フランコ・バレージ
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| 名前 | ||||||
| 本名 |
フランチェスキーノ・バレージ Francheschino Baresi | |||||
| 愛称 | ピッシニーン | |||||
| ラテン文字 | Franco BARESI | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1960年5月8日(58歳) | |||||
| 出身地 | トラヴァリアート | |||||
| 身長 | 176cm | |||||
| 体重 | 70kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF(CB) | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1977-1997 |
| 532 | (16) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 1982-94[1] |
| 81 | (1) | |||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
フランコ・バレージ(Francheschino "Franco" Baresi, 1960年5月8日 - )は、イタリアの元サッカー選手。選手時代のポジションはディフェンダー。1980年代から1990年代にかけて活躍し、現役生活の通じてACミランでプレー、ディフェンダーとしては決して体格に恵まれていたわけではなかったが[2]、リべロとしてのプレーぶりは優雅さを兼ね備え、的確な読みで相手の攻撃の芽を摘み、相手陣内深くドリブルで切り込むこともあった[3]特に戦術眼と読みの鋭さはそれこそ一級品で、他の追随を許さないレベルにあった[2]。長年、彼が背負った背番号「6」は、引退後にクラブの永久欠番となっている[2]。
実兄のジュゼッペ・バレージ(Giuseppe Baresi)も元インテル所属、元イタリア代表のサッカー選手。家族は妻と長男の他に、養子が一人いる。
クラブ経歴[編集]
1960年5月8日、イタリアロンバルディア州ブレシア県のトラヴァリアートに生まれる[4]。
1974年、セリエAの下部組織への加入を希望し各クラブのテストを受けるが、最初に受験したアタランタBCは当時164cmで華奢だった彼を不合格とした。次に実兄ジュゼッペが所属していたインテルを受けるが、再び身体が小さいという理由で不合格[5]。そこをACミランの関係者に誘われ、ミランのプリマヴェーラに加入する[4]。高いディフェンス能力を買われてということもあったが、当時のACミランに若いディフェンダーが不足していたという事情もあったという。この矢先、同年に父が交通事故により急死した。幼少時に母を亡くしていたバレージは14歳で両親を失った。
1978年、下部チームで実力を増したバレージはトップチームに昇格。同年4月23日に対エラス・ヴェローナ戦でプロデビューを飾る[4]。
1979年、2年目にしてCB、もしくはスイーパーとしてレギュラーポジションを奪取しリーグ戦30試合に出場[4]。ジャンニ・リベラ、ファビオ・カペッロといった名手たちとともに、早くも最初のスクデットを手にした[4]。リベラの引退後、バレージはクラブの主役となったが、翌1980年、大規模な不法賭博スキャンダルが発覚し事件に関与したとされたACミランはSSラツィオと共にセリエBへの降格処分となった[4]。
思わぬ形で2部リーグでのプレーを余儀なくされたが、1981年に1シーズンで這い上がる。しかし、スキャンダルの余波で有力選手が次々と移籍。クラブ自体の人気も落ち、収益も減収した。このシーズンにはバレージ本人もウイルス性疾患を患い数ヶ月戦列を離れた。これによりミランは14位でシーズンを終え、処分ではなく、実力不足によるセリエB降格となった[4]。オフシーズン、バレージの元に複数のクラブから移籍話が届いたが、その一切を断りミランに残留。{この決断によりバレージはミランのファンや周囲の大きな信頼を獲得した[6][4]。
1983年にミランはセリエAに復帰したが、トップグループに一歩及ばない成績が続き人気も下降。当時のインタビューによれば、選手たちへの給料配布も週給となり、経営難から支払いが止まることもあったという。
1986年、実業家シルヴィオ・ベルルスコーニがミランの会長に就任するとクラブの経営状況は一変。豊富な資金力で翌1987年に2人のオランダ人フォワード、ルート・フリットとマルコ・ファン・バステンを獲得、さらに当時無名であったアリゴ・サッキを監督に就任させた。サッキ監督の提案するゾーンプレスに当初はチームメイトらは懐疑的であったが、バレージはサッキ戦術のキーマンとしてチームを牽引。マウロ・タソッティや当時若手だったパオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタとともに強固なバックラインを形成した。このシーズン早くもチームは機能し、ディエゴ・マラドーナを擁したSSCナポリを抑えスクデットを獲得した[4]。
1988年、フランク・ライカールトを加えより厚みを増したミランは、主将バレージ率いる守備陣と「オランダトリオ」にを中心とした攻撃陣の活躍もあり、UEFAチャンピオンズカップ2連覇、インターコンチネンタルカップ2連覇とタイトルを獲得[4]。以降1990年代半ばまでの数年間、ACミランはリーグ優勝、チャンピオンズカップなど多くのタイトルを獲得する黄金期を築きあげ、1989年にはバロンドールの投票で第2位となるなど、バレージは不動のディフェンスリーダー、キャプテンとしてチームを纏め上げた。1989-90のコパイタリアでは7試合4得点とDFながらトップスコアラーにもなっている[7]。
1990年にはユベントス、レアルマドリードが獲得を試みたが、3年間の契約延長[8]。1991-92、92-93、93-94とセリエA3連覇に貢献[4]。特に1991-92は無敗での優勝を成し遂げた[4]。93-94シーズンは累積警告で決勝ではプレーしなかったが、チャンピオンズリーグの制覇に貢献[4]。
1994-95シーズン限りで現役を引退する決意を固めていたが、周囲の説得でその後2年間現役を続行した。また、94-95シーズンの開幕戦では当時ジェノアに所属していた三浦知良との競り合いで、三浦が鼻骨を骨折する一幕があった。試合後バレージは電話や電報を送るなど謝罪をし、後日、サッカー雑誌で対談した際にも謝罪した[9]。
