ルイス・フィーゴ
| この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はマデイラ、第二姓(父方の姓)はカエイロ・フィーゴです。 |
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|---|---|---|---|---|---|---|
2015年のフィーゴ
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| 名前 | ||||||
| 本名 | ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ Luís Filipe Madeira Caeiro Figo |
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| 愛称 | フィーゴ、白豹、 | |||||
| ラテン文字 | Luís Figo | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1972年11月4日(44歳) | |||||
| 出身地 | リスボン | |||||
| 身長 | 180cm[1] | |||||
| 体重 | 75kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW/MF | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1984-1989 | ||||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1989-1995 | 137 | (16) | ||||
| 1995-2000 | 172 | (30) | ||||
| 2000-2005 | 164 | (38) | ||||
| 2005-2009 | 105 | (9) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1991-2006[2] | 127 | (34) | ||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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ルイス・フィーゴことルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ(Luís Filipe Madeira Caeiro Figo、[luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu]、1972年11月4日 - )はポルトガル・リスボン出身の元サッカー選手。元同国代表。ポジションはウイング(主に右サイド)または攻撃的ミッドフィールダー[3]。原語の発音により忠実な発音は「ルイシュ・フィリープィ・マザイラ・カアイル・フィーグ」。
ポルトガル代表として127試合に出場するなど、黄金世代の中心選手として長らく代表を支えた[3]。その創造性とドリブル技術の高さから、1990年代で最も偉大な選手の一人とも評されている[4][5]。リーガ・エスパニョーラでは通算106アシストを記録しており、これはリオネル・メッシに次ぐ歴代二位の記録である[6]。2000年にはバロンドールを受賞し、翌年の2001年にはFIFA最優秀選手賞の受賞した。また、2004年にはペレが作成した偉大な100人のサッカー選手のリスト、FIFA 100にも選出されている[7]。フィーゴは、スペインにおけるライバルチームとして知られるFCバルセロナとレアル・マドリードの双方でプレーした選手の一人でもある。2000年に6000万ユーロでバルセロナからレアル・マドリードに移籍した際は、大きな物議を醸した[8]。
目次
経歴[編集]
幼少期[編集]
1972年、父アントニオ・カエイロ・フィーゴと母マリア・ジョアナ・ペスターナ・マデイラの一人息子として生まれる。幼少期は、アルマダの労働者階級の地区コヴァ・ダ・ピエダーデで育った。少年時代から学業の成績は良く、当時は医者を志望していた。[要出典]
スポルティングCP[編集]
フィーゴはストリートでサッカーを始め、11歳の時、ポルトガルのスポルティングCPの下部組織に入団した。あまりの学業の優秀さから、入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」という内容が含まれていた[9]。1989年からトップチームに昇格し、1994年にはプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年にはポルトガル最優秀選手に選出された。
バルセロナ[編集]
1995年にユヴェントスFC、パルマFCが獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった[10]。そのためユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定の結果、フィーゴはその後2年間の間イタリアのクラブと契約を締結する事を禁止された。この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドでスペインのFCバルセロナへ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。パトリック・クライファート、リバウドと共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、ドリーム・チーム以降のバルセロナのシンボルとして支持を得た[3]。2000年には、欧州年間最優秀選手を受賞した[3]。
禁断の移籍[編集]
2000年7月、フィーゴはバルセロナのライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍を果たした[11]。この「禁断の移籍」は、激怒したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという騒動にまで発展した[12]。そのため引退した現在もなお、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタも多い。しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったことを明かした[13][14]。
