フェルナンド・レドンド
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はレドンド、第二姓(母方の姓)はネリです。 |
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
![]() | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
フェルナンド・カルロス・レドンド・ネリ Fernando Carlos Redondo Neri | |||||
愛称 | エル・プリンシペ (王子様) | |||||
ラテン文字 | Fernando Redondo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() ![]() | |||||
生年月日 | 1969年6月6日(52歳) | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
身長 | 186cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1990 |
![]() | 65 | (1) | |||
1990-1994 |
![]() | 103 | (8) | |||
1994-2000 |
![]() | 165 | (4) | |||
2000-2004 |
![]() | 16 | (0) | |||
通算 | 349 | (13) | ||||
代表歴 | ||||||
1992-1999 |
![]() | 29 | (1) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
フェルナンド・カルロス・レドンド・ネリ(Fernando Carlos Redondo Neri, 1969年6月6日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手。元アルゼンチン代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
経歴[編集]
1969年、ブエノスアイレスの中流階級の家庭に生まれる。少年時代はフットサルでボールに慣れ親しんだ。当時憧れていたサッカー選手はリカルド・ボチーニであったという。
10歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織に入団。1985年9月29日、対CAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・フフイ戦にて15歳でトップチームデビュー。程無くしてレギュラーポジションを得た。1990年に自由契約扱いとなり、スペインのCDテネリフェを移籍先に選ぶ。
テネリフェではアルゼンチン人監督のホルヘ・バルダーノに重用され、UEFAカップ出場を経験した。1994年にバルダーノがレアル・マドリードの監督に就任すると、レドンドもレアル・マドリードに移籍した。
レアル・マドリード移籍後も時折怪我に見舞われたものの、バルダーノやファビオ・カペッロ、ユップ・ハインケスなどの元でプレーした。レアル・マドリードに在籍した6シーズンの間に、リーガ・エスパニョーラ優勝2回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝2回、インターコンチネンタルカップ優勝1回を経験。1999-2000シーズンのUEFAチャンピオンズリーグは主将としてチームを牽引。在任中、オールド・トラッフォードで行なわれた準決勝・対マンチェスター・ユナイテッドFC戦における、ドリブル突破から一発のヒールキックでヘニング・ベルグを抜き去り、ゴールライン際からのスルーパスでラウル・ゴンサレスの決勝ゴールをアシストした。マンチェスター・ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンはこの試合の後、「あの選手のブーツには磁石でも入っているのか?」と感嘆の声を上げた[1]。大会を通してフル回転したレドンドは、レアル・マドリード史上初となるチャンピオンズリーグMVPに輝いた。
フロレンティーノ・ペレスが会長に就任した2000年オフシーズン、1800万ユーロの移籍金でイタリア・ACミランへ移籍。しかし移籍直後、シーズン前のトレーニング中に右膝の靭帯を断裂。合併症の手術等も含めて復帰までに2年の歳月を要した[2]。その間、高額のサラリーが契約上保証されていたにも関わらず、「チームに貢献してからもらう」と言って休養中のサラリーを全額返還したというエピソードがある[3]。2003年3月12日、UEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリード戦にてスターティングメンバーとしてサンティアゴ・ベルナベウに帰還。後半79分にアンドレア・ピルロとの交代でピッチを去る際には、スタンドからスタンディングオベーションが送られた。ミランはチャンピオンズリーグ制覇、スクデット獲得とタイトルに恵まれるが、レドンド自身は怪我を克服出来ず、全盛期の輝きを取り戻すことはないまま、2004年のシーズン終了をもって34歳で現役を退いた[4] 。
引退後はブエノスアイレスに住み、レアル・マドリード関連のチャリティーマッチなどに時折顔を出している。
代表歴[編集]
アルヘンティノス時代に、1990年のW杯イタリア大会に臨むアルゼンチン代表の要請を受けるも、招集を辞退した。
その後監督がアルフィオ・バシーレに替わり、1992年6月18日、対オーストラリア戦でA代表デビュー。中盤の要「5番」として1992年のFIFAコンフェデレーションズカップ、1993年のコパ・アメリカ優勝に尽力。コンフェデレーションズカップでは、大会最優秀選手に選ばれた[5]。1994年のW杯アメリカ大会にも出場を果たすが、チームは決勝トーナメント1回戦で敗退した。
アメリカW杯後就任したダニエル・パサレラ監督とは起用法を巡って衝突(この時はレドンドのトレードマークだった長髪を切るかどうかで揉めたと報じられ、1998年フランス大会でレドンドが代表を辞退した理由ともされている[6])[7]。
パサレラの後任マルセロ・ビエルサの招集には応じ、2002年のW杯日韓大会に出場する意欲も見せていたが、前述の負傷により本大会出場を断念せざるを得なかった。
代表通算29試合出場1得点、W杯通算4試合出場0得点。
エピソード[編集]
マルカにより行われたレアル・マドリードの外国人選手ベストイレブン企画では、ジネディーヌ・ジダンやルイス・フィーゴ、ミカエル・ラウドルップらと共にMFのポジションに名を連ねた[8]。また、前述のヒールキックについてもマルカのウェブ投票でレアル・マドリード史上最高のバックヒールに選ばれた[9]。
1996年に行われたFIFA選抜対ブラジル代表のチャリティーマッチでは、三浦知良らと共にFIFA選抜のスターティングメンバーに名を連ねた[10]。
1990年イタリアワールドカップ、1998年フランスワールドカップを代表招集を辞退している。
プレースタイル[編集]
戦術理解力、状況判断力が極めて高く、中盤の守備的なアンカーの位置から、背筋をピンと伸ばした綺麗な姿勢から左足のインサイドキックを多用してゲームを組み立てるパスの名手であり、危機察知能力にも優れ、広い中盤を一人でカバー出来るだけの豊富なスタミナを持ち合わせて、的確なカバーリング、インターセプト、かつアルゼンチン人のサッカー選手らしい激しいタックルで相手の攻撃の芽をつむことも出来る守備力の高い選手でもあり、このポジションに位置する選手としては珍しく、状況判断に優れた姿勢の良いドリブルを多用して相手チームを切り刻み後方から試合を支配することが出来る。
