ルート・フリット

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ルート・フリット Football pictogram.svg
Ruud Gullit 2012.jpg
名前
本名 ルディ・ジル・フリット
Rudi Dil Gullit
愛称 ルディ、黒いチューリップ
ラテン文字 Ruud GULLIT
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
スリナムの旗 スリナム
生年月日 (1962-09-01) 1962年9月1日(56歳)
出身地 アムステルダム
身長 186cm
体重 83kg
選手情報
ポジション FW, MF, DF
利き足 右足
ユース
1967-1975 オランダの旗 メールボーイズ
1975-1979 オランダの旗 DWS
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1979-1982 オランダの旗 HFCハールレム 91 (32)
1982-1985 オランダの旗 フェイエノールト 85 (30)
1985-1987 オランダの旗 PSV 68 (46)
1987-1993 イタリアの旗 ミラン 117 (35)
1993-1994 イタリアの旗 サンプドリア 31 (15)
1994 イタリアの旗 ミラン 8 (3)
1995 イタリアの旗 サンプドリア 22 (9)
1995-1998 イングランドの旗 チェルシー 49 (4)
通算 465 (175)
代表歴
1979  オランダ U-21 4 (1)
1981-1994[1] オランダの旗 オランダ 66 (17)
監督歴
1996-1998 イングランドの旗 チェルシー(選手兼任)
1998-1999 イングランドの旗 ニューカッスル
2004-2005 オランダの旗 フェイエノールト
2007-2008 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス・ギャラクシー
2011 ロシアの旗 テレク・グロズヌイ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ルート・フリットRudi Dil "Ruud" Gullit1962年9月1日 - )は、オランダアムステルダム出身の元サッカー選手、および指導者。日本語表記ではグーリットとも。「オランダトリオ」のひとり。オランダ語のGuの発音は日本語にはないものであり、強いてカタカナ表記すれば「フ」に近いことから、キャリア中期(ACミラン在籍時)まで日本では「フリット」と書かれた。トレードマークのドレッドロックヘアを振り乱しながら、優れたテクニックと優れた身体能力で敵を翻弄し、チャンスとゴールを量産した[2]

クラブ経歴[編集]

1988年のフリット

1962年9月1日、オランダのアムステルダムにて、ルート・フリットは南米スリナム出身の両親のあいだに生を受けた[2]1979年HFCハールレムでデビューを飾り[2]、高い技術力を見せた。その活躍が認められ、1981年9月1日スイス戦で代表デビューを飾る。1982年にはフェイエノールトへ移籍し、高い身体能力、ハイレベルなテクニックを活かし、攻撃で力を発揮する一方で、時に守備的な役割もそつなくこなし[2]ヨハン・クライフとともにリーグ優勝、カップ優勝の2冠に貢献する。

その後、85年にPSVに移籍。在籍した2シーズンのいずれもリーグ制覇を果たした。この頃にはその名前は欧州中に広まり、86年の夏にはスペインのバルセロナが、彼とアヤックスのマルコ・ファン・バステンの獲得を狙っていたが[2]1987年に当時マラドーナに次ぐ約12億円の移籍金でイタリアセリエAACミランへ移籍[3]マルコ・ファン・バステンと共に移籍した年にシルビオ・ベルルスコーニ会長とアリーゴ・サッキ監督によって大変貌を遂げようとしていたミランの攻撃の核として活躍、すぐにイタリア人たちは、彼のプレーに目と心を奪われることとなった[2]。チームはナポリとのデッドヒートを制してスクデットを獲得[2]。また同年バロンドール賞も受賞した[2]

1988年にはフランク・ライカールトも加入し、「オランダトリオ」としてACミランの黄金期を支え、数々のタイトルをもたらした。また、オランダ代表としてもEURO1988では優勝に貢献。1989年のチャンピオンズカップ決勝ステアウアブカレスト戦では2ゴールを決め[4]、ファンバステンと共に優勝の立役者となった。