レアルへの移籍後初のカンプ・ノウでのバルセロナとの試合では、フィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が投げ込まれ、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうした際はスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして[15]、約10分間試合が中断された[16]。また、EURO2004のギリシャとの決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男性がピッチに乱入する場面もあり、いまだに過去の確執が続いている[17]。
この移籍によるバルセロナとの遺恨は引退後も残っており、2015年にはチャンピオンズリーグ決勝の前日に決勝を戦う両クラブ(バルセロナとユヴェントスFC)の元所属選手が世界選抜と試合をするフレンドリーマッチにおいて、UEFAはバルセロナのレジェンドとしてフィーゴを招待したものの、バルセロナがこれを拒否しフィーゴは試合に参加しなかった[18][19]。
このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、インタビューでは「バルセロナで過ごした時間は、最高に素晴らしい日々だった[20][21]と振り返っている。その一方で、「レアル・マドリードへの移籍という判断に後悔は無い」[22]、「バルセロナでは自分が悪役であっても構わない」[21]とも語っている。
レアル・マドリード[編集]
レアル・マドリードでは、伝統的なライバル間の移籍というプレッシャーの中、ラウル・ゴンサレス、ロベルト・カルロス、翌2001年に加入したジネディーヌ・ジダンらと共に攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。また、同クラブ在籍中にはリーガ通算100アシストという記録も達成した。
2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとしてトーマス・グラヴェセンが加入してからはスポルティングCP在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォーマンスを見せていたが、終盤にルシェンブルゴ監督との確執が生じ、それ以降は先発出場が激減した。
インテル・ミラノ[編集]
2005-06シーズンからは、前述の確執により、半ば喧嘩別れに近い形でインテルへ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した。レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたが[要出典]、セリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍した。
2006年12月にサウジ・プレミアリーグの強豪アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は消滅した[23][24]。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、2007-08シーズンもインテルで戦うこと決定した。しかし、起用法などから徐々にロベルト・マンチーニ監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、2008-09シーズンからは同胞のジョゼ・モウリーニョがインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。
同シーズン、2009年5月30日に、現役引退をインテルの公式サイトで発表した[25]。そして、5月31日のアタランタ戦を最後に現役を引退した[26]。
ポルトガル代表[編集]
1991年にはポルトガルU-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝に貢献[3]。ルイ・コスタ、パウロ・ソウザ、フェルナンド・コウト、ジョアン・ピントらと共にポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション(黄金の世代)」と呼ばれた[3]。
1991年10月16日にルクセンブルクとの親善試合で代表デビューを飾った[2]。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ(2002 FIFAワールドカップ、2006 FIFAワールドカップ)、3度の欧州選手権(EURO1996・EURO2000・EURO2004)に出場した[3]。
2000年のEURO2000では初戦のイングランド戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝のトルコ戦ではヌーノ・ゴメスへ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。
その後、一度は代表引退を表明していたが、2006 FIFAワールドカップ予選で復帰し、ポルトガル代表は無敗で予選を通過した。本大会では、グループリーグ初戦のアンゴラ戦で得意のドリブルからアシストを見せるなど、40年ぶりのベスト4進出に貢献。ドイツとの3位決定戦を最後に、代表から引退した[2]。
引退後[編集]
引退後はインテルの幹部に就任した。また、2015年の国際サッカー連盟FIFA会長選へ向けて、立候補を表明していた[27]が、選挙期間中に討論や演説の機会を十分に与えられなかったとして、立候補を取り下げた[28]
個人成績[編集]
クラブ[編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| ポルトガル | リーグ戦 | リーグ杯 | ポルトガル杯 | 期間通算 | |||||||
| 1990-91 | スポルティングCP | 24 | プリメイラ | 3 | 0 | ||||||
| 1991-92 | スポルティングCP | 7 | プリメイラ | 34 | 1 | 7 | 0 | ||||
| 1992-93 | スポルティングCP | 7 | プリメイラ | 32 | 0 | 8 | 1 | ||||
| 1993-94 | スポルティングCP | 7 | プリメイラ | 31 | 8 | 1 | 0 | ||||
| 1994-95 | スポルティングCP | 7 | プリメイラ | 34 | 7 | 7 | 3 | ||||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995-96 | バルセロナ | 7 | プリメーラ | 35 | 5 | 8 | 1 | ||||
| 1996-97 | バルセロナ | 7 | プリメーラ | 36 | 4 | 9 | 2 | ||||
| 1997-98 | バルセロナ | 7 | プリメーラ | 35 | 5 | 4 | 0 | ||||
