ゲオルゲ・ハジ

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2014年のハジ
名前
愛称 東欧(バルカン)のマラドーナ
ラテン文字 Gheorghe Hagi
基本情報
国籍 ルーマニアの旗 ルーマニア
生年月日 (1965-02-05) 1965年2月5日(52歳)
出身地 サチェレ
身長 172cm
体重 68kg
選手情報
ポジション MF
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1982-1983 ルーマニアの旗 ファルル・コンスタンツァ 18 (7)
1983-1987 ルーマニアの旗 スポルトゥル・ストゥデンツェスク 108 (58)
1987-1990 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト 97 (76)
1990-1992 スペインの旗 レアル・マドリード 64 (16)
1992-1994 イタリアの旗 ブレシア 61 (14)
1994-1996 スペインの旗 バルセロナ 36 (7)
1996-2001 トルコの旗 ガラタサライ 132 (59)
通算 516 (257)
代表歴
1983-2000 ルーマニアの旗 ルーマニア [1] 125 (35)
監督歴
2001 ルーマニアの旗 ルーマニア
2003-2004 トルコの旗 ブルサスポル
2004-2005 トルコの旗 ガラタサライ
2005-2006 ルーマニアの旗 ポリテフニカ・ティミショアラ
2007 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト
2010-2011 トルコの旗 ガラタサライ
2014- ルーマニアの旗 ヴィトルル・コンスタンツァ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
2010年のハジ

ゲオルゲ・ハジGheorghe Hagi1965年2月5日 - )は、ルーマニア出身の元サッカー選手サッカー指導者。選手時代のポジションはMF(攻撃的MF)。

人物[編集]

東欧(バルカン)のマラドーナ」と呼ばれた、ルーマニア史上最高の選手にして1990年代のヨーロッパを代表する選手の一人[2]

ゲームメーカーとして中盤に君臨し、左足から放たれるパス、ドリブルによって多くのチャンスを演出した。また、ゲームメイクだけでなく自ら得点を狙う事ができる、いわば典型的な10番タイプの選手である。ただし、短気な性格からよくカードをもらうこともあり、天才肌な選手といえる[要出典]

ルーマニア代表の中心選手として、1983年から2000年まで17年間に渡り選出され、3度のワールドカップ出場に導いた。代表通算35得点はルーマニア歴代最多記録である。

1999年ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で25位に選出された。

2004年3月ペレが選んだ『FIFA 100』で同国から唯一選定された。

長男のヤニス・ハジもサッカー選手である[3]

経歴[編集]

選手として[編集]

ルーマニア国内では早くからその才能が注目され、1982年に17歳でファルル・コンスタンツァへ入団。翌年にはルーマニア代表に選出され、1984年に19歳でユーロ1984に出場。同じく十代での出場となったストイコビッチシーフォらと共に若きスター候補として注目された。

1987年には国内の強豪ステアウア・ブカレストへ移籍し、1988-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準優勝。1990年にはルーマニアを20年ぶりのワールドカップ出場に導いた。ワールドカップ・イタリア大会ベスト16進出に貢献すると、活躍が認められスペインのレアル・マドリードへ移籍したが、環境に馴染めずイタリアのブレシアへ移籍した。

ハジが世界的に有名になるきっかけとなったのが、1994年ワールドカップでのルーマニアの躍進であった。ハジは背番号10、キャプテンとしてルーマニア攻撃陣の核となり、1次リーグ第1戦、バルデラマアスプリージャらを擁し優勝候補の一角と目されたコロンビアを3-1で下した。この試合でハジは2点目のロングシュート(相手GKのポジショニングミスを突いた左サイドからの30mのロングシュート)を始めルーマニアの3点全てに絡む活躍をみせた。その後も決勝トーナメント1回戦で優勝候補のアルゼンチンを3-2で下すなど、ハジを中心としたカウンターアタックで強豪と渡り合った[2][4]

大会終了後にFCバルセロナに移籍。同じくワールドカップで活躍したストイチコフロマーリオなどとクライフ監督の下でドリームチームの一員となったが、出場機会に恵まれず本領を発揮出来なかった。1996年にトルコのガラタサライへ移籍するが、ここで再び往時のプレーを取り戻した。

1996年当時、トルコサッカーはヨーロッパの中堅国の一つであり、代表チームは強豪国の厚い壁に阻まれワールドカップ出場も適わず、クラブレベルにおいてもUEFAチャンピオンズリーグでは大会本戦出場はおろか予備予選を突破する事すらもままならない状況であった。そんな中、ハジはクラブ関係者からの強い要請とバルサでの出場機会激減を期にガラタサライに移籍した。彼はチームのキャプテンとしてだけでなく「サッカー選手としての心得」「プロとしての心得」をガラダサライの選手たちに植え付け、後のトルコサッカー界隆盛の礎を築く。そして2000年のUEFAカップ優勝を成し遂げ、ガラタサライの名とトルコサッカーの名を国際的なものへと押し上げた。

指導者として[編集]

2001年に現役引退後は監督としてガラタサライやルーマニア代表などを指揮したが、現役時の名声にはほど遠い結果しか残せていない。2007年には古巣ステアウア・ブカレストの監督に就任したが[5]、同年中に辞任した。クラブ内で強いプレッシャーを感じていたことを理由に挙げている[6]。その後、2010年10月より再びガラタサライの監督に就任したが[7]、2011年3月、成績不振により解任された[8]

2009年には、ルーマニア国内に、FCヴィトルル・コンスタンツァというサッカークラブを立ち上げている。

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]