・マドリード監督に就任したベルント・シュスターの後任としてヘタフェ監督に就任[27]。2007-08シーズンではコパ・デル・レイで決勝に進出し、バレンシアCFに1-3で敗れたものの準優勝した。UEFAカップではチームを準々決勝進出に導き、ドイツのバイエルン・ミュンヘンと接戦を演じた(ファーストレグが1-1、セカンドレグが3-3、アウェーゴール差で敗退)[28]。ヘタフェでは攻撃的なサッカースタイルで成功を収めたが、2008年5月に監督を辞任した[29]。退任発表後、バレンシア、SLベンフィカ(ポルトガル)、チェルシーFCブラックバーン・ローヴァーズFCウェストハム・ユナイテッドFC(いずれもイングランド)、パナシナイコスFC(ギリシャ)、PFC CSKAモスクワ(ロシア)などからの関心が報じられた。パナシナイコス監督就任が確実視されたが、スペインのクラブから監督就任オファーを受けた際に契約解除できる条項を求めているとデンマークのメディアに報じられた。結局合意に至らず、ヘンク・テン・カテがパナシナイコス監督に就任した[30]

スパルタク・モスクワ[編集]

ウディネーゼ戦後の記者会見でのラウドルップ (2008年11月)

2008年9月12日、ロシア・プレミアリーグFCスパルタク・モスクワ監督就任が公式に発表された。契約期間は1年半。しかし、2008年シーズンのリーグ戦では8位と低迷。2009年4月15日、ロシア・カップ準々決勝のFCディナモ・モスクワ戦に0-3で敗れると、成績不振を理由に解任された[31]。2009年10月22日、スペインのメディアはラウドルップがアベル・レシーノ監督に代わってアトレティコ・マドリードの新監督に就任する可能性を報じた。しかし、アトレティコとラウドルップは諸条件で合意に至らず、10月23日、キケ・サンチェス・フローレス監督がアトレティコ監督に就任した。

マヨルカ[編集]

2010年7月2日、スペインのRCDマヨルカの監督に就任した。契約期間は2年[32]。マヨルカは破産宣告を受けており、2010年夏には満足な補強ができずに苦しんだ。前シーズンにUEFAヨーロッパリーグ出場圏内の5位となったものの、クラブの財政状態が理由で欧州サッカー連盟(UEFA)によって出場権を剥奪された。このような状況にもかかわらず、ラウドルップは攻撃的なスタイルを貫いてプリメーラ・ディビシオン残留を果たした。2011-12シーズン序盤にはアシスタントコーチのエリック・ラルセンが解任され、2011年9月27日、ラウドルップも監督を辞任した[33]。フットボール・ディレクターのロレンソ・セラ・フェレールとの確執を辞任の理由に挙げている[34]

スウォンジー・シティ[編集]

2012年6月15日、プレミアリーグスウォンジー・シティAFCの監督に就任[35]。契約期間は2年。公式戦での初采配はロフタス・ロードでのクイーンズ・パーク・レンジャーズFC(QPR)戦であり、この試合には5-0で大勝した[36]。2012-13シーズンはフットボールリーグカップに優勝しクラブに初のビッグタイトルをもたらしたが、翌2013-14シーズンは成績不振に陥り、2014年2月4日に監督を解任された[37][38]

家族[編集]

ラウドルップ家は3世代に渡ってサッカー選手を輩出している。父のフィン・ラウドルップ英語版デンマーク代表歴を持っている。叔父のEbbe Skovdahlも元サッカー選手であり、指導者としてはブレンビーIFアバディーンFCSLベンフィカの監督を務めた。ミカエルの弟のブライアン・ラウドルップは1990年代にレンジャーズFCスコティッシュ・プレミアリーグ9連覇を成し遂げ、UEFA EURO '92のデンマーク代表優勝メンバーでもある。なお、ミカエルはこの大会に出場していないが、それはメラー・ニールセン監督との確執や[39]ユーゴスラビアの大会出場に対する抗議行動によるものである[40]。前夫人との間に誕生したミカエルの長男のマッズ・トゥーネ・ラウドルップ英語版は2005年1月以来、各年代の世代別デンマーク代表のキャプテンを務めた。ノルウェー出身の夫人との間に誕生した次男のアンドレアス・レッツ・ラウドルップ英語版は2006年3月にU-16デンマーク代表に選出された[41]。アンドレアスは2007年から2008年までレアル・マドリードの下部組織に所属し、2009年からはFCノアシェランでプレーしている。2004年、ミカエルとブライアンはペレが選出したFIFA 100に兄弟そろって選出された。

評価、プレースタイル[編集]

