サンティアゴ・ソラーリ

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サンティアゴ・ソラーリ
名前
本名 サンティアゴ・エルナン・ソラーリ・ポッジオ
Santiago Hernán Solari Poggio
愛称 El Indiecito (インディエシート、インド人)
ラテン文字 Santiago SOLARI
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
スペインの旗 スペイン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1976-10-07) 1976年10月7日(47歳)
出身地 ロサリオ
身長 185cm
体重 75kg
選手情報
ポジション MF
利き足 左足
ユース
1994 アメリカ合衆国の旗 リチャード・ストックトン・カレッジ
1994-1995 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ・オールドボーイズ
1995-1996 アルゼンチンの旗 レナート・セサリーニ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-1998 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 67 (13)
1998-2000 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 46 (7)
2000-2005 スペインの旗 レアル・マドリード 131 (10)
2005-2008 イタリアの旗 インテル・ミラノ 39 (4)
2008-2009 アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ 26 (4)
2009-2010 メキシコの旗 アトランテ 33 (5)
2010-2011 ウルグアイの旗 ペニャロール 9 (0)
通算 351 (43)
代表歴
1999-2004 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 11 (0)
監督歴
2013-2016 スペインの旗 レアル・マドリード (ユース)
2016-2018 スペインの旗 レアル・マドリードB
2018-2019 スペインの旗 レアル・マドリード
2020-2022 メキシコの旗 クラブ・アメリカ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

サンティアゴ・エルナン・ソラーリ・ポッジオ(Santiago Hernán Solari Poggio, 1976年10月7日 - )は、アルゼンチンサンタフェ州ロサリオ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはミッドフィールダー。現在は、レアル・マドリードのフットボール・ディレクター職にある。

経歴[編集]

選手時代[編集]

生まれ故郷のロサリオから、アメリカリチャード・ストックトン・カレッジ英語版に渡り、1996年にCAリーベル・プレートに移籍し、プロデビューを果たす[1]。3シーズン後の1998年にスペイン・リーガ・エスパニョーラアトレティコ・マドリードに移籍した。1999-2000シーズン終了後にセグンダ・ディビシオン(2部)降格が決定し、ライバルのレアル・マドリードに移籍した。2000-01シーズンはコンディションを整えるのに苦労したが、2001-02シーズンには立ち位置を確立し、UEFAチャンピオンズリーグでの成功に大きな役割を果たした。2002-03シーズンは控えに降格したがしかし、加入してふたつめのリーグタイトル獲得を助けた。2003-04シーズンはレギュラーに復帰したが、リーグ戦4位という失望のシーズンとなり、コパ・デル・レイやUEFAチャンピオンズリーグでも優勝を逃した。2004-05シーズン中にはクラブとの契約を延長した。レアル・マドリード時代にはセンターハーフ、オフェンシブハーフ、ディフェンシブハーフ、左サイドハーフと中盤のあらゆるポジションをこなしただけでなく、左サイドバックや左ウイングとして出場したこともあった。

2005年夏、イタリア・セリエAインテルナツィオナーレ・ミラノと3年契約を結び、2005-06シーズンにはコッパ・イタリア優勝とセリエAの3連覇に貢献した。2008年6月30日にインテルとの契約が満了し、アルゼンチンのCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロと1年契約を結んだ。サン・ロレンソとの契約が満了した後の2009年7月15日、フリートランスファーでメキシコのアトランテFCに移籍した。2010年8月30日、やはりフリートランスファーでウルグアイのCAペニャロールと1年契約を結び、翌年の2011年に現役引退。

指導者時代[編集]

2013年から古巣であるレアル・マドリードの下部組織で指導者となり、2014-15シーズンからは下部組織のカテゴリーの1つであるカデテA(U-16)の監督に就任した[2]。2015-16シーズン、フベニールA (U-19) 監督だったルイス・ミゲル・ラミスレアル・マドリード・カスティージャ昇格に伴い、フベニールAの監督に昇格した[3]。2016-2017シーズンより退任したルイス・ミゲル・ラミスの後任としてレアル・マドリード・カスティージャの監督に昇格。

