ホルヘ・バルダーノ

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ホルヘ・バルダーノ Football pictogram.svg
名前
本名 ホルヘ・アルベルト・フランシスコ・バルダーノ・カステジャーノス
愛称 エル・フィロソフォ(哲学者)
ラテン文字 Jorge Alberto Francisco Valdano Castellanos
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1955年10月4日(59歳)
出身地 サンタフェ州アルゼンチン
身長 188cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW/MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1973-1975
1975-1979
1979-1984
1984-1987
ニューウェルズ・オールドボーイズ
デポルティーボ・アラベス
レアル・サラゴサ
レアル・マドリード
49 (12)
63 (21)
143 (47)
85 (40)
代表歴
1975-1986 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 22 (7)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ホルヘ・アルベルト・フランシスコ・バルダーノ・カステジャーノスJorge Alberto Francisco Valdano Castellanos1955年10月4日 - )は、アルゼンチン出身の同国代表サッカー選手

「エル・フィロソフォ」(哲学者)のニックネームで親しまれた知性溢れるストライカー。当時から荒々しいイメージが付きまとっていたアルゼンチンサッカーの出身だが、人間的にも評価を受けた選手である。ディエゴ・マラドーナらと共に1986年メキシコW杯で優勝に貢献。クラブレベルにおいてもレアル・マドリード等に所属した経験を持つ。1987年に引退し指導者の道を歩む。

来歴[編集]

ニューウェルズ・オールドボーイズでプロデビューを飾り、1975年にスペインリーグ2部のアラベスへ移籍。1987年に現役を退くまでスペインでプレーを続ける。1979年には一部のレアル・サラゴサへと移籍しチームのレギュラーとして活躍すると、1984年にはレアル・マドリード入りが決定。それまで突出した活躍を見せていたわけでは無かったが、バルダーノはエリート集団の中で存在感を発揮。1984/85シーズンは17得点を挙げ周囲を驚かすと、翌シーズンも16得点を記録。その活躍がフロックでは無い事を証明し、前回大会に続いて1986年ワールドカップのアルゼンチン代表メンバーにも選出された。

迎えたワールドカップでは献身的なプレーと共にゴールセンスが光り優勝に貢献。大会前は「ディエゴ・マラドーナのチーム」と揶揄され、マラドーナ以外の選手はまるで存在しないかのような扱いだったが、バルダーノは初戦の韓国戦で2得点を挙げると、ブルガリア代表戦、決勝の西ドイツ戦でそれぞれ1得点ずつ記録。全7試合にフル出場し存在感をアピールした。

肝炎を患った事により1987年に現役を引退。その後は監督としての才能を発揮する。1991年に就任したテネリフェではチームを初のUEFAカップ出場に導き、1994年にはレアル・マドリードの監督に就任。ラウル・ゴンサレスの才能を見抜きトップチームにデビューさせ[1]リーガ優勝を果たした。またスポーツディレクターとしても成功を収め、2000年に会長に就任したフロレンティーノ・ペレスの右腕として同職に就任した後に、ルイス・フィーゴジネディーヌ・ジダンロナウドの獲得に成功しチームを世界一のスター軍団へと変貌させた。しかしリーグ優勝を果たしたにも関わらず対立のあったビセンテ・デル・ボスケ監督や主将フェルナンド・イエロを切ることで後の不振も招き[2]、2004年6月に責任をとる形で辞任した。

2006年3月には、プロモーション活動のため、訪れていたメキシコでヘリコプターの墜落事故に遭い、重傷を負った。2009年6月には盟友であるペレス元会長が、レアル・マドリード会長選挙に再選すると、副会長兼ゼネラルディレクターに就任。しかし2011年5月25日、前年より監督に就任したジョゼ・モウリーニョら現場のコーチングスタッフと、移籍戦略や現場干渉、在籍選手に対する姿勢などで見解に大きく隔たりができたことを理由に、ゼネラルディレクターを解任された[3][4][5]

選手経歴[編集]

監督経歴[編集]

獲得タイトル[編集]

選手時代[編集]

アルゼンチンの旗 アルゼンチン代表

アルゼンチンの旗 アルゼンチン

スペインの旗 スペイン

指導者時代[編集]

スペインの旗 スペイン

  • プリメーラ・ディビシオン 1994-95

脚注[編集]

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