パサータイプのアンカーとしても、危機察知能力が高く豊富なスタミナを生かした守備力、ボール奪取力、屈強な選手にも当たり負けしない長身、フィジカルを合わせ持ち、潰し屋的なアンカーとしても、パスを繋ぎスペースへ走り込むリンクマンとしても一流である。ドリブラー的な真のオールラウンダー。
特筆すべきは、そのドリブル能力、ボールキープ能力であり、このポジションに位置する選手としては余りいない、非常に珍しく、中盤後方のアンカーの位置からドリブルでボールを前線へ運ぶことが出来、尚チャンス、得点に結びつけることが出来、又、ボールキープ力でチームに一呼吸の落ち着きをもたらせる事が出来る珍しい選手。
個人成績[編集]
シーズン | クラブ | 国内リーグ | 国内カップ | 国際カップ | その他 | 期間通算 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
リーグ | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | ||
1985-86 | アルヘンティノス | プリメーラ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | — | 1 | 0 | |
1986-87 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
1987-88 | 14 | 0 | 0 | 0 | — | — | 14 | 0 | ||||
1988-89 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 36 | 0 | ||
1989-90 | 14 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 1 | ||
アルヘンティノス通算 | 65 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 65 | 1 | ||
1990-91 | テネリフェ | プリメーラ | 23 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 23 | 1 |
1991-92 | 32 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 32 | 2 | ||
1992-93 | 20 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 20 | 4 | ||
1993-94 | 28 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 | 1 | ||
テネリフェ通算 | 103 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 103 | 8 | ||
1994-95 | レアル・マドリード | プリメーラ | 23 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 26 | 2 |
1995-96 | 23 | 2 | 2 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 30 | 2 | ||
1996-97 | 33 | 1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 39 | 1 | ||
1997-98 | 33 | 0 | 2 | 0 | 11 | 0 | 0 | 0 | 46 | 0 | ||
1998-99 | 23 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | ||
1999-00 | 30 | 0 | 5 | 0 | 15 | 0 | 3 | 0 | 53 | 0 | ||
レアル・マドリード通算 | 165 | 4 | 17 | 0 | 37 | 1 | 6 | 0 | 225 | 5 | ||
2000-01 | ミラン | セリエA | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
2001-02 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
2002-03 | 8 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | ||
2003-04 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | ||
ミラン通算 | 16 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 23 | 0 | ||
総通算 | 349 | 13 | 17 | 0 | 44 | 1 | 6 | 0 | 416 | 14 |
タイトル[編集]
クラブ[編集]
- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ : 1994-95, 1996-97
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1997
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1997-98, 1999-2000
- インターコンチネンタルカップ : 1998
- ACミラン
- セリエA : 2003-04
- コッパ・イタリア : 2002-03
- UEFAチャンピオンズリーグ : 2002-03
- UEFAスーパーカップ : 2003
代表[編集]
- アルゼンチン代表
- 南米U-17選手権 : 1985
- FIFAコンフェデレーションズカップ : 1992
- コパ・アメリカ : 1993
個人[編集]
- UEFA年間最優秀選手 : 1999-2000
- FIFAコンフェデレーションズカップ最優秀選手 : 1992
- CDテネリフェ年間最優秀選手 : 1992-93, 1993-94
- レアル・マドリード年間最優秀選手 : 1996-97, 1999-2000
- ESMチーム・オブ・ザ・イヤー : 1997-98
- トロフェオEFE : 1990年代最優秀選手 (イベロアメリカ圏出身の選手で、1990年代にスペイン・リーグでプレイした選手で最優秀選手)
脚注[編集]
- ^ One-touch perfectionist
- ^ 「特別な夜」に臨むレドンド
- ^ Football knowledge: Players who fell short of a century of caps
- ^ Happy bithday to you Redondo-FIFA
- ^ FIFA Awards
- ^ 『サッカーの大常識』24頁
- ^ Ace Batistuta keen to play for Liverpool
- ^ The best foreign eleven in Real Madrid's history
- ^ レアルの歴史上最高の“バックヒール”にレドンドが輝く…web投票で選出
- ^ FIFA XI´s Matches - Full Info
関連項目[編集]
- サンティアゴ・ソラーリ - 夫人のいとこ。
- フェルナンド・ガゴ - 「レドンド2世」と称される選手。
外部リンク[編集]
- BDFutbol profile
- フェルナンド・レドンド - National-Football-Teams.com