2018年10月29日、トップチームの監督であったフレン・ロペテギが成績不振により解任、後任が決まっていなかったことから暫定監督に昇格した。リーガ・エスパニョーラを主催するスペインサッカー連盟は次期監督選定の猶予期間を2週間と定めているため、クラブ側はアントニオ・コンテなど複数の候補者の招聘に動いていたとされるが、その間にトップチームを率いたソラーリは初戦のコパ・デルレイ4回戦の対UDメリリャ戦の快勝に始まり、リーグ戦第11節の対レアル・バリャドリード戦、UEFAチャンピオンズリーグの対FCヴィクトリア・プルゼニ戦で3試合連続完封勝利に導き、就任以来、3試合連続完封勝利を達成したのは1957年のルイス・カルニグリア監督以来で61年ぶりの快挙となった。2週間の期限が迫ったリーグ第12節の対セルタ・デ・ビーゴ戦も無失点記録こそ途絶えたが勝利して就任以来、4戦全勝を達成し、首脳陣もこの成績を高く評価して、11月13日、正式に監督に就任した[4]。以降はイスコマルセロケイロル・ナバスガレス・ベイルらベテランを先発から外したことで、確執が報じられながら、ヴィニシウス・ジュニオールセルヒオ・レギロンら若手の起用によりチームを立て直し、一時はリーグ2位に浮上し、首位バルセロナに勝ち点6差に詰め寄ったが、2019年2月16日の第24節の対ジローナFC戦の敗戦から宿敵バルセロナに二連敗(リーグ第26節およびコパ・デル・レイ準決勝)を喫し、このショックを抱えたまま臨んだUEFAチャンピオンズリーグベスト16の対アヤックス戦では第一戦で勝利を収めながら、ホームの第二戦で1-4(2試合合計3-5)の逆転負けを喫して今季の無冠が決定的となったことから3月11日、解任が発表された[5]

2020年12月29日、メキシコのクラブ・アメリカの監督就任が発表された[6]。2022年3月、成績不振を理由に解任。

2022年11月、古巣レアル・マドリードのフットボールディレクターに就任したことが報じられている[7]

人物[編集]

現役時代の2002年には有料放送Canal+のスペイン版で最もセクシーな選手に選ばれたことがある[8]

家族[編集]

1966 FIFAワールドカップに出場し、引退後は横浜マリノスで監督を務めたホルヘ・ソラーリは叔父である。レアル・マドリードなどに所属したフェルナンド・レドンドはサンティアゴのいとこ(ホルヘの長女)と結婚した。ベルギー、スペイン、キプロスなどでプレーしたエステバン・ソラーリは弟である。妹のリズ・ソラーリスペイン語版はモデルである。

タイトル[編集]

リーベル・プレート
レアル・マドリード
インテル

個人成績[編集]

クラブでの出場記録[編集]

クラブ成績 リーグ カップ 国際大会 通算
シーズンクラブリーグ 出場得点出場得点 出場得点 出場得点
アルゼンチン リーグカップ 南米 通算
1996-97 リーベル・プレート プリメーラ 24 2 - 1 0 25 2
1997-98 27 6 - 9 1 36 7
1998-99 16 5 - - 16 5
スペイン リーグ国王杯 ヨーロッパ 通算
1998-99 アトレティコ・マドリード ラ・リーガ 12 1 - 1 0 13 1
1999-00 34 6 - 7 0 41 6
2000-01 レアル・マドリード ラ・リーガ 14 4 - 10 1 24 5
2001-02 28 1 - 14 4 42 5
2002-03 28 0 - 11 0 39 0
2003-04 34 5 - 9 2 43 7
2004-05 27 3 - 5 0 32 3
イタリア リーグイタリア杯 ヨーロッパ 通算
2005-06 インテル セリエA 13 3 7 2 6 0 26 5
2006-07 21 1 5 0 4 0 30 1
2007-08 5 0 5 1 5 0 15 1
アルゼンチン リーグカップ 南米 通算
2008-09 サン・ロレンソ プリメーラ 14 3 - - 14 3
通算 アルゼンチン 81 16 - 10 1 91 17
スペイン 177 20 - 57 7 234 27
イタリア 39 4 17 3 15 0 71 7
総通算 297 40 17 3 82 8 396 51

代表での年別出場試合数[編集]

[10]


アルゼンチン代表国際Aマッチ
出場得点
1999 1 0
2000 1 0
2001 0 0
2002 3 0
2003 4 0
2004 2 0
通算 11 0

脚注[編集]

外部リンク[編集]