1995-96シーズン、開幕戦のパドバ戦にて、オーバーラップから、リーグ戦では89-90シーズン以来で、又自身のキャリア最後となるゴールを決めた[10]。また自身最後となるセリエA優勝に貢献した[11]。
1997年6月23日、自身の体力の衰えを理由に現役引退を発表。最後のシーズンは36歳というサッカー選手では高齢でありながらシーズン26試合に出場したが、スピードや体力の衰えは顕著となっていた。同一クラブにおける通算試合出場数「541」は、セリエA歴代3位の記録である(2008年11月現在。1位はパオロ・マルディーニ、2位はインテルのハヴィエル・サネッティ)
1997年12月にはオランダトリオ、パパン、ロベルト・バッジョらかつてのチームメートや、ジーコ、ロマーリオらが集まり引退試合が行われた[2]。
引退後バレージはACミラン・プリマヴェーラ(20歳以下)のコーチとクラブの名誉副会長職に就任。またバレージの功績に敬意を表し、彼の代名詞ともなっていた背番号「6」は永久欠番となった[2]。
2002年にはイングランドのフルアムでテクニカルディレクターに就任したが数か月で辞任した[11]。
2006年からはACミラン・ヴェレッティ(19歳以下)のコーチを務めている。
代表経歴[編集]
1980年当時、まだU-21代表の一員でありながら、地元開催のEURO80の最終メンバーに選出される[11]。
1982年、W杯スペイン大会の代表メンバー(背番号2)に選ばれ優勝を経験したが、自身の出場機会はなかった[11]。
1984年ロサンゼルス・オリンピック。ここで4位入賞を果たした[11]。
イタリア代表としてもバレージはその能力を発揮し、1990年W杯イタリア大会では全7試合にフル出場し3位獲得の原動力となった[11]。
1994年アメリカ大会はグループリーグ第2戦のノルウェーとの対戦で大膝を痛め途中交代[12]、計3試に出場した[13]、一時的に戦線離脱するもすぐに手術を行い、決勝の対ブラジル戦で復帰。病み上がりとは思えないパフォーマンスで[14]、アッズーリのディフェンスラインを巧みにコントロールし、ロマーリオとベベットの2トップを120分間ほぼ完璧に封じ込めて見せた[2][11]、がPK戦でバレージ自身も失敗し[2]、チームは敗れ準優勝に終わった[14]。「PKによって全てが決められてしまうとは、何とも非情な話だ」と悲しみに暮れたが[11]、大怪我を負いながらも精神力で決勝戦に間に合わせてきたキャプテンは大いに男を上げ、改めてその存在の大きさを世界に示した[11]。
バレージが代表キャリアを終えることになるのは、同大会決勝の次の試合となった欧州選手権・予選・スロベニア戦においてである[11]。この試合を最後にバレージは代表から退き、主将の座はパオロ・マルディーニが引き継ぐことになった。
獲得タイトル[編集]
クラブ[編集]
- セリエA 優勝 6回(1978/79、1987/88、1991/92、1992/93、1993/94、1995/96)
- スーペルコッパ・イタリアーナ 優勝 4回(1988、1991、1992、1993)
- UEFAチャンピオンズカップ 優勝 3回(1988/89、1989/90、1993/94)
- UEFAスーパーカップ 優勝 3回(1989、1990、1994)
- インターコンチネンタルカップ 優勝 2回(1989、1990)
代表[編集]
- FIFAワールドカップ 優勝 1回(1982年スペイン大会)
その他[編集]
- 20世紀世界最優秀選手 33位 (国際サッカー歴史統計連盟 1999)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 19位(ワールドサッカー誌選出 1999)
- バロンドール 第2位 1989 (受賞はACミランで当時チームメートのファン・バステン)
- コパイタリア 得点王 1989-90 [15]
出典[編集]
- ^ “Franco Baresi - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ a b c d e f g “ACミラン・レジェンドの横顔 第3回「フランコ・バレージ」”. TOYO TIRES. 2018年10月7日閲覧。
- ^ TOYOTA CUP 1990年 大会公式パンフレット P25より
- ^ a b c d e f g h i j k l m “レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第8回・フランコ・バレージ(元イタリア代表)”. Soccer Digest Web. 2018年10月12日閲覧。
- ^ TOYOTA CUP 1990年 大会公式パンフレット P25より
- ^ TOYOTA CUP 1990年 大会公式パンフレット P25より
- ^ “Italy - Coppa Italia Top Scorers”. rsssf.com. RSSSF. 2015年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月10日閲覧。
- ^ TOYOTA CUP 1990年大会公式パンフレット P25より
- ^ 『Dear Kazu 僕を育てた55通の手紙』(2011年、文藝春秋)ISBN 9784163747309 P.60-62
- ^ 週刊サッカーダイジェスト 1995年9月2日号 P.4-13
- ^ a b c d e f g h i j “レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第8回・フランコ・バレージ(元イタリア代表) その2”. Soccer Digest Web. 2018年10月12日閲覧。
- ^ Mondiali 1994: Italia-Norvegia 1-0-stoliedicalcio 2018年1月21日
- ^ 1994 FIFA World Cup USA-FIFA.com 2018年1月21日
- ^ a b Mondiali 1994: Brasile-Italia 0-0; 3-2 d.c.r-strie dicalcio 2018年1月8日
- ^ “Italy - Coppa Italia Top Scorers”. rsssf.com. RSSSF. 2015年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月10日閲覧。
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