1989-90シーズンに膝を故障、治療とリハビリに一年間を費やす[5]。この故障は引退時まで大きく引きずる事になる。

1990年12月のトヨタカップではACミランの一員として訪日。ライカールトの先制点をアシストし、優勝に貢献[6]

ミランでは1991年アリゴ・サッキ監督が成績不振を理由に辞任した事で、1991-92シーズンからファビオ・カペッロが監督に就任した。前任のサッキはシステムや規律を重視する監督でもめることもあったが[2]、前線の動きに関してはあまり制約を受ける事は無かった。しかし、カペッロの下では、右サイドに完全に固定されて自由なプレーが出来ず、1992/1993シーズンはASローマ戦のスーパーボレーによる決勝ゴール、ミラノダービーでは途中出場から同点を決めるなどの活躍をしたが、怪我やパパンの加入などもあり、外国人枠によりスタンド観戦の機会も増え、1992-1993のチャンピオンズカップ決勝でもベンチ外となった[4]

1993年にサンプドリアにレンタル移籍する事になった。そこで、監督のスヴェン・ゴラン・エリクソンからFWとしてある程度の自由を与えられ、自由奔放な本来のスタイルが復活し、サンプドリアは1993-94シーズンリーグ優勝を古巣ミランと争い3位[4]コッパ・イタリア優勝[2]、などサンプドリアは1991-92年以来の躍進を遂げた。フリットはゴールを量産、15ゴールと得点王争いをするなど、その立役者となった。特に1993年の古巣ACミラン戦においてはボレーシュートで決勝ゴールを決めただけでなくアシストも決め3-2でミランを破り、好調なプレーを見せた[4]。この復活劇で翌シーズンにミランに返り咲きを果たした。

1994年、復帰したミランではFWとしてプレーしたが、ラツィオ戦での2ゴールを挙げた試合を除いて、前線で孤立することが多く、不調ミランの敗戦の責任をなすりつけられるなど、不振に陥り[4]、シーズン途中にメッリとのトレードでサンプドリアに再び移籍[2]、22試合に出場し9ゴールを決めたが、前年程のインパクトを残すことは出来なかった。

1995年チェルシーへ移籍した。1995-96シーズンを率いていたグレン・ホドル監督がイングランド代表監督に就任すると、その後任として現役のままプレーイングマネージャーに就任、1996年にはDFとしてのプレーながら、PFA年間ベストイレブンに選出された。1996-97シーズンは、ジャンルカ・ヴィアリジャンフランコ・ゾラロベルト・ディ・マッテオなどのトップ選手を加入させ、リーグは6位ながらも27年ぶりにFAカップをチームにもたらした[2]。また、外国人としては史上初のFAカップ優勝監督ともなった。この年を最後に現役を退き監督専任となった。

代表歴 [編集]

1981年9月のスイス戦でデビュー[7]

1986年W杯予選では、プレーオフでベルギーにアウェーで0-1と敗れた後のリターンマッチ、2-0でリードしながら、終盤にアウェーゴールを許して敗退し、ワールドカップ出場を逃した[7]

1988年欧州選手権では決勝のソビエト戦では先制点を強烈なヘッドで決め、優勝を引き寄せた[7]

1990年イタリアW杯に出場。欧州王者として優勝候補の一角に挙げられていたが、チーム内は監督交代など内紛を抱え、フリット自身も膝の故障から回復したばかりでそのカリスマ性をベーンハッカー監督に期待されての起用であったが[8]、予選リーグ北アイルランド戦で1ゴールを決めたものの満足なプレーをすることが出来なかった。少しずつ調子を取り戻していた決勝トーナメント1回戦で、この大会を制する西ドイツと対戦。守備の要であったライカールトの退場などもあり拮抗した展開の末、1-2で敗退した。