  • ミシェル・プラティニは、ラウドルップを「サッカー史上もっとも才能ある選手のひとり。利己心の欠如が理由であまりにもゴール数が少ないのが残念だ」と表現した[42]
  • ベッケンバウアーは90年代ではラウドルップが最高の選手であったと評している[6]
  • モウリーニョは彼は並外れていて、自分のチームにも彼の様な選手が欲しいと評した[10]
  • レアルマドリードでチームメイトであったサモラーノは、自分が沢山ゴールを決められたのはラウドルップが移籍してきたお陰だとしている[45]
  • 並外れたテクニックとドリブルの技術、パスセンス、視野の広さを持ち併せた[10]。バルセロナではクライフから自由を与えられ、カウンターの起点になり、針の穴を通す様な正確なパスで多くのゴールをアシストした[10]。クライフは後年、たぶんヨーロッパで最もエレガントな選手であったと評した[46]
  • グアルディオラは「彼が世界最高の選手であったにも関われずバロンドールのタイトルを獲得しなかったのは信じられないと語った。」[47]
  • ラウドルップはロナウジーニョが世界最高の舞台に現れるはるか前に、ノールックパスを実践、ロナウジーニョがその一挙手一投足にいたずら心が感じられる巻き毛の天才だった一方、ラウドルップは学級委員長か聖歌隊の少年のような髪型であったが、実際には彼はロナウジーニョと同じ容赦のなさで、相手の4バックを強奪していった。難攻不落に見えるディフェンスにドリブルで向かっていき崩壊させてしまう、稀有なアタッカーだあった[48]

個人成績[編集]

デンマーク代表アシスタントコーチ時代のラウドルップ(2000年)

選手時代[編集]

クラブでの出場試合数
シーズン クラブ 国内リーグ 国内カップ 国内リーグカップ 欧州カップ 合計
試合 得点 試合 得点 試合 得点 試合 得点 試合 得点
ケベンハウンBK 1981 14 3 - -
通算 14 3
ブレンビーIF 1982 24 15 - -
1983 14 8 - -
通算 38 23
SSラツィオ 1983-84 30 8 - -
1984-85 30 1 - -
通算 60 9
ユヴェントスFC 1985-86 29 7 - - 6 2
1986-87 20 3 - - 4 5
1987-88 27 0 - - 4 2
1988-89 26 6 - - 8 3
通算 102 16
FCバルセロナ 1989-90 32 3 7 2 - - 3 1
1990-91 30 9 5 2 - - 7 0
1991-92 36 13 2 2 - - 11 3
1992-93 37 10 4 4 - - 4 0
1993-94 31 5 1 0 - - 6 1
通算 166 40
レアル・マドリード 1994-95 33 4 2 1 - - 5 2
1995-96 29 8 0 0 - - 7 0
通算 62 12
ヴィッセル神戸 1996 12 5 3 2 - - - - 15 7
1997 3 0 0 0 6 1 - - 9 1
通算 17 5 3 2 6 1 - - 24 8
アヤックス 1997-98 21 11 - - 5 2
通算 21 11
合計 478 119
代表での年別成績

[49]


デンマーク代表国際Aマッチ
出場得点
1982 3 2
1983 5 7
1984 13 2
1985 6 6
1986 10 1
1987 4 0
1988 9 1
1989 8 4
1990 6 3
1991 0 0
1992 0 0
1993 4 0
1994 8 3
1995 9 5
1996 8 1
1997 2 1
1998 9 1
通算 104 37

指導者[編集]

2014年2月4日現在
チーム 就任 退任 記録
試合 得点 失点 点差 勝率
ブレンビー 2002年7月 2006年6月 132 76 31 25 237 119 +118 057.58
ヘタフェ 2007年7月 2008年6月 59 25 15 19 81 70 +11 042.37
スパルタク・モスクワ 2008年9月12日 2009年4月15日 14 4 4 6 15 17 −2 028.57
マヨルカ 2010年7月1日 2011年9月27日 42 13 9 20 52 67 −15 030.95
スウォンジー・シティ 2012年6月15日 2014年2月4日 84 29 24 31 116 105 +11 034.52
通算 331 147 83 101 499 378 +121 44.41

タイトル[編集]

選手時代[編集]

クラブ[編集]

ユヴェントスFC
FCバルセロナ
レアル・マドリード
AFCアヤックス

代表[編集]

デンマーク代表

個人[編集]

指導者時代[編集]

クラブ[編集]

ブレンビーIF
スウォンジー・シティAFC
レフウィヤSC

個人[編集]

  • デンマーク年間最優秀監督賞 (2) : 2003, 2005

メディア[編集]

書籍[編集]

