ヤリ・リトマネン
![]() | この記事には複数の問題があります。 |
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
![]() リトマネン(2015年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ヤリ・オラヴィ・リトマネン Jari Olavi Litmanen | |||||
愛称 | リティ[要出典] | |||||
ラテン文字 | Jari Litmanen | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1971年2月20日(54歳) | |||||
出身地 | パイヤト=ハメ県ラハティ | |||||
身長 | 182 cm | |||||
体重 | 81 kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1977-1987 |
![]() | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1990 |
![]() | 86 | (28) | |||
1991 |
![]() | 27 | (16) | |||
1992 |
![]() | 18 | (7) | |||
1992-1999 |
![]() | 159 | (91) | |||
1999-2001 |
![]() | 21 | (3) | |||
2001-2002 |
![]() | 26 | (5) | |||
2002-2004 |
![]() | 20 | (5) | |||
2004 |
![]() | 11 | (3) | |||
2005 |
![]() | 13 | (1) | |||
2005-2007 |
![]() | 10 | (3) | |||
2008 |
![]() | 0 | (0) | |||
2008-2010 |
![]() | 40 | (10) | |||
2011 |
![]() | 18 | (1) | |||
通算 | 449 | (173) | ||||
代表歴 | ||||||
1989-2010[1] |
![]() | 137 | (32) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ヤリ・リトマネン(Jari Litmanen, フィンランド語発音: [ˈjɑri ˈlitmɑnen] ( 音声ファイル), 1971年2月20日 - )は、フィンランド出身の元プロサッカー選手。元フィンランド代表。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。
経歴
[編集]15歳まではアイスホッケーにも才能を発揮していたが[2]、17歳のときにサッカーに専念[2][3]。1987年、父も所属していた地元のクラブであるレイパス・ラハティでキャリアをスタート。1989年にはフィンランド代表に招集され、10月22日のトリニダード・トバゴ戦でデビューを飾る[2]。1990年にはフィンランド年間最優秀選手に選出された。
その後フィンランドのクラブチームを転々とし、1992年にオランダのアヤックスの2週間の練習に参加し[2]、ファンファールの目に留まり[2]、契約に至った。1年目はデニス・ベルカンプの控えであったが[2]、1994-1995シーズンには26ゴールを挙げリーグ得点王[2]、UEFAチャンピオンズリーグではチーム最多の6ゴールを挙げ[2]、優勝の原動力となり[2]、同年のバロンドール投票では第3位となった[4]。ストライカーとして、あるいはチャンスメーカーとして[2]、数々のタイトルをクラブにもたらした。
1999年にリーガ・エスパニョーラの強豪バルセロナへと移籍するが結果を残せず、1シーズンで去ることとなった。 バルセロナへは当時のルイ・ファン・ハール監督の肝煎りで入団し、背番号10を与えられたものの、3トップの更に下のポジションを任されたため、自ら最前線へ飛び出してゴールに絡むプレーが特徴のリトマネンは全くフィットしなかった。更に悪いことに、この頃のバルサはファン・ハールのオランダ人偏重志向への批判が強く、本人はオランダ人ではないものの、アヤックスからの移籍となったリトマネンは、その批判の矢面に立たされることとなり、マスコミやバルセロニスタからリーグ3連覇を逃した戦犯のような扱いを受けた。
そして、子供の頃からの憧れと公言していたFAプレミアリーグのリヴァプールへ移籍。しかし、ここでも故障や選手層の厚さなどで出場機会に恵まれず、2002年]アヤックスへ復帰。その後、母国のラハティ、ハンザ・ロストックを経て、スウェーデンのマルメに2007年まで在籍した。
2008年1月からはイングランドのフラムに加入したが、シーズン末に契約解除となった。8月に母国・ヴェイッカウスリーガのラハティに短期契約で復帰することになった。
2009-2010シーズンにはリーグ戦21試合に出場し、5得点と存在感を発揮した。2010-2011シーズンからは古巣のHJKヘルシンキへ復帰した。シーズン終了後に引退した。
エピソード
[編集]マラドーナのファンであり[2]、ラテンの雰囲気を持つ風貌からディエゴと呼ばれていた[2]。
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- MyPa
- フィンランド・カップ(1992)
- アヤックス
- エールディヴィジ(1993-94, 1994-95, 1995-96, 1997-98, 2003-04)
- KNVBカップ(1992-93, 1997-98, 1998-99)
- ヨハン・クライフ・スハール(1993, 1994, 1995)
- UEFAチャンピオンズリーグ(1994-95)[5]
- UEFAスーパーカップ(1995)
- インターコンチネンタルカップ(1995)
- リヴァプール
- FAカップ(2000-01)
- EFLカップ(2000-01)
- FAチャリティ・シールド(2001)
- UEFAカップ(2000-01)
- UEFAスーパーカップ(2001)
- HJKヘルシンキ
- ヴェイッカウスリーガ(2011)
- フィンランド・カップ(2011)
個人
[編集]- フィンランド年間最優秀選手(1990, 1992-1998, 2000)
- ヴェイッカウスリーガ 最優秀選手(1990)
- オランダ年間最優秀選手賞(1993)
- エールディヴィジ 得点王(1993-94)
- フィンランド年間最優秀スポーツ選手(1995)
- UEFAチャンピオンズリーグ 得点王(1995-96)[3]
- UEFAジュビリーアウォーズ(2003)
脚注
[編集]- ^ “Jari Litmanen - Century of International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ a b c d e f g h i j k l TOYOTA CUP 1995 第16回大会パンフレト p.23
- ^ a b 杉山茂樹 (2020年6月16日). “CL史上、最もマジメな得点王。そのフィンランド人は10番の概念も変えた”. Sportiva. 2025年7月2日閲覧。
- ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
- ^ “Season 1994/95 | UEFA Champions League 1994/95”. UEFA. 2025年7月2日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ヤリ・リトマネン - National-Football-Teams.com
- ヤリ・リトマネン - Soccerbase.comによる選手データ
- ヤリ・リトマネン - FootballDatabase.eu
- ヤリ・リトマネン - WorldFootball.net
- ヤリ・リトマネン - Transfermarkt.comによる選手データ
- ヤリ・リトマネン - FIFA主催大会成績
- ヤリ・リトマネン - UEFA
- ヤリ・リトマネン - レキップ
- ヤリ・リトマネン - playmakerstats.com
- ヤリ・リトマネン - BDFutbol.com