1992年のEURO1992、EURO88の優勝メンバーが円熟期を迎え、そこに・ベルカンプら若手が加わったことで、オランダは優勝候補の一角に挙げられ、実際に準決勝まで駒を進めたものの、伏兵デンマークにPK戦の末に敗れ[7]代表から退くが、サンプドリアにおける好パフォーマンスもあり、1994年アメリカW杯直前に代表復帰を果たし、親善試合のスコットランド戦に出場したが、その後様々な問題がありワールドカップの代表は辞退となった[7]

 指導者として[編集]

1995-96年よりプレーイングマネージャーとして活動していたが、1997-98シーズンから現役を退き監督業に専念、チームは好調であったにもかかわらず監督を解任される。その後任には同じく選手兼監督としてジャンルカ・ヴィアリが就任した。

1998-99シーズン開幕直後にニューカッスル・ユナイテッドの監督に就任するが、13位に低迷し、1年で辞任する。この時のスローガン「セクシーフットボール」は監督としてのフリットの代名詞となる。しかし、当時のエースであったアラン・シアラーは、その後の雑誌のインタビューで、「フリットが監督の時が、自身のキャリアで最も冴えない時だった。」と答えており、セクシーフットボールが、選手に受け入れられていたとは言い難い。

しばらく解説者をした後、2004-05シーズン、フェイエノールトの監督に就任。当時所属していたディルク・カイト小野伸二らを指導したが、リーグ4位に低迷し、シーズン終了後に辞任した。

2007年11月8日メジャーリーグサッカーロサンゼルス・ギャラクシーの監督に就任した。しかし、9ヵ月後の2008年8月に個人的理由により辞任した。

2011年1月、ロシア・プレミアリーグFCテレク・グロズヌイの監督に契約期間1年半で就任した。しかし、リーグ戦13試合で3勝しかできず、6月に解任された。

2016年8月、ディック・アドフォカートがオランダ代表の第2アシスタントを突然退任したことで急遽後任候補に挙がったが、KNVBとの交渉の中で「スタッフ内に変動があった場合に再交渉できる権利」と「良いオファーがあった場合に退任できる権利」と契約に盛り込むことを要求し、アドフォカートの突然の退任の二の舞を避けたかったKNVBのテクニカル・ディレクター ハンス・ファン・ブロイケレンが認めなかったこと、さらに第1アシスタントのマルコ・ファン・バステンがすでにFIFAからのアプローチを受けて退任を決意していたが、それをファン・ブロイケレンが明かさず、ファン・バステンから直接聞いたことにフリットが激怒したために交渉は破断した[9]

エピソード[編集]

代表歴[編集]

  • オランダ代表オランダの旗 1981年-1994年 66試合17得点
    • FIFAワールドカップ出場 1回 (1990年イタリア大会ベスト16)
    • UEFA欧州選手権出場 2回 (1988年西ドイツ大会優勝、1992年スウェーデン大会ベスト4)

個人タイトル[編集]

出典[編集]

  1. ^ “Ruud Gullit - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/gullit-intlg.html 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY 第18回・フリット(元オランダ代表)”. サッカーダイジェストWeb編集部. 2018年10月7日閲覧。
  3. ^ TOYOTA CUP 1990年 大会公式パンフレット P22より
  4. ^ a b c d e Remembering Ruud Gullit”. The Gentle man. 2018年10月12日閲覧。
  5. ^ TOYOTA CUP 1990年 大会公式パンフレット P22より
  6. ^ マルコ・ファンバステン(7)90年の第11回トヨタ杯“本場の魅力”で日本のファンを酔わせた”. 賀川サッカーライブラリー. 2018年10月12日閲覧。
  7. ^ a b c d e レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY 第18回・フリット(元オランダ代表) その2”. サッカーダイジェストWeb編集部. 2018年10月7日閲覧。
  8. ^ TOYOTA CUP 1990年 大会公式パンフレット P22より
  9. ^ http://www.foxsports.nl/nieuws/artikel/1307498/gullit-van-basten-vertrekt-bij-oranje