  • ブルーノ・ベルナルディ(Bruno Bernardi), "ミカエル・ラウドルップ(Michael Laudrup)", イタリア, 1986(イタリア語)
  • フレミング・ニールセン、ヴァグン・ニールセン, "Fodboldkunstneren Michael Laudrup : rundt om en stjerne", デンマーク, 1986(デンマーク語)
  • ミカエル・ラウドルップ, "Mod nye mål", デンマーク, 1989, ISBN 87-559-0848-9(デンマーク語)
  • ヤコブ・クヴィスト, "Ambassadøren – en bog om Michael Laudrup", デンマーク, 1996(第4版は2001), ISBN 87-583-1285-4(デンマーク語)
  • バンクス・イェルゲンセン, "Landsholdenes 2198 profiler", デンマーク, 2004, ISBN 87-89564-04-9(デンマーク語)

映像[編集]

  • Jørgen Leth, "Michael Laudrup – en fodboldspiller", デンマーク, 1986(デンマーク語)

脚注[編集]

  1. ^ Gaarskjær, Jesper (2010). Barça: Historien om FC Barcelona. Sheffield: Gyldendal. p. 135. ISBN 978-87-02-08764-2. 
  2. ^ The Gala in Barcelona IFHOC、1999年2月1日
  3. ^ Golden Players take center stage UEFA.com、2003年11月29日
  4. ^ Michael Laudrup bedste spiller gennem tiderne DBU.dk、2006年11月13日
  5. ^ “スペイン記者が語るイニエスタ日本行きの理由「彼は以前から日本に憧れていた」”. ゴール. http://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%A8%98%E8%80%85%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BD%BC%E3%81%AF%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%86%A7%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F/2tpfsv3niustzxozhboz656c 2018年9月21日閲覧。 
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  11. ^ [1]-El Clásico: 5 classic Barcelona vs. Real Madrid clashes with Johan Cruyff
  12. ^ a b c d e [El Clásico:Michael Laudrup”. THE FALSE9 (2011年12月9日). 2018年10月12日閲覧。
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  14. ^ “イニエスタに夢を与えたデンマークのレジェンド、ミカエル・ラウドルップ”. FOOTBALL TRIBE. https://football-tribe.com/japan/2018/02/26/35871/2/ 2018年9月21日閲覧。 
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  30. ^ “Grækere afviste Laudrups kattelem” (Danish). Politiken. (2008年6月6日). http://politiken.dk/fodbold/article519842.ece 2008年6月6日閲覧。 
  31. ^ スパルタク、ラウドルップ監督を解任 UEFA.com
  32. ^ Laudrup named as Mallorca boss FIFA.com
  33. ^ 家長所属のマヨルカ、ラウドルップ監督が辞任 Soccer KING
  34. ^ “Uudholdeligt arbejdsklima” (Danish). Bold.dk. (2011年9月27日). http://www.bold.dk/nyt/Laudrup-Uudholdeligt-arbejdsklima 2011年9月27日閲覧。 
  35. ^ 英スウォンジー、新監督にラウドルップ氏 - SANSPO.com 2012年6月17日閲覧
  36. ^ “Swansea name Laudrup as manager”. Premierleague.com (Premier League Official Site). (2012年6月15日). オリジナル2012年6月16日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120616172336/http://www.premierleague.com/en-gb/news/news/swansea-name-laudrup-as-manager.html 
  37. ^ ラウドルップ監督がスウォンジーを退団”. uefa.com (2014年2月4日). 2014年2月6日閲覧。
  38. ^ スウォンジーがラウドルップ監督の解任を発表”. afpbb.com (2014年2月5日). 2014年2月6日閲覧。
  39. ^ Kvist (2001), p. 155
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  41. ^ Thomas Møller Johansen, "Laudrup d. V", B.T.、2006年3月
  42. ^ Frits Ahlstrøm, Laudrup is greatest Dane UEFA.com、2004年3月29日
  43. ^ "Kongesønnens bøn: Kom til Madrid", Ekstra Bladet、2006年4月16日
  44. ^ “Romarios eftermæle”. Jyllands-Posten. (2008年3月8日). http://jp.dk/arkiv/?id=379867&eceExpr=Romarios%20efterm%E6le&eceArchive=o 2008年3月8日閲覧。 
  45. ^ Laudrup – Et fodbolddynasti", Christian Mohr Boisen, ISBN 978-87-11-31387-9
  46. ^ Michael Laudrup: a portrait of an icon”. The Guardian (2017年11月21日). 2018年5月17日閲覧。
  47. ^ Michael Laudrup: a portrait of an icon”. The Guardian (2017年11月21日). 2018年5月17日閲覧。
  48. ^ “イニエスタに夢を与えたデンマークのレジェンド、ミカエル・ラウドルップ”. FOOTBALL TRIBE. https://football-tribe.com/japan/2018/02/26/35871/3/ 2018年9月21日閲覧。 
  49. ^ Michael Laudrup - Century of International Appearances”. 2013年5月7日閲覧。

外部リンク[編集]