| 1998-99 | バルセロナ | 7 | プリメーラ | 34 | 7 | 10 | 1 | ||||
| 1999-00 | バルセロナ | 7 | プリメーラ | 32 | 9 | 2 | 0 | ||||
| 2000-01 | R・マドリード | 10 | プリメーラ | 34 | 9 | 1 | 0 | ||||
| 2001-02 | R・マドリード | 10 | プリメーラ | 28 | 7 | 6 | 1 | ||||
| 2002-03 | R・マドリード | 10 | プリメーラ | 33 | 10 | 1 | 0 | ||||
| 2003-04 | R・マドリード | 10 | プリメーラ | 36 | 8 | 8 | 3 | ||||
| 2004-05 | R・マドリード | 10 | プリメーラ | 33 | 3 | 0 | 0 | ||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2005-06 | インテル | 7 | セリエA | 34 | 5 | 3 | 0 | ||||
| 2006-07 | インテル | 7 | セリエA | 32 | 2 | 7 | 0 | ||||
| 2007-08 | インテル | 7 | セリエA | 17 | 1 | 1 | 0 | ||||
| 2008-09 | インテル | 7 | セリエA | 22 | 1 | - | - | ||||
| 通算 | ポルトガル | プリメイラ | 134 | 16 | 23 | 4 | |||||
| スペイン | プリメーラ | 336 | 67 | 49 | 8 | ||||||
| イタリア | セリエA | 105 | 9 | 11 | 0 | ||||||
| 総通算 | 575 | 92 | 84 | 12 | |||||||
代表[編集]
| 年 | 代表国 | 出場 | 得点 |
|---|---|---|---|
| 1991 | 3 | 0 | |
| 1992 | 7 | 1 | |
| 1993 | 5 | 0 | |
| 1994 | 5 | 2 | |
| 1995 | 6 | 1 | |
| 1996 | 9 | 2 | |
| 1997 | 7 | 2 | |
| 1998 | 6 | 0 | |
| 1999 | 9 | 4 | |
| 2000 | 13 | 6 | |
| 2001 | 9 | 9 | |
| 2002 | 10 | 0 | |
| 2003 | 10 | 3 | |
| 2004 | 11 | 1 | |
| 2005 | 7 | 0 | |
| 2006 | 10 | 1 | |
| 通算 | 127 | 34 | |
タイトル[編集]
クラブ[編集]
代表[編集]
|
個人[編集]
バロンドール 2000年
|
脚注[編集]
- ^ “Figo Stats”. FootballDatabase.com. 2006年12月23日閲覧。
- ^ a b c “Luis Filipe Madeira Caeiro Figo - Century of International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ a b c d e f g 週刊サッカーマガジン 編 『サッカーマルチ大辞典 改訂版』 ベースボール・マガジン社、2006年、380-381頁。ISBN 978-4583038803。
- ^ “EURO 2000 Profile: Luis Figo”. BBC Sport. (2000年5月14日) 2012年7月29日閲覧。
- ^ “Figo best in world”. BBC News. (2001年12月17日)
- ^ “Crisis? What crisis? Harmony restored as Barcelona close gap on Madrid”. Goals.com. (2015年2月9日)
- ^ “Pele's list of the greatest”. BBC Sport (2004年3月4日). 2014年6月19日閲覧。
- ^ "The history of the world transfer record". BBC News. Retrieved 1 May 2014
- ^ “Expert Footballによる情報”. AFP (2012年6月23日). 2012年6月23日閲覧。
- ^ ルイス・フィーゴの過去の移籍問題 - サカソク
- ^ Nash, Elizabeth (2000年7月25日). “Figo defects to Real Madrid for record £36.2m”. The Independent (London) 2010年5月11日閲覧。
- ^ 過去にもミカエル・ラウドルップやベルント・シュスターなどバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいたが、フィーゴの場合は移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と発言し、また、移籍の理由が「年俸が多い」という理由だったと報じられたため、ファンの怒りを買った。
- ^ フィーゴがレアル移籍の真相を明かす「お金のためではない」 - livedoor News
- ^ フィーゴ「クラブに軽視されたからバルサを出た」 - 超ワールドサッカー
- ^ サッカー界における禁断の移籍 - zone.web
- ^ フィーゴが禁断の移籍に言及「あれほど敵視された選手はいない」 - livedoor News
- ^ “ポルトガル 0 - 1 ギリシャ”. ガーディアン (2004年7月4日). 2016年7月26日閲覧。 (英語)
- ^ “裏切り者”フィーゴ氏がバルサに帰ってくる? クラブの拒否で白紙に - livedoor.com
- ^ バルセロナ、フィーゴ氏のレジェンドマッチ出場を拒否 2000年に宿敵へ移籍 - zone.web
- ^ フィーゴ氏「バルサでの日々は最高に素晴らしかった」」
- ^ a b フィーゴ氏が禁断の移籍を振り返る theWORLD
- ^ “銀河系の10番”フィーゴが当時を回想 theWORLD
- ^ インテル、フィーゴ移籍の報道を否定 - AFP
- ^ インテル残留に合意 - ゲキサカ
- ^ フィーゴ、インテル公式サイトで引退を表明 - ゲキサカ
- ^ インテル、フィーゴの最後の試合を勝利で飾る - AFP
- ^ フィーゴ氏がFIFA会長選に立候補 - footballista
- ^ フィーゴ氏、FIFA会長選への出馬を断念 - 日刊スポーツ
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