フリオ・セサル・ロメロ

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フリオ・セサル・ロメロ Football pictogram.svg
名前
愛称 ロメリート(Romerito)
ラテン文字 Julio Cesar ROMERO
基本情報
国籍 パラグアイの旗 パラグアイ
生年月日 (1960-08-28) 1960年8月28日(57歳)
出身地 ルケ
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1977-1979 パラグアイの旗 スポルティーボ・ルケーニョ
1980-1983 アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク・コスモス 88 (28)
1984-1988 ブラジルの旗 フルミネンセFC 78 (19)
1988-1989 スペインの旗 FCバルセロナ 7 (1)
1989-1990 メキシコの旗 プエブラFC 17 (2)
1990-1991 パラグアイの旗 スポルティーボ・ルケーニョ
1992 パラグアイの旗 オリンピア
1993-1994 パラグアイの旗 スポルティーボ・ルケーニョ
1995 チリの旗 デポルテス・ラ・セレーナ 3 (1)
1995 パラグアイの旗 クラブ・セロ・コラ
1996-1998 パラグアイの旗 スポルティーボ・ルケーニョ
代表歴
1979-1990 パラグアイの旗 パラグアイ 32 (13)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フリオ・セサル・ロメロ(Julio César Romero, 1960年8月28日 - )は、パラグアイ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはミッドフィールダーロメリートRomerito)の愛称で親しまれた。

パラグアイ史上最高の選手のひとりである。2004年にはペレによってFIFA 100に選出された。

経歴[編集]

選手時代[編集]

1977年に地元のスポルティーボ・ルケーニョからデビュー。1979年にはU-20パラグアイ代表としてFIFAワールドユース選手権に出場し、同い年のディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)とともに大会最高の選手のひとりとみなされた。同年にはパラグアイA代表としてコパ・アメリカ1979に出場し、パラグアイは26年ぶりの優勝を果たした。1980年には北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスに移籍して巨額の年俸を得て、カルロス・アルベルトフランツ・ベッケンバウアーなどの偉大な選手たちとともにプレーした。1984年にはブラジル・セリエAフルミネンセFCに移籍し、ボーラ・ジ・プラッタを受賞。翌年にはクラブをセリエA優勝に導いてサポーターに愛され、南米年間最優秀選手賞を受賞した。1986 FIFAワールドカップ・南米予選ではパラグアイの28年ぶり(7大会ぶり)の本大会出場の立役者となり[1][2]、メキシコで開催された本大会ではファーストラウンドのイラク戦と地元メキシコ戦で得点した。1980年代後半には短期間だけスペインのFCバルセロナやメキシコのプエブラFCに在籍し、1990年にパラグアイに帰国した。古巣スポルティーボ・ルケーニョ、オリンピアクラブ・セロ・コラなどでプレーし、チリのデポルテス・ラ・セレーナにも在籍した。

現役引退後[編集]

コロラド党員として地元ルケで政治活動を行っており、市の相談役となっている[3]。2006年9月には、ピルセン・ロック(Pilsen Rock)というパラグアイのミュージックフェスティバルでロックシンガーとしてのデビューを飾った。人気バンドのレボルベール(Revolber)のステージにゲストとして登壇すると、40,000人の観客の前でシエテ・エルマノス、ウノ・ミシール(Siete hermanos, 1 misil)の冒頭部分を歌った[4]

タイトル[編集]

クラブ[編集]

  • ニューヨーク・コスモス
北米サッカーリーグ (2) : 1980, 1982
  • フルミネンセFC
セリエA (1) : 1984
リオデジャネイロ州選手権 (2) : 1984, 1985
  • FCバルセロナ
UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1989
  • オリンピア
トルネオ・レプブリカ (1) : 1992

代表[編集]

  • パラグアイ代表
コパ・アメリカ (1) : 1979

個人[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]